「緑のフェアリーテール」星野有加里

「終点、湘南台、湘南台です。お出口は左側です。どなた様もお忘れ物のないようにご注意下さい。本日は相鉄線をご利用下さいまして、誠にありがとうございました」
 アナウンスを終えると、マイクを切り、重い溜息を吐いた。…今日は、長い一日だった。
 ネイビーブルーの最終電車が終着駅に着くと、忘れ物や居眠りの乗客がいないか、終電の車内を先頭車両から点検して廻った。鉛のように重い体を引きずりながら「あとちょっとだ」と、自らを鼓舞して。とりあえず、これが終われば始発までの四時間は仮眠できる
 最も混雑する夕方の帰宅ラッシュ時に、季節外れの台風が関東圏を直撃した。台風は猛威を振るい、線路が一部破損した。修復に時間がかかり、ここ数年で最大級の遅延が発生し、大混乱の中、対応に追われた。苛立つ乗客達。奔走する鉄道員達。繰り返されるアナウンス。不穏な騒々しさが氾濫する駅構内。
「いつになったら電車は動くんだ?」
 殺気立つ乗客達に詰問されるたび、平身低頭恐縮し、「申し訳ありません。まだ復旧の見通しが立っておりません」とひたすら繰り返す他なかった。ダメ押しで、モンスター乗客の罵詈雑言『口撃』で、人格を端微塵に粉砕され、復旧不能なメンタルダメージを被った。
 リニヤカーも発明され、時速五百キロで地上を走れる時代が来ても、人智は天気までは変えられない。神の領域までは侵せないのだ。
 最後尾の車両に入ると、若い女性が一人、まだ残っていた。何やら切羽詰った面持ちで鞄の中をゴソゴソ探している。…はあ。そういう事は電車を降りてからやってくれ。心の中で悪態を吐きつつも最後の余力を振り絞って営業用スマイルを張り付けると声をかけた。
「お客様、どうかされましたか?」
「定期が見つからなくて」
 やっぱり定期か。…と侮る気持ちも、俯いていた顔が上がった瞬間、吹っ飛んでしまった。想定外の清楚な顔立ちを前にして。一気に不快指数も急降下。男とは、かくも単純な生き物なのである。どこかで見たことがあるような気がしつつも、ただの気のせいだろうと流し定石通りの受け答えをする。
「乗られた駅で落とされたのかもしれませんね。改札の窓口で確認して貰って下さい」
「はい、そうします。すみませんでした」
 色白の頬を恥ずかしげに赤く染め、恐縮しながら出口へ向かった。降車間際、ふと立ち止まると、端正な細面が肩越しに振り返った。
「車掌さん、今日少し、元気なかったですね」
「…えっ?」思わず素っ頓狂な声を挙げると、
「今日のアナウンスの声は、いつもよりも半音低かったから」
 はにかみながら意表外の変化球が返され、唖然と立ち尽くす。彼女は、くすりっと微苦笑しながら軽会釈をすると、颯爽と電車を降り、ホームの奥へと消えて行った。

 「…それって、音鉄の一種だろ」
 乗務員室で村木は制服からスエットに着替えながら、あっさりと返した。
「そんなマニアな感じじゃなかったけど…」
 ゴロンと、仮眠用のベッドに仰向けになると、可憐な面差しと秋色のワンピースを反芻した。鉄オタ。そのワードからは程遠い。
 今日は運転士の村木と仕業のペアを組み、一日行動を共にしていた。年齢は村木の方が二歳下だが、四年前に転職した俺とは同期で、気が置けない仲だ。着替えた村木もベッドに横たわると揶揄を含ませ、面白半分に言った
「まあ、色んな種類の音鉄がいるからな。発車メロディや車内チャイムとかだけじゃなくて、車掌アナウンスを録音して収集してる録(と)り鉄とか。まあ、羽生(はにゅう)は声だけはイケてるし」
「声だけとか、余計だっつーの!もういい、今日は疲れたし、寝る!」
「その子、美人だったか?」
 興味津々に尚も食い下がって来る村木に、
「忘れた。おやすみ!」ピシャリと吐き捨て、布団を頭まで被って強制シャットダウンした。
 
 四時に仮眠から目覚めると、制服に着替え、みだしなみを整えた。疲労が残る気怠い体に、濃い珈琲を流し込んで無理やり覚醒させ、点呼を済ませると始発電車に乗務した。
 七時に勤務を終えると、いずみ野線に乗って帰宅した。止まり明けの翌日は休みなので、明後日の七時まではフリーだ。
 四年前に転職し、最初の二年は駅務で、二年前に車掌になった。車掌の勤務形態は、勤務時間や出勤時間はその日の業務内容によって差はあるが、大まかに二パターンだ。早朝の七時から十六時までの日勤と、十七時半から翌朝の七時までの、数時間の仮眠を挟んだ泊まり勤務。最初は負荷が大きかった不規則な生活も、二年も経てば慣れた。今朝みたいな止まり明けは、帰宅してから一旦眠る。起きるのは、いつも昼過ぎだ。
 実家は大和で、相鉄線で生まれ育った。
 少年時代は、鉄道少年だった。黒煙を吹く漆黒のSLに興奮し、新幹線の圧倒的な速さに感動し、豪華な北斗七星の寝台の旅に憧れた。将来は鉄道員になるのだと心に決めていた。大学を卒業後、一旦は商社に就職したが、夢を諦め切れず、一念発起して四年前に転職。
 大和で生まれ育った俺には、やっぱり相鉄が最もしっくりと馴染みやすかったのだ。
 緑園都市駅で降りて、フェリス通りを歩いていると、深まった晩秋の冷たい風が吹き付ける。左折して、緑園大通りをぶらぶらと進んでいく。曲がり角に差し掛かると、少しだけ迷ったが、いつもの寄り道をしていくことに決め、小路を折れた。洒落た家々が軒を連ねる緩やかな坂道をゆっくりと登っていく。
 大和から、この街へ引っ越して半年が過ぎた。緑園都市は高層マンションが建ち並ぶ駅前から十分も歩けば、閑静な住宅地が広がる。美しく整備され、緑も豊かな洗練された街だ。自然とモダンが適度に息づく絶妙なバランス感。巧みに織りなされた華やぎと落ち着き。住み心地も良くて、結構気に入っている。
 スロープをゆっくりと登っていくと、その途中の一角に、木立に囲まれた瀟洒な洋館が建つ。『ベーカリー・フェアリーテール』と英語で書かれた看板を注意して探さなくては、パン屋だと気づかず、見逃してしまう。軒を連ねるお洒落な家々の中に、余りにも自然に溶け込み過ぎていて。この店は、この街で評判の天然酵母のベーカリーショップだ。
 白壁造りの英国風の店。ゲートを抜ければ、季節の花々が咲き乱れる丹念に手入れされた小さなイングリッシュガーデン。数席のテラス席では、購入したパンもイートインできる。
 朝早くから開いているパン屋はそうないので重宝している。ここは職場の後輩の女の子から教えて貰った。小さな店なので、パンの種類も少なめだが、どれを食べても旨かった。
 庭園を横切り、黄色い秋バラで覆われたローズアーチをくぐり、敷石を歩きながら窓から陳列台に並んだパンが見えると心が弾んだ。
 カラン。重厚な木製の扉を開けるとカウベルが鳴る。店内に入った途端、焼き立てのパンの香りが鼻孔をくすぐり、口元が綻んだ。
「いらっしゃいませ」
 客足が途切れていた店内で、焼き上がった白パンを陳列台に並べていた店員が振り返る。
「あっ!」
 叫んだのは、二人同時だった。
 衛生キャップのベレー帽の中に髪をひっつめ、印象はすっかり変わっているが…
「…定期は、見つかりましたか?」
 先に口を開いたのは、俺だった。
「鞄の中の楽譜の間に挟まっていました。ご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした」
 右手にトング、左手にクロワッサンが乗ったトレイを持ったまま、ペコリと頭を下げる。
「見つかったなら、良かったです」
「ありがとうございました。車掌さんは、お仕事の帰りですか?いつも大体、この時間にお見えになりますよね」
 気さくな口調で言われ、驚いた。
「僕のこと、知ってたんですか?すみません、何度も来てたのに気づかなくて」
 バツの悪さに身を縮め謝った。そう言えば、どっかで見かけたような気はしていたが…
「いえいえ、お気になさらずに。車掌さん、いつもテイクアウトされてますけど、今日はお天気もいいし、良かったらテラスで召し上がっていきませんか?モーニングには、イングリッシュ紅茶のサービスもありますから」
 にっこり、天使の微笑で勧められ、反射的に頷いてしまった。本当は、疲労も眠気もピークでさっさと帰って寝たかったのだが。
 テラス席はテーブルも椅子も木製だ。座った木の感触と、高く澄んだ秋晴れの青空に柔らかい陽射しが心地いい。芝生の陽だまりを見ているだけで、心まで温められていく。秋バラやコスモス、ペチュニア、サルビアなど、秋の草花たちが長方形の人工池を取り囲むように咲き乱れる。左右対称に幾何学的にデザインされた典型的なイングリッシュガーデン。
 カントリー風の素朴な秋の自然に抱かれ、新鮮な朝の空気を吸っているだけで、心身が洗われるようだ。毎日駅で沢山の人波に埋もれ、忙しない日々の中、ささくれだった心の棘が一本、一本抜け落ちていく。
 ぼうっと座っている俺の脇を、中年の女性客が横切って、店内へ入って行った。カラン。カウベルが精悍な緑園に木霊する。常連客なのか、女性と談笑しながら紅茶を淹れる彼女の姿が窓越しに見えた。こっそりと観察する。
 緑のベレー帽に、同色のイージースカーフタイ。クリーム色のブラウスは、七分丈のパフ袖。ブラウスと同色のタイトスカートに、帽子とタイとお揃いの緑のショートエプロン。
まるで、ピーターパンみたいだ。そういえば、『フェアリーテール』って、お伽噺って意味だよな?…ピーターパンって、妖精だっけ?そんなことをぼんやりと考えていると、カランとベルが響いた。トレイを持った彼女が店内から現れ、こっちに向かって歩いてくる。
 キュートな緑の衣装を纏い、眩い緑園の中を軽快な足取りで近づく華奢な人影を見た瞬間、トクンと甘やかに心臓が波打ち、リアリティが薄れ、ファンタジーの世界に誘(いざな)われた。
「お待たせしました。とびっきりのイングリッシュ・ブレックファーストティーをお持ちしました。茶葉が綺麗に膨らむのを待って、丁寧に濃いめに淹れた極上の一杯ですよ?」
 人懐っこい微笑で、ティーカップとカンパーニュの乗ったお皿をテーブルに置く優雅な所作に見惚れながら、ドキドキと妖しく波打つ鼓動を抑え、「ありがとう」とお礼を告げる。
 白地に緑の花模様をあしらったエレガントなアンティークカップ。その中の紅茶は、木漏れ日を浴びて明るく映える鮮やかな美しい水色(すいしょく)。緑の匂いの中に、淹れたての紅茶の馥郁たる華やかな薫りがふわりと立ち昇る。
「いつも缶コーヒーばかりだから、リーフで淹れた紅茶なんて久しぶりだ、嬉しいな」
「イギリスでは、『ポッドの中の天使のために』と言って、スプーン一杯、多めに茶葉を淹れるんです。そうするとティーポッドの中の天使が、紅茶をおいしくしてくれるんです」
 イノセントな彼女は得意げに微笑む。ポッドの天使。リアリストな俺でも、天使のごとき彼女から、そんなファンタジックな呪文を言われたら、うっかり信じてしまいそうだ。
「じゃあ、ポッドの天使に感謝して頂くよ」
 紅茶を一口啜ると、丁寧に測られた適温の熱さと、深みとコクのある風味豊かな上品な味わいが舌の上でふわっと広がった。
「ポッドの天使、グッジョブ!おいしいよ」
 本音を言えば、ポッドの天使にじゃなくて、目の前の天使に対して褒めたかったが…
「良かった!」彼女は嬉しそうに目尻と口角を思いっきり下げると、トレイの上に残された白パンを乗せたお皿もテーブルに置いた。
「今ちょうど、当店イチオシの白パンが焼き上がったので、良かったらこれもどうぞ」
「えっ、いいんですか?…なんか申し訳ないね…ありがとうございます」
「車掌さんはいつも、カンパーニュとか、バゲットとかハード系のパンを買っていかれますよね?でも、お疲れ気味の朝は、こういうソフト系がお薦めです。ふんわり、焼き立てのあったかい柔らかな白パンを食べれば、疲れと寒さで冷たく凝り固まった体も、ふんわりとほぐれますよ?暗く澱んだ心も、真っ白に生き返りますから。じゃあ、ごゆっくり」
 蠱惑的な微笑を残し、彼女は店内へ戻った。
…確かに真っ白になった。頭の中が。五十億ボルトの秋雷が直撃したような衝撃が全身を疾駆した。天使。さっきはそう思ったけど…
 入口の扉に掲げた木の看板に視線を向けた。
 『フェアリー・テール』…そうだ、彼女のイメージは、妖精に近い。女神や天使というと、遥か彼方の高い天上界にいて、全く手が届かない神聖な遠い存在という感じがする。高嶺の花とでも言うべきか。でも妖精なら、森の中や、こんな自然味溢れる緑園にもフワフワ飛んでいそうで、手を伸ばせば触れられそうな、親しみ易さがある。ピーターパンも、妖精だ。手を伸ばせば、触れられそうな…
 木の扉に手をかけた緑の妖精の後ろ姿へ、無意識に手を伸ばしていた自分に、はっと気づいた。我に返ると、慌てて手を引っ込める。…一体、何をやってるんだ、俺は。思春期の中学生でもあるまいし、三十路にもなるいい大人の男が。…第一、もう女なんてコリゴリのはずだろ。再びあんな絶望を味わうぐらいなら、一人で生きていく方がずっとマシだ。
 慎重に自らに諭し、白パンを齧った。ふんわり、しっとり、ふくよかなソフトな歯触り。惜しみなくたっぷりと使われた上質なバターと濃厚なミルクや新鮮な卵がブレンドされた程よい甘味。普段食べ慣れたハード系のがっしりとした歯応えとは異なる軽やかな食感と優しい甘さに、鈍麻していた味覚が刺激され、息を吹き返す。…彼女の言う通りだった。
 一口、二口、柔らかいパンを食べれば食べるほど、頑なに強張っていた心と体がふんわり解(ほぐ)れていく。真っ白な温かいパンを食べるごとに、冷たく凍り付き、灰色に煙った心が熱情と白さを取り戻していく。間接照明の優しい橙色の明かりが体内に灯されたように。まるで、緑の妖精に魔法をかけられたような清福に満たされ、夢中で白パンを貪った。優しさや温もりに飢えた餓鬼のように。
 
 近頃はすっかりインドアになっていた俺にしては珍しく、突如思い立って、足を延ばして和泉川沿いを散歩した。和泉川を上って行くと、桜川公園があり、更に上って行くと和泉川親水公園広場がある。この辺り一帯は、春になれば桜や菜の花が咲き誇り、絶好のお花見スポットになる。でも今の俺は、華やかなピンク色の花弁に見下ろされながら桜並木を歩き、両脇から鮮やかな黄色の菜の花に迎えられても居心地が悪いだけだ。だから、今の時季の方が好きだ。秋風に揺れる枯淡な茶色のススキ穂を眺めながら詫びた風情の土手を散歩する。
 歩き疲れて緑の草原で寝転んだ。空を流れるひこうき雲をぼんやり眺める。もうすぐ秋も終わる。冬が巡り、また春が訪れる。百花繚乱の艶やかな花々に囲まれても、その頃には臆することなく、その美しさや華やぎを愉しめる余裕を取り戻せているだろうか?…自信は、ないな。急激に萎みそうになる気持ちを止めるように、パンパンに膨らんだ綿菓子のような白い雲を探した。真っ白な雲を見つけ、じっと眺めていると、無性に『フェアリーテール』の白パンが食べたくなった。
 止まり勤務明けは毎朝帰りにフェアリーテールへ寄った。あれほど好んで食べていたハード系のパンはすっかり食べなくなり、白パンやロールパンやブリオッシュなど、ソフト系のものばかりオーダーするようになった。テイクアウトをやめ、テラス席で食べていくようになってから、焼き立てのソフトパンのおいしさだけでなく、色々な美味を味わった。丁寧に淹れられた紅茶の奥深い旨味や、みずみずしい朝の陽射しをたっぷりと浴びた青々と煌めく緑の生命力や、バラやダリアやパンジーなど、秋を彩る甘い花の香りも。そして、緑の妖精の魅力も。彼女が休みの日もあったけれど、時に妖精は、悪戯めいた笑顔や仕草で俺を攪乱し、罪作りな小悪魔と化した。
 身近過ぎる現身(うつしみ)の人間でもなく、遠すぎる天上界の天使でもなく、適度な距離感の妖精。きっちりとキャラ設定を定めて、明確なバリアを張り、一線を引いて接していれば、必要以上に深入りし、再び瀕死の深手を負う事もない。そうちゃんと割り切っていれば、この小さな森のテラスで過ごすひと時は、まさに至福だった。緑の妖精が運んでくるパンと紅茶と笑顔を堪能する、このささやかな時間は。
 仕事明けの朝の小一時間を、自然に囲まれて過ごすだけで疲労も癒えた。帰宅後も熟睡でき、以前と違ってすっきり快調に目覚める事ができた。そうすると、その日一日が有意義な時間へと変貌していく。たとえば、缶コーヒーか、せいぜいインスタントコーヒーしか飲まなかった俺が、バリスタを購入してみたり。たとえば、引き籠りがちだった休日に、こんな風に電車に乗って、いずみ中央まで出向き、散歩をしてみるとか。
 三十二歳にして早くも余生のごとく惰性で回していた平坦な日常が、小さな森の中の緑の妖精との出逢いを機に、徐々に彩色されていった。
 
 「あ、車掌さん、おはようございます」
 フェリス通りと緑園大通りが交差する曲がり角でバッタリ、妖精に遭遇した。泊まり勤務明けの日課となったパン屋へ向かう途中で。
 緑園を飛び出した妖精と下界で邂逅するという予想外の展開に意表を衝かれ、狼狽を隠せず、ワンテンポ反応が遅れてしまった。
「おはようございます。よう…じゃなくて、えっと…パン屋さん」
 危ないっ!うっかり『妖精さん』と呼ぶところだった。彼女は、ぷっと噴き出した。
「こんな往来で、パン屋さんなんて呼ばれると、なんか変。柊(ひいらぎ)です。柊(ひいらぎ)花音(かのん)」
「僕は羽生といいます。…今日は、お店はお休みなんですか?」
 いつもの緑のパン屋スタイルではなく、艶のあるチョコレートブラウンのセミロングの髪を下ろし、芥子色のノーカラーワンピースコートを纏った彼女を見詰めながら言った。
「今日は一限から講義があるので、開店準備だけ手伝って、これから大学です」
「大学生だったんですか?てっきり、パン屋さんが本職なのかと思ってました」
 驚きの余り、つい声が裏返ってしまった。…じゃ、フェリスか。この道は、フェリス通り。この先にフェリス女学院がある。…言われてみれば、妖精のごとき、可憐なお嬢様系の彼女は、フェリスのイメージにぴったりだ。
「週に三日、親戚のパン屋でバイトしてるんです。大学に近いので便利ですよ」
 喋りながら、突然はアーモンド型の形の良い大きな瞳で俺の顔をじいっと凝視した。至近距離で美人に見詰められ、鼓動が早鐘のように打ち、カアっと顔が火照り、狼狽する。
「車掌さん、仕事明けなのに、今朝はそんなに疲れた顔をしてませんね。最近は、車内アナウンスの声も、半音低くなったりしないし」
 気遣いの色が滲む漆黒の双眸を目の当たりにし、反射的に記憶がフラッシュバックした。
「最初に会った夜も、同じことを言ってましたね。…僕の声が半音低かったって」
「あ、実は私、絶対音感を持ってて。だから、聴き慣れた声だと、ちょっとした違いにも敏感に反応してしまって。車掌さんの声は、毎日のように電車で聴いてるから」
「そうなんだ…絶対音感なんて、すごいな。俺なんて、リズム感の欠片もないから、尊敬するよ。歌も苦手だし、楽器も弾けないし」
 …ほらみろ、村木。やっぱり、音鉄マニア女子じゃなかったじゃないか。音痴な自分とは程遠い絶対音感という響きに、絶対的な高潔さを感じ、畏敬の眼で彼女を見詰めた。
「でも、車掌さんの声は、ちょうどいい感じの声ですよ?聴いていて落ち着くっていうか。私、車掌さんの声、好きですよ」
 ドキっと、百オクターブぐらい心臓が高鳴った。…落ち着け、俺。声だ。好きだと言われたのは、あくまでも声であって、本体じゃない。勘違いするな。期待するな。
「あ、それはどうも…」
 俺の全開の動揺も露知らず、彼女は涼しい顔をして饒舌に続けた。 
「私、演奏学科でチェロを弾いているんです」
「えっ、チェロって、ヴァイオリンに似た、あの大きな楽器ですよね?」
 驚愕の余り問い返すと、可笑しそうにくすっと笑いを零した。
「そうそう、その大きな楽器」
 意外だった。こんな華奢で小柄な彼女が、あんな大きな楽器を演奏するなんて…
「チェロは、あらゆる楽器の中で人の声に最も近い音を出すって言われてます。車掌さんの声はチェロの中低音に似ていて…だから、聴いていて、なんかほっとするんです。電車に乗ってて、アナウンスが車掌さんだったりすると、アタリだ!って、密かに喜んでます」
 彼女は、ふわっと焼き立ての白パンのように柔らかく微笑んだ。くらり、眩暈がした。見慣れたフェリス通りの街並みが、ぐにゃりひずんでいく。…やっぱり、妖精だ。この愛くるしさ、到底生身の女性とは思えない。
「こんな声でよければ、いつでもどうぞ…」
 声を褒められた事は何度かあるけど、可憐な妖精に、こんなに天真爛漫に賛美されたら、俺の背中まで羽が生えて、まさに天まで昇りそうな心地に包まれてしまった。
「あっ、遅刻しちゃう!じゃ、失礼します」
 腕時計を見た彼女は慌てふためき、軽く会釈をすると、足早に立ち去った。
「引き留めて悪かったね、行ってらっしゃい」
 行きかけた彼女は、ピタっと立ち止まると、くるりと振り向いた。
「車掌さんが最近元気なのは、きっと体に優しいうちの天然酵母パンを食べているせいですよ!ちなみに、今日はデニッシュがお薦めです!ちょうど今、焼き上がったばかりですから、是非召し上がってって下さいね!」
 無邪気にぶんぶんと大きくて手を振ると、踵を巡らし、重力を感じさせない軽やかな足取りで再び走り始めた。遠ざかる華奢な背中から翼が生えたように。透き通るような清爽な朝、このうえなく甘酸っぱい余韻を残し、妖精はフェリスの花園へと飛んで行った。
その強烈な余韻が、人間と妖精の間に明確に濃く弾いたはずの線をブレさせた。脳内で警鐘が鳴り響く。立ち尽くす俺に、冬の到来を告げる冷たい突風が吹きつける。ザワザワと、街路の葉擦れの音と共に不穏な胸騒ぎがした。

 リビングのテーブルに置いたチケットを見下ろしながら、はあっと深い溜息を吐いた。
『今度の土曜日、湘南台のプラネタリウムで十三時からミニコンサートをやるので、もし都合がついたら、是非来て下さい!』
 満面の笑みで渡されたコンサートチケット。
今朝、指定席と化したテラス席に運ばれてきたのは紅茶と白パンと、このチケットだった。
 あの小さな緑園を飛び出して、他の場所で逢ってしまったら、彼女は妖精ではなくなってしまう。緑のコスチュームを脱ぎ、いつかの朝のようにお洒落な私服で逢ってしまったら、生身の人間になってしまう。等身大の女性として、この眼に映ってしまう。
 …もう、あんな想いは二度としたくない。
 キリリと軋むような痛みが鳩尾に走り、顔を歪め、ギュっと下唇を噛んだ。

 ドアが閉まり、緑園都市駅を発車した。
 五日間悩み続け、決心がつかないままとうとうコンサート当日を迎えた。十六時の開演時刻が迫り、ギリギリ間に合う時間になって、とりあえず家を出た。駅に着いてもまだ迷い、電車に乗っても尚、答えが出せない。湘南台まで五駅。たった十五分で境界線を踏み越える勇気と決意が持てるのか。それとも終点の湘南台に降りたら、そのまま反対車線の電車に乗ってUターンしてしまうのか。 
 電車はいつもと同じ速度なのに、流れゆく見慣れた車窓の風景が、やけに早く切り替わっていくように感じた。
 半年前の夏の初め、大和から緑園都市に引っ越したのは、環境を変えて人生をリセットし、心機一転、再出発するためだ。
 近所の引地川の千本桜が咲き誇る頃、花見をしようと約束をしていた休日に、婚約者が家を出て行った。三年も一緒に暮らし、十二月に挙式するはずだったのに。『好きな人ができた。その人と結婚したい』と言って。 
 この半年帰宅が遅かったり、外泊が増えたり、スマホをいじってる時間が増えた事実に目を背け、表面的な平和と調和を優先させた俺が悪かったのか。今となっても分からない。
 悪夢を見ているとしか思えず、現実感もなく、ただ茫然とする俺を尻目に、有能な事務員の彼女は、婚約破棄に纏わる一連の雑事も、その敏腕ぶりを発揮し、てきぱきとこなした。 
 相手はフェアで賢く、そして経済力のある男だったようだ。「後で揉めたくないから、彼があなたに婚約破棄の相場の慰謝料を払いたいと言っているから受け取って」と言われた。
 八か月後に妻となるはずだった人に、そこまで言われて初めて、思い知った。これは悪夢でも何でもなく現実なのだと。
 男のプライドで、慰謝料の受け取りを頑として拒否したら、その旨の念書を書かされた。結婚するつもりだった彼女に、三年一緒に暮らしたリビングで、鬼気迫る様相で誓約書を突き付けられた瞬間、俺は絶望のどん底に突き落とされた。無条件に信じていた永久不変の絶対的なものが一瞬にして崩壊していく音を聞いた。それらは一片の欠片も残さず、跡形もなく冷酷に消えていった。
 引地川の桜の葉が万緑に変わる頃、俺は三年間の想い出の残骸が色濃く残酷に染みついたアパートを引き払い、緑園都市へ移った。
 それから、桜が嫌いになった。桜を見ると、思い出してしまうから。地獄のようなあの時季を。桜が散るように潔く、一抹の未練も涙も見せずに俺の前から消え去っていった元婚約者を。
 いずみ中央に停車した。タイムリミットはあと二駅。俺のちっぽけな優柔不断を載せたまま、電車は定刻通り無情に発車した。
 もう恋も結婚もこりごりだ。一人で適当に気楽に生きていくんだ。そう決めたら、何だか急に色んな情熱が薄れていった。
 今年は念願の運転士の試験を受けて、少年時代からの夢を果たそうと意欲を燃やしていたのに、それもどうでも良くなってしまった。自分の人生すら操縦し切れない俺に、沢山の人々の命と日常を運ぶ電車の操縦なんて、そんな大きな責任を担える自信もなかった。去年、村木が運転士に昇格した時、羨ましくて妬ましくて仕方がなかった。なのに、すっかりそんな熱情すら冷め切ってしまった。
 ゆめが丘を通過し、湘南台駅に着いた。普通の顔をして、仕事帰りや学校帰りの乗客達が降りていく。ありふれた日常。普通の表情。
 車両から出ていく人を一人一人見送った。
 …ようやく俺もあの中の一人に戻れたところじゃないか。絶望の日々から浮き上がって、人並の平穏な生活を取り戻したばかりだろ?もう一回あんな経験をしたら、次は間違いなく廃人だぞ。車両の中の最後の乗客が降りると、想いを断ち切り、逡巡に決着をつけた。
 ホームへ降りると、そのまま反対車線の横浜行きの電車に乗った。扉付近に立ち、粟立つ胸のざわめきを、ぎゅっと手すりを掴んでやり過ごす。ホームに置き去りにした未練を車内から見遣っていると、発車のベルが鳴り響いた。「ドアが閉まります…」アナウンスが流れた瞬間、反射的に電車を降りていた。思考も理性も吹っ飛んでいた。頭は真っ白にスパークしていた。衝動に衝き動かされるがままにG出口をめざして、ホームを走っていた。
 …なんで降りたのかって?そんなの分からない。本当は分かってるけど、分からないふりをしていたい。認めてしまったら、また堂々巡りの迷宮入りが再開してしまうから。
 考えるな、感じろ。ブルース・リーもそう言っていたじゃないか。直感と衝動が俺を進ませる。ブルース・リーほど勇敢にはなれないし、俺はこんなに優柔不断でみっともないちっぽけな男だ。でも、今だけはブルース・リーの百分の一の勇気は出したい。もういい加減、悩み飽きた。今は何も考えない。これ以上悩むなら、何かが始まってしまってからにしよう。
 人の声に最も近いチェロの音。一心にその音色に耳を澄ませれば、きっと彼女が語りかけてくれるような優しい浸透度で、この胸に沁み込んでいくだろう。そしたら…
 きっと、何かが変わる。俺は変われる気がする。たとえこの感情が、恋と呼べるほど明確でクリアな輪郭をなす感情まで育っていなくても。確信に満ちた可能性は駅を出た途端、小春日和の眩(まばゆ)い陽光に重なって、キラキラと全身に降り注いだ。息を弾ませて走りながら、道路の反対側の湘南台公園に立ち並ぶ桜の紅葉が視界に飛び込んだ。
 あの桜が薄紅の花を咲かせる頃には…
 来年は花見に行くのだ。次の春までには、もう一度、桜を愛おしめる自分を取り戻したい。だって、俺は桜が大好きだったのだから。
 そんな未来を信じ、巨大な地球儀型のプラネタリウムの中へ、勢いよく飛び込んだ。

著者

星野有加里