「私の知らない横浜を歩く」松崎藍

 異動が決まった。
 あれだけ希望を出しても通らなかった横浜の部署への異動願いが、彼と別れた途端に叶ってしまった。
 横浜は一人暮らしをするにも、実家から通うにも中途半端な距離にある。一人暮らししようにもそこまで遠くないので家賃がもったいない。実家から通えなくはないが近くもない。
 横浜…と想像してみる。彼とのデートはいつもみなとみらいや桜木町。遠出して鎌倉や湘南。住む、という場所が想像つかない。彼の家の近くのスーパーで、ふたりで食材を買ってごはんを作る、みたいな家庭的なデートはした事が無かったな、と気づきまた落ち込む。横浜に引っ越してくればいいのに、という彼の言葉に大きな意味は無かったようだ。

 「しばらく通いながら考えたらどうですか。」
 事前に挨拶に行きたいと電話で告げると、女性の方が対応してくれた。
 「一人暮らしのメンバーも多いので、いろいろ案内出来るかもしれないし、おすすめの物件も紹介できると思うので。ぜひ、ゆっくり考えてみてください。」
 しばらくは実家から通いながら考えることにした。

 タカシマヤで買ったお菓子(横浜にはこんなにも銘菓がたくさんあるのか、と驚く)を持って挨拶に行くと、電話で対応してくれた、優しそうな宇崎さんがその日出勤していた方を集めてくれた。
 宇崎さんに聞くと、どうやら産休予定だった方が体調不良で早めに休職に入ったため、急な欠員、ということでずっと異動の希望を出していた私がその枠に入れたようだ。
 「それにしても、こんな夏の暑い時に異動だなんて、ほんと申し訳ないわね。」
 事務手続きをテキパキこなしながら、宇崎さんがそう言ってくれた。なんて返答したらいいかわからず、困った。

 東京の職場と同じで、横浜もほとんどが男性社員だった(それもおじさんばかり)。女性社員は(おそらく中堅の)宇崎さん、ベテランぽい雰囲気の寺田さん、私より二年程後に入社したかわいらしい堤さん、そして私を含めて四人。
 一応、異動先での先輩なので、堤さんに敬語を使って話したら、敬語なんてやめてください、と可愛く怒られた。仕方なく堤ちゃんと呼ぶことにした。

 異動して一週間が経った頃、私の歓迎会を開いてくれた。
 横浜駅周辺には飲み屋さんがたくさんあって、よく見てみると立ち飲み屋さんや安い居酒屋さんも沢山あった。ちょっと小汚い、でもなんだか魅力的だ。知らなかった。こんな横浜は知らなかった。
 今回異動したのは私一人だけだったので、全員お酒を飲みながら席を変え、私に話しかけてくれた。私を歓迎しようとしてくれている、その気持ちが伝わってきて、とても、とても嬉しかった。

 「そういうことなら、尚更異動してよかったじゃない。」
 長くお付き合いをしていた彼と別れたこと。別れた直後に異動が決まったこと。まだ一週間だけど、良い職場で異動して良かった、と思えたこと。お酒が入ったせいもあり、口から心の奥にある感情がポロポロと零れ落ち、自然と彼とのことを話すことが出来た。
 「嫌な思い出を良い思い出で上書きするのよ。女は上書き保存、っていうでしょ。」
 寺田さんはビールをぐいっと飲み干し、そう言ってくれた。
 女は上書き保存説、というものがあるが、恋人と別れた時の例えで、男性は新しいフォルダを作り(つまり前の恋人のフォルダも残す)、女性は上書き保存して、古いデータ(前の恋人のデータ)を消す、というものだそうだ。
 「どうせこっちでデートなんて有名どころだけ。横浜にはもっといいところがたくさんあるのよ。そういうところをちゃんと自分の目で見て、歩いて、良い思い出に塗り替えるのよ。」
 寺田さんは四十代くらいだろうか。手に指輪がないところを見ると、結婚はしていないようだ。寺田さんにもこういう思い出があったのだろうか。私もビールをぐいっと飲み干した。

 「え、まだ家決めてないんですか。」
 堤ちゃんが驚く。彼女のお弁当箱は赤くて小さくて中身はカラフルだった。
 「堤ちゃんって、どこに住んでるの?」
 スマフォで相鉄線の路線図をぱっと出して、ここです、と小さな爪をつけた指で差した。
 「鶴ヶ峰かぁ、どんなところ?」
 堤ちゃんがにやりと笑った。
 「曽根さん!今度お休みの日、ご案内します!一緒に鶴ヶ峰散策しましょう!」
 スニーカーで来てくださいね、と付け足された。一体どこまで散策に連れて行かれるのか。
 でも、嬉しかった。今まで会社の人と深く関わったことが無かった気がする。どうせ結婚して子供ができたらやめてしまうかもしれない、そんな思いだった。つまりは人生において彼とのことが中心であり、彼のことしか見ていなかったのだ。

 堤ちゃんと約束した日は生憎の雨だった。鶴ヶ峰駅まで着くまでの数駅、電車の窓から外を眺めていた。不思議だ。横浜駅から少し離れただけなのに、生活感を感じる。住宅地、や緑も意外にある。
 堤ちゃんとは鶴ヶ峰駅から少し歩いたところにあるバスターミナルからバスに乗ってズーラシアに行くことになった。堤ちゃんが鶴ヶ峰に来るなら是非一度行ってほしい場所、とのことだったが、堤ちゃんも小さい頃以来だそうだ。私も前に動物園に来たのはいつの話だろうか。彼とは動物園も水族館も行かなかった。

 ズーラシアは広かった。入り口を見ればわかる。マップをもらった。やはり広い。雨なのもあり、園内バスを使うことにした。
 「学校の先生?遠足の下見?」
運転手さんが不思議そうに見た。確かに、雨の日、女二人、動物園。少し変わっているかもしれない。
 最初に降りたのは北門近くのアフリカのサバンナ、というエリアだった。誰もいない。
 雨の中、動いていたのはシマウマと初めて見たエランド、という牛のような動物だけだった。健康に配慮して屋内展示に切り替えられている動物もいたし、住処に隠れて出てこない動物もいた。キリンやサイ、ライオンなどは屋内展示だったので、私達も雨に濡れずに見ることが出来たが、彼らは雨のせいで、なんだかやる気が無さそうだった。時々、目があったような気がした。

 堤ちゃんは雨女で本当にすみません、と何度も謝ってきたが、人のいない動物園は快適だったし、雨の動物園というのもズーラシアであるならばリアルでとても良かった。
 シマウマがはねる泥水、動物がいる土の匂い、雨の重さで落ちて来る木の実、自然を身体中で感じた。

 その後は雨足が強くなってきたので、再度園内バスに乗り、正門のひとつ手前で降りた。 
 堤ちゃんがレッサーパンダを見たいと言い出したからだ。
 レッサーパンダはふかふかだ。家族で暮らしているようだが、雨の中、ガラスの内側から見えたのは二匹(二頭?)だけ。ふたりともこっちにおしりを向けていて、ふわふわのしっぽがとても可愛らしかった。彼等は夏も冬も気温の低い地域の出身のため毛がぬくぬくなんだそうだ。
 「堤ちゃん、結婚はまだ?」
 他に聞き方がわからなくて、私も、そして堤ちゃんも何度も聞かれたかもしれない質問をしてしまった。
 うーん、と堤ちゃんは唸った。
 「好きだから結婚したいのか、結婚したいから好きなのか、わからなくなっちゃったんですよね。そんな年頃ですかね。難しい問題ですよ。まぁ、でも結婚するならこんな感じのふかふかで可愛い穏やかな人がいいですかね。」
 多分夫婦であろうレッサーパンダを見ながら私たちは笑った。そう。わたしも。ふかふかな、穏やかな、そして温かい人がいいと思った。

 園を出て、バスに乗り、最後は鶴ヶ峰駅近くの喫茶店でホットケーキを食べ、堤ちゃんも私も家に帰った。
 今度は秋のコスモスを見に里山ガーデンに行く約束をした。もちろん次回は…雨ではない日に。

 その日は、ちょっとしたミスで休日出勤をする羽目となった。そのことを寺田さんに話すと、
 「休日出勤のためだけに遠い実家からわざわざ横浜に来るなんてもったいないでしょ。ちょっと案内するから、その日スニーカー持ってきなさい!あと、歩きやすい服装で来ること!」
 スニーカー、と聞いてもしやと思ったが、寺田さんが住んでいるのは星川駅だった。業務をこなした後、寺田さんと星川駅で待ち合わせをする約束をした。

 休日の横浜駅は家族連れやカップルですごい混雑だが(平日も時間によっては通勤でかなり混む)、星川駅はどこかのんびり落ち着いていた。
 改札のところで待っていてくれた休日の寺田さんは、ノーメイクにジーパン、パーカーとラフな格好で、普段のきれいなイメージとは違い、良い意味で幼い感じだった。
 「もうね、休みの日までフルメイクしたくないのよ。見苦しくてごめんね。」
 寺田さんはそう言うが、私はノーメイクの顔も素敵だと思うし、多少シミがあっても肌全体は白くてきれいだと思った。もっと仲良くなったらどこの化粧品を使っているか教えてもらおう。
 「さぁ、坂道登るよ!」
 星川駅から交番がある方に降りて、寺田さんについて行くと坂が見えた。
 「結構…急ですね。」
 十分くらいかかるかな、と寺田さんは坂道を歩き出した。十分!耐えられるかわからないレベルの角度だ。二人で息を切らしながら坂道をずんずん登って行く。
 坂の上には鳥居があった。木々も茂っている。鳥居の前で寺田さんが頭を下げた。私も真似をして頭を下げた。

 境内は静かで、人は少なかった。七五三ののぼりが出ている。そうか、もうすぐ七五三か。参拝し、訪れた社務所には千歳飴が並んでいた。杉の木でできた、干支のお守りが可愛かった。
 寺田さんが御朱印を書いてもらうと言った。最近集め始めたようだ。私も御朱印をいただくことにした。書いてくれた神社の方は、大変な坂道だったでしょう。ありがとうございます。と丁寧に対応してくれた。
 不思議だ。神社の中にいるだけで、風が体の中を通り抜けて清々しい気持ちになる。

 「ほら、曽根さんってさ、微妙な年頃じゃない。入社して何年か経ってさ、先輩も後輩もいるちょうど中間の立場、仕事は慣れてきてマンネリ化してくる部分もあるけど、慣れてきたことで新しく増えてくる仕事もある。結婚もしたい、家庭も作りたい、でもこわい気持ちもある。失敗したらどうしよう、本当に大丈夫なのか。」
 まさに図星、寺田さんの言葉は私の心の中を見透かしたようで、ズシンときた。寺田さんにもこういう時期があったのだろうか。
 「だから、自分にとってリフレッシュできる場所、モヤモヤをリセットできる場所があるといいね。ここらへんは自然も多いから、引っ越してくるならおすすめ。」
 ありがとうございます、とお礼を言って、今度は沿線にある他の神社にも行こう、と約束した。

 宇崎さんはお子さんが二人いるらしい。お母さんだからなのか、優しそうでもあり、芯は強そうに見える。母とはこういうものなのか、それとも母になればこうなれるのか。

 最近忙しく残業が続いた。慣れないのもあったが、だんだん繁忙期に入ってきたように思う。今日は珍しく定時に終わり、机に手をついたタイミングが宇崎さんとかぶった。
宇崎さんは必ず定時に帰る。けれども、それは子供がいるので早く帰ります、という理解はしているけれどすんなり受け止めきれない帰り方ではなく、定時までにキッチリ仕事を終わらせて帰るという誰が見ても気持ちがいい素晴らしい帰り方だった。

 「お疲れ様。私ね、天王町に住んでるの。商店街で夕飯の買い物して帰るんだけど、良かったら一緒に行かない?ほら、わたしまだ曽根さんに横浜案内してなかったし。」
 はい!ぜひ!と返事をした。どうやら、松原商店街というテレビでもよく取り上げられる有名な商店街があるらしく、また相鉄線の中でも天王町は三駅目で、この時間から立ち寄って実家まで帰っても遅くなることはなさそうだ。

 帷子川を越えた先にある、夕方の商店街は賑わっていた。
 私の地元にも、こんな光景はあっただろうか。あったのだろうけれども、記憶にはハッキリと残っていない。
 個人経営の八百屋さん、パン屋さん。お客さんを呼ぶ大きな声、夜ごはんの美味しくてせつない匂い。
 「はい、夜ご飯に焼き豚。あとこれは朝ごパン。」
 宇崎さんは自分の買い物を済ませ、私におすすめの焼き豚とパンを買ってくれた。
 「私は寺田さんや堤さんみたいに話を聞いたり出来なくてごめんなさいね。私から何かアドバイス出来ることがあるとしたらこれだけよ。」
 食べること。と宇崎さんは言った。
 「何か悩みがあっても、日々生活していくこと。時が過ぎて解決することもたくさんある。だから毎日ちゃんと食べて健康でいることよ。」
 家族を持つ、宇崎さんらしいアドバイスだと思った。
 商店街からの帰り道、駅の近くに橘樹神社を見つけた。今度寺田さんに来たことがあるか、聞いてみようと思った。

 異動して三ヶ月が経った。
 
 だんだん冬の気配が近づいてきたけれど、住む家はまだ決めていない。だから、これからも歩いて行こうと思う。私の知らない横浜を、どんどん、歩いて行こう。そして、私の、私の新しい思い出をつくっていくんだ。

著者

松崎藍