「相鉄線との邂逅」黒柳雄一

  二俣川に住んで早いもので14年になる。二俣川には高校1年生の時に、原動機付き自転車、高校2年生で自動2輪車、大学1年生で普通自動車免許の試験を受けにきた。その頃の二俣川には、駅ビルやドンキホーテ(旧長崎屋)などの大きなビルはほとんど無かったように記憶している。
  当時、試験を受けるのに必要だった代書屋さんがたくさんあったが、法律の改正かなにかで、不要となり次々と廃業していき、飲食店やカラオケクラブ、スナックなどが増えた。最近ではそれらも数を減らし、薬局や整体、指圧などのお店が目立つようになり、時代の移り変わりを感じる。
  免許の試験や更新で来る度に、二俣川銀座商店街にある豚カツ屋さんで、ロースカツ定食を食べた。数年前に店舗を同じ商店街の少し駅寄りに移転したが、相変わらず美味しい。
  1974年4月、今から43年前に海外勤務を希望して第一銀行に就職した。入行して5年後の1979年10月、1年間の南米チリの首都であるサンティアゴの地場銀行での研修を、単身赴任で不自由はあったが何とか無事終了して帰国し、人事部に顔を出すと、大宮次長から、「1年間ご苦労様でした、よく頑張ってくれたね。帰国したばかりで恐縮なんだが、銀行を辞めて外務省に行き、南米のベネズエラの日本大使館で、書記官をしばらくやってください。」との青天の霹靂のような辞令を受けた。
  1979年11月、金融・経済を在外日本大使館で担当できる人材を、期限付きで派遣してほしいという外務省からの要請により、第一銀行を一旦退職し外務省に入省、中南米2課で研修を受け、1980年2月から1982年8月まで、南米の在ベネズエラ(カラカス)日本大使館で、二等書記官として駐在した。主担当は金融・経済とOPECウォチャー、副担当はガイアナ・スリナム両国の政治・経済全般、無償援助、技術協力であった。
1981年4月に岡野大使が帰朝命令を受け、後任にパラグアイから川藤大使が着任した。ガイアナの主担当はリビアから着任したばかりの、水野一等書記官だったが体調を崩しており、ガイアナの大統領に対する天皇陛下の信任状奉呈の為、自分が川藤大使に随行することになった。
トリニダードトバコからガイアナに向かう、ガイアナ航空のボーイング727(BOAC現在の英国航空の超中古機)に搭乗したが、離陸直後に左のエンジンが故障し墜落しかけた。墜落しかけている機内で頭をよぎったのは、まず最初に、「生命保険の金額(死亡保険金)をもっと多くしとくべきだった。」と悔やみ、次に、「1月に生まれたばかりの次女は、自分が死んでしまえば記憶に全く無いだろうな。」と思い、その次に、「長女は3才8ヶ月なので、少しは顔を思い出してくれるかな。」と考え、最後に、「妻は自分の死後、2人の子供をかかえて幸せな暮らしができるかな、苦労をかけるなー。」と目が潤んだ。
結果として、運良く何とか右のエンジンが持ちこたえてくれ、空港に引き返すことができたが、着陸までの時間がとてつもなく長く感じられた。乗客を乗せた まま何時間かエンジンのチューンアップをして、6時間遅れでガイアナにようやく到着した。その後信任状奉呈の随行員としての任務を果たし、お蔭様で数日後、ベネズエラの首都カラカスのマンションに無事戻ることができた。
妻に余計な心配はかけたくなかったので、飛行機が堕ちかけた事は話さず、家族と再会できた幸せを噛み締めていると、妻が、「貴方がガイアナへ出張された夜の10時頃、寝ていた長女が突然飛び起き、大声でお父さんの写真が見たいと  言い出し、写真を見ながらお父さん、お父さん、と泣き続けたの、何か貴方に  悪い事が起きたのではないかと、とても心配していたのよ。」と言い出したので、  妻に事情を説明した。自分同様妻もびっくりしていたが、その時間はまさに飛行機が墜落しようとしている時だった。自分は現実主義者で迷信のたぐいは信じないが、長女のテレパシーが自分を救ってくれたものと、この事だけは今でも信じている。
後日、大使館員との会食会で川藤大使から、「あの時はもう駄目だと観念した。自分は60才を超えているから、まあ仕方が無いと思ったのだが、黒柳書記官は30才でお子さんも小さく、死んでも死に切れなかっただろうね、本当にご苦労をかけたね。」とねぎらいの言葉をかけて戴いた。この時死んでいたら二俣川に住む事はなかった。
第一銀行に復帰して数年経った1986年3月、34才の時に二俣川で土地を購入した。年初から新築マンションを買おうと田園都市線の物件を探していて、青葉台にこれにしようかなという物件を見つけた直後に、ロンドン支店への異動の 内示を受け、直属の上司の、「海外勤務は長くなるかもしれないから、マンションではなく土地を買っておいたらどうかな。」というアドバイスに従ったのだ。
自分も妻も横浜生まれで、できれば横浜にマイホームを持ちたいとずっと思っていた。京急沿線や京浜東北線沿線も探したが、二俣川の東急電鉄分譲地内の物件が、駅から徒歩8分、両隣の家が90坪ぐらいの2世帯住宅で、静かで日当たりが良く購入を即断した。   
契約を完了したのはロンドンに赴任する10日前、購入直後にバブルとなり土地の値段は急騰し、3倍以上になったが、6年後に帰国した時には、ほぼ買った時と同じ値段に戻っていた。国内外の転勤の連続で家を建てられたのは、17年後の2003年9月、51才の時だった。
相鉄沿線との初めての出会いは5才の時、日の出町に近い大岡川沿いにあった、キリスト教系の幼稚園の遠足で行ったのが西谷の浄水場だった。上星川駅か西谷駅どちらの駅で降りたのか残念ながら記憶に無いが、晴天で神父さんとシスター達と、芝生でお弁当を食べたことだけは覚えている。太平洋戦争が終わって12年、朝鮮戦争が休戦になって4年経っていたが、伊勢佐木町などの繁華街では、白衣と軍帽の傷病兵が物乞いする姿がまだまだ多かった。                 
幼稚園の前の大岡川沿いにはバラックが立ち並び、貧しい生活を余儀無くされている子供達がたくさんいた。ある時、突然強制収用されバラックも、子供達も消えてしまった。幼心に貧富の差と、現実の厳しさを実感してしまった。
その後高校3年の9月から翌年の2月までの6ヶ月間、西谷駅から徒歩5分程の叔父の家に、大学入試の受験勉強の為寄宿させてもらった。実家は関内の料理屋、宴会でうるさくて勉強できる環境ではなく、子供のいない叔父夫婦には、幼少の頃から何かと可愛がってくれていたので、喜んで迎え入れてくれた。2階の物干し場から新幹線の車両が通過して行くのが見えた。西谷というだけあって冬が寒かったのを覚えているが、後日住むことになった二俣川も寒いところだとは知らなかった。
初めて希望が丘に行ったのは小学校6年生、11歳の時、クラスの隣の席の女の子は、色が黒くて小太りで美人ではなかったが、明るくて頭が良くて学校へ行くのが楽しみだった。ある日から突然来なくなりどうしたのかと思っていたら、希望が丘に引越しした事がわかった。家を新築したとのことだったが、何故何も言ってくれなかったのかと少し腹が立った。暫くして何だか無精に顔が見たくなって、週末に市電で横浜へ行き、相鉄で希望が丘へ行った。                        
駅前は分譲地を造成中で、戸建て住宅がポツポツと建ち始めたところ、その辺をうろうろしてみたものの、間抜けな事に住所も知らずに来たことに気づき、あきらめて家に帰った。電車の中で何だか馬鹿なことをしたなーと思ったが、何故かすっきりして、それ以来彼女の事は頭に浮かばなくなった。
新子安の中高一貫の男子校で、中2からラグビー部に入部、高2と高3の2回、希望が丘高校のグランドで希望が丘高校と対戦、高2で引き分け高3の時は勝った。  
自分の学校は京浜工業地帯にあり、当時光化学スモッグが頻発して、部活を中止せざるをえない日も何度かあったので、林に囲まれ空気がきれいな希望が丘高校が羨ましかった。 
後年、息子が鎌倉にある男子校の硬式野球部に所属していた時、希望が丘高校との練習試合で応援に来たが、相変わらず空気がきれいで、ラグビーのポールを見て自分の青春時代を懐かしく思い出した。
東京の社宅から二俣川に引越した翌年の2月のある土曜日、深夜からの雪がかなり積もったが、関内にある実家のあたりは海に近く、滅多に積雪することが無いので正直驚いた。外の様子を見ていると、両隣りの家のご主人達がスコップで雪を掻き始めた。自分も同様に雪掻きを始めたが、ご主人達は自分の家の前を掻き終えると、近くの家の前に取り掛かった。                       
その家にはかなり高齢の老夫婦が住んでいたが、頼まれもしないのに、さも当たり前のように雪掻きをする姿を見て自分も手伝った。その時、「何と心のやさしい人達なのだろう、このような素敵な隣人のいる所に住めて良かったなー!」としみじみ思った。
時折、週末に妻と大池公園までウオーキングしに行くが、往復するとおよそ1万歩程になり良い運動になる。14年も続けていると、大池公園の道という道全てを制覇して、いつのまにか道案内ができるようになっていた。公園内の林の中を歩いていると、高尾山や丹沢あたりをハイキングしているように感じられ、森林浴をしているようで気持ちが良い。運が良いと翡翠を見かけることがあるが、そんな時は何かとても得をしたような気持ちになる。
今年の4月2日の日曜日に、4人の子供達が、自分のシニアとなる誕生日と妻の誕生日の合同お祝い会を、弥生台駅に隣接するフレンチレストランでやってくれた。   
このレストランの窓の外に大きな桜の木があり、ちょうど満開が予想される日のランチを予約してくれたのだ。桜の開花はやや早かったが、その後の冷え込みで開花が遅れ、残念ながらほとんど桜は咲いていなかった。前菜がサーブされると、シェフが私たちの席にわざわざ来てくれて、「残念ながら桜が咲いておりません。 
そのかわりと言ってはなんですが、満開の時の写真をお持ちしましたのでご覧ください!」と言ってくれた。地元の食材をふんだんに使った料理はとても美味しく、盛り付けも食べるのが惜しくなるような美しさだった。シェフの気配りがありがたく、やさしい妻、子供達,連れ合い、孫たちに囲まれ、とても幸せなひと時を過ごすことができた。30才の時に自分の命を奪わず、今日までの命を与えてくれた神様仏様に心から感謝した。
二俣川には、神奈川県運転免許試験場、神奈川県立がんセンター、視覚障害者の方々のためのブラインドセンターなどの重要な公共施設がある。退職後には、可能であれば、これらの施設のどこかで、英語とスペイン語を活かしたボランタリー活動ができたらと考えている。
相鉄線とのご縁は、5才の時の西谷の浄水場への遠足に始まり、かれこれ60年のお付き合いとなった。相鉄線は現在都心と繋がる2路線の工事を鋭意進めており、数年後には益々便利になる。4人の子供達は皆独立して東京に住んでいるが、私と妻は二俣川の家に住み続けたいと思っている。可能な限り末永く! 

著者

黒柳雄一