「秋の流れ」米蔵圭介

 まだ五時を過ぎたばかりだというのに、空は光と影をにわかに失いはじめている。雨もよいのせいもあろうが、今年は例年より早く秋が去ってしまうのかもしれない。
 改札を通過し階段を上げると、すでに電車が停車していた。車両に身を入れるも座席に空きは見当たらない。いくらか疲れていた私は、そのまま車内の前方へと歩を進める。立っている人はすくないが、座席はいずれも埋まっている。先頭車両が見えてき、やはりだめかと思われた矢先、運よく空席が見つかった。にんまりしながらどっかと腰をおろす。
 やがて電車はホームを離れる。相鉄線に乗るのは久しぶりだ。少年時代、私にとって電車と言えばこの電車のことであった。年に二、三回、横浜の中心部を訪れ、横浜スタジアムで野球を観たり、デパートのレストランで食事をしたりした。それは当時の私には大きなイベントであり、今もおぼろげながら記憶に残っている。幼少期の楽しい思い出というのは、やはり忘れがたいものなのだろう。
 出発してまもなくすると、車窓から小高い丘陵が見え、そこに灯りの点きはじめたマンションや民家が立ち並んでいる。電車は例によっていくつもの駅を通過していくが、それらの駅のホームにもかなりの人が見られ、またたく間に流れてゆく駅前にはまずまずの活気が感じられる。傘をひろげる人の姿が目にとまり、雨が降り出したことに気づく。
 ややあって二俣川への到着を知らせるアナウンスが流れる。向かいのホームには湘南台行きの電車が停まっている。濃紺色のみのシンプルな外装が、車両をスタイリッシュに見せている。私が小さい頃は、たしかいずみ野駅が終点だった。そんなことを覚えているのは、当時その近くに住んでいたからだ。ちょうどいずみ中央駅ができる直前に海老名に引っ越したゆえ、あの駅を利用できないことを残念に思ったものだった。道路の上を線路が通過し、高架駅の工事をしている様をバスから眺めていた当時の私は、いずみ中央駅がまるで未来を具現化する駅のように思えたのだった。それはきっと、両親に連れられて行った横浜博覧会で見た、不思議な乗り物のイメージとどこか重なるところがあったからなのかもしれない。
 目前の席では四十がらみとおぼしき男女が、指をがっちりと絡ませながら互いの横顔をくっつけて眠りこけている。まだほんの夕方であり、酒が入っているようにも見えない。高校生のカップルならいざしらず、すこし無防備すぎはしないか。そんなことを思っているとだしぬけに女が眼を開け、それがぴたりと重なってしまう。私はきまり悪くなってさっと視線を足もとにそらす。
 電車は大和駅に到着する。ホームは地下駅になっているが、私の記憶にあるのは地上駅だった。延伸したり、改良したり、相鉄線の駅はこの二、三十年で見違えるほど変わった。こんな大規模な工事ができたのも、沿線に多くの人が住み、これからも増えていく、そんな希望的観測が成り立っていたからではないか。過疎の町ではとてもここまではできないだろう。街にとってはやはりそこに暮らす住民のひとりひとりが、それぞれに有形無形の価値を放つ存在にちがいない。そういえば、ヨシ子ちゃんという母の幼なじみも、たしか大和に住んでいるらしかった。

「こないだ半世紀ぶりにヨシ子ちゃんに会ったの」
 母が唐突にそう言ったのは、半月ほどまえ、都内にて家族四人で食事をしたおりだった。長崎で生まれ育った両親は、七十年代の半ばごろ、そろって上京してきた話をいつか聞いたことがある。そこには若さゆえの情熱と葛藤があったのだろうが、くわしいいきさつまでは知らない。とはいえ、その過程で生じたであろう困難をふたりではねのけてきたというたしかな手応えが、今なお仲よく暮らしつづけてゆける強靭な絆のよすがになっているのかもしれない。そして私が産まれて以降は、希望が丘、いずみ野、海老名と、相鉄線沿線の街から離れることなく今に至っていた。
「こんなメールがいきなり来たの」
 母は私に旧式の携帯電話の画面を見せた。それはかなりの時間と労力をかけて打ったであろうことが、容易に察せられる長文になっていた。先日、故郷の両親の墓参りに行った際、むかしの同級生と再会し、そこから母のメールアドレスを知ったとの旨が報告されていた。人間関係が濃密な田舎の学校であったせいか、そのあたりのネットワークはいまだに細々と機能しているのだろうか。彼女は中学を卒業後、親戚をたよって長崎から東京へ集団就職してきたのだという。当時すでに集団就職は下火になっていたものの、家庭の事情か、女一人ではるばる上京したらしかった。病で長男を亡くすなど、その後の人生にもさまざまな辛苦がつきまとったものの、長女と次男も独立し、今は主人と二人、大和で穏やかに暮らしているとのことだった。
 ここまでは中高年によくありそうな、ありふれた再会希望メールのように思われた。が、そのつづきはなんとも滋味に富んだものだった。
 彼女は中学の卒業式で、当時の母に一冊の詩集をプレゼントされたのだという。それはリルケの詩集で、ハードカバーにはブックカバーがつけられていた。母が手ずからこしらえたカバーには何種類もの花とともに、彼女の名前であるヨシ子と、母の名前である多佳子という文字の刺繍が施されていた。くわえて、カバーの真ん中にはおおきく、「友情」という文字も併せて刺繍されていた。
 彼女はその気持ちのこもった贈り物がうれしく、その後の人生でも手放すことなく大事にしてきたらしい。そのお礼が言いたいので、一度お会いできませんか、といった内容のことが、丁寧な文章で綴られていた。
 母はそんなプレゼントをしたことなど、とうに忘れていたようだった。とはいえ、幼なじみが電車で十分の場所に住んでいたことに驚き、また喜んだ。そしてもちろん会うことを快諾したのだった。

 相鉄線の改札を出たところで待ち合わせるも、半世紀ぶりの再会ゆえ娘時代のおぼろげな印象はほとんど役に立たない。ふたりそろってしばしおろおろしていたものの、すっと目が合って互いを認識する。と同時に、その顔を見て過ぎ去った時の流れの深さを思い知る。ヨシ子ちゃんが開口一番もらした言葉は、「多佳ちゃん! あんなにかわいい女の子だったのに、すっかりおばちゃんになっちゃったねえ」だったそうで、母は苦笑していた。
 ふたりは一昨年オープンした、海老名の新しいランドマークであるららぽーとに足を延ばした。そして施設内のフードコートに腰をおろす。ヨシ子ちゃんはボロボロになったブックカバーを見せながら言った。「ずっと宝物だったの」実物を見た母は、そこでやっと自分が過去に贈ったものであることを思い出したらしい。刺?された文字の純真さにいくらか気恥ずかしさを覚えたものの、それを手にしながら過ぎ去った遠い日の情景に思いを馳せたようだった。
 たったひとつの贈り物が、ひとりの人間に五十年ものあいだ、微弱ながらも影響を与えつづけていたということになる。たいそうノスタルジックな話ではないか。だが母は、なぜ当時の自分がリルケの詩集をチョイスしたのかにひっかかっているようだった。「ぺらぺらとめくってみたけどよくわからなかったし、そもそもリルケなんてほとんど読んだ記憶もない」などと身も蓋もないことを言う。それならそこでもっとしっかり読んでみればよかったのに、と言ってみたものの、話に夢中になっていたから、と遮られてしまった。
 ついで母は、あの本ほしいなあ、とつぶやく。文庫本で安く出てるよ、と返すも、贈ってあげたのと同じ白のハードカバーがいい、とごねてくる。ややあって「ねえ、どっかで探してきてよ」とつけくわえた。その気持ちは理解できたので、わかったと返した私は、次の週末に神保町の古書店街を巡り、それを見つけ出したのだった。「あと、こないだ芥川賞とったあの小説も読みたい」などと電話口で言い、一週間のうちに四度も、どうなった? としつこく催促してきた。絶版になっている古い型のリルケの詩集はともかく、芥川賞の本など街の本屋に行けばどこにでも売っており、ネットを使えばワンクイックで家まで届けてくれる。父はいまだ企業の要職に就いていて、経済的にも余裕があるのだから本くらい自分で買えばいいのだ。と思うものの、母はしつこく、買ってきて、とせがむのだった。取るに足りぬ催促を頻繁にくり返すものだから、私は母がいくらか忘れっぽくなったのだろうか、と疑ってみ、そのことをすこし愚痴っぽく弟に話してみた。すると彼は言った。「そういうちいさなことでも、帰ってこさせる接点とかきっかけにしたいんじゃないの」その言葉が妙にすとんと胸におちた私は、次の週末に実家に帰ろうと素直に思うのだった。

 降車すると、日はもうとっぷりと暮れていた。いつものように土産にケーキを買ってからバスに乗り込む。色鮮やかに並んだ美しいケーキに、つい目を奪われてしまったものの、結局は定番のチョコレートケーキが一番おいしいことに、最近になってようやく気づいたのだった。バスは長年遠回りをして家に向かうルートであったが、ここ何年かのうちにルート変更が行われたらしく、最短距離を走るようになっていた。家に着くと、母にケーキと一緒に本を渡す。母は笑顔になり、コーヒーを淹れるための湯を沸かしはじめる。
 肌寒くなってきたので夕飯は鍋に決まり、三人で水炊きをつつく。仕事の近況等を話したのち、しばし読書をしてから寝床に入る。私がむかし使っていた四畳半は、いつのまにか納戸と化していて、足の踏み場もなくなってしまっていた。そのためやむをえず三人で六畳の和室に布団を並べて寝ることにするが、消灯してまもなく父の鼾がきこえてくる。それは尋常な音量ではない。いつもひとりで寝ている私にはとうてい甘受できぬほどのすさまじいものだ。となりのリビングに移った程度で和らぐものでもない。タオルを耳にあてなんとか寝てしまおうと努めるも、逆に耳が過敏に反応してしまう。たまらず父の書斎に避難するが、その部屋も和室とうすい壁をひとつ隔てているだけのため、鼾はあっさりとそれをすりぬけて漏れきこえてくる。唯一、和室からの騒音にさらされない四畳半は納戸となってしまったため、もはや行き場がない。ヘッドフォンを持ってこなかったことを後悔したが後の祭りだ。
 それにしても母は、よく静かに寝ていられるものだと思う。もう慣れたと言っていたが、この獣の咆哮のような不気味な音に、そう簡単に慣れるものだろうか。こればかりは無意識のものゆえ父にも悪気はないにしろ、となりで毎日こんな騒音をたてられたら、それが積もり積もって、やがては悪心めいたものを抱きかねないような気さえしてしまう。にもかかわらず、寝床を一度も隔てることすらなく、この和室で三十年も並んで寝起きしており、それを苦にする様子もない。そこには独り身の私には想像もつかない膠漆の交わりが横たわっているにちがいない。
 間断なく鳴り響く轟音にうんざりしながらも、平和に眠るふたりをただ単純に幸せだと他人事のように思う。人とともに暮らす。あまりにありふれたその生活形態も、内実は大変な忍耐と妥協を伴う試練の連続ではないだろうか。だがそれ以上に得られる得がたい何かがあるのかもしれない。私はいまだにそれがわからないでいる。
 それでもいつしか和室に戻っていたようだ。眼が覚めると日はとうに上がっていて、秋の控えめな陽光が障子の色を淡い黄色に染めている。襖を開けると父はソファでテレビを見ており、母はダイニングテーブルでリルケの詩集を読んでいた。
「一局するか」と父が言う。それでさっそく碁盤を引っ張ってきて打ちはじめる。小学生のころに教えてもらって以来、碁は父と私をつなぐ貴重なコミュニケーションツールとなってきた。だが、ハンディをつけてもらっているという状況は当時からなにも変わっていない。それでもやりはじめるとやはりおもしろく、いつのまにか二時間が経過していた。
 一方で、父も還暦を過ぎて数年が経ち、次第に思考力も衰えてゆくかもしれぬ齢にさしかかるなかで、いつまでたっても三子や四子のハンディから抜け出せない自分自身に、ふがいなさを感じないわけではない。といっても父以外に碁を打つ相手もなく、一時期熱中したネット碁もいつしかその平淡さに飽きてしまい、今ではまったく打たなくなってしまった。年齢を考えれば、すでに平手になっていてもいいはずである。が、年に数回の対局のために碁の勉強をするのも億劫になり、他の些事にかまけてしまう。そうしているうちにいつまでも進歩なく時だけがただ漫然と流れ去っていく。それはまるでここ数年の私の現状の写し絵のような気がしなくもないのだが、それでもいつかはハンディなしで父に勝ってみたいと思ってみたりもする。いや、そう思うのは、なにも碁だけではないような気がしてならない。
 対局が終わるころ、ちょうど母もリルケの詩集を読み終えたようだった。どうだった、と訊くと、母は、全然よくわかんなかった、とあっけらかんと言った。ついで、これをヨシ子ちゃんにあげた当時の自分の心理がわからない、と首をふる。たしかに難しい詩集だった。私も入手した日に読んでみたがあまりよくわからなかった。まして中学生のときに読んだとしたら、まったくわからなかったにちがいない。ではなぜ、当時の母はこの本をヨシ子ちゃんに贈ったのだろう。その動機がわからない。きっと背伸びしたい年頃だったんだろうねえ、と笑っているが、そう素直に言いのけてしまうところがまた魅力に思えたりもする。わからないことはわからない、それでいいこともたくさんあるのかもしれない。
 せっかく買ってきてくれたのにごめんねえ、と言われたものの、私は満足している。おもしろい話を聞けたのだからそれで充分だった。
「でも、ヨシ子ちゃんにとってはすごく思い出深い本になってるんだろうね」
「そうねえ。だけど半世紀もつづいたきれいな思い出が、こないだ私と会ったことで霞んでしまったかもしれないわね」
 と、すこし自嘲気味に言った。彼女に最初に言われた言葉がうっすら尾を引いているのだろうか。だがそれはあたりまえのことだ。十五の少女が十五のままでいられるはずがないのだから。ひょっとするとヨシ子ちゃんだって、詩集の中身を深く理解しているわけではないのかもしれない。本そのものよりもその外装、母が旅立つ彼女のためにこしらえた手づくりのブックカバーこそを宝物にしてきたのだろう。彼女はそれを自らの少女時代と故郷のシンボルとすることで、その後の人生で生じた苦労をいくばくか減ずる、ささやかなたよりにしてきたのではないだろうか。中身の本は背伸びだったとしても、ブックカバーは当時の母の彼女への気持ちそのものだったのだろう。真ん中に大きく刺繍された友情という二文字が、ひとり旅立つ十五の少女にとってどれほどうれしいものであったかは想像に難くない。そんな気の利いたプレゼントをした母を、私はどこか誇らしくながめていた。
 友人にホタテをいただいたとのことで、それを炊き込みご飯にして食べる。最近、父は積極的に料理をするようになったらしく、この日の食事も父が整えてくれた。私が家にいた時代には考えられなかったことだ。ホタテご飯に焼鮭、それに玉子焼きと鯛のお吸い物という、実に豪華な昼食に舌鼓を打ったのち、母にクルマで送ってもらい駅に向かう。まだららぽーとに行ったことがない、と告げると、ぜひ行ってみるようにと強く勧められた。駅前のロータリーに着き、軽く手を振って別れる。

 想像以上だった。ここまで充実した商業施設は県全体を見回してもそうはないだろう。まして増えているとはいえ、海老名市の人口は十三万人ほどに過ぎないのだ。にもかかわらず、今世紀に入ってからの海老名駅周辺の開発の規模と密度には、本当に驚かされてばかりだ。私の高校時代にはららぽーとはおろかビナウォークすらなく、駅周辺の店はといえば、サティとダイエーくらいのものだった。東口に中規模のマンションがぽつぽつと建ちはじめていた記憶はあるが、相模線改札のある西口は見渡す限り田んぼしかなかった。それが今では、近隣の街からも人が集まる一大商業地になっている。小田急線の改札と相模線の改札をつなぐ空中通路には、ビナガーデンなるものが新たに建設されており、まもなくオープンするらしい。その向かいには、タワーマンションの建設予定地と記された大看板が見える。
 通路の欄干から、激変したこの街の風景をぼんやりと眺めているところに、母から電話が入る。どうだった? とわざわざ感想を訊いてきたのだった。なんとなく照れくさかったが、たいそう驚いたことを正直に伝える。すると母は、そうでしょう、すごいでしょう、とどこか得意気な声をあげる。
 オリンピック前には相鉄線のホームも新しくなり、いずれは都内への乗り入れも開始される、ときのう父が話していたことがふいと思い出された。そこには、勃興する街に暮らすふたりの、自分たちでつかんだ新しいふるさとへの期待と誇りが感ぜられた。母が明るい口調で冗談半分に言う。
「そこにおっきなマンションができるのよ。あなた買いなさいよ。早くいい人見つけてさ」
「はは……考えておくよ」
 そう言って電話を切った。私は母の言葉の含意をすみやかに読みとる。ただ残念ながら今は読みとるだけだ。私には私の生活がある。だが……それでも活気に満ちたこの街で暮らすのもまた楽しかろう。いつか結婚して、子どもをもつような僥倖に恵まれた暁には、この街に戻ってきてもいいのかもしれない。いや、戻りたい。きっと戻ってこよう。そんな想念をひそかに抱きながら、私はスイカをタッチして改札を通り過ぎていった。

著者

米蔵圭介