「穴行」藤川謙介

 高校受験用の英語の参考書から目を離して、ふと窓の外に目をやると、オレンジとブルーのラインの電車は、眼下に流れる川を越えていた。
 川は大きくもなければ、小さくもない。川岸はコンクリートで固められ、川遊びやバーベキューをするような憩いのスペースはなかった。
 親子のように見えるカルガモが、きれいな列を作って、蛇行する川を上流に向かって泳いでいる。
「それは穴を掘るためのものでしょうか?」
 突然、誰かの声が聞えた。
 声のした方を向くと、そこには白い肌のきれいな女の人が、いつの間にか僕のすぐそばに立っていた。女性はやや間隔の狭い両目で、僕のことをじっと見ている。二十代半ばくらいだろうか。彼女の左の頬には、わずかな膨らみをもったホクロがあった。
 僕は自分の手に握られた、作業用の大きなスコップの存在を確かめてから、「ええ、そうですけど」と答えた。
「もしよければ、それを私に貸してくれませんか?」
「え?」
 妙なことを言われ、僕はあわててしまった。
 そんなに容易く気が動転してしまったのは、大きなスコップを持っていることで、電車に乗ってからずっと、車内にいる人々の目が気になっていたからかもしれないし、僕を見つめる彼女の目が、涙で潤んでいるように見えたからかもしれない。
 丁寧な口調とは相反して積極的な性格なのか、その女の人は僕がスコップを貸すことがすでに決められたことであるように、腕を僕に向けて伸ばしている。
 僕はこんな性格だから、彼女の頼みを断ることも、彼女に質問することもできず、黙ってそれを渡してしまった。
 女の人はスコップを受け取ると、まるで卒業証書を授かった卒業生のように、背筋を伸ばした姿勢を保ちながら、深くお辞儀をした。そしてその姿勢を崩すことなく、僕のほうに身体を向けたまま、滑るように後ろに移動していった。
 信じられないことに、彼女はそのまま電車のドアをすり抜け、車両の外へと消えてしまった。
 夢を見ていたのかもしれないと思ったけれど、僕には立ちながら眠るなんて器用なことはできないし、家から持ってきたスコップは確かになくなっている。
 床を見ると、女の人が立っていた場所から消えていったドアへいたる道筋には、ナメクジやカタツムリが通った後に残るような、光沢のある跡がついていた。
 気が付くと、まもなく目的地である「希望ヶ丘」の駅へ到着することを告げる、車掌のアナウンスが流れていた。
 僕は今日、ある場所へ、ある人のために、スコップを持って行く約束をしていた。
 スコップは砂場で遊ぶためのものや、趣味の園芸で使用する小さなものではなくて、かたい地面にも穴を掘れるような、大きくて丈夫なものでなくてはならない。
「どうしよう?」
 一体どんな言葉で説明すれば、穴を掘る道具を持って来ることができなかったことを、あの“大昔の人”に許してもらえるだろうか? 僕は思わず頭を抱えてしまった。
 
 水曜日と日曜日の塾からの帰り道、僕は丘の上にある神社へ好んで通っている。
 僕がその場所を好む理由は三つあった。まずはそこがとても静かであることと、安全だということ。住宅に囲まれたその神社は、幸運にも騒がしい連中のたまり場になることから免れている。
 そしてその場所は辺り一帯で最も高い場所になっているから、周囲の街を見下ろし、遠くの風景を眺めることができるのだ。
 だから僕はわざわざ途中の駅で電車を降りて、長い坂道を登る苦労をしてまで、「春の木神明社」にやって来る。
 このあいだの日曜日の夜も、僕はいつものように狛犬に挟まれた石段に腰を降ろしていた。途中のコンビニで買った缶コーヒーの蓋を開ける音が、竹筒が岩を打つ音のように、凛とした静けさの中によく響いた。
「よくここへ来る子だよね?」
 背後から突然、男の声がした。
 振り返ると、拝殿の軒下、闇にまぎれて男の姿があった。僕はあまりの驚きと恐怖に、返事をすることができない。
「お願いがあるんだけど――」
 男の人がそう言ったとき、僕はその人がずいぶん変わった服を着ていることに気が付いた。その人はまるで、大昔の農村に暮らす人々のような格好をしているのだ。
「何?」
 僕は何とか声を絞り出したけれど、それは声というよりも、マヨネーズを絞った時の、プラスチックの容器から空気が漏れた音に近かった。
「何か穴を掘る道具を貸してくれない?」
 時代劇の撮影現場から抜け出してきたような男の人は、まるで友だちからボールペンを借りるような口調でそう言うけれど、彼が僕に尋ねたものは、ボールペンほどありきたりなものではなかった。
「穴掘りの道具?」
「そうなんだ。大きな穴を掘らなくちゃいけないんだ」
 何だかわからないけれど、男の人は穴を掘ることができなくて、真剣に困っているみたいだ。
「ごめん、穴を掘る道具は持っていないんだ」
 僕はきっぱりと、そう答えた。
「別に今じゃなくていいんだよ。今度で。次にここへ来るときで。それなら大丈夫?」
 僕はなんというか、彼の頼みを断ってしまったら、今後この場所へは来づらくなってしまう気がしていた。なんといっても彼は、僕がここへ頻繁に来ていることを知っているのだ。それに準備をする時間を与えてくれるのなら、家からスコップを持ってくることは、それほど難しいことじゃない。
「今度の水曜日でもいい? 塾がある日じゃないと、ここへは来れなくて」
 男の人は満足そうにうなずいた。
「それじゃ今度の水曜日に、穴を掘るものを持って来るね」
「ありがとう。時間はいつでも構わないよ」
 別れ際の彼のセリフは、まるで僕がどんな時間にやって来ても、僕がここへ来たことを知ることができると言っているみたいだった。
 
 そういうわけで、僕は約束の水曜日に、スコップを持たずに神社に行くことになってしまった。
 参道を歩いている途中、先日と同じ場所に彼の姿があることに気が付いた。遠くからでもすぐに彼だとわかったのは、服装が先日とまったく変わらないからだ。
「穴を掘る道具を持ってきてくれた?」
 話ができる距離に近づくと、大昔の人は僕にそう言った。
「ごめん! 持って来ようとしたんだけど、持って来れなかったんだ」
 僕が素直にあやまると、彼は肩を落とし、見るからにがっかりした様子だった。
「信じられないかもしれないけれど、僕はちゃんとスコップを持って来ていたんだ。でも電車の中で盗まれてしまって」
 落ち込む彼をなんとか励まそうと、僕は事情を説明するけれど、電車の中にあらわれ、そして消えていった女の人のことは黙っておいた。たとえ本当のことでも、そんな嘘みたいな話、信じてもらえるはずがない。
「ひとつ聞いてもいい?」
「何?」
 すねているのか、彼はぶっきらぼうな声と、不機嫌そうな表情で、僕にそう答えた。
「ずっと気になっていたんだけど、どうして大きな穴を掘りたいの?」
 本当はどれくらい大きな穴を掘るのかということや、どこに穴を掘るのかということも聞きたいけれど、まずは穴を掘る目的を確かめたかった。それさえ分かれば、おのずと残り二つの疑問の答えも分かるかもしれない。
「まだオレが若かった頃――」
 彼は思い出に浸るようにそう話し始めたけれど、僕とそう年の変わらないように見える彼には、それは少し気取りすぎた言葉の選び方なんじゃないかと、僕には思えた。
「このあたりで疫病が流行してね。オレ達は住む場所を変えなくちゃいけなくなったんだ。その時、村の住人は持っているものを全部焼いて、お経を唱えてもらって、その灰をこの神社の境内に埋めたんだよ」
 僕はこのあたりでそんな大きな伝染病が流行したという話を、これまでに一度も聞いたことがなかった。しかも彼の話しぶりは、彼が若かった頃の話というよりも、歴史の教科書に出てくるくらい昔の出来事のようだ。
「それって何年くらい前の話?」
 僕がそう尋ねると、彼は自分の思い出から、今日までに経た月日を数えているようだった。
「もう、四百年くらい前かな」
 僕は思わず彼の足元を見た。草鞋を履いた彼の足は、どう見ても今の時代にはそぐわないけれど、時代錯誤な彼の両足の存在は、少なくとも僕が幽霊と話をしているのではないことを証明していた。
「君はよくこの場所へ来て、遠くを眺めているだろ?」
 僕はうなずいた。今まで誰にも見られていないと思っていたけれど、ここから遠くを眺めている姿を人に見られていたかと思うと、僕は正直恥ずかしかった。
「灰が埋まっている場所を掘り起こすことができたら、君を過去の世界に連れていくことができるんだ。その時代、このあたりはもっと自然にあふれていて、のどかな風景が広がっている。きっと君は、その景色を好きになると思うんだ」
 目をつむると、彼の言う大昔の風景が、自然と僕の頭の中に描かれていくみたいだった。
 神社の建つ丘の麓には水田が広がり、太陽の光を反射する瑞々しい緑は、まるで雨に打たれたアマガエルのように艶やかだ。
 三六〇度のパノラマ風景は、この星の大きさや、まだ眠りから覚めたばかりの春の息吹を伝えている。
「別に今日じゃなくてもいいよ、オレはいつもここにいるから。いつでもいいから穴を掘る道具を持ってここへ来なよ」
 そう言われて僕が目を開くと、そこにはもう過去の世界から来た男の姿は、どこにも見つけることができなかった。

 神社からの帰り。彼女はまるでその電車、その車両、さらにはそのドアから僕が乗って来ることを知っていて、僕のことを待ち受けていたみたいだった。
 彼女の手には、数日前に僕から渡されたスコップが握られていて、それが僕の目を引いたのは、スコップの命ともいえる先端部分が、元の形状を想像することができないくらいグチャグチャに潰されていたからだ。
「穴なんて、ちっとも掘れないじゃないですか!」
 まるでまがい物でも売りつけられたと言うように、彼女は僕を非難した。
「わたしはどうしても穴を掘らなければならないのですよ!」
 一方的にまくしたてる彼女に対し、僕は心の中で「また穴か」とつぶやいていた。
「あなたはどこへ穴を掘ろうとしているんですか?」
 僕がそう尋ねるタイミングで、「三ツ境」への到着を告げるアナウンスが車内に流れた。
 やがて電車が停車してドアが開くと、彼女はホームに降り、「ついて来てください」と僕をうながした。
 そのセリフには、先日、僕からスコップを奪った時のような、有無を言わさぬ強制的な力を発揮する何かがあった。穴を掘ることができなかったことがそうとう悔しかったのか、彼女の目には、うっすらとではあるけれど、涙の跡が残っているような気がした。
 駅の改札を出た僕らは、ハトの集まる駅前の広場を抜け、階段を下り、年季の入った商店街を歩いた。幅の狭い小さな通りは、車が庶民の生活に行き渡るずっと以前から、ここが人々の生活の基盤であったことを物語っている。
 僕の前を歩く彼女の足取りは、まるでリンク上のフィギアスケーターのように滑らかだ。どんな歩き方をしたら、そんな風に歩けるのか気になったけれど、彼女の足元は長いスカートに隠され、謎を明らかにすることはできない。
 駅から五分くらい歩いただろうか、彼女が立ち止まり、ふたたび僕の顔を見つめた場所は、アパートと保育所に挟まれた、ゆるやかなカーブを描く坂道の途中だった。
「かつてこの場所に、池があったのです」
 僕は辺りを見回してみたけれど、かつてこの場所に池があった名残のようなものは、何ひとつ残っていなかった。
「わたしはその池を掘り返したいのです」
 もちろんアスファルトで固められたその場所を、市販のスコップで穴を空けることなんてできるわけがない。この場所に穴を掘ろうとしたら、工事現場で使われているような、大きな穴掘機が必要だ。
「どうして池を掘り返したいんですか?」
 この場所に穴を掘ろうとして、彼女は僕のスコップをグチャグチャにしてしまったのだろうか? そんな疑問を感じながら、僕は彼女にそう尋ねた。
「池の向こう側に、わたしの住む世界があるからです」
 どこかで聞いたことのあるセリフだと、僕は思った。
「もしかして、あなたも過去の世界からやって来たの?」
 彼女は僕のセリフに、大きなため息をついた。
「わたしが住んでいる世界は、そんなつまらない場所ではありません」
 そう言う彼女の話しぶりは、池の向こうに過去の世界があるという奇想天外な発想が、それほど不思議なことではないと言っているみたいだ。
「わたしは物語の世界からやって来たのです」
 彼女の答えに、僕の理解力が追いつくのには、少なからぬ時間が必要だった。
「あなたは今までに、こんな話を聞いたことがありませんか?」
 
 昔々、この辺りの村に住む若者が、池のまわりの草を刈っていると、どこからともなく若くて美しい娘があらわれた。
 若者は女が突然あらわれたことに驚き、その美しさに見とれていると、
「草刈りに使っているその鎌を、わたしに預からせてくれないでしょうか?」
 娘は目に涙を浮かべながら、その若者に懇願した。
 若者はうろたえつつも、きっと娘には何か事情があるのだろうと思い、草刈りに使っていた自分の鎌を、その女に渡してしまった。
「何か困ったことでもあるのかい?」若者はそう娘に尋ねた。 
 けれど鎌を受け取った娘は、何も言わず、そのままスーっと、まるで消えるようにいなくなってしまった。
 驚いた若者は村に帰り、池のほとりで起きた出来事を村人たちに伝えた。
「お前、寝ぼけてたんじゃないのか?」
 話を聞いた村人の多くは、その若者のことを、腹を抱えて笑った。
 みんなに笑われると、人の好い若者は、彼らが言うように、自分は夢を見ていただけなのかもしれない、と信じてしまいそうだった。
 そこへ若者たちの騒ぎを聞きつけた村の老人がやって来た。
「それは白姫様の仕業に違いない」
 老人は彼らに向かってそう言った。
「白姫?」
「池の主の白蛇が人間に化けた姿だよ。ワシが若かった頃にも、あの池で鎌を取られた若者が何人もいたんだ」
 老人がそう話すと、今まで黙っていた村人の中にも、鎌を取られた者が何人もいることがわかり、若者は自分が夢を見ていたわけではないと知ることができた。
 その事があってからも、村の男が池のまわりで草を刈っていると、美しい娘があらわれ、男の持っている鎌を取って行ってしまうことが絶えることはなかった。
「その鎌を預からせてくれないでしょうか?」
 若い美しい娘にそう言われると、男たちはまるで魔法にかけられたように、彼女の頼みを断ることができない。
 そうしていつしか村人たちは、白い肌の美しい女のあらわれるその池を、「鎌取池」と呼ぶようになった。
 
「そんな話、聞いたことがないです」
 僕は正直に彼女に伝えた。
「きっと池がなくなって、物語も忘れられてしまったのですね」
 物語が語り継がれていないことを、彼女は深く悲しんでいた。
「何を隠そう、このお話に出てくる白姫という女は、わたしのことなのです」
 目の前にいる女性が、物語に出てきた鎌を取る女であるということは、なぜか僕にも、ごく自然に受け入れることができた。
「物語を思い出してもらいたくて、あなたは池を掘りかえそうとしているのですね?」
 僕がそう尋ねると、彼女は首を横に振り、きっぱりとそれを否定した。
「わたしたちにとって、物語が語り継がれることほど幸福なことはないのですが、わたしが穴を掘ろうとしているのは、もっと深刻な理由があるからです」
 いつの間にか彼女の表情は、まるで幽霊の出てくる話でもしているみたいに、緊張でこわばっていた。
「数日前、それはわたしが初めてあなたと会った前日の夜のことです、わたしが眠りにつこうとすると、わたしたちの住む世界のどこかからか、誰かの歌声が聞こえてきたのです」
「歌?」
「そうです。それはこんな歌でした」
 
   アサヒサシ ユウヒカガヤク オカノウエ
   オウゴン センバイ シュ センバイ
   オウゴン センバイ シュ センバイ

 彼女の歌声にメロディーはなく、それは歌というよりも、まるで詩を詠んでいるみたいだった。
「ごめんなさい。わたしたちの世界の住人は、歌を唄うことをしりません。旋律を奏でることができないのです」
 まるで僕の心の中を読んだように、彼女はそう言った。
「ですから物語の世界に歌声が聞こえてくるのは、あなたたちの世界の誰かが、わたしたちの世界に紛れ込んだに違いないのです」
 そう話す彼女は、何かに怯えているようだった。
「それであなたは穴を掘って、どうするつもりですか?」
「物語の登場人物以外の誰かが、わたしたちの世界に住みついてしまうと、物語は純粋性を損ない、最悪の場合、わたしたちの世界は失われてしまう可能性だってあるのです」
 気が付くと、彼女はその目に涙を浮かべていた。
「お願いです。なんとかこの場所に穴を空けて、わたしたちの世界から、歌を唄うその人を連れ出してください」
 彼女にそう言われると、僕はまた魔法をかけられたように、彼女の頼みを断ることができなくなってしまった。

「その池なら、オレの時代にもあったよ」
 白姫に物語の世界へ来てくれと頼まれた次の日曜日、塾帰りの僕は、丘の上の神社に来ていた。
「鎌を取る女の人があらわれる池の話って聞いたことある?」
 僕がそう尋ねると、大昔の男の人はそう答えたのだ。
「そういえば、オレも彼女に鎌を取られたことがあったな」
 彼は懐かしそうに話した。
「鎌を取られても惜しくないくらいきれいな女の人に会えるという噂が広まって、若い男たちが大勢、鎌を持って彼女に会いに行ったんだ。けど、みんな新しい鎌は惜しいから、もう使わなくなった古い鎌ばっかりを持って行くんだよ」
 大昔の男の人は可笑しそうに話すけれど、鎌を失うことが、当時の人々にとってどれ程の損害になるのかわからないせいか、僕には彼の話がいまひとつピンと来なかった。
 それから僕は、白姫の世界に誰かが入り込んでしまったこと、そしてその侵入者を外の世界へ連れ出してほしいと頼まれていることを、そっくり大昔の人に伝えた。
「それで、君は彼女の頼みを聞いてあげるつもりなの?」
「うん。彼女に頼みごとをされると、なぜか断れなくってさ」
 僕は涙の滲んだ彼女の顔を思い浮かべ、そして彼女に頼みごとをされたときの、自由に物事を考えられなくなる感覚を思い出していた。
「わかるよ」
 男の人は僕に同情するようにそう言った。
「その鎌を預からせてくれないでしょうか?」
 きっと四百年前に、白姫にそう言われたとき、彼も僕と同じようなことを感じたのだろう。
「でもどうやって穴を掘るのさ? 鎌取池があったところに穴を掘らなければ、物語の世界へは行けないんじゃないの?」
「それについては僕にアイデアがあるんだ」
 僕にはその前夜に考えた、とっておきの作戦とでも呼べるものがあった。
「どんな?」
「それはまだ秘密だよ。今度の水曜日、またここへ来るから、その時に教えてあげる」
 そう言って僕は、秘密を知りたがる彼に別れを告げて、丘の上の神社を後にした。

「それでは穴を掘れません!」
 彼女は僕と出会うと、開口一番、大きな声ではっきりとそう言った。
 僕の手に握られているのは、今朝、彼女との待ち合わせ場所へ来る前に、家の近所のホームセンターで購入したばかりの新品のスコップだった。
 彼女は僕に失望したように、何度も首を横に振っている。
「何本あっても、そんな道具じゃ、あの場所に穴を掘ることなんてできません」
 彼女がそう言うのは、僕が手にしているスコップがひとつじゃなくて、三本だったからだ。
 僕は袋に入ったままのスコップを大事に抱えて、彼女のセリフを、まるでそれが期待していたものであるかのように聞いていた。
「さ、行きますよ」
 そう言うと、僕は彼女の返事なんて待たずに歩き始めていた。
「ちょっと、どこへ行くんですか?」
 彼女はとまどいながらも僕の後をついてくる。彼女がとまどっている理由は、きっと僕が進んでいく方向が、鎌取池があった場所とは全く反対の方角だからだろう。
「騙されたと思って、僕について来てください」
 白姫はあきらかに不安な様子だったけれど、まるで魔法にかけられたように、彼女は黙って僕の後をついてきた。
 
 春の木神明社では、大昔の人がいつもと同じ場所、そしていつもと変わらぬ服装で、僕が来るのを待ち構えていた。
 大昔の人と白姫は、数百年ぶりの再会なのに(もっとも白姫は彼のことを覚えていないようだけれど)、二人はお互いの存在に、それほど驚いていないみたいだ。
 過去からやって来た男の人は、物語の中の女がそこにいることを、そして物語の登場人物は、過去の世界の住人がそこにいることを、それほど不自然だとは思っていないみたいだった。
「どうして二人とも、お互いの存在にもっと驚かないのかな? まるで過去や空想の世界があることが、二人にとって、それほど不思議じゃないみたいだ。僕にとってはどちらの世界も、映画やマンガの中の出来事のようで、いまだに信じられないのにさ」
 白姫も大昔の男も、お互いの存在には驚かなくても、僕のそのセリフには驚いているみたいだった。
「どうやら最近の人は、そんなことも忘れてしまったみたいだね」
 二人の態度はまるで、若者をなじる、口うるさい年配者のそれみたいだ。もっとも彼らは、僕が知るどんな大人たちよりも、はるかに年を重ねているのだけれど。
「忘れたって、何を?」
「このあたりは昔から、現実と過去と空想の世界が、境界線を共有し合っているんだ。オレ達の時代には、そんなことは小さな子どもだって知っていたよ」
 僕にはこの辺りに住んでいる友だちや親せきが大勢いるけれど、今までにそんな話は、一度たりとも聞いたことがなかった。
「だからあなたたちは、このあたりを『三ツ境』と呼んでいるんじゃないですか?」
 白姫にそう言われると、もしかしたら数十年くらい前までならば、過去と空想の世界がすぐ近くにあることは、このあたりの住人ならば、知っていて当然のことだったのかもしれないな、と僕にも思えてきた。
「そんなことより、なぜわたしたちをここに集めたのか、説明してもらえませんか?」
「そうだ、オレもまだ君のアイデアを聞いてなかったぜ」
 そう言われてようやく、僕は彼らに説明しなければならない、とっておきの作戦のことを思い出した。
 作戦の説明をはじめる前に、僕は今朝買ってきたばかりの新しいスコップを、一本ずつ彼らに手渡していった。
「こんな頼りにならない道具で、何をするのですか?」
 白姫はうんざりしたように、僕に言った。
「僕らはまずこの場所に穴を掘るんだ」
 そのセリフは、何も知らない白姫を、よけいに混乱させてしまったようだった。
「この場所に穴を掘れば、過去の世界へ行けるんだ」
 過去の世界から来た男の人は、そんな彼女のために、この場所と過去の世界との関係を説明してあげた。
 おかげで白姫も、二つの世界を行き来するからくりを、理解することができたみたいだ。
「そして過去の世界へ行けば――」
 僕は作戦の説明を続けた。
「行けば?」
「行ってどうするのですか?」
 僕は合点のいかない彼らの顔を見つめた。言葉をうながすためか、それともただ空いた時間を埋めるためか、二人は僕に視線を合わせて小さくうなずいた。
「過去の世界には、埋められる前の池がある」
 それでも二人の表情は、じっと硬直したまま動かない。
「僕らは過去の世界の鎌取池から、空想の世界へ行けるんじゃないかな」
 そうして僕らは、この場所に大きな穴を掘りはじめた。
 大昔の人は畑仕事で培った技術で、スコップという見慣れない道具をあっという間に使い慣らし、白姫は、数日前に僕のスコップが潰れていたことを納得させるかのように、力任せに穴を掘り進んでいく。
 そんな中、受験勉強で完全に体が鈍ってしまった僕は、早々に体力の限界を迎え、全くと言っていいほど、彼らの穴掘りの手助けをすることができなかった。
 そんな風にして僕ら三人は、過去の世界へ旅立ち、やがて物語の世界を救うことになる冒険の旅に出た。

参考文献
「旭区郷土史」 旭区郷土史刊行委員会/編 旭区郷土史刊行委員会/出版 1980年

著者

藤川謙介