「線路は続くよどこまでも」雨晴

 区界の短いトンネルを抜けると、小雨の降る街だった。
線路脇のコンクリートの壁はたっぷりと水気を含んで色を濃くし、雨空の色と同化している。
垂れ下がったつる草だけが、「いいお湿りで」
と、喜んでいるみたいに緑の葉を微かに揺らしている。

「今日は姿が見えないな…寂しいもんだ。」
進行方向左側の車窓を見て、私はひとりごとを言った。雨の日は保育園のお散歩はお休みらしい。
そりゃそうだ、かわいい子ども達に風邪でも引かせてしまったら大変だ。
晴れた日には、色とりどりの帽子を頭に乗っけた子ども達が線路脇の金網に張り付いている。
押し合い圧し合い可愛い顔をのぞかせ、いつだってそのきらきらとした瞳は一斉にこちらに
向けられるのだ。

「うわぁ、はずかしいな。そんなに見つめられちゃ。」
右に左に大きく手を振っている子、仲良しさんと並んで小さな手を『ヤッホー』の形にして
何か叫んでいる子、静かにじっと睨みを利かせている子等々。子ども達の視線を集めているのは、
もちろん私じゃない、言うまでもなく相鉄電車だ。

カタカタカタカタ…真っ暗なトンネルの奥から微かな音が聞こえてくると、子ども達の鼓動も連動
して高鳴っていくのだろう。今か今かと電車が顔を出すのを待っている。
まるで、電車と『いないいないばぁ』の遊びをしているみたいに。
ガタガタガタガタ…いないいないばぁ。子ども達の期待を決して裏切ることなく、お待たせ!
とばかりにその姿を現す相鉄電車。子ども達の真直ぐすぎる眼差しに、私は足の裏をこちょこちょ
されたようなくすぐったい気持ちになって、思わず顔がほころぶのだ。

 我が家の子ども達もほんの少し前までこんな風だったなと思い出していた。
「でんちゃ、でんちゃ!」と、よちよち歩きの全速力で一目散に長い坂を下っていった。
先頭の扉が赤いのが7000系、二本のラインがウルトラマンみたいにかっこいいのが8000系、
そしてピカピカボディにブルーとオレンジ色が新鮮だった10000系。
私にとって電車は通勤の手段であり、趣味や興味の対象になるなんてまったく考えたこともなかった。しかし、置かれる環境が変われば、これがなかなか面白いものなのだ。家のパソコンの前に
ちょこんと座って、『相鉄線○○系○○駅~○○駅』という鉄道愛好者向けの映像をエンドレスに
眺めていた我が子の姿も今は昔、定期券が印字されたパスモを携帯するようになった頃から
様子はだいぶ変わってしまった。

「ちょっと、待ちなさい!行ってきますくらい気持ちよく言えないのか?」
「…いって…きます…」
「おーーーい、聞こえないぞー。」
毎朝繰り返される風景。数年前までは元気のいい『行ってきます!』だったのに。
ちょっとした抵抗、理由なき反抗なのだろう。いつの頃からか『おはよう』とか『行ってきます』
を素直に言えなくなっている。たわいもないことだが、大事なことなんだけどな。
誰もが経験して、いつの間にか過ぎ去っていく儀式のようなものなのか。

不機嫌に玄関のドアを閉めて出て行ったが、友達と待ち合わせた駅では、思いっきりの笑顔で
「おはよー 待った?行こう!」
と、元気に電車に乗り込み、彼らの街へ繰り出していくのだろう。
「相鉄線?それどこの電車?フタマタガワって二子玉川のことじゃないよね?」
都内に住む学校の友達には、よくそんな風に言われるそうだ。沿線住人としては、それはないだろ!
と言いたくなってしまうところだが、世界が広がったということなのだ。いろんな意味で。

 私が初めて電車に乗ったのはいくつの時だっただろう。
母に連れられて祖母の住む町まで時々通っていた、これが一番古い記憶だ。小さい子どもにとって、
自分の住む地域よりも都会で、大人だけが住む祖母の家というのはあまり魅力的なものではなかった。
しかし、ひとつだけお楽しみがあったのだ。

最寄駅まですぐそこ、という場所に建つその家の二階からは、電車の往来が遮るものなく見渡せた。
数分おきに走る電車を物干し台から眺めた。そこを走る路線には、観光用の特急列車があって定期的
に運行されていた。一番のお目当てはその列車だった。それは特別な電車で、どこか遠くの素敵な場所に私を運んでくれるかもしれない、と想像を掻き立てたのだ。

『次に来るかな。それともその次?』とわくわくしながら、ひたすら待った。運よく出会えれば、
列車が見えなくなるまで、ちぎれるくらいに手を振り続けた。
あぁ、そんなこと忘れていた。私もあの頃、電車が好きだった。記憶の端っこに置き忘れていた
赤い特急電車、どうやら今も現役で走っているらしい。またいつか会えるだろうか。

 ほどなく電車は駅に着いた。私は階段を下りて改札を抜け、ショッピングセンター前の広場に出た。雨はほとんど上がっていたが、まだ地面は水気たっぷりで、歩けば靴底から滴が跳ねた。
「これじゃ、まだちょっとお散歩は無理かな。」
とまたひとりごとを言った。
自動扉に何やら貼り紙が一枚。『改装の為、ご迷惑をおかけします』とのこと。
この街も年をとったな…三歩下がってショッピングセンターの全形を見渡した。
どんな街にも同じように時間は流れ、街も人も変化していくのだ。

 銀行で用事を済ませ、缶コーヒーを一本買って再び広場へ戻った。朝の天気予報は的中したようで、薄日が差してきた。これなら午後のお散歩には間に合うかもしれない。
気の早い子は保育園の窓に顔を押し付け、明るくなってきた空に向かって「でんちゃ、でんちゃ!」と、催促をはじめているかもしれない。

小さな住人達は電車に夢を乗せ、未来を描いていく。若者達は新しいステージで今を懸命に生き、
古くからの住人は時々、遠い記憶に思いを馳せる。
最新型のネイビーブルー、横浜の海の色のイメージだそうだ。海の底でゆらゆらと波に揺られるようにガタゴトガタゴト過去へ未来へ…
電車は私たちを乗せ、その線路はいつまでもどこまでも続いていくのだ。

著者

雨晴