「続・プロムナード」朝 芽衣子

1.天王町アイ・エヌ・ジー

 季節は一巡して夏になった。

 天王町にある住宅街に囲まれたテニスコートで、いとも簡単に二人は出会ってしまった。
 運命の人の定義があるとすれば何だろうか。
 朝、雨の線路の上、東京から戻る電車の中で更に昔の夏を思い描く。
 運命の人。
 キリスト教学概論の、牧師である教授が講義で話していた運命の人に出会うための三つのアイ・エヌ・ジー。
 フィーリング、タイミング、ハプニング。

 イチ。フィーリング、もともと何となく、お互いに惹かれ合っていることは目線の追いかけっこで分かった。
 ニ。タイミング、お互いにそれまで付き合っていた人と何となく別れた。(何となく?まあそういうことにしておく)

 でもやっぱりどんなに思い返しても二人の出会いは、まったくもって普通だった。
 各駅で六つ先の駅の大学の、他大学合同サークルで知り合った、一つ年上の、少しふくよかな先輩。
 練習の途中で雨が降ると、駅までの路を決まって一緒に帰るようになった。
 付き合った場所は、星川にある中華街チェーン店のファミレス。

 ガタン、と電車が揺れた。足がよろめく。窓に預けていた額をゴチ、とぶつけて、痛みよりも恥ずかしさが勝る。
 東京から始発で帰る月曜日の朝の電車はなんだかガランとしていて、だから、学生時代の頃の事なんかを、思い出してしまったのだろうか。

 忘れていたけど、サン。ハプニング、そういえばあの日もこんなふうに、風が、雨が、ごうごうと電車の窓を叩きつけていた。

2.和田町ステイ

 「透子」
 三十八度の外気と同じ温度で名前を呼ばれる。うだる暑さ。圧倒的退屈。学生の夏休み。モラトリアム期間とは何でしょう。
 淡いオレンジ色のカーテンは、身体を更にだるくさせた。
 昼間に点いている夏休み限定のシリーズ物のドラマの子役がすっかり大きくなっていることに驚く。
 と同時に、当たり前だとも思う。
 こんな晴れた日に、お昼からドラマをただぼうっと眺めていることに後ろめたさを感じるくらいには、大人になってしまったから。
 でもこの頃、何だかくだらない嫉妬からくるケンカの連続で、二人ともサークルに行かなくなってしまったくらいには、子どもだった。
 「とうこ」
 前髪が伸びた恋人が伸ばした白い手に、湿った腕を掴まれて、タオルケットの世界の中に飲み込まれる。
 圧倒的幸福。

 「日が落ちたら、駅前の商店街ふらふらしてさ、電車乗って、湘南台のカラオケでも行こう」

 君の帰り道だしちょうどいいでしょ、とぼさぼさになった髪をかきあげられて、そっけない返事をしたつもりでいたけれど、今日一番の笑顔を見せてしまったことは、恋人の「ニヤリ」を含んだ眼差しで分かった。
 いつも、いいタイミングでいい感じの提案をしてくれる。昨日買った古着のワンピースを着られる。
 それから、いくつかの近い未来の約束をした。実家の最寄り駅に三年後くらいに完成するショッピングモールに行こう、とか。

 ただ、今は、うだる暑さに溶けきった身体を投げ出す事以外、本気で出来ないと考えてしまうくらい暑かったので、もう少し、あともう少し、このままでいることにした。

 私はいつも、この夏の光景を、自分自身の身体からは分離した視点で、まるで最初から二人を映し出していたかのように思い出される。

 先を見る必要のないことの幸福感。
 退屈も、平凡も、嫉妬も、微睡も、思い付きの計画も、「曖昧」はすべて大人になれたような気がして、何もかも気持ちよかった。

3.横浜エスケープ

 「ずっと一緒に居たいと思うなら一緒に付いてきてほしい」

 世の中には、はっきりと輪郭を持っていて、これから起きること以上の冷酷さを持ち合わせている言葉と、輪郭をすべてぼやかしてしまうような熱を持っている言葉がある。

 前者は色にするとクリアなブルーで、後者はぬるいオレンジ。
 透子にとってこの言葉は、思わず鳥肌が立ってしまうほどの、クリアなブルーだった。

 一年前の夏、社会人になって二年目に入った恋人は、もういいタイミングでいい感じの提案をすることはなかった。
 透子は、自分がどんな表情と声を使って答えを発したのか、あまりもう今ではハッキリと思い出せない。
 あまりにもどしゃぶりの雨が降っているので、帰りの電車が遅延しないことだけを祈った。

 八月の雨のぬるさと湿気を纏った人々が改札を流れていく。
 皆、どこへ行くのだろう。
 恋人は、相鉄線の改札を越えた横浜駅東口の、更に越えた、スカイビルの地下にある夜行バスに乗って、消えてしまった。
 知らない土地へ、遠く遠くへ。

4.続・プロムナード

 気が付くと、相鉄線横浜駅の改札口に足が向かっていた。

 朝、東京からの仕事帰り、遠回りして相鉄線に乗ろうという思い付きが成立したのは、長時間労働によるナチュラル・ハイ現象であったかもしれないし、ただ単純に夏休みの一日目から予定が無かったことも、十分すぎる理由だった。

 久しぶりの車内の空気は相変わらず穏やかで、オレンジ色だった。

 受験票を持って初めてこの電車に乗ったのは一八歳。あれから五年もの時間が流れてしまった。でも、たった五年。
 毎日同じ電車に乗って、毎日同じ車両に乗って、イヤホンから流れる中国語入門編の予習をしながら、この電車一帯を包む空気が、流れる景色が、好きだった。

 繁華街、住宅街、橋、木、空、看板、朝、昼、夜。

 相変わらずガランと空いた電車に、雨上がりの陽ざしが入り込んだ景色は、生活そのものを愛してしまえるほど幸福な空気に包まれていた。今日、遠回りをして正解だったと思える。

 ちょうど、向かいの席に座る妊婦さんと二人。
 車内には人がいないのに、向かいに座ってしまったのは、あまりにも神聖な光景に、ふいを付かれてしまったから、という理由のみだ。理屈は、考え付かない。

 そんなに歳は離れていないように見える。まるいお腹を支えながら、うとうとと午後の日差しにまどろんでいる。

 きれい。

 一八歳の頃の私は、今と同じように、考えただろうか。変わりゆく生活の中で、あの時分らなかったことが、今になって分かる。

 「大丈夫ですか?」

 はっと顔を上げると、向かいに居た彼女はこちらの座席の目の前に、覗き込むようにして立っていた。大粒の涙が頬をつたい、手元と水色のシャツのお腹の部分が、濃いブルーに変色していることに気が付く。

 「私、ここで降りるから。何があったのか分らないけど、元気を出して」

 ありがとう、という言葉がやっと喉の奥から出かけた瞬間に、妊婦さんはドアを降りていった。オレンジ色のガーゼタオルを目にあてながら、人がいないのをいいことに、沢山沢山、長い間涙を流した。あの日、横浜駅で流せなかった分まで、ぽろぽろぽろぽろと。
 運命の人。

 終点。ホームに着くと、完全に雨は上がり、夏の太陽は刺すように街を照りつけていた。
 今日は、あの新しく出来たショッピングモールを下見して帰ろう。

 大丈夫だ。

 終点は始発へと変わる。
 線路は続き、生活も続く。願わくば、愛を知れますように。

著者

朝 芽衣子