神社からの帰り。彼女はまるでその電車、その車両、さらにはそのドアから僕が乗って来ることを知っていて、僕のことを待ち受けていたみたいだった。
彼女の手には、数日前に僕から渡されたスコップが握られていて、それが僕の目を引いたのは、スコップの命ともいえる先端部分が、元の形状を想像することができないくらいグチャグチャに潰されていたからだ。
「穴なんて、ちっとも掘れないじゃないですか!」
まるでまがい物でも売りつけられたと言うように、彼女は僕を非難した。
「わたしはどうしても穴を掘らなければならないのですよ!」
一方的にまくしたてる彼女に対し、僕は心の中で「また穴か」とつぶやいていた。
「あなたはどこへ穴を掘ろうとしているんですか?」
僕がそう尋ねるタイミングで、「三ツ境」への到着を告げるアナウンスが車内に流れた。
やがて電車が停車してドアが開くと、彼女はホームに降り、「ついて来てください」と僕をうながした。
そのセリフには、先日、僕からスコップを奪った時のような、有無を言わさぬ強制的な力を発揮する何かがあった。穴を掘ることができなかったことがそうとう悔しかったのか、彼女の目には、うっすらとではあるけれど、涙の跡が残っているような気がした。
駅の改札を出た僕らは、ハトの集まる駅前の広場を抜け、階段を下り、年季の入った商店街を歩いた。幅の狭い小さな通りは、車が庶民の生活に行き渡るずっと以前から、ここが人々の生活の基盤であったことを物語っている。
僕の前を歩く彼女の足取りは、まるでリンク上のフィギアスケーターのように滑らかだ。どんな歩き方をしたら、そんな風に歩けるのか気になったけれど、彼女の足元は長いスカートに隠され、謎を明らかにすることはできない。
駅から五分くらい歩いただろうか、彼女が立ち止まり、ふたたび僕の顔を見つめた場所は、アパートと保育所に挟まれた、ゆるやかなカーブを描く坂道の途中だった。
「かつてこの場所に、池があったのです」
僕は辺りを見回してみたけれど、かつてこの場所に池があった名残のようなものは、何ひとつ残っていなかった。
「わたしはその池を掘り返したいのです」
もちろんアスファルトで固められたその場所を、市販のスコップで穴を空けることなんてできるわけがない。この場所に穴を掘ろうとしたら、工事現場で使われているような、大きな穴掘機が必要だ。
「どうして池を掘り返したいんですか?」
この場所に穴を掘ろうとして、彼女は僕のスコップをグチャグチャにしてしまったのだろうか? そんな疑問を感じながら、僕は彼女にそう尋ねた。
「池の向こう側に、わたしの住む世界があるからです」
どこかで聞いたことのあるセリフだと、僕は思った。
「もしかして、あなたも過去の世界からやって来たの?」
彼女は僕のセリフに、大きなため息をついた。
「わたしが住んでいる世界は、そんなつまらない場所ではありません」
そう言う彼女の話しぶりは、池の向こうに過去の世界があるという奇想天外な発想が、それほど不思議なことではないと言っているみたいだ。
「わたしは物語の世界からやって来たのです」
彼女の答えに、僕の理解力が追いつくのには、少なからぬ時間が必要だった。
「あなたは今までに、こんな話を聞いたことがありませんか?」
昔々、この辺りの村に住む若者が、池のまわりの草を刈っていると、どこからともなく若くて美しい娘があらわれた。
若者は女が突然あらわれたことに驚き、その美しさに見とれていると、
「草刈りに使っているその鎌を、わたしに預からせてくれないでしょうか?」
娘は目に涙を浮かべながら、その若者に懇願した。
若者はうろたえつつも、きっと娘には何か事情があるのだろうと思い、草刈りに使っていた自分の鎌を、その女に渡してしまった。
「何か困ったことでもあるのかい?」若者はそう娘に尋ねた。
けれど鎌を受け取った娘は、何も言わず、そのままスーっと、まるで消えるようにいなくなってしまった。
驚いた若者は村に帰り、池のほとりで起きた出来事を村人たちに伝えた。
「お前、寝ぼけてたんじゃないのか?」
話を聞いた村人の多くは、その若者のことを、腹を抱えて笑った。
みんなに笑われると、人の好い若者は、彼らが言うように、自分は夢を見ていただけなのかもしれない、と信じてしまいそうだった。
そこへ若者たちの騒ぎを聞きつけた村の老人がやって来た。
「それは白姫様の仕業に違いない」
老人は彼らに向かってそう言った。
「白姫?」
「池の主の白蛇が人間に化けた姿だよ。ワシが若かった頃にも、あの池で鎌を取られた若者が何人もいたんだ」
老人がそう話すと、今まで黙っていた村人の中にも、鎌を取られた者が何人もいることがわかり、若者は自分が夢を見ていたわけではないと知ることができた。
その事があってからも、村の男が池のまわりで草を刈っていると、美しい娘があらわれ、男の持っている鎌を取って行ってしまうことが絶えることはなかった。
「その鎌を預からせてくれないでしょうか?」
若い美しい娘にそう言われると、男たちはまるで魔法にかけられたように、彼女の頼みを断ることができない。
そうしていつしか村人たちは、白い肌の美しい女のあらわれるその池を、「鎌取池」と呼ぶようになった。
「そんな話、聞いたことがないです」
僕は正直に彼女に伝えた。
「きっと池がなくなって、物語も忘れられてしまったのですね」
物語が語り継がれていないことを、彼女は深く悲しんでいた。
「何を隠そう、このお話に出てくる白姫という女は、わたしのことなのです」
目の前にいる女性が、物語に出てきた鎌を取る女であるということは、なぜか僕にも、ごく自然に受け入れることができた。
「物語を思い出してもらいたくて、あなたは池を掘りかえそうとしているのですね?」
僕がそう尋ねると、彼女は首を横に振り、きっぱりとそれを否定した。
「わたしたちにとって、物語が語り継がれることほど幸福なことはないのですが、わたしが穴を掘ろうとしているのは、もっと深刻な理由があるからです」
いつの間にか彼女の表情は、まるで幽霊の出てくる話でもしているみたいに、緊張でこわばっていた。
「数日前、それはわたしが初めてあなたと会った前日の夜のことです、わたしが眠りにつこうとすると、わたしたちの住む世界のどこかからか、誰かの歌声が聞こえてきたのです」
「歌?」
「そうです。それはこんな歌でした」
アサヒサシ ユウヒカガヤク オカノウエ
オウゴン センバイ シュ センバイ
オウゴン センバイ シュ センバイ
彼女の歌声にメロディーはなく、それは歌というよりも、まるで詩を詠んでいるみたいだった。
「ごめんなさい。わたしたちの世界の住人は、歌を唄うことをしりません。旋律を奏でることができないのです」
まるで僕の心の中を読んだように、彼女はそう言った。
「ですから物語の世界に歌声が聞こえてくるのは、あなたたちの世界の誰かが、わたしたちの世界に紛れ込んだに違いないのです」
そう話す彼女は、何かに怯えているようだった。
「それであなたは穴を掘って、どうするつもりですか?」
「物語の登場人物以外の誰かが、わたしたちの世界に住みついてしまうと、物語は純粋性を損ない、最悪の場合、わたしたちの世界は失われてしまう可能性だってあるのです」
気が付くと、彼女はその目に涙を浮かべていた。
「お願いです。なんとかこの場所に穴を空けて、わたしたちの世界から、歌を唄うその人を連れ出してください」
彼女にそう言われると、僕はまた魔法をかけられたように、彼女の頼みを断ることができなくなってしまった。
「その池なら、オレの時代にもあったよ」
白姫に物語の世界へ来てくれと頼まれた次の日曜日、塾帰りの僕は、丘の上の神社に来ていた。
「鎌を取る女の人があらわれる池の話って聞いたことある?」
僕がそう尋ねると、大昔の男の人はそう答えたのだ。
「そういえば、オレも彼女に鎌を取られたことがあったな」
彼は懐かしそうに話した。
「鎌を取られても惜しくないくらいきれいな女の人に会えるという噂が広まって、若い男たちが大勢、鎌を持って彼女に会いに行ったんだ。けど、みんな新しい鎌は惜しいから、もう使わなくなった古い鎌ばっかりを持って行くんだよ」
大昔の男の人は可笑しそうに話すけれど、鎌を失うことが、当時の人々にとってどれ程の損害になるのかわからないせいか、僕には彼の話がいまひとつピンと来なかった。
それから僕は、白姫の世界に誰かが入り込んでしまったこと、そしてその侵入者を外の世界へ連れ出してほしいと頼まれていることを、そっくり大昔の人に伝えた。
「それで、君は彼女の頼みを聞いてあげるつもりなの?」
「うん。彼女に頼みごとをされると、なぜか断れなくってさ」
僕は涙の滲んだ彼女の顔を思い浮かべ、そして彼女に頼みごとをされたときの、自由に物事を考えられなくなる感覚を思い出していた。
「わかるよ」
男の人は僕に同情するようにそう言った。
「その鎌を預からせてくれないでしょうか?」
きっと四百年前に、白姫にそう言われたとき、彼も僕と同じようなことを感じたのだろう。
「でもどうやって穴を掘るのさ? 鎌取池があったところに穴を掘らなければ、物語の世界へは行けないんじゃないの?」
「それについては僕にアイデアがあるんだ」
僕にはその前夜に考えた、とっておきの作戦とでも呼べるものがあった。
「どんな?」
「それはまだ秘密だよ。今度の水曜日、またここへ来るから、その時に教えてあげる」
そう言って僕は、秘密を知りたがる彼に別れを告げて、丘の上の神社を後にした。
「それでは穴を掘れません!」
彼女は僕と出会うと、開口一番、大きな声ではっきりとそう言った。
僕の手に握られているのは、今朝、彼女との待ち合わせ場所へ来る前に、家の近所のホームセンターで購入したばかりの新品のスコップだった。
彼女は僕に失望したように、何度も首を横に振っている。
「何本あっても、そんな道具じゃ、あの場所に穴を掘ることなんてできません」
彼女がそう言うのは、僕が手にしているスコップがひとつじゃなくて、三本だったからだ。
僕は袋に入ったままのスコップを大事に抱えて、彼女のセリフを、まるでそれが期待していたものであるかのように聞いていた。
「さ、行きますよ」
そう言うと、僕は彼女の返事なんて待たずに歩き始めていた。
「ちょっと、どこへ行くんですか?」
彼女はとまどいながらも僕の後をついてくる。彼女がとまどっている理由は、きっと僕が進んでいく方向が、鎌取池があった場所とは全く反対の方角だからだろう。
「騙されたと思って、僕について来てください」
白姫はあきらかに不安な様子だったけれど、まるで魔法にかけられたように、彼女は黙って僕の後をついてきた。
春の木神明社では、大昔の人がいつもと同じ場所、そしていつもと変わらぬ服装で、僕が来るのを待ち構えていた。
大昔の人と白姫は、数百年ぶりの再会なのに(もっとも白姫は彼のことを覚えていないようだけれど)、二人はお互いの存在に、それほど驚いていないみたいだ。
過去からやって来た男の人は、物語の中の女がそこにいることを、そして物語の登場人物は、過去の世界の住人がそこにいることを、それほど不自然だとは思っていないみたいだった。
「どうして二人とも、お互いの存在にもっと驚かないのかな? まるで過去や空想の世界があることが、二人にとって、それほど不思議じゃないみたいだ。僕にとってはどちらの世界も、映画やマンガの中の出来事のようで、いまだに信じられないのにさ」
白姫も大昔の男も、お互いの存在には驚かなくても、僕のそのセリフには驚いているみたいだった。
「どうやら最近の人は、そんなことも忘れてしまったみたいだね」
二人の態度はまるで、若者をなじる、口うるさい年配者のそれみたいだ。もっとも彼らは、僕が知るどんな大人たちよりも、はるかに年を重ねているのだけれど。
「忘れたって、何を?」
「このあたりは昔から、現実と過去と空想の世界が、境界線を共有し合っているんだ。オレ達の時代には、そんなことは小さな子どもだって知っていたよ」
僕にはこの辺りに住んでいる友だちや親せきが大勢いるけれど、今までにそんな話は、一度たりとも聞いたことがなかった。
「だからあなたたちは、このあたりを『三ツ境』と呼んでいるんじゃないですか?」
白姫にそう言われると、もしかしたら数十年くらい前までならば、過去と空想の世界がすぐ近くにあることは、このあたりの住人ならば、知っていて当然のことだったのかもしれないな、と僕にも思えてきた。
「そんなことより、なぜわたしたちをここに集めたのか、説明してもらえませんか?」
「そうだ、オレもまだ君のアイデアを聞いてなかったぜ」
そう言われてようやく、僕は彼らに説明しなければならない、とっておきの作戦のことを思い出した。
作戦の説明をはじめる前に、僕は今朝買ってきたばかりの新しいスコップを、一本ずつ彼らに手渡していった。
「こんな頼りにならない道具で、何をするのですか?」
白姫はうんざりしたように、僕に言った。
「僕らはまずこの場所に穴を掘るんだ」
そのセリフは、何も知らない白姫を、よけいに混乱させてしまったようだった。
「この場所に穴を掘れば、過去の世界へ行けるんだ」
過去の世界から来た男の人は、そんな彼女のために、この場所と過去の世界との関係を説明してあげた。
おかげで白姫も、二つの世界を行き来するからくりを、理解することができたみたいだ。
「そして過去の世界へ行けば――」
僕は作戦の説明を続けた。
「行けば?」
「行ってどうするのですか?」
僕は合点のいかない彼らの顔を見つめた。言葉をうながすためか、それともただ空いた時間を埋めるためか、二人は僕に視線を合わせて小さくうなずいた。
「過去の世界には、埋められる前の池がある」
それでも二人の表情は、じっと硬直したまま動かない。
「僕らは過去の世界の鎌取池から、空想の世界へ行けるんじゃないかな」
そうして僕らは、この場所に大きな穴を掘りはじめた。
大昔の人は畑仕事で培った技術で、スコップという見慣れない道具をあっという間に使い慣らし、白姫は、数日前に僕のスコップが潰れていたことを納得させるかのように、力任せに穴を掘り進んでいく。
そんな中、受験勉強で完全に体が鈍ってしまった僕は、早々に体力の限界を迎え、全くと言っていいほど、彼らの穴掘りの手助けをすることができなかった。
そんな風にして僕ら三人は、過去の世界へ旅立ち、やがて物語の世界を救うことになる冒険の旅に出た。
参考文献
「旭区郷土史」 旭区郷土史刊行委員会/編 旭区郷土史刊行委員会/出版 1980年