「緑の電車と星の家」匿名希望

見ごろを迎えたイチョウ並木が日差しを受けて輝く。
晩秋の空気に磨かれた澄んだ青空を目指して
金色の道が登っていくかのように見える。
舞い散る落ち葉すらそのひとつひとつが黄金色の光のようである。

―と、まあ見る分にはいい。
実際、ここを登るとなると―・・

「坂の町」保土ヶ谷の宿命である。
このイチョウ並木もまた長い長い坂道だ。

この金色の坂を、その名もイチョウ坂と呼ぶ。

二人とも、二十年ぶりくらいだろうか。

「近くに住んでいると逆に足が向かないもんだね」
ため息交じりに坂を見上げる。

ここは、かつて「明神台団地」があった丘である。
「取り壊したのは、私が中学の時だったかなあ」
すぐ近所に引っ越したし、現在も近くに住んでいるが
取り壊し以来ここに足が向いたことはない。
イチョウ坂から分岐する細いつづら折りを登りきると芝生の広場がある。
平日の昼間ということもあり、人の姿はほとんどない。
坂道を登りきると高層マンションが立ち並ぶ街区に出る。
縦横に広い道が走り、芝生が植えられた広場もある。
現在建物は30棟もないが、
昔はここに50棟近い団地がひしめいていた。
「あれ?トミヤはもうない?」
「クリーニング屋さんはあるみたいだけど・・」
昭和34年完成の明神台団地は
住居だけでなく商店も並んでおり、
同時完成の他の団地と同じく団地の中で生活がほぼ完結するようにできていた。
現在はほとんどの商店が姿を消し、イチョウ坂側の街区の端にコンビニ、
反対方向の星川側の商店がわずかに残っているだけのようだ。

地形そのものはほぼ変わっていないだろうが当然建物の配置は全く違う。
「・・・うちは、どこだったっけ」
彼らの住んでいた棟は、同一規格の板状住居と違い
独特の形状の建物だった。
明神台団地どころか、ほかの団地群でもほとんど姿を消した
「スターハウス」と呼ばれる建物だった。
二人の思い出の残照はほとんどないようだ。

小学校低学年くらいの子供が歩いてきた。学校帰りのようだ。
「―あの子たち、後輩、かな?」「かもしれないね」
一人はやや背が高く、もう一人は小太りの男子。
その真ん中に活発そうな女の子。

「私たちもああだったのかな」

数年前の、そして、数か月前の記憶が蘇る。

―どうにも「タイミング」というものは「良い」ものより
「悪い」ものの方が多い。
「特に僕たち夫婦は」と夫は一人になったリビングでぼやく。
もとより言葉が足りない人間であることは自覚がある。
自覚があるがゆえに、補おうとしてかえって
余計なことを言ってしまうこともある自覚もあった。
妻もそれを知っていたはずだが、タイミングが最悪だったのだ。
あの日。
新年会の席で女性の後輩に
「どうして課長はお子さん作らないんですか?」
という極めて不躾なことを聞かれた、と妻にこぼした。
彼としては
「こういうのって、男のが女性に言ったら
 セクハラとかになるよね。でも今日みたいに
 逆だったら許されるのはなんでだろう」
という不満を述べたかっただけなのだ。
女性進出は結構だが、本当の平等に扱ってほしいもんだ・・と。
酒のせいもあったか、妻の地雷を踏んだことに夫は気が付かなかった。
いつのもならこの辺で妻の相槌が入るが―
「―あなたは、なんて返したの?」
「別に。人それぞれだしって返したよ。」
大きなお世話だ、逆だったらセクハラと騒ぐだろうにとため息をつく。
妻の返事がない。
ああ、そうか。
夫の酔いがすっとさめる。
「あのさ、何度も言うけど、僕は子供がほしくて君と結婚したんじゃないよ」
もう全然気にしていないと思っていた。
責めるつもりで言ったわけではない。
酔いもあってついこぼしてしまったのだ。
「ごめん、僕が無神経だったかな」
―ここは、謝るのが一番早いか。
妻は無言のままだ。
そういえば、酔っていて気が回らなかったが
いつもより元気がなかった気がするが―重苦しい沈黙が続く。
その空気に多少苛立ったのか、やや強い口調で夫は言い放った。
「こんなこと今更気にするなよ」
「―こんなこと、で、今更、なんだ」

夫婦というのは他人同士だ。最小の異文化交流ともいえる。
いつもなら時間が修復するような些細な軋轢もすれ違いも
何か別の方向から力が加われば一気に破たんすることもある。

妻は気にしないようにはしていたのだ。
子供ができないと診断されて、それでも
「僕は子供がほしくて君と結婚したわけじゃない」
と言ってくれた夫には感謝している。

けれど。
         
夏の盛りの横浜駅は空調のそばにいないと
たちどころに汗が噴き出してくる。
一番線ホームで、各駅停車を待つ。
ささやかなものしか入っていないはずのかばんが、重く感じる。
暑さと喧騒に目を閉じると、年下の後輩の言葉が蘇る。
「子供のいない主任にはわかんないですよ」
後輩の言葉にはいつもそういうニュアンスが含まれている。
保育園の迎え、子供が熱を出した・・・
子育ては大変なんだなあ、と思いながら
サポートはしてきたつもりである。
それでも、ミスがあれば注意しなければならない。
その都度、彼女は無関係な「子供」を盾にした。
「子供がいるから、大変なんです!いない人にはわからないでしょうけど!」
周囲もあきれ顔で、後輩の肩を持つ人間はいなかった。
―あの子がああなのは、いつものことだし。
その日、家路につくと、夫はまだ帰宅していなかった。
―あまり飲みすぎないといいけど。
事前に言われていたし、夫が会社の飲み会につきあうのは珍しいことではない。
気にもしていなかった。
その酒宴で夫が言われた一言と、後輩に言われた一言。
どちらもとても些細なことだったはずが―
「こんなこと今更、なのにねえ」
自嘲気味にあの夜の言葉をつぶやく。
あの夜以来、ほとんど口を利かなくなって。
なんとなく避けるようになって―
カバンの中の書類に至る。
それにしても暑い―というより、熱い。
めまいを覚えて、ベンチに座り込む。
自動販売機で飲み物でも、と重たい頭を上げると
いつの間にか、電車が入ってきていた。
薄緑色の車両だ。
古い電車。まだ走っていたんだ―。

そんなことを思いながら暑さから逃げようと車内に入る。
乗客は、自分ひとりであった。
平日昼間の下りとはいえそれでも一人というのは珍しい。
一瞬不自然さを感じたが気疲れと暑さで参ったのか
電車が動き出す前に寝入ってしまった。

「星川、星川です」

車内アナウンスに起こされる。
意識を戻すと電車はすでに目的地についているようだ。
まだ意識がはっきりしていないが
あわてて電車を降りて改札に向かう。
が、しかし。
―カバンを置いてきてしまった!
駆け戻るが時すでに遅し、目の前でドアが閉まり、電車は発車した。
ついてない―
区役所に出す予定だった例の書類はおろか、財布もすべてあのカバンの中だ。
しかたがない、駅員に事情を話して・・・とここにきて違和感に気づく。
なんだか、色々、低い。
まず、自分のいるホームが高架ではない。地上ホームに立っている。
星川駅はすでに下りホームは高架に切り替わっているはずだ。
既視感はある。
正真正銘の星川駅では、ある。しかし。
―ここは高架になる前の星川駅だ。
そしてもう一つの違和感。
「お嬢ちゃん、どうしたのかな?」
とりあえず駅の事務室に来たてはみたものの―。
穏やかそうな中年の駅員がわざわざ事務室から出てきて
少し腰をかがめて顔を覗き込んでくる。
「お・・お嬢ちゃん?」
40に手が届く女捕まえて何言ってるんだと思いながら
相手の顔を見上げる。
・・・見上げてる?
そういえば妙に、自分の視点も低い。
自分の背がずいぶん縮んだように感じた。
自分の手を見る。小さい子供のような手。
いや、ような、ではなく、本当に子供の手である。
一体何が起こったのか。
「どうしたのかな?大人の人は一緒じゃないの?」
駅員の問いかけに答える余裕がない。
その様子を迷子で心細くなったのだと思った駅員は
ことさら優しく話しかける。
「いたいた、春ちゃん」
背後から、のんびりした子供の声がした。
くりくりの坊主頭に小太りの体。
人のよさそうな笑顔の少年。
30数年前の姿の幼馴染だった。
「僕が切符持ってるんだから一人じゃ駅から出られないよ」
「ああ涼君か。デートかな?」
「違うよー」
鉄道が大好きで駅にも頻繁に顔を出していた涼介は
顔見知りの駅員にからかわれて顔を真っ赤にしている。
気を付けて帰るんだよ、と駅員に見送られて改札を出る。
「来た来た、心配してたのよ」
元の世界の自分と変わらない母が改札で待っていた。
「お母さん・・・」
「なに、どうしたの?」
目の前には夏の日差しにあぶられている明神台の丘。
丘の上からそびえているはずの高層マンションの姿はない。
子供のころに戻ってしまったんだろうか?どうして?どうやって?
「あの、私どうしてここにいるの?」
涼介も母もきょとんとした顔をする。
「どうしてって?」「大丈夫?春香。日射病?」
この事態をどう説明したらよいのか。
「ええと、横浜駅で電車に乗って」
「うん!6000系だったね!6000系はさ・・」
話の降り方を間違えたと、春香はすぐに後悔した。
延々とこの鉄道少年に相鉄の車両の話をされることになるだろう。
話半分に聞きながら、春香は考える。
タイムスリップなんてことが現実にあるのだろうか?
でも―これが現実だとすれば
未来を変えることができるかもしれない。
涼介の話が旧6000系から新6000系の話に移行したあたりで
郵便局の前の交差点の信号に差し掛かる。信号は青だ。
―もし過去の世界に戻ってきたのだとすれば―
渡ろうとする涼介を春香は引き留めた。
「どうしたの春ちゃん?」
「涼ちゃん、あのね・・・」
「信号変わっちゃうよ?おばちゃん、行っちゃったよ?」
「聞いて。あのね、信号が青でも車が走ってくることがあるの」
春香は引き留める手に力を込める。
もし本当に過去の世界に戻ってきているなら、
この朗らかな鉄道少年の未来を変えられるかもしれない。
「だからね、信号が青でも、気を付けてね。絶対だよ。」
「・・・うん、わかった。」
わかったようなわかってないような雰囲気である。
―これから何回かしつこく言った方がいいかしら。
いくらなんでも、彼の未来をそのまま告げることははばかられた。

この時代から10数年後、彼は信号無視の車にはねられて
帰らぬ人となってしまったのである。

星川駅から明神台団地へ抜けるには
スポーツ用品店の脇から寺院の前を通る坂を登るか、
イチョウ並木の坂―「イチョウ坂」を登るかのどちらかであるが
たいてい、春香たちはイチョウ坂から脇に入ってつづら折りを登る。
つづら折りを登った先にはバスが駐車している。
正確には、廃バスを利用した図書館である。
「そうだ、春ちゃん、図書館寄ろう。いいでしょ、おばちゃん」
涼介は春香の母に了承を得るとバスに入っていく。
誘われるまま、懐かしさも手伝って春香も車内に乗り込む。
古い本の独特のにおい。すでに先客がいた。
「健ちゃん、いたんだ」
春香たちと同じ棟に住む健太郎だ。
春香としては気まずい。

彼女にしてみれば―のちの夫である。

健太郎はよく、この図書館バスで一人本を読んでいた。
シリーズものの歴史の漫画本が好きだった。
「また、全部、読んだの?」
「うん。もう来れないから」
何回も読んでいるその本から顔を上げず、さらりと言った。
―ああ、「今」はあの時なんだ。
子供時代なのはわかっていたが、大体の日時が今わかった。
健太郎が引っ越す前後だ。
当時は子供だったために春香は知らなかったが、
後に本人や春香の両親に聞いたところによると、
両親が離婚し、はじめは父に引き取られたが
結局、遠戚に引き取られることとなったそうだ。
実父もそれを機に引っ越していった。
実父は女性と一緒に住んでいる、とも風の噂に聞いたが
健太郎も引っ越し以降連絡はとっていないという。
そのことに対し「可愛げなかったから嫌われたんだろうね」
と本人はこともなげに言っていた。
実父の元にいたときでもすなわちこの団地に住んでいた時も
今でいう放置児のような扱いをされていたようで、
家に入れず涼介の家や春香の家で食事をしたり
泊まったりすることも多々あった。
当時は友達が家に来ているとしか考えられず春香は楽しんでいたが
今思えば健太郎の心中いかばかりか、とも思う。
彼は顔には決して出さなかった。
そんな事実があっても、傷ついた風でもない、
寂しがる風でもない、淡々としている。
変わらないな、と春香は思った。
離婚届に判を押したときもこうだった。
わかった、と軽く判を押した。
―いつまでも引きずる私に愛想が尽きていたのもあるのだろうけど。

「いーこと思いついた!」
健太郎がにかっと笑う。
春香は「あの日」の記憶を手繰る。
確かこの後に、健ちゃんが急に―。
「春ちゃん、大きくなったらお嫁さんになってよ」
子供とはいえ、思いつきでなんということを言うのか。
いや、大人になってから唐突な部分があった。
何の前触れもない行動や言動にたまに振り回された。
涼介は呆気にとられて健太郎を見ている。
「・・・どうして?」
努めて冷静に、春香は聞きかえす。
「春ちゃん好きだから!」
そしたらまた一緒に遊べるよ、とあっけらかんと答える。
子供らしい発想である。
健太郎は、子供の前では子供らしい部分もあった。
本来はここで春香も無邪気に「うん」と答えるのだが―
「お嫁さんには、ならないよ」
他愛もない子供の約束ではある。
しかし、この約束がこれ以降二人の心の隅に残り、
それが果たされたがゆえに、
お互い傷つくことになるのだ、と春香は思う。
涼介は呆気にとられたまま、今度は春香を見る。
彼もとんでもない場面の立会人になってしまったものだ。
「春ちゃんまで僕を嫌い?」
健太郎は深く傷ついた顔をする。初めて見る顔だ。
「春ちゃん『まで』」という言葉にはっとなる。
自分は親に嫌われたのだろう、とのちに彼自身が言っていた。
「えっと・・・・」
相手を思えばこそ、未来を変えようと思った。
だが、それはただの自分勝手だったのかもしれない。
思えば彼は負の感情を出すのが苦手だったではないか。
それは好意でも同じことだったのではないか?

「駄目かあ。わかった。じゃあね」
すぐにいつもの表情に戻るとあっさり引き下がり、
健太郎はバスを降りて行った。
追いかけようとも思ったが、それもできず、春香はただ見送った。
黙っていた涼介が口を開く。
「春ちゃん・・・仲良くしなきゃダメなんだよ?」
涼介はいつも、二人が喧嘩するたびにそう言っていた。
「あなたに何がわかるのよっ」
思わず強い口調で言い返し、すぐに後悔する。

―さっきから、子供相手に何言ってるんだろう、私。

自分は大人でも、二人はまだ子供ではないか。
涼介はとても気弱で泣き虫だった。
きっと大泣きしてしまう。
「ごめん、涼ちゃん、ごめんね」
予想に反して涼介は泣き出すことはなかった。
泣いてはいないが、ひどく悲しそうな眼をしている。
その目に、春香は違和感を覚えた。

         
「・・・・はいはい、それはわかったから。
 今日、健ちゃんお見送りに行くんでしょう?」
どこで覚えたのやら、と昨晩から
ずっと両親にがん検診の重要性を語る
小学校一年の娘に母は戸惑っているようだ。
春香は両親とも、癌で亡くしている。

玄関のドアがノックされる。
「はーるーちゃーん!いーこーおー!」
元気な涼介の声だ。昨日のことなどなかったように。
春香は躊躇ったが
「はーるーちゃーん!」涼介はお構いなしだ。
「わかった!今いくね!」
と、ある決意をして玄関に向かう。
「行ってらっしゃい」
「気を付けて。健ちゃんによろしくな」

珍しく、玄関先まで両親が見送りに来た。

三角を描く階段を降りる。
「スターハウス」と呼ばれるこの建物は
この階段を囲んで三方向に部屋があり、
上から見るとYの字に見える。
この特異な階段もまた、彼らの遊び場だった。
よく、家から閉め出された健太郎が座り込んでいる場所でもあった。
この階段は共用廊下のようなものだ。
「・・・三人で遊んだよねえ、ここで。
4階のおばあちゃんにうるさいってよく叱られてさ」
妙に大人びた、懐かしむようなことを涼介が言う。
「涼ちゃん・・?」
「あ、健ちゃん来た!健ちゃん!」
何重にも重なった三角形のむこうから
実父ではない男性と健太郎が降りてきた。
「健太郎、お友達か?」
「・・・うん」
写真でではあるが春香は男性に見覚えがあった。
健太郎の養父だ。ぶっきらぼうだが、優しい人だったという。

星川駅に向かう間、ほとんど誰も口を開かなかった。
何とも気まずい。
春香も当初、来るつもりはなかった。
昨日のことを謝るべきだとついてきたのだが
なかなか口火が切れない。
そうこうしているうちに、星川駅についてしまった。
改札の前で、ここでいいよ、と健太郎は言ったが、
涼介が頑ホームまで見送ると言い張った。
春香と涼介は入場券。
健太郎たちは海老名までの切符。

ほどなくして、電車が入ってきた。
この列車はここで急行の通過待ちのようだ。
「じゃあね、涼ちゃん、春ちゃん。ありがとう」
「元気でね、・・・健ちゃん」
涼介が少し涙ぐむ。
「これ、あげる。二人でやって」
健太郎が背負ったリュックを開けると、
中からゲームソフトを差し出してきた。
「いいの?」
涼介がためらいがちにそれを受け取る。
急行列車が通過していく。その走行音に負けないように春香は声を上げた。

「あたしやっぱり、健ちゃんのお嫁さんになる!」

謝るよりも、こっちの方がいいんじゃないか、
と思った結果であるが――何とも恥ずかしい。
涼介が昨日と同じように呆気にとられた顔になる。
健太郎も自分が言い出したわりに、驚いている。
養父だけは、にやっと笑った。
「なんだおい、責任重大だぞ、健太郎」
「・・・・うん」
発車のベルが鳴った。
「またね」
その一瞬だけ、やっぱり健太郎はさびしそうな顔をした。

列車が去ったホームにはただただ蝉の声だけがこだまする。
健太郎を乗せた電車はとっくに見えなくなっている。
―これでよかったのか、どうか。
「・・・春ちゃん、帰ろうよ」
のんびり屋の涼介に即されるほど長い間立ち尽くしていた。
「これは、春ちゃんが持ってて」
先ほどのソフトを、涼介は春香に渡す。
「・・私、ファミコン持ってないよ」
「いいから」
本来の記憶では、これは涼介が持ち帰ったはずなのだが。

階段を上がりながら、この時代に来た時のことをふと思いだす。
考えてみれば、子供だけで電車に乗って横浜まで言った記憶がない。
春香はとにかく、涼介は電車好きだったが臆病で、
子供同士だけで乗るなどできない子供だったはずだ。
それと、今朝も―
「春ちゃん、そっちじゃないよ」

蝉の声が止んだ。

自然と明神台方面の改札に向かっていたが、
大人の声に引き留められ、春香は振り返る。

そこにいたのは相鉄の制服に身を包んだ涼介―
大人の姿の涼介だった。
子供のころと何も変わらない福々しい満面の笑み。
「この恰好で会ったことはないね」
図書館バスで、そしてあの家で覚えた違和感。
涼介もまた、本来の年齢でないような感じがしたのだ。
―やっぱりそうだったのか。
「・・・これは、やっぱり、夢なの?」
夢であってほしくなかった。
涼介はさびしく微笑むだけだ。
「じゃあ・・じゃあ、涼ちゃんは・・」
大人の姿とはいえ現実の世界の春香よりずいぶん年下に見える。
彼は大人になって、念願だった電車の仕事についた。
―それからすぐに、事故にあった。
「僕、心配だったんだよ」
健太郎と春香のことが。

「僕だけじゃないよ、春ちゃんちのおじちゃんたちも
 二人のこと心配してたんだよ」
「・・・お父さん達が?」
実際の話、春香は今朝のように両親とそろって朝食などとったことはほとんどない。
共働きで時間が合うことなどほとんどなかったのだ。
玄関先に見送りに来た両親の姿が思い浮かぶ。
「とっても心配してたんだ・・・だから、帰ろう」
「・・・わかった・・・」
最後ならば、もっと両親と話せばよかった。
たとえこれが夢でも。
「あとね、春ちゃん・・・ありがとう」
「最初にここに着いたとき、僕に車に気をつけろって言ってくれたでしょ」
とっても嬉しかったんだ、とはにかむ。
「でも・・でも涼ちゃんは・・・」
こらえきれなくなって涙がこぼれる。
まるで本当に、中身まで子供に戻ってしまったみたいだ。
「泣かないで、春ちゃん」
涼介は戸惑いながら大きな体をかがめて春香の目を見る。
「困ったなあ、僕、大人になっても
 春ちゃんが泣いたらどうしていいかわからない」
大人になったんだけどなあ、と本当に困惑した表情を見せる。
「あの、もう、時間になっちゃうんだ」
「・・うん、わかった・・・」
涙を乱暴にぬぐう。
「こすったら、目が赤くなっちゃうよ、春ちゃん」
「大丈夫・・ありがとう、涼ちゃん」
亡き友の、変わらない穏やかさが
新たに涙を生むのを春香は必死でこらえた。

星川駅の横浜方面ホームにはあの時と同じように、
いつの間にか薄緑色の車両が停車していた。
相鉄6000系だ。
その列車の先頭車両、その一番前の扉に立つと、
春香を待っていたかのようにふしゅう、と扉が開いた。
「乗って、春ちゃん」
こちらに来たとき同様、車内には誰もいない。

春香は座席には座らず、運転室のガラスに貼りついて
運転席にいる涼介の背中を見つめる。
もっと話すことがあったかもしれない。
ガラス一枚が遠く感じる。
涼介が少し振り返り、微笑んだ。
そして再び、前方をにらむと、二度と振り返らなかった。
「出発進行」
「発車」
ゆったりと、列車が動き出し、規則的な走行音を刻む。
速度を上げた列車は天王町駅には入線せず手前でふわりと線路を離れる。
離れた、ようではあるが空中に見えない線路でもあるのか、
相変わらず鉄路を踏む音がする。
天の鉄路は川沿いのセメント工場を眼下に見ながら大きく右にカーブ、
6000系は空に壮大なループを描いてさらに空高く駆け上がり、
そのまま夏の綿菓子のような雲に突っ込む。
延々と真っ白な雲の中を薄緑にオレンジの縁取りをした6000系が進む。
雲の切れ間から眼下に再び星川の町が見えてきた。
明神台の団地群がマッチ箱のように並ぶ。
Yの字の棟も、あの図書館バスも見える。
―さよなら。
6000系が長く遠く、警笛を鳴らした。

気が付けば、清潔感を主張するかのような白い天井を見上げていた。
泣いているのが自分でもわかった。
その涙をぬぐう手がある。
「―気が付いた?」
安どの表情を浮かべる夫の顔が目の前にあった。
「ここは―」
「病院だよ。春ちゃん、横浜駅で倒れて、熱中症で」
ああ、そうだった。あまりに暑くて―
「でも、なんであなたがここに?」
「・・僕、駅から連絡を受けたんだけど・・」
確かに、緊急連絡先は暫定的に夫である健太郎だ。
「私、カバンは・・」
「カバンはここにあるよ」
急いで中身を確認する。財布と、携帯電話と・・・
「・・どうしよう」
「何か、無くなってるの?」
「ごめんなさい・・その・・離婚届が見当たらない」
夫は呆けた顔になった。
「ありゃ」
「ごめんなさい本当に・・どうしよう」
まあいいさ、と夫は大事とも思っていない様子である。
感情を見せないようにふるまうのは昔からのようだ。
だからわかりづらくて誤解を招く。
「先ほど」は「お嫁さんになる」といったものの、
現実で再びそんな態度をとられると癪に障る。
落としたわけはないはず・・・とカバンの底を探ると―
「あれ、それ・・懐かしいね」
出てきたのは、ゲームソフト。
あの時星川駅でもらったものと同じだ。
「まだ持ってたの?」
この言葉の真意はなんだろうか。
未練がましいと思っているのか、純粋に懐かしんでいるのか・・・
どうにも、斜に構えてしまう。
それよりも、いつの間にこんなものがかばんに入っていたのだろう。
星川駅での「ついさっき」の情景が蘇る。

「・・・・夢を、見た」
「夢?」
「昔の夢。団地に住んでた時の夢」
「でも、春ちゃん泣いてたよ」
「お父さんとお母さんがいたのよ。涼ちゃんも・・・・」
「涼ちゃん・・・」
夫はその名をつぶやきしばらく考え込む。

君は怒るかもしれないけど、と夫は前置きして
「実は来る途中に電車の中で寝ちゃったんだ」
ちっとも眠くなかったんだけど、と不思議そうに首をかしげる。
「そしたら、寝過ごして湘南台に―」
「まあ」
彼は一報を受けて横浜に向かっていたはずなのに、
戻ってしまっていることになる。
「いや、正確には寝過ごした夢を見たんだ」
実際には一駅―和田町~星川間―しか寝ていなかったという。
「夢の中で起こされてね、車掌さんに。誰だと思う?」
健太郎は懐かしそうな笑みを浮かべている。
―終点ですよ。
夢の中でそう声をかけてきた「車掌」は
大きな体をかがめて、ちょっと怖い顔をして覗き込んできたという。
「怖い顔?」
いつもにこにこしているか、困った顔をしていたのに。
「うん、それでね」
―仲良くしなきゃ、駄目なんだよ。
子供の時と変わらない言葉。
怖い顔を作るなど涼介は慣れていなかったのか、
すぐに笑顔に戻ったという。
そこまでが、夢だった。

「気が付いたら、星川を通過するところだった」
高架の隙間からわずかに、明神台が見えたのだという。
すっかり、面影はなくなっている。
それでも―
落ち着いたら、帰ってみようかしら―
「いーこと思いついた!」
思い出のゲームソフトをひとしきりいじってた健太郎が声を上げる。
「イチョウ坂に行こう」
「イチョウ坂?・・・明神台の?」
「そう、紅葉の時期に、二人で」

相変わらず、唐突な夫である。

―遠くで、電車の音がした気がした。

著者

匿名希望