「相鉄線のあなたを探して」ヤマガタ

 乗り込んだ車両に空いているシートが見当たらなくても、宮田正洋は諦めない。さがみ野から横浜まで、立ったままの三十分は辛過ぎる。
 彼は並んで座っている乗客をぐるりと見渡す。高校生がいたら、ブレザーの校章とか履いているズボンやスカートの柄から学校名を割り出せる。そこから彼らの降車駅を判断し、駅が近ければ前に立つ。腕を組んで眠ったり、小さく折った日経新聞を読んでいる背広の男性の前に立ってもだめだ。彼らはまず間違いなく横浜駅まで通勤する。反対に私服のお年寄り、特に女性は比較的短い距離で降車することが多い。
 就職してからの一年半の経験で、正洋は朝のこの時間シートに座るための自分なりの理論を編み出していた。勝率は八割といったところだ。座れればその駅から横浜まで仮眠が取れるが、当てが外れてしまうと携帯電話で転職サイトを眺めるくらいしかすることがない。
 本当は都内の企業で働いて、都心で一人暮らしを続けたかった。けれど就職活動で良い結果が出せず、止む無く受けた地元神奈川の決して大手とは言えない企業から、ようやく内定をもらった。下宿していたアパートよりも実家からの方が会社には近かったし、給料や福利厚生を考えたら、一人暮らしのままだと目一杯まで借りていた奨学金の返済が厳しかった。
 それで大学卒業と同時に実家へ戻ったのだが、正洋は未だに学生の時に持っていた望みを捨てられずにいた。早く金を貯めて転職し、賑やかな都心で一人暮らしがしたい。
 改めて考えてみても、幼い頃から暮らしていた地元には取り立てて良い思い出がなかった。郊外の町のくたびれた建物とそこに暮らす人たちが交わす会話に、正洋はいつも寂しさと陰鬱さを感じた。彼らはおしなべて自虐的であり、成長するにつれて正洋は自分の住む町に苛立ちを覚えるようになった。都心で暮らしてみると、その対比で尚更嫌な記憶が強調された。
 そんな場所に自分はまた戻って来てしまった。一度は逃げ出せたのに、自分の育った町に後ろから足をつかまれて引っ張り戻され、無理やり監禁されたようにすら感じていた。
 そういう陰険な町なのだ。彼はもう一度車内を見渡す。誰もが血の気のない灰色の顔で、目を閉じて下を向き黙りこくっている。正洋には全員が、自分をシートに座らせないためにこの町から現れ出た、忌々しい障害物にしか見えなかった。吊り革につかまって立っている乗客は、座席を奪い合うライバルだった。無関心を装って、降車しようとする客の様子を横目で窺っている。そんな殺伐とした相鉄線の雰囲気が嫌いだった。
 正洋は自分の理論に基づいて、銀縁の丸いめがねをかけた老婆の前に立った。白髪頭にパーマをかけている。彼女は右の脇に抱えるように木の杖を持っていた。木目のある明るい茶色の杖で、持ち手の部分に淡いピンクの縁取りがしてあった。お年寄りが持つ杖にも、こんな可愛らしいデザインのものがあるんだなと、妙に印象に残った。
 老婆は次の相模大塚駅で降りていった。正洋は自分の理論通りにことが運んだことに満足し、鞄を抱えて座るとすぐに目を閉じた。
 週末を挟んで次の週の金曜日、正洋はまた老婆を見かけた。学校の夏休み期間になると制服姿の中高生が車内からいなくなり、降車の予測が難しくなる。どこへ立つべきか車内に目を走らせていると、あのピンクの縁取りのある杖を見つけた。顔は覚えていなかったが、きっとあれは先週の老婆だ。だとすれば、恐らくまた次の駅で降りる。正洋は杖を目がけて歩き、老婆の前に立った。やはり彼女は相模大塚駅で降車した。完全にその日で彼女は、すぐに席を譲ってくれる乗客として正洋に認識されたのだった。
 しかし老婆は毎日乗車しているわけではなかった。これまで二週で二度見かけたが、曜日も違っていたようだ。それでも正洋は毎日電車に乗るたび、もしかしてと必ずピンクの縁取りの杖を探すようになっていた。
 次の週はついていなかった。水曜、木曜と連続で横浜まで立ったまま通勤するはめになった。疲れのたまった金曜日の朝、彼は車内にあの杖を見つけた。やった、これで今日は三十分眠って行ける。
 彼はまた老婆の前に立った。すると、いつものように自分の手元の辺りをぼんやりと眺めていた彼女が顔を上げた。目が合うと老婆は微笑んで、こちらに向かって会釈をした。
 驚いた正洋は、思わず目を逸らしてしまった。その後で恥ずかしさが湧き上がってきた。毎回前に立つものだから、顔を覚えられてしまったのだ。老婆に悪気はないのだろうが、座りたいがために必死に降りそうな客を探し、順番待ちをしている卑しい自分の思考と行動が見透かされたような気がした。正洋は焦った。車内には冷房が効いていたが、体が熱くなって汗が吹き出た。いつものように老婆が降車してしまうと正洋は空いた席に座ったが、目をつぶっても眠ることができなかった。
 もし今度見かけても、もう彼女の前に立つのはやめようと正洋は決めた。あんな恥ずかしい思いはもうしたくなかった。それなのに週明けの月曜日、またあのピンクの縁取りの杖が目に入ると、彼の視線は反射的にそちらに吸い寄せられていた。いや、だめだ。他の場所へ行かないと。そう思って足を踏み出す方向を変えようとした時、老婆はこちらに気づいて笑みを浮かべ、頭を下げた。さらに彼女は片手を軽く上げて手招きをした。そこまでされてしまうともう無視は出来ず、正洋は観念して老婆の方へ向かった。
 「今日も次で降りますから座ってください」老婆は正洋を見上げながら、優しい口調で言った。正洋はまた恥ずかしさで体中が熱くなるのを感じながら、すいません、えっとあのありがとうございますと目を伏せたまま返事をした。
 「横浜まで乗っていかれるんでしょう。顔色もあまり良くないようだから、せめて座って休んでください」老婆はそう言って電車を降りていった。
 彼女には、自分の姿がどう見えていたのだろうと気になった。顔色が良くないと言われたが、ロボットのように血の気のない乗客というのは、正洋が毎朝周りを眺めて感じていたことだった。彼女には自分もその一人として映っていたということだろうか。そうだったら嫌だなと思った。
 もう顔を合わせたくないのなら車両を変えればいいだけだったが、正洋はそうしなかった。それどころか彼は、また老婆に会いたいと思うようになっていた。自分はこの町の表情のない乗客たちとは違う、それを証明したかった。
 それから二週間あまりの間に、正洋は老婆と二度顔を合わせ、彼女が降りるまでの一駅の区間だけ会話を交わした。今度は正洋の方から声を掛けた。意識的に笑顔を作って彼女に挨拶した。でもそんなに気負う必要はなかった。正洋はすぐに、老婆と自然な調子で話が出来るようになった。きっと彼女が持っている、警戒心のない温かい雰囲気のお陰だろう。会話を交わすにつれて、最初の動機などどうでもよくなってしまっていた。
 彼女は海老名駅の近くで長男家族と同居している。女の子の孫が二人いて、上の子の中学受験祈願のため、模試がある日や成績が芳しくないと日課の朝の散歩のついでに、相模大塚駅近くの桜森稲荷神社へお参りに行っているのだという。その神社は彼女が以前暮らしていた家の近くにあり、長男の大学受験の時にも同じようにお参りをしたところ、志望校に無事合格できたという縁起の良い神社なのだそうだ。
 それから杖の話もした。去年、二人の孫から誕生日プレゼントとしてもらったもので、なくても歩くのに支障ないが、電車に乗るような遠出をする時は念のため持っているのだという。
 一方、正洋は老婆に自分の話をすることができなかった。転職して都内で一人暮らしがしたいということをちらっと口にしたら、寂しそうな顔をされてしまったので、それ以上何も話せなくなった。彼女にとっては、この辺りは長い時間をかけた深い思い入れがある、大切な場所なのだ。考えてみれば当たり前のことだが、正洋は今更ながらにそう気づいた。自分はこの町のことが好きじゃないから、彼女に喜んでもらえるような話が何もできない。それが寂しかった。
 それから二週間、ぱたりと老婆の姿を見かけることがなくなった。お孫さんの模試の予定がないのかもしれない、成績も良くて万事順調だからお参りの必要がないのかもしれない。そう思って安心しようとしたが、油断するとすぐに、どこか体を悪くしたのだろうかという心配が湧き上がってきて落ち着かなかった。健康そうには見えたけれど、彼女くらいの年齢なら突然体調を崩すことがあっても不思議じゃない。けれど正洋にはそれを確かめるすべがなかった。連絡先も分らない。知っているのは、海老名駅の近くに住んでいるということくらいだ。
 その週の木曜は八月三十一日だった。子供たちの夏休み最後の日だ。朝から三十度を超える暑い大気に追い立てられるように、正洋は電車に乗り込んだ。車内を眺める彼の視線はある一点で止まり、そこから動かなくなった。彼の目は、老婆が持っていたあのピンクの縁取りの杖を見つけていた。しかしシートに座り杖を抱えるように持っていたのは、まだ幼い少女だった。
 正洋と少女の目が合った。すると彼女はこちらに向かってぺこりと頭を下げた。その仕草がどこか老婆と重なって、正洋は自然と少女の方へ足を向けていた。
 「宮田さんですか。はじめまして」
 彼女は満面の笑みを浮かべて正洋に挨拶をした。栞那と名乗った少女は、中学受験をする老婆の孫の妹だった。どうやら祖母と同じくあまり人見知りをしない性格の彼女は、正洋に、おばあちゃんから頼まれたのと言って話し始めた。
 「おばあちゃんね、怪我してお参り行けなくなっちゃったんです」
 正洋は悪い予測が当たってしまったと思ったが、さらに少女に聞いてみると、怪我をした左足は打撲程度で既に治りかけているものの、家族の心配もあって念のためお参りは止めているということのようだった。
 「私、今日これから大和のスポーツセンターでバスケするんだ。昨日おばあちゃんにそう言ったらね、きっと宮田さんが心配してるだろうから足の怪我のこと伝えて来てくれないって頼まれたの」
 それでね、と少女は続けた。でも私、宮田さんがどんな人か知らないよって言ったらね、じゃあこの杖を持って行ってくれる。宮田さんはいつもその杖を見ておばあちゃんに気づいてくれてたから、今度もきっと気づいてくれるよって言われたの。そしたら本当におばあちゃんの話の通りになったから、すごく面白かった。少女は両手で口を押えて笑った。
 正洋は自分の視線の動きまで老婆に見透かされていたことが堪らなく恥ずかしかったが、それ以上にその気遣いがうれしかった。
 「そうなんだ、ありがとうね。わざわざ杖まで持ってくれて。おばあちゃんの様子、聞けて良かったよ」
 正洋がお礼を言うと、少女は元気良く首を振った。
 「ううん、平気だよ。だって宮田さんはおばあちゃんのお友達なんでしょう。友達に会えなくなったら心配だもんね」
 それから脇に挟んでいた杖を持って正洋の方に見せながら、「この杖、かわいいでしょ。お姉ちゃんと二人でおばあちゃんに上げたんだ。頼んでも、まだ栞那には必要ないでしょっていつも貸してくれないんだけど、今日は貸してもらえてうれしい」
 「そうだね、かわいいね」
 正洋は杖を褒めながら、もしかしたらこの子は自分に気を使って、杖を荷物だとは思っていないと無邪気に喜んで見せているのかもしれないと思った。小学生でも大人と何も変わらない、他人を想う温かい心があるのだ。
 彼女の祖母も、孫のことを想ってお参りのために電車に乗っていた。同じように、あっちで目を閉じて腕を組んで座っている中年男性にも、無表情で携帯の画面をじっと見つめている女性にも、皆誰かを大切に思いかけがえのない家族や生活があり、それらを大事に抱えてこの町から電車に乗って、また帰って来るのだ。血の気のないロボットのような乗客なんて、どこにもいなかった。正洋は車内を見渡し、噛みしめるようにそう思った。
 少女は大和駅で降り、正洋はその席に腰を下ろした。いつもなら俯いて目を閉じすぐに寝てしまうのだが、今日はそうしなかった。
 二俣川駅で乗ってきた、赤ん坊を抱えた母親に席を譲った。正洋は立ったまま吊革につかまり、横浜駅で電車を降りた。その間、一度も転職サイトを開かなかったことに後から気がついた。
 しばらく見なくてもいいかなと心の中でつぶやいて、彼は会社へ向かった。立ちっぱなしだったのに、何故だかいつもより体が軽かった。了

著者

ヤマガタ