「線路はただいまより続きます」新名 ちか

うだるような暑さに無理やり起こされた朝は、どこか気分が悪い。あまり良い夢見では無かった、ということも原因の一つかもしれないけど。寝床のすぐそばに置かれたサーキュレーターはコンセントが抜けていつの間にか止まっていた。一人暮らしにおすすめですよ、と言われるがまま購入したそれは、無機質な黒一色で、正直あんまり可愛くは無い。女子大生というのは目覚めさえも何だか女の子っぽいというか、おしゃれな感じのものだと思っていたけれど、夏休みに入って、毎日目覚めはこんな調子だ。大きく深呼吸をして意識を切り替えようとしてもうまくいかない。昨晩は普段よりも早めに寝たのに、体の疲れが癒えている感覚もしない。額に張り付いた前髪を指で払うと不快感がいくらかはマシになった。……シャワー、浴びよう。どのみちこのままでは外に朝食の材料を買いに行くことも出来ない。ごろりと布団から転がり出て、はしごをだらだらと降りる。引っ越してきたときは毎日恐怖を感じていたこの高すぎるロフトのはしごにも随分と慣れて、最近はしょぼしょぼと上手く開かない瞼をこすりながら、両手を使わずに降りることも珍しくは無い。まあこんなに高いロフトで寝ているからこそ、余計に暑いのだということは分かっているけれど、今更布団を下に持っていくのも面倒だし。はしごを降りた先のフローリングの冷たさに一息つく。
「……ふぅ」
 上京して初めて迎える鶴ヶ峰の夏は、思っていたよりも暑い。沖縄で生まれ育った私にもそれは結構なダメージを与えてくる。カーテンをめくってちらりと外を覗けば、雲一つない青空と、線路にプラットホームが視界に入った。あぁ、全然違う。沖縄の空がとても遠い。どこまでも続いていくような濃い青と、散らばされた白い雲。電車が通っていない代わりにあちらこちらにあるバス停。どこにいても感じられる涼風は止まることが無く、あぶられるような日差しさえ避けられれば中々に涼しく過ごせるような沖縄とは何もかもが違う。寂しいよ。でも家に帰りたいなんて、言えるはずも無い。大学に進学するために上京することは自分で決めた道だけど、その一言で全ての感情が片づけられるはずも無い。この線路をどれだけ辿ったとしても、どれだけ電車を乗り継いだとしても、故郷に辿りつくことなど無い。そんなことを考えると余計に気持ちは打ちのめされてしまいそうだった。シャワーを浴びたら、どこかに行こう。今、この部屋で一人きりで過ごすことは、少しだけ、ほんの少しだけ辛かった。

 浴室から出て、髪の毛を乾かす。どこかに行こうと決意したのはいいけれど、どこに行こうか。幸い、夏休み中で今日の予定は特に何も無い。どこへでも行こうと思えば行けるだろう。横浜駅で迷子になることも少なくなり、湘南台駅から小田急線にも乗り換えられるようになった。二俣川駅で海老名行きと湘南台行きに分かれるのはまだ上手く乗り換えられはしないけれど。入学してから三か月、前期の間だけで、二度は学校へ行く電車を乗り間違えて危うく海老名に行きかけた。でも、海老名まで行ったことは無かったな。それならせっかくだし海老名に行こう。相鉄線の終点で、まだ一度も行ったことが無いのは海老名だけだ。どんなところなのだろう。ハンガーラックからお気に入りのワンピースを取り出して急いで着替える。紺色の襟付きワンピースは生地が薄いから外に出てもきっと過ごしやすいだろう。化粧はまだ上手く出来ないので軽くで良い。髪の毛を適当に梳かして、母が若い頃に付けていたというイヤリングを耳に付ける。ファッションセンスにはまだまだ自信が無いけれど、きっとこれから磨かれていくことを信じて鏡の前に立つ。うん、何か、まぁいいんじゃないだろうか。よく分からないけれど。革製で真っ黒の小さなリュックを背負い、ペタンコのシューズを履けば、もう外に出る用意はばっちりだ。
「行って、来ます?」
 果たしてここは自分の帰ってくる家なんだろうか。まだその実感は湧かない。アパートの階段をゆっくり降りて、駅へと向かう。スマートフォンで電車の時刻を調べようかと思ったけれど、来た電車に乗ればいいかと思い直してポケットにスマートフォンをしまいなおす。駅までは歩いて六分ほど。その間にすれ違う人の中に、もちろん知り合いは一人もいない。タクシー乗り場から横断歩道を渡り、駅の構内へエスカレーターで上がれば、電光掲示板には快速海老名行が二分後に来ると表示されていた。
「ラッキー」
 小さく呟いて、PASMOを改札にかざす。ピッという音には最近ようやく慣れてきた。ボックス席のある車両まで歩けば、タイミング良く電車がホームについた。珍しく車内は空いていて、ボックス席の窓際に一人きりで座る。走りだした電車の窓から外をぼんやり眺める。駅前の商店街は中々に賑わっていて、食べる所にも困りはしない。そこから少し離れると住宅街、そしてたまに畑。みかんの木が民家にあるなんて、こちらに来るまで想像もしていなかった。そうやってぼんやり外を見ているうちにあっという間に二俣川だ。人、結構乗ってくるんだろうな、という予想に反して、二俣川にも人をあまり居なかった。そういう時間帯なんだろうか。普段、この時間は大学に行っているから、そういうことはあまりよく分からない。結局、こちらの車両にはあまり人は乗って来ず、私の座るボックス席には相変わらず私一人だけが乗っている。
『プルルルルル』
 扉の締まる合図が鳴り終わる前に、全力疾走で女性が飛び込んできた。
「ハァッ、ハッ……ゲホッ」
 肩を大きく上下させ、膝に手をつく女性は空いている席が無いか、と周りを見渡して、私の席へやって来た。
「フゥ……」
 席に腰を下ろそうとした瞬間、女性の持っていたカバンが座席に引っ掛かって、ひっくり返る。あっと思った瞬間にはカバンの中身は散らばってしまっていた。
「大丈夫ですか?」
「すみません、ありがとうございます!」
 慌てて落ちてしまったものを拾い集めると、あるものに気が付く。
「これ……」
 彼女の物であろう学生手帳の氏名の欄には、見覚えのある名字。
「あ、すみません、学生手帳まで拾わせてしまって」
「比嘉さんとおっしゃるんですか?」
「え、あ、はい」
 いきなり名前を尋ねられて怪訝そうな顔をする彼女に、慌てて自分の定期の名前を見せる。
「私も、比嘉なんです」
「えっ!」
 沖縄独特の名字である比嘉という名前に出会うのは、上京してからは初めてで、思わず嬉しくなってしまう。
「沖縄の出身ですか?」
「ええ! もしかしてあなたも?」
 怪訝そうな顔が一転、女性はニコニコと嬉しそうな顔をしだした。
「そうですよ。まさか、沖縄ならまだしも、横浜まで来て同じ苗字の方に出会うなんて思ってもいませんでした」
「そりゃそうよね」
 気が緩んだように、彼女のイントネーションは標準語のそれからだんだんと聞きなじみのあるものに変化していく。
「上京して、どれぐらいなの?」
「私、まだ半年もたっていないんですよ、この春にこっちに来たので」
「じゃあ、私の方がこっちは長いのね。もう二年目になるから」
「電車はもう慣れたものですか?」
「もちろん! いや、ちょっと待って、これ海老名行きよね?」
「はい」
「焦ったー、慌てて乗ったから間違えてないかなって」
 その言葉は、電車歴半年未満の私にも通じる。でも、
「二年たってもまだ間違えますか?」
「二年たってもまだ間違えるわ」
 その真剣な顔に思わず笑ってしまった。そうか、二年たって、私が二十歳になる頃にもまだ間違えちゃうのかな。しばらくしたら、すっかりこちらの色に馴染んでしまうのかと思っていたけれど。
「その口ぶりだと、あなたもたまに間違えるんでしょう?」
「まぁ、はい。おかげで大学に二度ほど遅刻しかけました」
「あー、あるある。ちょっとへこむよね。私も教授にそれで遅刻したって言ったら、普通に笑われちゃったし、その上出席簿に遅刻も書かれちゃった」
 遅刻した上に笑われて、更に出席簿にまで遅刻をつけられるとは、何だかちょっと笑われ損な気もする。それでも彼女はケラケラと笑い飛ばしているので、あんまり気にするようなことでも無かったのだろう。
「あと、急行とか快速とかよく分からなくて、ぼんやりしてたら最寄駅過ぎちゃってそのまま横浜まで行ったこともあります」
「あぁ、あるある。私は海老名だから家の最寄駅的には問題ないんだけどね、横浜から二俣川までの間にある駅に用事ある時にそれやらかすと絶望感すごいよね」
 ゴーッという電車の走る音と、高速で過ぎ去っていく『鶴ヶ峰』の文字、そして線路のすぐ傍にある私のアパートが過ぎていく様を見るのは、確かに何とも言えない絶望感に満ちている。それが見たいテレビとかある日だと特に。
「けど、電車ってちょっと間違えると大変だけどさ、ちゃんと乗れるようになったら色んなところに行けちゃうからすごい便利なんだよね」
「そうですか? 私まだ全然乗りこなせないから、ずーっと苦戦しっぱなしですよ」
「世界が広がるよ、自分の足で行けるところが増えるだけで」
 世界は広がっても、どれだけ乗り継いだって故郷には帰れないじゃないか、という言葉はぐっと飲み込んだ。
「上京して半年って言ったら、やーっと今までの慌ただしさが落ち着いて、今の環境に慣れてきて、ぼんやりできる時間も出来てきてさ、色んなこと考えちゃう時期だよね」
「……」
 急に真面目なトーンになった彼女に少し驚く。けれどその言葉の内容には同意しかない。
「私もね、上京したばっかりの頃は、結構ホームシックになったよ。そのたびに実家に長電話してた。公衆電話にたくさんの十円玉握りしめて、たまにボックスの中で涙こらえるのに必死になりながら」
「え?」
 公衆電話? スマートフォンの普及しているこのご時世に?
「だから、頑張りなさいよ。応援、しているから」
 彼女は静かににこりとほほ笑んだ。その笑顔に私は見覚えがある。

『次は、終点、海老名、海老名』
 車内アナウンスの声にはっと目覚める。そこは既にかしわ台だった。何だ、夢を見ていたのか。いくら寂しいからって、あんな夢を見るなんて。そう自分自身に苦笑したところではっと気づく。けど、確かに私にはあの笑顔に見覚えがあった。慌てて定期入れの後ろのポケットを探ると、そこには古めかしい学生証。それに貼られた写真でむすっとしたような顔をしているのは、先ほどの彼女の顔と全く同じである。
「お母さん……」
 私が五歳の頃に病で亡くなった母が、若い頃に海老名に住んでいたんだよと父から教えられたのは上京する前夜のことだ。その時に見せられた学生証を、お守り代わりに定期入れの後ろに入れておいたのだけど……まさか、夢に出てくるなんて。
「心配かけちゃったかな、母さん」
 学生証の中の母は、随分きりっとした眼差しをしているのにその髪型は、ふわふわとした聖子ちゃんカットで、そのアンバランスさが少し可笑しい。けれど、その面差しは自分でもはっきりと分かるほどに、私とそっくりだった。海老名駅について、すぐには改札を抜けず、ホームのベンチに腰をおろす。横浜行きの電車が何本か行くのを見送った。空は相変わらず雲一つない晴天で、風はどこか生ぬるい。母さんもあの電車のどれかに載ったことがあるのだろうか。いや、多分きっとあると信じよう。この線路の続く先には、私の住む鶴ヶ峰がある。そして私のアパートから続く線路の先にも母の住んでいた海老名がある。
「もう、大丈夫だよ。ありがとう母さん」
 心配をかけたくないと意地を張って電話をしていなかった父に、今日は久々に電話をかけてみよう。電話を切った後に感じる寂しさは、失わなくてもいいものだ。
「母さんの住んでいた街、探検してみようかな」
 改札をぬけて、振り返る先に広がる線路にもう寂しさなど感じない。それは今の私に繋がる道だ。

著者

新名 ちか