「線路の終わりに」二見松陽子

          ◇
 みんなの想いにね、寄り添えられればいいなって、ずっとずうっと願っていたんだよ。
          ◇

〈そ〉のお話/相思相愛。

 せめて今日は残業を避けたかった。が、願い叶わずに結局終電だ。急ぎ足で相鉄線の横浜駅へ。2階の改札を抜ければ、電車の顔が見える。よし、間に合った!ホッとする瞬間。混むとはわかっていても、つい1両目に乗り込んで、その安堵を確かなものにしてしまう。
 まだいくつか空いているつり革。ぐぐっと片手で握り、浮かぶ腕枕に頭を任せ、ぼんやり思う。10年前の今日、父さんが亡くなったことを。本当はさ、早く帰ってビールでも飲みながら偲びたかったのにな。なんて、父さんの顔をはっきり思い浮かべてもいない内、人波に押されてしまい、間もなく電車は走り出す。ゆっくりと構内を抜け、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと……あれ?疲れ過ぎだろうか?この電車、海老名に向かって走ってない!横浜発の電車なのに、横浜方面に走行?あり得ないことだ。相鉄線の横浜駅は終点で、折り返ししか走れないはずなのに。周りは眠るか、スマホを見るか、音楽を聴くか、漫画を読んでいるか。話したり、ぼんやりしたりしている人たちでさえもわかっていないみたいだ。どういうことだ、これは??目を閉じて、少しでも体を休ませよう。その間にも体は揺れを感じ、海老名と逆方向に走っているのは明らかだった。
 どれだけ経ったか。瞼の裏越しに光を感じる。深夜のはずなのに、おかしい。思い切って瞳を開けば、薄いエメラルドグリーンのでっかい球体が4つ。中にガスが入っているアレが見えたら、平沼橋駅近くってこと。そして、この電車、今も横浜方面へ走行中だ。しかも、他の乗客がいない。驚くべきか、怖がるべきか、はたまたアクション映画並の脱出劇を講じてみるか。自分でもよくわからない内に電車はまた横浜駅に戻った。降り立った構内には人がたくさんいたけど、いつもの2階の改札ではない。崎陽軒の売店とかハンコ屋とかがある。駅ビルであるジョイナスのかつてのテナントだ。懐かしさが先立ち、体の向くままに髙島屋へ。このルートは子供の俺が母さんに連れられて歩いたルートだ。
 両親は俺が3歳のときに離婚した。父さんが酒飲みで、母さんに暴力を振るっていたから。俺は母さんに引き取られて、祖父母のいる大和へ移った。父さんは市内を走る軽貨物輸送のドライバーをしながら、それまで住んでいた天王町のアパートに残った。酒が入っていない父さんは何も問題なく、俺が高校生になるまでは月に2回くらい横浜で会っていた。住んだり、会ったり。いずれも相鉄線沿いで、父親と離れた感じをあまり抱かずに育ったのだった。その父さんは酒好きが災いしてか、肝臓癌に。俺が高校1年生のときに手術したものの、5年後に再発。入院からの一時帰宅中、ひとりぼっちで亡くなってしまった。
 今の髙島屋の1階は化粧品で溢れているけど、俺が子供のころは噴水広場があり、よくそこで待ち合わせをした。まさかとは思い、1階に行ってみる。聞こえてくる水の音に胸が高鳴った。今日は父さんに会える!並ぶ木製ベンチの端、赤いニットを着た父を見つけた。
「よぉ、昇太。スーツ、似合ってんな」
「……父さん。あ、ありがとう」
「待ちくたびれて、腹減ったよ。今日はピザでいいか?」
「いいよ!ビールも飲もうよ」
「ビール、飲ませてくれんのか?」
「1杯だけだよ」
父さんは満面の笑みでジョイナスの地下へ。ニコラスというピザの専門店があるのだ。赤いチェックのテーブルクロスの上で、薄皮の生地に濃厚なトマトソースとチーズたっぷりのピザを食らう。今はないお店のはずなのに、まさに今、味わっている。
「なるほどね、瓶ビールと合うよ」
「お前もわかるようになったんだなぁ」
「だからって、父さんみたいにガブガブ飲まないよ。二日酔いで仕事したくないし」
「そうか。で、仕事はおもしろいのか?」
俺に答えさせる間、ちゃっかり手酌で2杯目に進もうとする父さんを制し、システムエンジニアとは何ぞやと話す。父さんが生きた時代は、まだこんなITの世の中ではなかったから。
「まぁ、大体は知ってるぞ」
「え、何でよ?」
「いいからよ、今日はお前が飲め」
 生ビール派の俺だからなのか、久々の瓶ビールにひどく酔ってしまった。騒がしい音で、意識を取り戻す。
「ご、ごめん。寝ちゃってた?」
「いや、しっかり飲み干してたぞー」
父さんの声は聞こえども、姿が見えない。それに、すごい人混み!果物の甘い匂いが届き、サンシェードに積まれた段ボールが視界に入ると、ここは松原商店街なんだと認識する。
「えっ!?ちょっと待って!」
赤い背中を追うと、見覚えのある魚屋で父さんは止まっていた。白いねじり鉢巻をした店員と何やら話している。たまに天王町で会ったとき、父さんはここで魚を買ってはお土産に持たせてくれたっけ。
「昇太ぁ。刺身、持ってくか?母さんと分けろよ。今日は殻付きの帆立もうまいらしいぞ」
「いや、……俺、明日も早くから出勤でさ、そのボリュームはさすがに食べられないよ」
「そうか。じゃ、兄ちゃんさぁ、焼酎に合う盛り合わせで頼むよ」
父さんは家でもしっかり飲む気だ。10年ぶりに会えたっていうのに、結局はお酒しか頭にない姿を見て、急に腹が立ってきた。
「ちょっと、父さん!忘れたの?酒のことばっか考えてさ、あんなに苦しんだじゃんかよ。あんな最期を迎えて、まだ酒って言うわけ!?」
「いやー、あのさ、お前も飲めるようになったのが嬉しくてさ。ついね」
揚々とし過ぎていた表情を父さんは緩める。
「そうだな、もう帰りな。母さんも心配してんだろ。お前こそ、仕事で体を壊すなよな」
 そう言う父さんの背後から、魚を狙っていたらしい茶色の猫が突然こっちに飛んで来る。反射的に俺はその場にしゃがんだ。いきなりびっくりするじゃないか!怒り立ち上がれば、そこは大和駅。地下のホームだから、昼間なのか、深夜なのか、わからない。今までのことは一体何?恐る恐るエスカレーターに乗って改札へ向かうと、深い紺色の空が見えた。駅前の広場に出て、深呼吸をする。身体を撫でていく風。今度こそ現実に感じる。父さん。怒らないでもっと傍にいればよかったな……。そう後悔しても、一向に夜風が吹くだけだった。ただ、相変わらずな父さんに短時間でも会えたのは本当に嬉しくて、ちっとも肌寒く感じない。
 父さんの忠告も虚しく、システムプログラムの仕事は依然忙しい。あの後も幾度か終電に乗ったけど、さすがにもう逆走しない。当然と言えば、当然だ。横浜駅の線路の先には巨大なペンチの先っぽみたいな物が待ち構えていて、これ以上は進めないようになっているんだから。でも、実はこれに秘密があるんじゃないかとあの日から疑い始めた。仕事柄、あちこちの電車に乗るから、こういうのを見る機会が結構ある。意識して他線のを見てみると、この巨大ペンチをただの白い壁の囲いで覆っていることが多い。相鉄は違う。外観を濃淡の黄土色のタイルで覆っているんだ。ここに気を遣うのがイケている。この空間がタイル貼りで大切にされているのは、きっと他にも理由がある。そう、俺みたいな体験をした人、きっと他にもいるんじゃないかな?

〈う〉のお話/裏が表で、表は表。

 『じゃんけん、グー!じゃんけん、グー!じゃんけん、グー!』
心の中で叫ぶ、私なりの験担ぎというか、おまじない。相鉄線の横浜駅で降りると、先頭車両が停まっている先にいつもチョキっぽいのが飛び出ているから、それを見て唱えるんだ。こんなこと、めっちゃ恥ずかしくて誰にも言ったことないけど。もう小さいころからの習慣で、これをやるとおもちゃ買ってもらえたり、福引きが当たったり、今でもセールで狙っていた服をゲットできたりね。
 今日もそのお蔭で、大学のゼミでの研究発表会は大成功!学内のホームページや広報誌に載せてもらえることになっちゃった。テーマは“言語と非言語の異文化コミュニケーション”だったけど、国際文化と歴史に溢れる横浜が私には身近にあるんだもん。そりゃ、強いでしょ!でね、今日はそれだけじゃなかった。同じゼミで、ちょっと気になっていた林田くんに告られたのでした!
 そんな一日を思い返して、ついニヤニヤしながらの帰りの電車。1番線の湘南台行はまだ人もまばらで、余裕で席に座れた。そこでちょっと冷静になった。半分勢いでOKしちゃったけど、本当に林田くんとお付き合いしていいのかな?少し気になっていたくらいだもん。何か気まずい感じがする……。どうしよう。急に焦る。ヤバイなーって思ったら、走り始めた電車もヤバイことに!いきなり地震みたいに車体が横揺れし出すの!体も前後に揺れて座席から放り出されそう。マジヤバだと思って、目をギュッと閉じた。
 まだ揺れが止まんない。どうなってんの?片目を開けてみてたら、自転車に乗っていた。見覚えのあるハンドルを握って、黒いローファーでペダルを漕いでいる。あれ?私、高校生に戻ってる?オレンジ色に染まり始めた桜並木のトンネルを抜けて、体はいずみ野駅へ自然と向かってしまう。
 駅の入り口で自転車を降り、柵の下に広がるホームを見下ろす。こうやって、高校3年生のときは好きな人をこっそり見つめてたなぁ。同じクラスの尾上くん。私は自転車通学で、彼は電車通学。友達を見送るフリをして、尾上くんへ目線を送っていた。見てるだけでも幸せな恋だってある。目が合うだけで、少し近くにいるだけで、ちょっとお話できただけで、自分が吹っ飛ぶくらいに超ドキドキする。尾上くんが私に全然興味ないってわかったら、逆に悲しいし。まさかの両思いで付き合えたとしても、それはそれで何も手に付かないから困る。適度な距離がベスト。臆病でもないし、気持ちを押し殺してるんじゃないし、これがホントの気持ち。当時のね。
 深く考えないで、自転車を乗り捨て、ホームまで行くことにした。このときの私は瀬谷のはずれに住んでいて、雨の日だと自転車での通学は厳しいから、電車に乗って松陽高校まで通ってた。だから、久しぶりの構内。あのころと変わっていないけど、ホームには誰もいなかった。でも、電車は来た。これに乗ったら、帰れるかな?
 ドアが開くと、朱色のシートが広がる。何だかほっとして、すぐ座った。後ろの窓から外を覗けば、彼が乗った電車もあの上から見てたんだなって思い出す。バイバイ、尾上くん。バイバイ、いずみ野駅。
 前に向き直ると、ギョッとした。まさかの尾上くんが対面に座っていたから。
「大荷物だね」
あ、懐かしい。18歳なのに、この落ち着いたトーンのアナウンサーみたいな声。髪は栗色の茶髪で、部分的に金髪のハイライト。そういう見た目とのギャップも好きだった。
「大荷物、だね」
「え?大荷物?」
「それ」
「あっ、あ、大丈夫、大丈夫!」
私の隣りには新聞紙で包んだキャンバス。確かに私があのころも持って帰って来た物。
「尾上くんのは?今日までに持ち帰らなかったら処分するって、仲山先生が言ってたよ」
「あー、美術で描いた油絵?」
「そうそう」
「要らない。別に飾るわけじゃないし」
私だって、飾るために持ってきたんじゃない。ここには君の絵も包まれてる。私のはあくまでもカモフラージュなの。最後まで取り残されていた尾上くんの静物絵が欲しかった。ホントのことを伝えようか、どうか。悩んでいる内に電車は3駅過ぎて、二俣川だ。私は海老名方面へ乗り換え。尾上くんは鶴ヶ峰に住んでいる。あのときから星川に住んでたら、このまま自然に乗っていられたのにぃ。
「じゃ、じゃぁね!」
秘密の荷物を抱えて、精一杯のサヨナラ。すでにイヤホンを耳にしていた尾上くんは微笑んで、手を軽く挙げてくれた。どうしよう、めっちゃ泣きたい。降りなきゃよかった。急行を待ち合わせて停車中だし、また戻る?それは怪し過ぎるよね。仕方なくベンチに座って、気が晴れるまで泣いた。背後で電車の出発する音が聞こえる。いいの、これでいいの。自分に言い聞かせて、重い足で改札階まで歩く。
 「あれ?星川?」
確かに二俣川で降りたのに、目の前は星川駅の改札口だった。制服も着てないし、あの荷物もなく、今日大学に行った格好だった。今までの、何?後ろから来る人たちに流されて、PASMOをタッチする。丸っこい猫がダッシュで横切ったこと以外、いつもの駅と同じ。変な夢と言い、さっきの猫と言い、今日はマジでぶっ飛んでることだらけ。
 帰り道、橋を渡って帷子川を見下ろしながら思い出した。あの絵、引っ越しのときも捨てていないから、今も家にあるはず。ダッシュで帰宅して、クローゼットを探せば、ほら、あった。2人ともマスカットとガラスの花瓶に造花、バックは美術室のブルーのカーテン。同じ絵を描いていた私たちだけど、高校生活はお互いに違っていた。黒髪キープで部活に塾通いにと忙しかった私。茶髪で学校もサボりがちだった尾上くん。なかなか接点がなかったけど、彼が美容師の専門学校に通ってることだけは友達のSNSを通じて、こっそり知っている。それぞれの道をがんばって進んでいる。それだけで大きな励みになる。尾上くんにはそういう存在であり続けて欲しい。
 油絵を見つめてたら、メッセージの着信音。
『家に着いた?よかったら、話そうよ』
林田くんからだ。うん、話したい。今の私は、やっぱり君とスタートさせたいよ。

〈て〉のお話/照らされる生活。

 お袋がこんな長生きするとは思わなかったが、デイサービスと僕のお世話、あとは94歳なりの元気さだけで過ごせているのは幸いである。
「この前から言ってるけど、今日は帰りが遅くなるよ」
「夕飯は一人でってことかい?」
「そうそう。用意してから行くから」
「なら、あのミートローフがいいんだけど、本当にないの?」
「ない、ない。もう何十年も前からないよ」
さすがに記憶力も耳も弱くなっていて、繰り返し言わないと理解できないことも多い。ミートローフの件もそうである。三ツ境駅に駅ビルの三ツ境ライフができたとき、『ローゼンハイム』なる洋風総菜屋があって、そこでミートローフを買ってきたら、お袋は大層気に入ったのだった。あんときのお袋は65歳手前くらいで、膝が弱いために自宅から20分近くの駅まで出掛けることはなく、新しくなった三ツ境駅について、もっぱら僕が語ったものだ。
『へぇ、三ツ境ストアがねぇ。随分なお店を入れたもんだねぇ』
『だから、三ツ境ストアはなくなって、4階建ての三ツ境ライフってのになったんだよ』
 そう話しても、お袋の頭の中は未だに三ツ境ストアのままだ。
「じゃー、三ツ境ストアまで行って来るよー」
お袋に伝えていないが、今日は中学の同窓会が横浜であるのだ。僕は独身のままで、古希も近い今、こうやって母親のお世話をしているもんだから、元気にしている昔の仲間に会うことは楽しみ極まりない。
 近所にある長屋門公園の散策路を歩き、深い緑の中の空気を吸って、さらに歩いて駅まで。これが僕の今の健康の秘訣。スーパーの相鉄ローゼンでお買い得品を探すのも頭の体操だと思っている。
 今日はお袋の好物、穴子の寿司を調達できた。今からまた出掛けることを伝えたら、大きな皺に囲まれた瞳が寂しそうに見えた。でも、僕はわかっている。テレビを独占して見るのを実は楽しみにしていること。ただ、やけに今日は庭で猫がうるさく鳴いているから、テレビを満喫できるかどうか……。まぁ、お袋には聞こえないか。
 電車を待つ間、ふと思った。お袋が相鉄線に乗ったのはいつが最後だったかと。電車で横浜へ向かうワクワクとした感情をもう何十年も抱いていないのは、悲しいことだ。そして、僕もいつか乗れなくなる日が来るのか?考えたくもないことだな。そこにちょうど電車がホームに入り込んで来た。おや、今日のは車体に絵が描かれている。船やら山下公園やら街の景色やら。昔も見たことあるぞ。復刻車両だろうか?横浜の名所で彩られたこの電車に乗ると、あんときも気分が高揚したっけなぁ。颯爽と乗ると、運良く僕の好きな席が空いていた。車両の繋ぎ目のところだ。
「洋?」
ふいに僕の名前を呼ばれ、隣を見れば、なんとお袋が座っているではないか!
「お前、横浜に行くんだね?」
「あっ……、あぁ。お、お袋こそどこへ?」
「西口に決まってるじゃないの。朝子に送ってやる物を探すんだよ。あと、私は洒落た寝巻でも買いたいねぇ」
大阪に嫁いだ僕の妹の名前を出し、駅の西口界隈で買い物する気満々である。その顔は近ごろでは稀に見る、とびきりの笑顔だ。
「こんな電車、走っているんだねぇ。相鉄も変わったもんだよ」
「他にもカラフルな電車があるんだよ。池田満寿夫が描いたらしい」
「へぇ。電車も洒落込むんだねぇ」
「そうだ、お袋。帰りもこの位置に座るといいよ。ほら、ここにちょっと荷物が置けるだろ。でも、置き忘れしないで」
隣の車両が見える部分の窓。そこのサッシに幅があるので、僕はよく飲みかけのペットボトルを一時置いてしまうのだが、お袋みたいな老人にはちょうど荷物を置きやすそうだ。他にも相鉄線のあれこれを話してやる。車窓の景色が昔と随分変わり、住宅や高層の建物が増えたことにもお袋は驚いていた。そうこうしている間にもう横浜だ。お袋は車内に備え付けられた鏡を見て、髪の毛を整えている。
「西口だからね、やっぱりきちんとしないと」
そう言ってこちらに振り向くと、還暦前のお袋の顔になっていた。ポカンと口を開けたままの僕にお袋は手を振り、軽やかな足取りで電車を降りて行ってしまった。
 お袋が心配になって追ったけど、もう姿が見えない。それどころか、電車は青と橙の線が入った最近の車両になっていた。どうしたもんかと自分の頭を疑う。きっと車内で眠ってしまったのだ。とにかく、待ち合わせ場所に行かねば。改札へ向かう途中、線路の終端が目に入る。ここはこんなだったか?カニみたいだ。まだまだ新発見があるな。やっぱり僕はまだまだ電車で出掛け続けたいと思う。
 その晩は偶然にもカニが出てきて、酒も進んでしまった。いい気分で自宅に戻ると、お袋はテレビを付けたまま、深く眠り込んでいた。翌朝はいつもと変わりなく起きてくれたので安心したが、びっくりすることを言った。
「昨日は久しぶりに夢を見たよ。楽しい夢だよ。電車に乗ってね、お前と横浜まで出掛けたんだよ」

〈つ〉のお話/繋がる未来。

 「見えた、見えたっ!」
「ママ、あの幼稚園に行ってたんでしょ!?」
希望ヶ丘駅に近付くころ、8歳の娘と4歳の息子が車窓を眺めては興奮気味に言う。ママが育った場所を見るのも興味深いみたいだけど、今日はじぃじとばぁばの家にお泊まりで、かなり嬉しい様子。私も両親と久々に長く過ごせるのは嬉しいもの。県西の方へ嫁いでしまったから、長い休みの度に馴染みだった相鉄線に子連れで乗って、駅で親と孫を会わせるのもまた楽しい。
 でも、帰る日は駅でお別れしない。みんなで横浜駅まで行き、食事や買い物をしてから私たちは海老名まで帰る。今回はちょっと奮発して、シェラトンホテルでブッフェ。好きな物をお腹いっぱい食べて、幸せそうな孫たちともう少し居たいのか、父が言う。
「なぁ。ロビーんとこのラウンジで、コーヒーでも飲んで行こう」
父のお腹のどこにそんな余裕があるのか。でも、高い天井に豪華な照明器具、ハープの生演奏といった非日常空間にワクワクの子供たちなので、とりあえず父に着いて行く。
「本当ねぇ、こんな立派なホテルが建つなんて。由紀乃が小さいころは映画館だったのに」
そうだった。私が娘の年くらいのころはよくここまで映画を観に連れて来られたっけ。と、母の言葉で思い出す。
 両親はそのまま思い出話に花を咲かせ、しばらくホテルに居るというので、私たちは横浜駅へ向かった。息子は遊び疲れと満腹感で眠ってしまい、抱っこする羽目になる。重くて大変なので、改札を通ってすぐ近くの乗車位置で電車を待つことにした。あぁ、重いなぁ……。ボーッとしていると、線路の行き止まりになっている先の暗い所から、キラリと2つ光る物が目に入る。再びキラッとしてわかった。猫の瞳だ!でも、そんなことはあるはずないじゃない。息子の頭も邪魔になっているし、きっと見間違いね。そう考えていたら、やって来たのは深く輝くネイビーブルーの電車。座れたら、思わずフーッと息が出た。
 「ママぁ、見て!」
息子の寝息に誘われてしまったかしら。気付いたら電車は走っていたようで、今はどこかの駅に止まっている。娘の声で目覚めたけど、娘は隣にいない。抱いていた息子もいない。開いているドアの向こうは見慣れない駅の景色。嫌な予感。あれは私が6歳だったと思う。母が二俣川からうっかり乗り間違え、いずみ野線に乗ってしまったのだ。ハッと気付けば、全く知らない駅のホームで、もう二度と家に帰れないと幼い私は思い込み、ぐずぐず泣いた。まさか子供たちもパニックで?ホームへ飛び出てみるけど、見当たらない。そこに車掌さんが出てきた。
「こ、ここ、何駅です?」
「海老名ですよ」
「海老名?……海老名なんですか?」
「そうですよ。2020年からホームドアを設置しまして、駅舎も3階建てに変わりました。あ、改札口は2階です」
どうしよう、どうなってるの?慌てて荷物を取りに車内へ戻れば、子供たちがちゃっかり座席に戻っていた。
「次、新しい駅に着くって」
「早く行きたーい!」
無邪気に笑っている子供たち。何を言ってるの?と思えば、さっきと反対側のドアが開いた。恐々と顔を出すと、また見慣れない駅。
「母さん、おいでよ」
手招きしているのは左の首にホクロがある青年。4歳の息子と同じところにある。
「彼女はこっちの新宿方面に住んでんだよ」
驚くことを言い出したかと思えば、今度は逆側のドアが開き、娘の声で呼ばれる。
「お母さぁん、こっちにも来て!」
呼ばれた方へ慌てて行けば、今の娘と同じ瞳をしたお姉さんが立っている。
「こっちから新横浜とか渋谷に行けるのよね。今度一緒にライヴとか試合を見に行こうよ!新幹線に乗って、京都なんかも良くない?」
知らない駅で、何だか楽しい気持ちになる。そして察した。ここは羽沢にできた駅だと。相鉄線と繋がって、こうなったんだ……。未来の子供たちは私みたいに乗り間違えに臆せず、線路が増えた相鉄線を心底満喫しているみたい。
 「ありがと!また今度乗り換えに来るわね。ママ、もう今日は帰るわよー」
 お泊まり疲れの上、新しい駅三昧で脱力しそう。電車に戻ると、乗務員室に車掌さんの姿は見えず、茶トラの猫がいるのが見えた。あの猫!
「ちょっと、あなたでしょ!?こんなイタズラしているのは!」
思わず訴えかけると、猫はペロッと舌を出し、ガラス越しに喋ってきた。
「は、はい~。あ、あのね、まだ横浜駅が砂利置場だったころからいるんですぅ。線路がいろんなところと繋がるって、スゴイでしょ?ワクワクするでしょ?そういうの、あのころからずーっと想って、見続けてて……」
「確かにあんまりで、びっくりしちゃったわよ。うん。でも、まぁ楽しかったわ」
「驚かせて、ごめんにゃさーい」
そんな凄い猫ちゃんは両手で顔を隠すと、下に隠れてしまった。やれやれ。座席では子供2人が寄り添って眠っている。私も隣に座って、目をつむる。
 海老名に着いて、乗務員室を覗いたけど、猫はいなかった。不思議な気分のまま、改札へ向かう。夫がまだ彼氏だったころ、デートの終わりに手を振って別れたところ。走り出す電車から、どんどん小さくなっていくあの人の姿を見て、ずっとずっと一緒にいられるように早くなりたいと願った場所。そこが変わってしまうなんて。でも、こうやって家族が増えた喜びは変わらないわね。さぁ、パパはもう駅にお迎えに来てるかしら?私は子供たちの手をぎゅうっと握り締めた。

著者

二見松陽子