「緑園の歩行者」重藤 啓

「エスカレーターは駆け上がったり駆け降りたりしないでください」
 聞きなれたエスカレーターの自動音声が、帰宅ラッシュの足音と混じり合って耳に届く。くたびれた足でエスカレーターに乗り、二階に着くと重い足取りで歩き出す。
 混雑する夕方の横浜駅。相鉄線の改札へ入ると、快速湘南台行きの電車は既にホームに到着していた。家の最寄り駅で降りたらすぐ、改札へ向かう階段に真っ先にたどりつけるように、四号車で空いている席を探す。運よく見つけたスペースに、腰を深くうずめて座りこむ。
 四号車は女性専用車なので、買い物帰りや仕事帰りの女性が多い。あわただしく乗り込んでくる彼女たちは皆、車内に自分の定位置を見つけると、安心したように長い息を吐く。
 私も、ようやく家に帰れるという安心感からか、リュックサックを抱きしめたまま緩やかな眠りに落ちた。
 
 私は横浜市の端っこに住んでいる。緑園都市駅と弥生台駅のちょうど間にある家に、両親と姉と四人で暮らしている。
 東京の大学に通うようになってからは、周りの人に最寄り駅を訊かれて緑園都市と答えても、知らないと言われることが多くなった。
 高校を卒業するまで、相鉄線沿線が自分を取り巻く世界の全てだった私は、かなり戸惑った。ときどき、ああ緑園でしょう知ってるよ、と言われると、その人が昔からの友人であるかのように愛おしくなるほどだった。

 まだ空が明るい夕暮れ時。
 駅から家に帰る途中に白いタイルの坂道がある。美容院から漏れるシャンプーの香りを含んだ向かい風と、高架線の上を通過していく電車の振動が心地よい。目を細めて伸び上がるように息を吸い込むと、軽々と坂を上っていくことができた。
 緑園都市から弥生台の方向へ、線路に沿って坂道を歩いて行くので、私のすぐ横を電車が追い越していく。金網と線路の隙間から延びる無数の猫じゃらしは、頷くように向かい風を受け流して揺れている。
 この辺りに家を持っている人は、生垣として花の咲く木を育てていることが多い。私の鼻を通って肺に入る風は、草木の優しい匂いがする。片道二時間半の通学で疲弊した私の心を軽くする、季節の匂いの風。この日は微かに金木犀の匂いがした。
 
 学校が休みの日は、まとまった買い物をするために駅まで歩く。化粧品も文房具も本も、必要なものが駅の近所で全てそろうのは便利だ。
 高架線を潜り抜けて続く坂の両脇には、複合ビルが並んでいる。そのビルの趣が私は昔から好きだった。階段が迷路のようで、幼い頃は意味もなく上り下りしたい衝動に駆られていた。飲食店や生花店が同じビルの中に収められて、ビル自体が小さな町のように見えた。母はよく、幼い私の手を引いて、ビルの中を通り抜けて、ドラックストアに買い物に行った。
 コンクリートの複合ビルの通路は、抜け道や、風の通り道としての役割も果たしている。吹き抜けの天井から空を見ることもできる。その清々しさが癖になり、今でもよく通路を通り、空を見上げている。
 複合ビルの中を通って、本屋へと向かうのが私の休日の楽しみだ。複合ビルの中の店舗が入れ替わっても、本屋の場所だけはずっと同じだった。地元であることへの安心感からか、通学の途中にある大きな書店よりも頻繁に、この本屋を訪れていた。
 道路を挟んで本屋の向かい側には文化会館がある。かつては、その中のギャラリーで、企画の展示を無料で見ることが出来た。ギャラリーへ行こうと誘う両親に連れられて、よく絵の展示を見に行った。
 私の知らない町の絵を描く画家のシリーズが好きで、無料でもらえる詩織をいつまでも大切にとっておいた。
 いつかは私もここで個展をやってみたい。美術大学に入って、絵の勉強をして、私の見てきた私の町の風景を描いて飾りたい。
 有名になったら、遠い町に住む人も見に来てくれるかもしれない。むかし緑園都市に住んでいた人も、足を運んでくれるかもしれない。
 こんな場所があるんだ。
 懐かしいね。
 ここ良く通るよ。
 自分の中にある町の記憶を共有できたら、どんなに楽しいだろうか。そう胸を躍らせながら、幼い私は背伸びして、展示されている絵を眺めていた。
 私が美術大学に入学した頃には、既にギャラリーは役目を終えて閉館してしまっていた。
それを知ったのは、閉館してから数年経ってからだった。
 街路樹の隙間から姿を覗かせる文化会館を見ると、懐かしい感情が込み上げてくる。
 私はいつか、あそこで個展をひらくの。そう胸に留めた思いは消えないまま、私は今でも緑園都市の街並みを眺めながら、この町を歩き続けている。

 通学に二時間半もかかると、緑園都市に着くころには辺りがすっかり暗くなっていることがよくある。夜の八時を過ぎると、心配性の両親が車で駅のロータリーまで迎えに来てくれるが、それより早い時には歩いて帰る。  
 いつもの坂道を、その日の風を受けて歩いて行く。坂の途中でふと振り返って駅の方を眺める。まるで夜空の中に現れたような、青く光るプラットホームがそこにある。    
 その奥に連なる高層マンションは、オレンジ色の光の霧に包まれていた。家の部屋の窓一つ一つから、生活の灯りがこぼれて、町全体が星屑を抱えているように光る。
 この一瞬の胸の高揚がある限り、私はこの町で暮らし続けるのだと思う。

著者

重藤 啓