「相鉄線とともに あれからとこれから」百家春来

はじめに
 今朝も秋雨の中、近くの妙蓮寺に詣でた。Tシャツでお参りし始めてから百日目になり
、お寺の先々代が植え付けられたというサボテンの白い花房が三本参道の沿道で品のよいほのかな香りで迎えてくれた。また鐘楼脇の御会式桜が満開になっていた。
 今回のお百度参りは親友の肺がんからの本復をお願いするために発起したことだ。希望ヶ丘地域に居宅を三五年前求め、息子のカブスカウト行事で除夜の鐘を打つようになって以来、困難な悩み事が起きると、ここにお参りするようになった。お百度までお願いしたのは一二年前に義弟の胃がんからのリカバリーを祈願した時や三年前の母の回復をお願いした時だ。この参道の階段は往復一二〇段だが、一段一段踏みしめながらゆったり・ゆっくり歩むと本当にお願いしたという気持ちになれる祈りの場だ。
 横浜市指定の名木古木でイトヒバとイヌマキ二本があり、その奥に鮮やかな色の蓮の花の彫り物が飾る本堂がある。そこに立つといつもこの「希望ヶ丘駅」に近いこの地域に住むことにしたこと、子供たち(一女一男)との生活、我が家の新築、私の生きざまなどの来し方が走馬燈の中を駆け巡る。なんといっても希望ヶ丘駅ひいては相鉄線から創られる場やいろいろなつながりに彩られた年月だったことに感謝している。ここにマイパワースポットのある「希望の街」ライフを思いつくままに披露してゆきたい。      
第1章 「希望の街」へ
1・1 子供たちとの生活   
 希望の二字に憧れ、大きな夢をみながら、緑多くゆったりとした一戸建ての住まいに私たち四人家族が転居した。下見の時に爛漫の桜に感激させられた希望ヶ丘高校等が近くにあり、相鉄線で横浜から急行一五分程ということも大きな魅力だった。長男は南万騎が原の水泳教室に通い、またカブスカウト活動で希望の森テント合宿、大池公園ラリー、丹沢大山、金時山、富士山登山などのイベントがあった。富士山登山には家族全員で参加し、今も当時の4本の杖を保管している。妙蓮寺の除夜の鐘を打つイベント奉仕もあり、地域の方々の知り合いも増えた。また、航空ショー、相鉄柏台操車場見学、春の木神社祭りなども楽しんだ。
1・2 雪のトラブル 
 春先に雪の椿事があった。私は父の勤務の都合で、空がどんよりと曇った雪深い新潟県上越市で育ち、冬は二階から出入りしていたので雪には慣れていた。しかし二月、横浜での雪が結構降ったことがあり、我家にも雪が吹き込んだ。翌日2階天井から水が落ちてくるとの女房の連絡があり、会社から戻って、屋根裏に上り吹き込んだ雪を除去した。一安心と思い一歩踏み出した途端、足をのせた天上板が割れてしまい身体が落下し始めた。アッと思い、なんとか桟木につかまり、おかげさまで無傷ですみました。そのときは反射神経の良さを自慢しました。
1・3 「つくば科学万博1985」
 開港記念日の休日朝早く見学に子供たちとでかけ、一〇ヵ所(くるま館、アメリカ館、歴史館など)のパビリオンを見学し、夜一〇時頃横浜に戻り、ピザを食べて帰った。筑波博会場で「二一世紀へのタイムカプセル」を利用して子供たちや親友たちへのメッセージをポストインしてきた。一五年後に自分への手紙を受け取ってみて、あまりに日常に流されてしまっていたことに愕然とした。友人などからの反応は「ありがとう」「おどろいた」という連絡が多かった。
1・4 小さな庭で家庭菜園
 わずかな土地を利用して、ミミズが増えるのを楽しみながら野菜を育てている。また道路に面したところにはキューイを植えて、会社の人たちに配ることができるほど採れた年があった。現在もジャガイモやゴーヤ等を育てている。
1・5 テレビ放送用送信機担当
 上越市の中学時代には鉱石ラジオを東京の秋葉原から部品をとり寄せて作成していたラジオ少年だった私は高田高校から東京の大学を卒業後、電気会社に入り、テレビ・ラジオ送信機の設計を担当していた。例えば新潟弥彦山送信所に機器を据え付けるには夜間のためロープウェイが停止しているため、宿の弁当と測定器を背負って夜な夜な工事作業に出かけた。一時は怪しい職業と思われそうで、説明に苦労した。その他の全国各地の送信所も回りました。また、設計者は自分で売ってこいともいわれ、テレビ神奈川(TVK)などのような放送局に送信設備を売り込んだりして、全都道府県を訪れました。今でも大阪にゆくとテレビ送信所のある生駒山に行ったことがあることを思い出します。
第2章 仕事とゴルフ
2・1 米国への送信機輸出を推進
 設計した物を売ってこいということで、米国の販売代理店のあったシンシナティなどに何度か行きました。このとき代理店社長と大リーグピートローズ監督のレッズとホワイトソックス戦を観戦しました。しかしその代理店が破産してしまい、コーパスクリスティに納入した送信機はライバルである米国社に依頼することになってしまった。
 このころ、通勤の帰りにカバンを電車内に忘れてしまい、青くなっていたところ、相鉄駅員さんに親切に対応していただき、大変感謝しました。
2・2 ゴルフに注力 
 妙蓮寺から近い新幹線ガード下から至近の所にショートコース併設のゴルフ練習場があり、ゴルフ練習のために通うには好適だった
。一人前になるには今も遠い道であるが、これからも楽しみたい。バブル景気のころは練習場の待ち時間が長く、予約票だけ出して自宅で待機していたこともあった。それでも練習にはげみ、一年で二万個ぐらい打ったこともあった。部内コンペもスタートし、工場コンペ、同窓会コンペなど頻度はかなり増した
。ケーブルテレビ(CATV)業界のゴルフ会にも参加した。今も継続しているゴルフコンペも多く、高田高校同窓会・同期会、会社同期会、業界コンペなど幹事役も長く二〇年程度継続しているものもある。
第3章 自宅新築と旅行
3・1 自宅の更新
 TVKハウジングなどで新築を検討しだしたころ、兵庫南部地震1995が発生し、地震に強い構造に方針変更し、かつ車椅子対応のバリアフリーを極力採用して年末には新居に入ることができた。仮住まいを希望ヶ丘教会に近いところに借り、女房と長女は自動車免許取得に注力できた。そのころテレビ受信アンテナが支柱を支える針金の腐食からか風が吹くと大きくゆれ、隣家の方から白い目で見られていた。地震のときもゆれが大きくなることもあり、テレビ受信アンテナをやめることができるケーブルテレビに加入した。勿論横浜ケーブルビジョン(YCV)と契約した。この時期から仕事もCATV関連が中心となっていた。
3・2 家族旅行
 台湾旅行では、台北の故宮博物院で中国文化の神髄といわれる展示品に圧倒され、広大な展示場に疲労して、台北そごう付近のマグドナルドで四人のハンバーガー休憩を取ったのを思い出した。
 家族海外旅行としては義母と三人で文明に興味を持って、中国、インドなどを旅行した
。中国では、ウルムチからトルファンを経由して、敦煌の莫高窟等を見学した。千仏洞ともいわれ、多くの仏像が祭られており、忙しかった。買い求めた観音様の掛け軸を時々観賞している。ゴビ砂漠の地下にカレーズと呼ばれる地下水路が設けられ、ブドウが栽培されるなど砂漠の知恵を知ることができた。 夕焼けに映えた火焔山が美しかった。一八年前でしたが砂漠には風力発電用風車ブレードが高速道路沿いに百キロメートルほど走っても絶えないほど多数設置されていたことに驚愕し感心した。ただ旅の継続が危うくなる事件もありました。トルファンから夜行列車で柳園駅(車三時間で敦煌に行ける)に着いたが、寒い早朝にもかかわらずガイドが現れず悲惨な状況になった。北京空港でガイドの携帯番号を聞いておいたおかげで、何とか連絡がとれた。手配を忘れていたのでタクシーで敦煌まで行ってくれとの返事を得て、何とかタクシーを拾い、目玉の敦煌見物ができた。北京でガイドから北京ダッグ食べ放題のサービスがあったが、あの事件は大変だった。
 インドでは高速道路上に牛が悠然といるのにびっくりした。世界一美しいお墓といわれるタージマハル〈高さ六七メートル、基盤九五メートル四方〉は真に対称性ある美しさが印象深く、寺院の大理石上を裸足で歩いた感覚が今でもよみがえる。
3・3 ケーブルテレビとインターネット
 ウインドウズ95が発売されるとともに、インターネット活用の動きが活発となり、米国CATVで最大のタイムワーナーケーブル(TWC)のインターネット対応モデム仕様が提示された。それに対応できるモデム開発を推進した。TWCでは全国から技術者を集め、毎年テクニカルカンファレンスを開催しており、アリゾナ、バミューダで開催されたとき時に参加し、ゴルフもできて大変面白かった。ここで米国標準のケーブルモデムが開発でき、日本でもこの方式のモデムが活用されるようになった。
3・4 CATV総合製造会社に参画
 三井系と住友系のCATVシステム製造業者が合弁会社を作った。私もそこに参画し、日本全国約三百社のCATV事業者に対応し
、北海道から沖縄宮古島まで伺った。その中で顧客とのゴルフ会も多かった。或るとき、大分東急ゴルフ場で珍しいことに同姓同名の方と遭遇しました。スタート前の緊張時でもあり、早急なゴルフバッグの確認が必要となり、険悪の出会いでした。後日の再会を約して別れ、数回会食もふくめ懇親できた。
第4章 人生の危機からカムバック
4・1 急病時に大きな支援
 希望ヶ丘-相鉄沿線の方々への感謝いっぱいのことがあります。それは東日本大地震の直前2月末、雨の寒い早朝、希望ヶ丘駅から都内に向かうとき、私が心筋梗塞と思われる発作で倒れそうになり、瀬谷駅で途中下車した。やっと掴まえたタクシーで聖マリアンナ横浜西部病院まで行ってもらった。このあたりから記憶も確かでないのですが、早朝だったこともあり、予約なしですが手術してほしいと受付に依頼したが、病院開始時間まで待ってくれと言われた。そこで、タクシーの運転手さんに私が倒れたら非常事態を伝えてくれるよう頼んだ。病院の配慮もあり、すぐに手術してもらえた。
 そして四日目からリハビリ、そして高田高校同期のゴルフメンバーに状況報告と欠席連絡しているとき、「東日本大地震」が発生しました。このとき見舞いに来てくれた方々が帰路につけず、病院で毛布を借用し、泊まらせてもらいました。その方々が病院に泊まることができ、また相鉄の始発電車に乗れて感謝していました。退院後タクシーの運転手さんにも御礼に伺いましたが、本当にいいところに住んでいてよかったと感謝しています。なぜ早く病院に行くことができたかと考えると、一〇日程前に駅までの間にある急坂で息苦しくあえいだと女房に話し、今度起きたら西部病院にでも行こうと話した。このように予兆から西部病院を描いておいたことが理由かもしれません。
 そのおかげで九月には中国大連の企業調査にコンサルタント仲間と行くことができた。若干の心配があったので女房に付き添いを頼みました。女房は紹介された大連のマッサージがすごく良かったとのこと。この企業調査は五年前に一度実施し、定点観測の考えで実施したものだった。
 御礼参りとリハビリのため、瀬谷八福神めぐりを行った。鎌倉古道を生かしたお正月にふさわしいおめでたいコースで、楽しみながら歩くことができた。大木という観点では徳善寺のカヤとタラヨウ、西福寺の樹齢千年といわれるシイの木がある。
駅北側:徳善寺(毘沙門天)―善昌寺(恵比寿神)―妙光寺(大黒尊天)―長天寺(ダルマ大師)、駅南側:寶蔵寺(弁財天)―西福寺(布袋尊)―宗川寺(福禄寿)―全通院勢至堂(寿老人)。 
4・2 伊達政宗の夢、支倉常長を追って
 日西交流四百年記念2013皇太子様がスペインを訪問されたことを知り、私達も訪欧使節の支倉常長像(コリア・デル・リオ)を訪ねた。訪欧使節が伊達藩月浦からサン・ファン・バウティスタ号に乗ってのアカプルコ経由でスペインにわたり、ローマ法王にも拝謁して、フィリピン経由で日本に戻った。当時、スペインには日本の次期国王候補が政宗だとも伝わっていた。こういうことがわかり翌年私達はメキシコ旅行を行った。さらに次の年石巻へゆき、大地震で破損していたサン・ファン・バウティスタ号の模型が修復なった記念館と常長達が出帆した月浦港を見学した。大震災で月浦付近の被害は甚大で常長像がさびしげに立っていた。私の本籍は政宗が一時居城としていた福島県伊達郡梁川町であることも伊達正宗への探求心を強くさせている。また政宗の娘のいろは姫が越後高田の徳川家康六男忠輝に嫁したこともあり、高田出身の私には興味深いことである。
 秘湯といわれる温泉にも興味を持っているが、青根温泉に政宗の湯ともいわれる湯元不忘閣に出かけた。ここには山本周五郎が「樅の木は残った」を執筆した部屋が残されており、その部屋から一本の樅の木が見える。
4・3 名木巨木
 妙蓮寺の名木巨木を拝むたびに、最近の巨木見物の旅行を思いだす。屋久島の縄文杉と白神山地のブナ林である。
 七千年ともいわれる縄文杉にお参りするためには往復一二時間程度の登山能力が必須であるため、半年前から金時山や丹沢大山など七回の訓練を実施し、当日は天候にも恵まれほぼ順調にこなせた。樹高二五メートル、樹周一六メートルの縄文杉の威容は圧倒的で素晴らしかった。ただ世界遺産ということでトイレが設置されてなく、トイレテントでの携帯トイレを利用してということで冷汗ものでした。また、下りのトロッコ道で眠気もあり一瞬の油断で転んでしまった。幸い大事にはならずにすんだ。一二時間歩けたことは自信となりゴルフにもいい兆候が出てきた。
 樹齢三百年といわれるブナ林では、自然との見事な調和共生を印象づけられた。たまたま雷雨大雨の時に遭遇してブナの木一本毎に
にはっきりと水の道を持っており、ブナ自身のためのブナファーストともいうべき生態系を持っていることが分かった。ところがその帰路に雨の中、女房が板間ですべり、右手首骨折という災難となった。この早期完治のためにも妙蓮寺でのお祈りを丁寧に行っている

4・4 地域活動
 商工会議所主催の見学会で昭和電工川崎営業所のゼロエミッション型プラスチック・ケミカルリサイクル設備を見学した。横浜市のプラゴミはここで処理されており、ゴミ分別が必須であることがよく分かった。
 また、横浜商工会議所の見学会で昨年五月西谷駅から羽沢駅に向かい、JRと東急への乗り入れのための速達性向上計画の状況視察を行った。乗り入れ用トンネルの進展状況など万全の様子であり、完工が楽しみである。
 最近、希望ヶ丘地区の相鉄バスが学童見守り安全と私学通学生の規律ある通行につながるようバスルートやダイヤ改正に協力したとのこと。学童安全のための改善が、安定した運行ダイヤにつながり、地域住民も喜んでいる。難しい要望に応えた対応だったと思う。
 希望ヶ丘南地区連合自治会は八つの自治会で構成されている。この地区での食事会で、私がペルーマチュピチュは素晴らしくまた福島県大玉村出身の方がマチュピチュ村の村長だったので、この有名なマチュピチュと最初に友好都市になったのは大玉村だということを知りましたと話した。すると隣席の別の自治会の男性が大玉村出身ですと言われびっくりした。こんな話があれば、皆でいろんな国ともつながりをみつけられると思う。
 自治会の敬老の日イベントで、クラシックギターとボーカルの敬老コンサートがありました。その若いギター奏者は国際コンクールで優勝したことがあり、地区内でスクールを開いている。ベテランのボーカリストと素晴らしい演奏をしてくれて、参加者五〇名が感激した。これは地区での平素の情報収集やコミュニケーションによりまとめることができた事と思う。インバウンド拡大もこういったつながり・ひろがりから良好な拡大がはかれると思う。
 ズーラシアは発足したばかりのころ、オカピのズーラシアとして有名でした。最近は動態展示を推進し、オセアニア、アフリカ等の地域展示といろいろなテーマが取り上げあげられており、つながりの場としても重要になっている。先般、夏でも涼める場所があることが分かり活用拡大できたらいいと思う。
 横浜マリノスの試合を、大事なコミュニケーションの場と考えて、毎年長男と二人で出かけるようにしている。
4・5 いろいろ幹事
「団塊の秋」(堺屋太一2013)では団塊世代七名が卒業旅行でカナダ・アメリカに出かけた仲間で「加米の会」を作り、各々職業に就いた後も会合をもっていた。団塊世代が八〇歳になる2028年に、上越市出身の上杉憲三が幹事となって、北陸新幹線(2015年開通)利用し、上越妙高駅付近で同期会を開催する計画を紹介している。その際、上杉の仕事が「電気守」だとしている。その業態は遊休農地
、廃業ゴルフ場などを借用し、太陽光発電所にして投資家に売却、その管理(守)を請け負うことである。
 上越市高田高校出身の私は既に何回か同期会を開催し、上越妙高駅を活用している。小学校の同期会も行っており、幹事役を続けている。
 私の父は福島県伊達郡の出身で、私も本籍地をしばらく福島県にしておりましたが、大好きな横浜市のこの地に本籍を変更した。
 私は生後まもなく、父の転勤で当時雪深い新潟県高田(現在上越市)に転居した。小学校から中学時代には似た年頃のいとこたちが沢山いた福島梁川町に夏休みは長期間遊びにゆきました。信越線、磐越西線、東北本線と乗り継ぎ当時は蒸気機関車でしたから真っ黒になっていました。そこではお蚕様が、桑の葉を激しくむさぼる音にびっくりしたり、阿武隈川での鮎獲りをやったりしました。特に蚕の繭から作られる美しいシルクからは想像できない生命力を感じさせるむさぼる音の記憶は今も残っている。こんな自然に包まれた生活が私の体に合っているようだ。高田にいた少年時代には近くの荒川が台風などで洪水が起きると、その水が引いた後に魚が小池に取り残されており、針を持っているナマズなどの魚とりが楽しみだった。こういう五感で体得した記憶をこれからの子供たちにも植え付けられる機会を増やしたいものである。
 「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ2015)では「記憶がなくなったら、私たちの愛も干上がって消えていくんじゃないかしら
」という記憶についての言葉がある。
結び・これから
地域とつながりの場
 お願いごとがあると、「どこでもドア」の考えで、除夜の鐘としても使用される鐘がある妙蓮寺にお参りしている。どうしようもない状態になってしまった母、妹、義弟などのために、お願いしてきたが、残念ながら逆転ホームランにはつながりませんでした。ただ気持ちの上では安寧を得ることができた。新幹線が見えるパワースポットを、つながりの場の入り口として「どこでもドア」の考えで祈り、願い、毎日お百度参りを続けたい。
 お祈りにあたり、ゆったり・ゆっくりを心にたたみこんでいるが、その背景には「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(帚木蓬生2017)からの教示がある。「能力といえば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。
」としている。
いつもありがとう相鉄さん
 私は希望ヶ丘駅を三五年活用してきましたが、今回百周年を迎える相鉄さんには、いつもお世話になっており、これまでの挑戦・安心・安全へのたゆみない努力に敬意を表し、大きな感謝を表したい。さらなる飛躍を期待しております。

著者

百家春来