「真夏日」米蔵圭介

 八つの駅をいっきに通過し目的地に着いたとき、時計は二時をすこしまわっていた。降り立つと、ホームの天井に見慣れぬ突起物が並んでいる。めずらしがって下から覗きこむと、先端から勢いよく白っぽい噴霧が流れでていた。それはホームだけでなく、階段や改札付近にも数多く見られた。
 どうやら駅全体がまだ工事の途上らしい。そのためにエアコンが使えず、代替措置としてドライミストを使用しているのだろうか。いや、それにしては突起物はそれなりの使用感を漂わせているし、設置もかりそめのものではなさそうだ。間断なく流れでる噴霧は涼やかで心地いい。私はつかのま真下で涼をとった。
 先方との約束の時間は三時ゆえ、まだすこし余裕がある。改札を出てすぐに見えた喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文する。それから椅子に腰をおろすと、ふっとひとつ息をつく。
 部下の若い女性が、先日、実家の母が倒れた、という理由で突如会社を辞めてしまった。それは仕方のないことだとしても、やはり相応の手続きを踏んでから辞めるのが社会人としての分別にちがいない。だが彼女は、顧客らへの引継ぎを一切せずに会社を去り、事後処理を実質放棄したのだった。言動や仕草に幼さをのこす女性であったが、遅くまで顧客に紹介する資料の整理をしていたり、疑問に思う部分をよく質問してきたりする姿に、ひたむきさとけなげさを感じてもいたため、私は余計にショックを受けた。電話をしても出ることはなく、しばらくしたのち一通の封書が送られてきただけだった。同僚の女性たちは、あの娘は結局逃げたのだ。母さんが倒れたなんてどうせ嘘だ、などと噂しあっていた。
 俗に生保レディとよばれる女性たちと、支店長との潤滑油になるのが、副支店長として五月からここに配属された私の主たる仕事だ。それはすなわち、彼女たちが起こしたミスやトラブルの尻拭いをすることであり、くわえて板挟みの中間管理職として心身のきしみに抗するべく奮闘することでもある。とりわけ男とは勝手が違う女性たちとの日ごろのコミュニケーションにも気をつかわなければならない。初めの三年はどうにも仕事がつらく、いつ辞めるかということだけを日々考えているようなありさまだった。だがそのころ知りあった現在の妻と親しくなっていくうちに、いつしか仕事で感じるストレスを自分の中で手なずける術を身につけていった。彼女と会話を重ねることによって、同僚の女性たちの気持ちがすこしはわかるようになったからなのかもしれない。
 やがて結婚し、子どもが生まれた。入社して十年が過ぎた今も、仕事がつらいと思うことはいくらでもある。とはいえ、辞めたいと思うまでに追いつめられるようなことはひとまずなくなっていた。
 三十分ほどで店を出ると、人気のディスカウントストアがはいった駅ビルを通りすぎる。途中、犬の里親を募集する団体の職員に声をかけられたが、急ぎの用があると言って立ち去った。階段をくだり日よけがなくなると、とたんにうだるような暑熱が肌をさした。喫茶店から出てまだ五分と経っていなかったが、もう汗が噴き出している。商店街を歩くと、あちこちに、免許センターはこちらです、という看板が設置されており、やたらと多い床屋や免許教室なる店舗も、この街のカラーをしめしているようだった。
 信号を曲がるとなだらかな丘陵にさしかかった。道沿いには築浅とみられる機能的な住宅が軒を連ねている。それらの家々からは、子どものさわぎ声や、それをたしなめる母親の声といった、雑然とした生活音がひろがっていた。夏休みに入ったからか、子ども同士で遊んでいる光景もよく見かけた。ただ、土手の日陰にならんで携帯ゲームをしているのには、いかんせん違和感をおぼえた。
 やがて、野村という表札のある家の前で足をとめた。そこはこの一郭によく見られるベージュとホワイトを基調とした二階建ての小ぎれいな建物で、庭はないものの駐車スペースが二台分あり、アクアとデイズが並んで停められていた。
 保険は信用がすべてだ。そのため顧客に挨拶もせず担当が職場を辞したことは一大事と言っていい。私は夫妻に事情を説明し深々と頭を下げた。ふたりはともに三十代後半。共働きで子どもはまだいなかった。友人にこちらを奨められて、という理由で当社と契約してから、七年の月日が流れていた。
「そうですか。それなら仕方ありませんね」
 若いころ上司に叩きこまれた、顧客を辞めさせないための会話術、なるものをひさびさに用いる機会かと思い入念に準備してきたのであるが、どうやらその必要はなさそうだった。二人はとくに苦情を言うでもなく、これからもよろしく、と継続を希望した。この日のために有給をとって三連休にしました、と言われたので恐縮したが、彼は、なにかないと有給なんてなかなかとれませんから、と屈託なく笑ってみせた。
 その後はしばし三人で世間話に興じた。この街の変遷や互いの仕事のことなどを話した。途中、正座を崩すよう言われたが、それについては笑顔で礼を言うもさりげなく継続した。
 窓からは免許センターが見えた。
「よく見えるでしょ。あそこだけは絶対に客が尽きないからねえ。うらやましい」
 旦那が笑うと、
「免許の勉強の十分の一でもいいから、授業の勉強もしてほしいものよ」
 夫人がすこしうんざりしたように唇をゆがめた。彼女は私立高校で古文の教員をしているらしく、さきほど、生徒が真剣に授業をきかない、と嘆いていた。それゆえ、すべての生徒が真剣にならざるを得ない自動車学校で働く教官らを、うらやましく思っていたとしても、それは無理からぬことだった。
「私もここで十六のときに原付の免許をとりました」
「免許をもってる神奈川県人は、みんな一度はここに来ることになるからね。いわば、はじまりの場所って感じかな」
「はじまりの場所?」
 おもしろい表現に私はおもわず訊き返した。
「だってほら、大人になるとみんないろんな責任背負うけど、人生で最初に言い訳できない責任背負うのって、免許をとった時だったと思うんですよ。これでなんかやらかしたら俺のせいだ、っていうのはおのずとあったから、やっぱりそれなりに緊張したよね。そういう意味では、責任のはじまりの場所、と言ったほうが正確かな」
 旦那はすこし照れたように頭をかき、夫人は、責任なんてつけると急に重くなるし、語呂も悪いわね、と茶々を入れた。私は、そうですね、としきりにうなずいた。
 外で子どもたちのはしゃいだ声がきこえた。
「このあたりは子どもが多いですね。ここに来るまでにもたくさん見ました」
「そうですね。夏休みですしね」
「私も一歳の娘がいるんですが、これがかわいくて。それで最近は上司とのつきあいもそこそこに家に帰ってしまうんです」
 なにげなく発した一言だったが、すぐに自らの軽挙に気づき後悔した。
「お茶淹れてきますね」
 夫人が台所に立ち去った。私は身を固くした。すると旦那が声をひそめて言った。
「すみませんねえ。気をつかわせちゃって。ただここだけの話、われわれもいろいろやってるんですけどなかなかうまくいかないんですよ。それであきらめたわけじゃないんだけど……妻はこのあたりにはナーバスになっちゃってね」

 私は二人にいとまを告げて外に出た。玄関には百合の花が、外の花壇には日日草とキバナコスモスが、それぞれに鮮やかな色をつけていた。
 なだらかな坂をくだると、もときた通りに出た。左に行けば駅、右に行けば免許センターだ。急ぎでもどる必要のなかった私は、妙な気を起こして足を右に向けた。
 ほどなくY字路が見えた。いつか横浜のトリエンナーレに展示されていた、高名な画家の絵画で見たような型通りのY字路だった。その中心には、免許センターにちなんだ屋号がつけられたオレンジ色の喫茶店があったが、閉店してしまっていた。
 ふたたびなだらかな坂を上がりやがて道は平らになった。シャツに大量の汗がしみているのを感じる。猛烈な暑さだ。それを喜ぶかのごとくセミの音が一層大きく耳に響いた。
 金網の先に数台のバスやタクシー、トラックやブルドーザーなどの教習車が見えた。前方の土手には雑草が繁茂し、けたたましいセミの音はここに生い茂る木々から発せられているようだった。
 金網に茶色い物体がふたつからまっていた。顔を近づけると、それはセミの抜け殻だった。むかしはよく見かけたが、最近ではめっきり見なくなっていた。
 手に取ってみた。当然ながらおそろしく精緻につくられており、ある種の感動すらおぼえる。が、次の瞬間、指に力を入れるとそれは粉々になり、アスファルトと同化していった。ついでもうひとつの抜け殻もつかんでおなじことをした。ふいになにか良くないことをしたような仄暗さが胸をかすめたが、とりたてて問題のない行為にちがいなかった。
 すれ違う女性たちは普段よりも入念に化粧をしているように見える。免許用の写真撮影を意識してのことだろう。撮影者は仕事柄、簡単にかつ事務的に撮っていくが、こちらはその写真とともに数年を過ごすのだ。今はもうさして気にしなくなったが、若い時分には渡された免許の写真を見て、その写真写りの悪さにげんなりしてしまうこともよくあった。男の自分ですらそうなのだから、若い女性らがよく写ろうと腐心する様子もどこか自然に思えるのだった。
 センターの門をくぐると、交通事故掲示板なるものが設置されていた。そして、発生五十二、負傷者七十七、死者一、という数字が点灯していた。死者、一。その最小の自然数は、発生や負傷者の数よりもはるかに大きく、そして重く感ぜられた。
 免許をとってからの人生が、それ以前の人生を去年追い抜いてしまった。その間、何度か危ない瞬間はあったように思う。だが、さいわい大事には至らずここまできた。それにしても母は心配だっただろう。私がバイクに乗るときは必ず、気をつけなさいよ、と繰り言のように声をかけてきた。
 センターの入口付近で献血を求める職員が声をはりあげていたが、応じる人はほとんどいなかった。私は先日、会社にやってきたバスで献血をしたばかりだったので、やむなく通り過ぎた。
 なんの用事もなかったが、ドアを開けセンターの中に入った。中央はがらんとしており、ベンチの置かれた一郭に人が密集していた。私が入る直前に合格者発表があったらしく、うれしそうに誰かに電話をしている者や、うなだれたようにしゃがみこんでいる者などさまざまだった。
 食堂に入ると、こちらも混雑していた。小腹が空いていた私は、ラーメンを食べることにした。どこかなつかしい味のする醤油ラーメンだった。窓からは、さきほどまでお邪魔していた野村邸とおぼしき人家が見えた。
 ここまで来たついでに隣の棟にも足を向けてみた。そこは完成した免許を各人に交付する場所で、免許を手にした者たちが一様にみせる高揚したような表情が印象的だった。今時めずらしい角刈りの若者二人も、そろって免許を渡されうれしそうにそれを互いに見せあっていた。
 空いたベンチに腰掛けると、前に座っていた子どもが席を立ってあたりを走りはじめた。そのうしろを坊主頭の弟らしき少年が追いかける。どうやら兄が弟の持っていた玩具をとってしまったようだ。
 と、弟がころんだ。そしてべそをかきはじめた。そこにからかっていた兄がやってきて手をとった。だが弟はまだぐずっている。ベンチに座っている母親は、もう、などと言うだけでそこに駆けよっては来ず、スマートフォンを操作していた。すると兄はポケットからチョコレートをとり出しそれを弟にあげた。そして、ごめんな、と言った。ついでとりあげられた玩具も返された弟は、たちどころに機嫌を直し兄と一緒にその玩具で遊びはじめた。
 素朴な情景に目にした私は、やわらいだ気分になり、なにか満足したように席を立った。が、目の前の売店でさきほど兄が弟にあげたチョコレートが売られているのが見え、どうしたわけかそれを買ってしまった。
 学生のように食べ歩きながら、上がってきた坂をくだった。だがチョコレートは暑さのために見る見るうちに溶けていった。しまいには手がべたべたになったが、たまたま喫茶店に入ったおりにもらっておいたウェットティッシュがあり、それで事なきを得た。ふと歩道脇の土手に目をやると、白い野生の百合が何本か咲いていた。
 刻み足で私を追い抜いた若い女性が、電話越しに誰かと会話していた。かなりうんざりしたように、「落ちました。二回目ですよ」と愚痴をこぼしている。筆記で二回落ちるなど、どうということもない。しんどいことはこれからいくらでもある。親父くさい講釈が頭をよぎったが、自分も一度落ちたときはかなりショックだったことを思い出し、安っぽい経験論を打ち消した。
 やがて商店街までもどってきた。駅前にはチェーン店が並んでいるが、昔ながらの個人商店もいまだ健在で、双方の強みを生かした絶妙なバランスが街に活気をもたらしていた。
 とおりがかった生花店で足をとめた。さきほど見た百合の花がどのくらいで売られているのか興味があった。百合はそれなりの値をつけられていたので、土手に咲いていた百合をとってきたら売れるのか、などとあさはかなことを考えていると、ふと視界に見おぼえのある植物がとびこんできた。
「これってステファニアですか?」
 若い女性の店員にきくと、そうですよ。よくご存じですね、と少し驚いたような顔をされた。おととい入荷したばかりなんです。これはエレクタっていうんです。葉っぱがお父さんお母さん子どもみたいでかわいいですよね、と彼女は私が思ったのとおなじことを口にした。
 ジャガイモに似た塊のさきから、小さな傘のような葉がふたつ生えており、そのあいだにさらに小さな葉がひとつ生えていた。くっきりとした葉脈が光り、それによって鮮やかなグリーンの葉がより映えて見える。オレンジ色の容器もお洒落で、インテリアにもなり栽培の手間もかからない。それに……。
 決して安くはなかったが、私はそれを購入した。女性が、どなたかにプレゼントされるんですか、と訊いてきたので、はい、と答えると、容器のよごれを落とし、プレゼント用の包装をしてくれた。
 私はそれを手に来た道を引き返した。家の前に着くと、デイズが停まっていなかった。買い物にでも行ってしまったか、となかばあきらめ気味にインターホンを押すと、旦那のほうの野村さんが出てきた。
「ああさきほどはどうも。どうかなさいました?」
 私は気恥ずかしさをおぼえながらも、生花店でたまたまこの植物を見かけたので、と紙の袋を渡した。彼はすこし怪訝そうに袋からカップをとり出す。
「実はうちもなかなかできなかったんです。それであるときその話をした知人にこの植物をいただきまして。ステファニアエレクタという塊根植物なんですけど、風水的に縁起がいいと言っていました。私は正直そういうのはぜんぜんうといほうなんで気にしてなかったんですが、そのあとうまくいったんです……。よかったら家に置いてやってください」
 ちいさく愛らしい植物を見た野村さんはほおを緩めて言った。
「いやあ、これはかわいいですね。わざわざ気をつかってもらってありがとうございます。なんかすごくうれしいですよ。家内も喜ぶと思います」
「それはよかったです。今後ともよろしくお願いいたします。奥様にもよろしくお伝えください」
 私は頭を下げると、礼を言って足早にその場を辞去した。まだ日は高かったが、暑さはいくぶんやわらいでいた。駅の裏手に、タワーマンションが建設されているのが見えた。私はそちらの方向にむかって、軽い足どりで歩いていった。

著者

米蔵圭介