「神様の思い出」まる

イヤホンが壊れた。
ブツ。と音がして、それを境にリードギターが遠くなる。
接続部分を回したり差し込み直したりしても、ダメだった。溜息をついて耳から引っこ抜く。寿命かな。買ってからどれくらい経ったっけ。思い返しながらイヤホンをくるくるとまとめて、カバンのポケットに突っ込んだ。

もうすぐ9月も後半に差し掛かるというのに、イヤホンを外した瞬間から、退屈な電車待ちのBGMは邦ロックから蝉の大合唱へ変わる。夏の音。もはやちょっとした森みたいな保土ヶ谷公園があるおかげか、多種多様な種類が必死に風物詩としての仕事を全うしている。なんだか久しぶりに聞いた気がして、高架化工事中で乱立する鉄柱の隙間から、随分狭くなってしまった空にそびえ立つ入道雲を眺めた。

星川駅にWi-Fiは無いし、充電が危ないからスマホも弄れない。手持ち無沙汰の間だけ、夏を満喫することにした。ふー……と細く長く吐き出した溜息が、蒸し暑い空気に溶けて消えていく。

「こんにちは」

蝉の間の一瞬を縫うように、声が聞こえた。
驚いて顔を向ける。真っ黒でストレートな髪。見かけない紺色の制服。スラリとした綺麗な女子高生がにっこりと微笑んでいた。
え。なんだろう。
日に灼けないギリギリ。同じ学生達の喧騒を避けるようにホームの端っこに突っ立ってる私に、何の用があって声を。フル回転する頭で、とりあえず「こんにちは」と挨拶を返した。
「お。よかった。見えてる?」
「はい?」
どうしよう。さっきから何も理解できない。私は間違いなく怪訝そうな表情をしているはずなのに、にこにこにこ。その子は楽しそうな表情を崩さない。
「いやね、人前に出るの初めてだから」
「……?」
「初めまして。カミサマです」
「はい?」

それが、私と彼女の出逢いだった。

やばい人に捕まってしまったかもしれない。第一印象はこれ。これ以外に無い。友達はいるけど、普段からそんなに積極的に人と話すタイプではない私は、この時点でどうやってこの状況から逃れられるかしか考えていなかった。

「あ、信じてないでしょ」
彼女はあからさまに不満そうな顔をした。
そりゃいきなり現れた人に「神様です」なんて名乗られて、はいそうですかと信じる人はいないと思う。
「ホントだよ」
未だに何も言えずに彼女を見つめ返すしかない私の耳に、快速電車到着のアナウンスが聞こえてきた。助かった、とか一瞬、思った隙に。
「ほら」
そう言って、彼女が何でもないように私の肩に手を伸ばす。思わず身構えた私なんてお構い無しに、その手はそのまま、何の抵抗もなく、私の身体を擦り抜けていった。
「……え?」
「信じてくれた?」
ワクワクした顔で、するすると肩から腕を抜いていく。何の感覚も無かった。

驚いて声も出せないでいる私の代わりのように、大きな音を響かせて電車がやって来た。ホームを吹き抜けていく風に、彼女の髪は少しも靡かない。
ドアが開く。『神様』は、固まってしまった私を見て笑った。
「乗らないの?」
「……乗ります」
混乱する頭でかろうじて答えた。「またね」と嬉しそうに笑う彼女から、ほんの一瞬目線を外して電車に乗り込む。振り向いた時にはもう誰もいないホームに呆然として、ドアが閉まったあともしばらく窓の外を見つめていた。

「や!こんにちは」
「……こんにちは」
「またね」を彼女はしっかり守った。
次の日の帰り道。「いつも通り」ホームの端に立っている私に、またどこからとも無く現れて笑顔で挨拶をしてきた。
「神様だよ」
「……昨日聞きました」
「そうだったね」
昨日と変わらず蝉たちは元気に鳴いているのに、彼女の声はよく聞こえた。
「あ、そういえば」
「はい」
「お名前は?」
「……水野榛(みずのはる)香(か)、です」
神様なのに名前は分からないんだ、なんて、妙なことを考えたりしながらも、神様なら別にいいかな、と、あっさり名乗ってしまった。
「榛香さん!いい名前だねえ。呼び捨てでもいい?」
「は、はい……。神様の、お名前は?」
「私?私は、まあ~『神様』でいいよ」

随分とフレンドリーな神様に困惑する。というか「神様」って呼ばれることに対して「でいいよ」っていうのはどうなんだろう。若干の不公平を感じる。名乗らなきゃよかったかな。
18年間生きてきて、オバケどころか神様なんて見たこと無い。昨日も家に帰って真剣に考えたけど、もしかして急に霊感でもついてしまったのだろうか。どちらにせよ誰かに「神様に話しかけられた」なんて突拍子もないこと相談できるわけがなかった。

「昨日はごめんね、突然話しかけちゃって。自己紹介しなきゃ」
へらへらと笑いながら、神様は自分のことを話してくれた。

彼女は、星川駅の神様、だった。
自分でも思い出せないほど昔から、この星川駅を利用し、また利用しなくなっていった人たちを見守って来たけど、
何年か前に決まった星川駅の高架化工事。
駅も壊されて全く新しいものに変わり、この古い星川駅の神様は、駅と一緒に消えてしまうらしい。

「……それは、なんと言うか……」
ご愁傷様です……?は違う気がする。急にオバケが見えるようになって話しかけられたかと思って怖がってたけど、なんか、可哀想になってきてしまった。

「ふふふ。まあそういうものだからね。仕方ないのですよ」
「……消えちゃったら、それから、どうなるんですか?」
「分かんないなあー。また何かに生まれ変わるかもしれないし、そのまま消えちゃうかも」
「そういうものですか……」
「まあ、新しい駅の神様になれる可能性も、無くは無いんだけど」
「そうなんですか?」
「う~ん。でもすっごくえっっっらい神様の推薦とかもらわないといけなくて」
「推薦式なんですか」
「そーなの。新しい神様が生まれるのも地域の歴史が続いていく上で大切だからね。もーそのおじいちゃんめっちゃ頭固いから、ほぼ無理」
「おじいちゃんて……」
超偉い神様をおじいちゃん呼ばわりしていいのだろうか……。

「でもまあ折角だし、消えちゃうなら、その前に誰かに会ってみようかなって思って」
「……それで、私に」
「最近の子にしては珍しく、なんか機械も弄ってなかったし耳栓もしてなかったからね」
スマホとイヤホンのことだろう。あのときは本当にたまたま、触ってなかっただけなのだけれど。
神様の意思ということで、どうやら私以外には見えないらしい。

「榛香は、今高校何年生?」
「3年です」
「あそこの、丘の上の高校?」
「はい」
「卒業までに、工事、終わるかな」
「……終わらないと、思います」
「だよねえ」

はっはっは。神様は困ったように笑った。
星川駅は今、絶賛工事の真っ最中。何年も前から真っ最中。それでも、まだ上りも下りも高架化はしていない。
私が卒業するまでには、やっぱり絶対に終わらないだろう。

「榛香が卒業するまで、ほんのちょっとの間だからさ、オバケの思い出作りに付き合ってくれる?」
「……いいですよ」
「ありがとう」

にこにこ。どんな話をしていても楽しそうにしている。電車が到着するアナウンスがかかった。悪い人ではなさそうだし、何より、3年間お世話になった星川駅の、その神様のお役に立てるなら。
電車に乗りこんだ私を、神様は手を振って見送ってくれた。

それから1週間に2,3回。神様は突然現れて、他愛もない、本当になんでもない話をするようになった。
無意識に受験に追い詰められていた私にとって、そのほんの数分間は、なんだかとても穏やかな時間で。
フレンドリーな神様は好奇心旺盛で、学校やら受験やら普通の話から、スマホのゲームやカメラで遊んで驚かれたりもした。
写真をどれだけ撮っても、神様は写らなかったけれど。

蝉の声が聞こえなくなって、どこからかふわりと金木犀が香る季節になった頃。
いよいよ受験も迫って来て、単語帳を開く度に長めのカーディガンの裾が気になってしまう私のことなんてお構いなしに、今日もまた、神様は当然現れるからビックリする。「やあ!」もう挨拶もおざなりだ。

「榛香はそういえばさ」
「はい」
「最寄り駅はどこなの?」
「三ツ境です」
「ほお。三ツ境か」
星川からだと海老名方面。快速か各駅。湘南台方面だったら、二俣川で乗り換え。
「三ツ境駅って、何がある?」
「何……って」

急になんだろう。
東京の人相手だったら「何もないよ」なんて返してしまっていたかもしれないけど、なにせ同じ沿線の星川駅の神様相手に「何もない」って答えるのも何か悪い気がする。
「……本屋とCDショップがあって、よく行きます」
「へえー」
「えー……あと、最近駅が整備されて綺麗になって……」
「好きなところは?」
「好きなところ?」
「そう。三ツ境の好きなところ。地元でしょ?」

好きなところ……。
『地元』に対して好きとか嫌いとか考えたことがなかった。
買いたい物があれば横浜どころか東京にだって行くし、友達とオシャレなカフェや最新の施設とか、普通に「遊びに行く」18歳の女子高生にとって、小学校の宿題みたいなその質問は、背筋がむずがゆくなるような難しさがあった。

「好きなところ……」
「もうずーっと住んでるんでしょ?」
「ま、まあそうですけど……」
「無いのー?」
うーーん……。好きなところ、好きなところ……。
黙り込んでしばらく悩んでいると、また神様が口を開いた。
「榛香、あのさ」
「はい」
「あの中で、桜の木ってどれか分かる?」
「は?」
今度は何を言い出すんだろう。
ホームから見える風景を切り抜く鉄柱の間から、道路に生えている木々を指して笑ってる。確かにあの辺りは桜の木が植わっていて、春になると電車の窓から見える景色を彩ってくれていた。
しかし今の季節、風に揺れる木々はどれも同じ緑色で、正直どれが桜だったかは正確には分からなかった。全部……ではなかったような気がするし……。
「あそこからあの辺くらいまで……?」
「曖昧だなあ」
「そんなこと言われても」
急にクイズ出されて困惑しているのは私の方だ。神様はほんの少しだけ、眉を下げた。

「忘れちゃうんだよ。毎年見てても、毎日見てても、意外と。目に入ってても、見てはないんだよね」
「……確かに」
「ほら、たとえば家の近所でもさ、お店が無くなって、新しくコンビニとか家が出来たりするでしょ?」
「はい」
「みんなすーぐ忘れちゃうよ。前そこに何があったか」
「……確かに」
「忘れられちゃうとねえ、神様って消えちゃうのよ」
「え……」
もうすぐ居場所が消えてしまう神様は微笑んでいる。
「忘れられちゃって消えてっちゃった神様を結構見てるからさ、なーんか寂しくてね」
「……」
「もちろん全部覚えてて!ってわけじゃないよ。忘れないと、新しいこと覚えられないし。まあでも、だから私も忘れられにくいように、榛香の前に現れてみたんだけどね!」
「な、なるほど……」
そんな元気よく言われても。少なくとも駅ならちょっとやそっとじゃ忘れられたりしないのでは。
それもやっぱり神様にとっては、そんな時間もあっという間に過ぎてしまうのだろうか。

「忘れられないための一番の方法って知ってる?」
「……なんですか?」
「『好き』って気持ち。好きな物は忘れにくいでしょ?人でも物でも」
『好き』という気持ち……。
好きだった場所、好きだった店、好きだった本。当たり前のように頭に浮かぶ。
「榛香もさ、高校卒業したらこの星川駅にも降りなくなるし、将来、帰る場所は三ツ境駅じゃなくなるかもしれない、でしょ?」
「……はい」
「そりゃあまあ、前住んでたところを簡単には忘れたりはしないだろうけど。『好き』って気持ちは多い方がさ、嬉しいじゃん」
「……神様が?」
「榛香にとっても。なーんもないよりかは、好きなとこが1つでも多い方が良くない?」
「まあ、それは、確かに」
そう言われると、少し視点も変わるというか、もうちょっと真剣に考えてみることにする。三ツ境駅にも神様はいるのかな。どんな人なんだろう。

「あ」
「お、なんか浮かんだ?」
ふと思い出した。
こんな風に良く晴れた日は。いつも。
「……空」
「空?」
「駅から出たところに歩道橋があるんですけど、そこから見える空が広くて好きです。富士山も見えるし」

雲一つない朝とか、空を焦がすような夕方とか、一番星が光る夜とか。高いビルの多い都会のように、視界を遮るものがない。三ツ境駅から出てすぐの歩道橋から見る空は、いつもただ綺麗に目の前に大きく広がっていて。思わず写真を撮ったことも、1度や2度ではなかった。
それを誰かにわざわざ伝えたことはなかったけれど、きっと伝えなかったらこれが「好き」という気持ちだということすら気付かずにいたかもしれない。

電車到着のアナウンスがかかる。
「今度写真見せてね」
神様はいつもより少し嬉しそうに、手を振って見送ってくれた。

三ツ境駅に着いて、CDショップに寄った。
「いつもありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
レジで商品を袋に入れながら、もはやすっかり顔馴染みの店長といつもの挨拶。行きよりもCD2枚分、重くなったカバンを肩にかけて駅を出る。
真夏ほどではないにしろ、まだ陽は長い。遠くに見える山並みの向こうから濃いオレンジが溶け出して、私の真上で薄くなった水色と混ざりあっていた。
カシャッと1枚。撮ってみる。「好き」と表してから見る空は、なんだかこそばゆくて、でも前より少し綺麗に見えた。

◇◇

神様がそういう話をしたのは、後にも先にもあの時だけだった。でもその話を聞いてから、私は何となく工事中の建物とか、空き地とか、桜の木とか。諸々目に付くようになってしまっていて、それを伝えたところ、「それは嬉しい」ってまた笑われた。
あれから何回か、いい天気のとき駅から空の写真を撮って、その度に神様に見せた。神様は感心しながら、「さすが、相鉄で1番標高が高い駅なだけあるね!」と、ずーっと住んでる私でも知らなかったことを教えてくれた。
その後に、「もう星川のホームから空は見えないからなあ」と、少し寂しそうに笑って。

受験生の時間はぐんぐんと、意地悪なほど早く流れていく。クリスマスが過ぎて、年が明けた。白い雪がふわふわと舞う。いつかの大人が作ったただのテスト。それなのに、まるで自然の決まり事のようにセンター試験の日は毎年雪が降る。
冗談でも滑るのは嫌で、妙な筋肉を使いながら会場への道を歩いていた。センター試験前、最後の平日。「神様だけど何もできないから、とりあえず祈っとく!」と神様の神頼みを目の当たりにしてかなり不安になったけど、いつもより長く、大きく手を振って見送ってくれた姿を思い出すと、マフラーの中で自然と笑えてきた。

センター試験が終われば、自由登校になる。受験が終われば、残すはもう卒業式しかない。神様がずっと見守ってきたように、もうすぐ、私も星川駅に降りなくなった人々のひとりになる。
神様が消えちゃうまで。あの駅が完成するまで。あとどれくらいだろう。

「思い出作りに付き合ってよ」なんて、今思い返せば随分勝手だと思う。神様は思い出が作れてハッピーかもしれないけど、それじゃあ、私は。

会場の教室に着いた。空気が冬の空気よりも張り詰めている。
予備校の先生は、最後に見返すための資料だとか色々くれたけど、私はぐるぐるとそんなことを考えていて、なんとなく上の空だった。良く言えば落ち着いていたし、悪く言えばボーッとしていた。

もしかしたら、あの神様が『慌てませんように』とか、祈ってくれていたのかもしれない。

◇◇

試験が終わった。思ったより出来た科目もあれば、出来なかった科目もあった。
横浜駅から乗り込んだ相鉄線。各駅電車はゆっくりゆっくり、ガタンゴトンと揺れながら眠気を誘う。急行に乗らないのなんてどれくらいぶりだろう。

ドアが開く。なんとか睡魔に勝って、駅に降り立った。足はそこから動かない。耳元で音をたてて吹き抜けていった夜風が、ホームを歩く人たちの肩を縮こまらせた。
先頭車両。ホームの端。何だかんだ不安でたくさん詰め込んでしまったカバンが重い。

「……神様」
口の中で呟いた。私から彼女を呼ぶのは、初めてだった。
各駅停車の扉が閉まる。急行や快速よりもゆっくりと動き出した電車は、音をたてて星川駅を去っていった。

ひゅ、とまた冬の風が電車を追いかけていく。一瞬の瞬きを挟んで、やっぱり少しも靡かない髪が目に映った。

「お呼びですか?」
「初めて呼びました」
「うっふふふ。知ってる」
「ニヤけないでください」

むふふ、と嬉しそうにしてる。まったくこの神様は、会った時からずーっとにこにこにやにやしてる。

「テスト、どうだった?」
「……やりきりました」
「やったじゃん」
まるで受かったみたいに、音の出ない拍手をしてくれた。
「神様」
「ん?」
「私の第一志望の大学、北海道なんです」
「それはまた遠いね」
「正直、結構難しくて」
「うん」
「でも、諦めたくない、から」
「うん」
「だから、神様も、頑張ってください」

驚いた顔の神様と目が合った。自分の方に話題が向くと思っていなかったのだろう。初めてスマホを見せたときと同じ顔をしてる。

「頑張って、おじいちゃんの神様説得してください」
「え、な、どした。急に」
「だって、そんなの、ずるいじゃないですか」
「ずるい?」
「一方的に思い出作れたから、それじゃあバイバイとか」
「え」
「そんなの……そんなの、寂しいです」

神様の思い出になるってことは、私の思い出にもなるのに。

眺めが良かった空き地に、新しい家が出来た。
駅前のコンビニが無くなって、駐車場になった。
よく遊んでいた公園の、桜の木が減った。
CDショップの店長は、来年から別の店舗に行くらしい。寂しいですね、と眉を下げていた。

あれ以来、なんとなく意識してきた、地元の好きなところ。
それは単なる「場所」じゃなかった。私が過ごしてきた時間の中にある、駅が、お店が、出会った人が。私の思い出で、故郷で。時間の流れの中で、それはいつでも姿を変えて、私の記憶の中の物になってしまう。「思い出の姿」のままでいてはくれない。

だったらせめて、思い出を作った神様くらい、変わらずにいてくれてもいいと思う。

今まで誰の目にも映ったことのなかった、星川駅をずっと見守ってきた神様。最後の思い出にと私の前に現れたらしいけど、そのせいでまさか引き止められることになるとは思っていなかったらしい。
目を丸くしてる神様に、お構い無しに続けた。

「その偉い神様がダメなら、私が推薦しますから」
「……」
「駅の姿は変わるけど。『神様』は変わらずにいてください」

だって、神様が言うから、見つけてしまった。
私が高校に入学して、星川駅に降りるようになって。周りにはコンビニくらいしかない、ずっと工事中で空も狭い。何事もなく過ごしていたら3年間、きっとこの駅はただの通学路になるはずだった。

「せっかく、仲良くなれたのに」
神様だからとかじゃなく、ただ単純に、楽しかった大切な思い出を作ってくれた相手がいなくなってしまうのは、嫌だった。

「……榛香」
「だから、神様も、頑張ってください」
「……ありがとう」
仕方ないなあ~頑張るかあ、と今までで1番嬉しそうに笑うこの神様が、消えちゃいませんように。どこの神様でも構わない。今度は私が祈る番だ。

その日が、私が神様を見た最後だった。

ガッタン。後ろのタイヤが少し浮いた。危うくバランスを崩しそうになるキャリーを慌てて支える。お土産の紙袋がいよいよちぎれそう。やっぱ宅配便にしちゃえば良かったかな。春休みぶりに会う家族は、帰る度にあれがほしいこれもほしいと遠慮がない。

横浜駅を出発した急行電車が、星川駅を通り過ぎた。ぴかぴかのホームに太陽の光がたっぷり注いで、後輩達が楽しそうにしているのが見える。

何年もかかった星川駅の高架化工事は今年の8月、上りのホームが高架化してやっと完成した。下りホームは一足早く、去年の3月に完成。卒業式を終えた私は、随分広くなった空に目を細めながら、心地よい日差しを浴びて、もはや無意識にホームの端に立っていた。
桜が待ちきれないといった風に蕾を膨らませている。いつかの桜のクイズ、意外と当たっていたんじゃないだろうか。

合格しました。
この制服を着るのも、登下校で星川駅に降りるのも、今日が最後です。
ありがとうございました。

口の中だけで神様を呼んだ。あれ以降姿が見えなくなった神様。頭の固いおじいちゃん神様を説得するため奔走していたのかもしれないし、もしかしたらもう神様じゃなくなっているのかもしれない。
買い換えたイヤホンも付けず、スマホもポケットに入れたまま。雲ひとつない空を見上げていた、その時。
風に乗って、まだ咲いてないはずの桜の花びらがひとつ、青を背景にしてひらひらと目の前に降ってきた。びっくりして目で追った瞬間、もう見失ってしまって、地面を見てもどこにも落ちてなかった。

合格祝いなのか、お別れの挨拶なのか、わからなかったけれど、やっぱりあれは神様の仕業だったんじゃないかと今でも思っている。

「おかえり、早かったね」
「ただいま」
この挨拶の有り難みみたいなものも、遠くに行って初めてわかったような気がする。荷物を片付けていると、バタバタと弟が2階から降りてきた。
「お、姉ちゃん。おかえり」
「ただいま」
「うわ、すげえ荷物」
「みんながあれもこれも言うからでしょ」
遠慮なくお土産を物色する3歳下の弟、悠斗(はると)は、私と入れ替わるように同じ高校に入学した。現在高校2年生。弟の「思い出」の中の星川駅は、ほとんどがあの綺麗になった姿なんだろうな。発見した目当てのチョコレートを口に放り込んで「うまい」と呟く。少し見ない間にまた背が伸びたかな。とか観察していると、急に「あ」と声を出した。

「なに?」
「そういえば姉ちゃんさ、星川に知り合いいた?」
「知り合い?」
私のそんなに多くない高校時代の友人に、星川在住の人はいない。
「いや、こないだ話しかけられたの。女子高生に。星川で」
「なんて?」
「『水野榛香さんの弟さんですか?』って」
「え、こわ」
「ね。俺もビビった。そしたら高校見学に行ったときに姉ちゃんと喋ってるの見かけたって言ってて」
「ああ、確かに喋ったね」
弟だよ、って誰かに言った気もする。それにしても、誰だろう。
「そー。そんで姉ちゃんに伝言頼まれた」
「伝言?」
「うん。『合格しました』ってさ」

ぴか、と明りが灯ったみたいだった。心臓が少しずつどきどきしてくる。
いつも急に現れて、驚く私を見て笑っていた姿を思い出した。もしかして。

「……どんな人だった?」
「見かけない制服着てた。美人だったよ。気づいたらいなくなってて、名前聞きそびれた。姉ちゃん誰かわかった?友達?」

やったぞー!とはしゃいでいる姿が想像できた。半年にも満たなかったあの期間。いつも笑っていた神様。

「……うん。友達。かな」

良かった。頑張ったじゃん。神様。
顔が綻んだ。無邪気な笑顔を見て、私も笑っていた。最初で最後の、神様の友達。きっとあのピカピカになった駅でまた、たくさんの人々を見守っていくんだろう。

「あ、でもなんで制服だったんだろ。留年してたの?」ぽつりとこぼれた弟の質問に、思わず声を出して笑ってしまった。

著者

まる