「緑の園」北島君恵

 横浜駅から乗り換えて、初めて降りた駅は小さかった。
ホームから階段を下ると改札口には青色の制服を着た駅員がいた。
私の手汗でよれよれになった切符を受け取ると「ありがとうございました」と言った。
駅の床にはベニヤ板が敷かれ、駅の外にまで続いていた。
導かれるように歩き、外に出ると小さな広場があった。
お昼前だというのに歩いている人は誰もいない。
駅から続く坂道を見上げると、大型のクレーンが春の青空を突き刺すようにそびえ立っていた。
まわりには何台ものダンプカーやミキサー車が黄色い土煙をあげながら動き回っている。
周りは何もなく、まるで昔の西部劇に出てくる荒野のようだ。

 「緑の園の都市」と書いて「りょくえんとし」って言うんだ。
駅前で待ってて。車で迎えに行くから。

「緑の園って……。ここのどこが緑の園なの……それに都市って」
思わず「ぷっ」と吹き出しそうになった。
同時にぶるりと震えるような不安が体を突き抜けた。
たまらなくなり、私はその場にしゃがみこんでしまった。買ったばかりのスカートの裾が汚れてもどうでもいいと思った。
人目は無い。
三月の日差しが柔らかく注いでいるはずなのに。
誰もいない。
坂の上の方からアマガエルのような姿のグリーン色の車、RX7が滑るように降りてきて私の前にぴたりと止まった。
「待った?どうしたの、具合でもわるいの?大丈夫か?メシの支度できてるみたいだから早く乗って」
助手席から見る彼の横顔も少し緊張している。
これから彼の両親に初めて会いに行くのだ。
若い二人を乗せたカエル車は土埃をまき散らしながら坂を登っていった。
昭和の時代が、あと何年か後に終わってしまうなんてその時誰が想像できただろうか。
二人で新しい未来を築くことに夢中だったから、近くの森で上手に鳴き始めたウグイスのさえずりさえ耳には入らなかった。


 彼の家の茶の間では、すでにお酒で顔を赤くした彼のお父さんが座卓に陣取り、上機嫌で私を迎え入れてくれた。
「おやじ、酒弱いくせにそんなに飲んじゃって」
呆れたように彼が席につくなり言うと
「なに言ってんだい。今日はめでたい日だよ。ようこそ。ようこそ。さ、さ、座って、座って。珍しいもんはないけど、どんどん食べてちょうだいね。うちのカミさんが作った茶碗蒸しはうまいよ」
「おやじ、テンション高いな」
私は嬉しかった。彼のお父さんもお酒の力を借りて、照れや緊張をほぐしているのだろう。卓上には彼のお母さんの気合の入った料理の数々が隙間なく並べられていた。
飲み物を載せたお盆を手に、お母さんが台所からいそいそとやって来て席に着いた。きちんとセットされた髪に、綺麗な柄のエプロン。メガネの奥の柔らかい眼差しが、私に向けられる。笑顔が皆を包み込み、なごませてくれる。
お父さんはお酒が進むにつれ、饒舌になっていく。
「こいつは、おれやカミさんに似なくて男前だろ。大事にしてやってね」
「アンタ、何言ってんのよ」
お母さんの合いの手が絶妙なタイミングではいる。
「おれはこんなに薄くなっちゃったけど、こいつにはこうなってもらっちゃ困るんだよ」
艷やかに光った広いおでこをさすりながら笑う。
「大丈夫だよ。俺、オヤジに全然似てないから」
「あはっ。そっか。ま、いっか」
笑いがこみ上げる。「ちゃんと似てるって」私は心の中でつぶやく。
北海道で生まれ育った私は、エビの入った薄い塩味の茶碗蒸しがとても珍しかった。北海道の茶碗蒸しは甘いものが多い。
この人達となら幸せになれる。銀杏をかみしめながら心に決めた。


 息子が産まれた。駅を見下ろせる西側の丘の上にあるアパートで暮らした。夕方、夫を駅に迎えにいきがてら小さな息子を乗せたベビーカーを押す。駅にはたくさんの人々があふれ、今日の業をなし終え家路を辿る。改札口に夫の姿を見つけ、手を振る。
 土埃をあげていたあの場所には、立派な高層マンション群が建ち並んでいる。周りの緑の樹々が絵のように美しく生い茂り、モダンに生まれ変わった駅を囲んでいた。いつの間にか「緑園都市」という駅名がぴたりと当てはまる街になっていた。すごいものだ。まるで魔法だ。
二丁目の丘の上の教会の屋根に沈む夕陽の赤が、あまりにも綺麗だったので涙がでそうになった。故郷の夕陽を思い出した。決して生活は楽なものではないけれど、夫がいて家族がいる。この新しい街に暮らせることの喜びや、ささやかな自然の営みに触れるとき、人は心が動くのかもしれない。
そんなことを考えていた。

 時代が平成に替わると、緑園は益々にぎやかになっていった。
斬新な街並は、全国の視線が集まり、すでに憧れの街になりつつあった。有名なドラマの舞台として、何度もテレビなどのメディアに登場することとなる。毎日が楽しかった。
そして、息子もこの街と一緒にどんどん成長し続けた


 もう使うこともない息子の学習机をいまだに捨てられずにいた。
埃をかぶったままの、ブリキでできたペリコプターの形をしたオルゴールが棚の上に置いてあった。
息子が五歳のときに、駅前の新しくできたスーパーの中の文房具店で買ったものだ。これが欲しいと言って駄々をこね、その場を離れようとしなかったから困り果て、渋々買ったのだった。
―― 動くのかしら
ギリギリとネジを巻き上げると
ブリキのプロペラが頼りなげに回りだし、「ユーモレスク」の曲が流れた。
あの頃の息子の幼い顔や、緑園での日々の思い出が映像となり、涙と共に溢れ出してきて、私は立ち尽くしたまま、どうすることもできないでいた。

 彼女を連れて家に行くから。と連絡があったのは先日のことだ。
――でかしたぞ、我が息子。あんたを好きになってくれたお嬢さんだもの。母さんは大歓迎だよ
 ご馳走を作って待ってるよ。薄い塩味のエビ入りの茶碗蒸しもね。
来年、夫は定年を迎える。
いつの間にかお父さんそっくりになってしまった。
「お父さん。私があの人に苦労ばかりかけちゃったから。約束まもれなくてごめんね」

 ふと見上げると、仲良く並んで今は額縁の写真の中にいる、彼のお父さんとお母さんがこちらを見て、にっこりと微笑んでくれたような気がした。

著者

北島君恵