「神様がくれた小さな旅」紅 綾香

 「すみません、この券売機、一万円札使えますか?」
 直矢は、近くにいた若い女性に思わず声をかけた。予定外の出来ごとに、30秒すら無駄にしたくなかったのだ。
 10年前に起業してから、電車に乗らならない生活をしているので切符の買いかたに戸惑っていた。彼はいま36歳、今日はグレーのシャツに、細見のパンツ姿。運営しているショッピングサイトで販売しているものだ。  
 目的地まで、今日もタクシーで行く予定だった。しかし渋滞していたので、横浜駅でタクシーを降り、相鉄線券売機の前にいた。
 直矢が声をかけた彼女は、20歳ぐらいに見える。黒髪のセミロング、白いブラウス、パステルイエローのスカート。少しびっくりした表情になったが、にこりと笑い、券売機を見て、
 「大丈夫ですよ。一万円札は使えますよ」と親切に、そして穏やかに、直矢に言った。
 「ありがとう。あと、二俣川駅へはどのホームから乗ればいいんですか?」
 「二俣川駅へなら、どの電車でも行けますよ」
 「ありがとう」
 そう言うと、直矢は、早足で改札を通った。11時22分発、各駅停車海老名行きを目指す。1番線ホームへの階段を駆け上がった。ホームには9000系、紺色の電車。
(銀色でなかったっけ?)と、つぶやいた。直矢は、車内に入った。
(ずいぶん変わったな。そうか、東京都心部へ開通するんだ・・・。猫、そうにゃん、というんだ)
 空いている座席に、券売機の前で助けてくれた彼女が、座っていた。分厚い本のページをめくっていた。直矢は少し迷ったが、彼女のとなりに座った。
 「さっきは、ありがとう。何せ、パスモは持っていないし、券売機はずいぶん変わっていたしで、どうしたらいいのか、焦ってしまったよ」
 「そうなんですね。お役に立ててよかったです」
 直矢は、スマホで仕事のメールを確認しようと思っていた予定を変えて、さらに彼女に話しかけた。
 「あの、よかったら、教えてくれる?
あなたのような若い人が紙の本を読むのか・・・。電子書籍では、読まないの?僕は、IT企業を経営しているので、若い人が紙の本を持っていることに、興味があるんだ。学生さんですよね?」
 「はい、横浜市内の大学へ通ってます。タブレットも、持ってます。入学祝いに、買ってもらったので」
 「その本、電子書籍では、売ってないの?」
 「あると思いますよ。けれど、紙の本が好きなんです。次はどうなるんだろう、ってわくわくしながら、ページをゆっくり、ときには素早くめくるのって紙でしかできないし」
 「そんな厚い本、荷物にならないの?」
 「はじめはそう思って軽いタブレットを使ってみたけど、失敗もあって・・・」
 「失敗って?」
 「そうですねえ・・・。たとえば、SNSで知り合って、盛り上がり、会ってみたらお互い楽しくなかった、みたいな感じかもしれません」彼女はおっとりとした口調で話した。
 「がっかりする、ってことかな?」
 「そうですね。でも本のレビューは参考になりますよ。満点近くても、わたしには決していいものとは限らないってことに気づいたんです。もったない買い物になるから、本屋で買うことにしています」
 「本屋で、在庫切れのことはないの?」
 「ないときはそれも縁だと思って、他の本を見つけるんです。店員さんが、勧めてくれるんですよ。その会話も血が通っているというか、人との繋がりがあたたかくて。相手の声のトーンや、表情は、SNSでは分からないから・・・。それに、栞を使えるのは、紙の本でしかできないし。友達がお土産によく栞をくれるんですよ」
 「なるほど、栞ね。それは電子書籍では使えないね」
 出発のベルが鳴り、ドアが閉まる。
 <毎度ご乗車ありがとうございます。平沼橋、平沼橋です>のアナウンス。
 「あれ、もう止まるのですね」
 「横浜駅のホームが、見えるんですよ」
 「ほんとうだ」直矢は思わず声に出した。
 「平沼橋から横浜駅まで歩いてみたんですが、意外と遠かったです」
 <天王町、天王町です>のアナウンスが流れる。
 電車はホームから、星川駅に向かって出発した。
 「これ、見てください」彼女が言った。
 天王町駅を出て、星川駅までの、電車から下に見える帷子川。赤・オレンジ・緑・黒の、
大小の鯉のぼりが、何本も風に泳いでいた。
 「へえ、これは見事だね」
 直矢は、それをじっと見ていた。
 「天王町駅の手前で少し電車の音が変わるので、見逃すことがないんですよ。工事が始まってから、変わる音が短くなったんですけどね」
 「あなたは、よく、相鉄線に乗るんだね」
 「両親が、南万騎が原駅に家を買って、私が生まれたんです」
 「じゃ、ずっと相鉄線なんだ」
 「ええ、子供の頃は、母に連れられて、ジョイナスと高島屋に行ってました。そうそう、帷子川は、桜も楽しめますよ」
 やがて、電車が、星川駅に着く。ホームから、透明の壁越しに、緑と数々のマンションが見えた。
 「あの小山、もう少しすると、もっと緑になりますよ」
 「へえ・・・今日は、旅行をしているみたいだなあ・・・」
 「いつもは、電車に乗らないんですね?」
と彼女がきいた。
「ああ・・・。車で、みなとみらいから六本木に通勤しているんだ。先週、会議に急いでいて、恥ずかしいことにスピード違反で免停になってね。講習を受けに二俣川の免許センターにいくところなんだよ」
 「車は何に乗っているんですか?」
 「まあ、ドイツ製の車だよ」直矢は少し照れながら答えた。
 「運転しながら、それぞれの街の景色が楽しめそうですけど?」
 「僕には外車でドライブじゃなくて、歯磨きのようなルーティンだよ。運転しながら、寝ている間に届いていたメールを音声で確認する。そして24時間をどうやって効率よく、いかに有効に使おうか考えるんだ」
 「それじゃ景色どころではないですね」
 「そうだね。会社に着いてからもルーティンだよ。会議、メール、来客の繰り返しさ。ランチも秘書が買ってくる仕出し弁当とか、サンドウィッチを片手に会議で・・・」
 「えっ?お昼を食べながらも、仕事されるんですか?」彼女が目を丸くした。
 「僕のスケジュールは秘書がコントロールしていて、昼もだいたい会議が入るよ」
 「会社が終わったらどうされているのですか?」
 「週の半分は接待だよ。その時はタクシーで帰るけれど、ほぼタブレットでメールを読んだり、売上の数字を見ているよ」
 「本当に忙しいんですね」
 「まあね・・・。起業してから、10年間、そんな生活だよ。1年間なんてあっという間でね。なんだか寒いなと思ったらいつの間にか冬になってる。ハンドルを握ってて左腕が熱くなってきたら、夏が来るんだな、と思うくらい」
 「お休みの日は、あるんですよね?」
 「会社は、土日休みだよ。けれど大体ゴルフか出張だね」
 電車は西谷駅を出て、鶴ヶ峰駅へ向かった。
 「ここから、東海道新幹線が見える時があるんですよ」
 海老名方面を左側に見ると、東海道新幹線の高架が見えた。
 「東海道新幹線はよく乗るけれど、相鉄線が見えるとは知らなかったなぁ・・・」
 「新幹線の中でも、仕事ですよね?」
 「うん。それか寝ているかだよ。横浜に住んでいて知らなかったなぁ・・・。相鉄線って、こんなに自然や風景を楽しめるとは思わなかった・・・」
 「あの、企業の社長に学生がこんなこと言うのは、偉そうで変かもしれないですが・・・」
 「僕は、面接官じゃないよ。なんでも言って」
 「それなら、言わせていただきますね。今日は、神様がくれた、お休みの日かもしれませんね。毎日、高速道路で前だけ見て走っているから、ゆっくりあたりを眺めたら?って」と彼女はにっこり笑った。
 「そうだね。車で移動できなくて、イライラしていたんだけど、考えてみると、そうかもしれない」
 「もう一つ、言わせてください。忙しい、って漢字・・・」
 「ん、なに?」
 「こころを、なくす、ですよ」
 「ああ・・・。僕は、そのとおりかも・・・」しみじみとした声で直矢は言った。
 <二俣川、二俣川。いずみ野線の方はお乗り換えです>のアナウンス。
 「今日は、天気が気持ちいいから、教習所まで歩いてみてくださいね。アタマ、じゃなくて、ココロで風景を感じてください」
 「そうするよ。ありがとう。じゃあ」
 直矢は、彼女に手を振り、ベビーキャリアをつけた女性と男性の後ろについて、階段を上り、二俣川駅の改札を出た。
 〈どこかで会ったような子だったなあ〉
 直矢はつぶやきながら、相鉄LIFEを過ぎ、色彩通りを歩いた。
 〈ああ、免許をとったときは、ここを歩いて試験を受けたなあ・・・〉
 商店街を抜けて坂道を上ったら少し息が切れてしまった。
 
 2時間後。
 直矢は、免許センターを出て、二俣川駅へ向かった。下り坂の右側に、公園があった。
(ここで、ジュース一本で免許をとれた合格祝いをしたなあ・・・。全く変わっていない・・・)
 直矢は、あの日のようにブランコに座った。そしてミネラルウォーターを飲んだ。いつもオフィスの冷蔵庫に並んでいる水なのに、夜景を見ながら傾けるシャンパンくらい、それ以上に、とてつもなくおいしかった。
(どうってことないことなのに・・・。こんな清々しさ、忘れていたな・・・)彼は、少しだけれど、確実に自分が変わったのを感じていた。
 直矢は、ふと思い立ち、通りがかりの不動産屋に入った
 「二俣川駅近くで、広い部屋がある物件を見せてくれませんか?」
 「ありがとうございます。こちらなど、いかがでしょうか?」
 不動産屋のスタッフが、数件の間取りコピーを見せた。
 「これ、いいですね。ところで法人契約はできますか?」
 「はい、大丈夫ですよ」
 「少し待っててください。担当者と連絡をとってみるので」
 直矢は、スマホを出し、メールを打った。
 『橋田君、お疲れ様。
今日は会議に出席できなくて、申し訳なかった。
来年度のマネージャー会議、突然ですが二俣川駅の近くを考えています。営業本部長の考え、聞かせてくれませんか?
二俣川は、横浜駅から15分くらいです。
羽田空港へのバスも出ているし、新横浜駅から横浜駅まではJR、地下鉄で行けます。
よって全国からマネージャーたちが集まるのにも、そんなに不便はない、と思われる』
 3分後、橋田より返信があった。
 『社長、お疲れ様です。
第四半期の目標達成のことでマネージャーたちに喝を入れたところです。
二俣川駅、いいと思います。さっとお調べしまして、コンビニ数件、居酒屋もあり、便利ですね。
ゴミゴミした東京からはなれてみるのも、新しい風となり、マンネリから脱出し、刺激になりそうです』
 『コメントありがとう。
総務本部長には、帰社したら話します。いまのこと、伝えておいてくれますか?』
と直矢は、橋田に返信した。しばらくして橋田から返信があった。
『総務本部長に、伝えました。明後日以降なら、いつでも物件を見に行きます、とのことです』
 直矢は、橋田に返信した。
『ありがとう。じゃ、来年度は二俣川で開催決定ですね』
 直矢は、会社へのメールを終えると、妻に向けてメールを打ちはじめた
 『里絵、直紀は勉強をしていますか?
次の日曜日には、ママと3人で、相鉄線に乗って、ズーラシアに行こうと、伝えておいてください。
二俣川にいます。里絵がお祝いしてくれた公園、まだあったよ。
君たちには、何不自由ない生活をさせていると思っていたけれど・・・俺の、独りよがりだったのではないか、と気づきました。
 相鉄線の中で、里絵に似た子に会いました。
本が大好きで、太陽みたいに明るくきらきらしていたよ。
ここまで会社を大きくできたのは里絵が愚痴一つ言わず、見守ってくれていたからですね。
 いつも、ありがとう。
ズーラシアの帰りには、あの頃のように、本屋に寄ろう』
 直矢は、快速横浜駅行きに乗った。スマホを開いたら、里絵から返信があった。
 『ありがとう、あなた。
ズーラシアの帰りは、三ツ境駅行きのバスに乗りましょう。
直樹が、お父さんと三ツ境駅のさくら湯にも行きたい、と言っています。
 今日も、がんばってくださいね。
 ~里絵&直紀~』

著者

紅 綾香