「街は相棒」かぜかおる

 相鉄線の沿線であるこの街に移り住んだのは、昭和五十年代だったと思う。わたしが中学生になったばかりだった。妹は小学三年で、喘息があり、なんとしてでも空気の良いところに転居して、喘息を直してやろうという親心だったらしい。
 ここは、駅からは少し遠いが、高台になっているせいで、気持がいいほど眺めがよく、遠くに覗く山の稜線がとてもきれいだった。広々とした公園には、緑があふれ、爽やかこの上ない。車道が一直線に延びていて、歩道には植えられたばかりの街路樹。母が一目でここを気に入り、我が家の引っ越しとなった。
 
 
 
 妹は、小学校まで、道を下って、上ってという感じで、三十分はかかったが、良い空気を吸って歩く、そのお陰なのか、喘息の発作はぴたりとやんだ。母も父も引っ越してきたかいがあったと満足な様子だった。ところが、このあたりは商店が少なく、特に小さな子どもを連れての買い物が不便だったようで、その事を気の毒に思ってか
「駐車場、つぶして、ちょっとした食料品の店でもやろうかな?雨の日なんか、下のマーケットまで行くのは大変だもの。ここに、パンとか、牛乳とか、お菓子とか…そういうの、あったら喜ばれるわ。近所の人とも仲良くなれるし」
と、突拍子もないことを言い出した。が、そんな提案に寄り添ったのは、意外にも会社員の父だった。子ども達はやがて大きくなり、手もかからなくなる。だったら、専業主婦だけというのでなく、何か打ち込むものがあった方がいいんじゃないか…ときた。そうして話はどんどん進み、住宅を改造し、母は五坪ほどの広さで食料品の店を始めた。

 わたしは中三になっていた。店は居間続きで、お客さんから声がかかると、こたつから飛び出していくようなこともしばしば。家族でやっている感じ丸出しだった。近所の人はわたしたち姉妹の顔も、時々手伝う父の顔まで覚えていて、店の中では訪れる人たちと世間話に花が咲いていた。
 あすこの歯医者さんは親切だとか、スポーツクラブが新しく出来ただとか、どこどこの美容院が上手とか…色々な情報がここに集まっていて、ちょっとした情報交換の場となった。そんなことで母はご近所さんから物知りママと言われて、頼りにされていたし、はりのある毎日を送り、しっかりこの街に根付いていった。
 
 妹は…というと、喘息どころか、活発に運動もし、風邪もひくことなく元気いっぱいに過ごしていた。いつの間にか、近所のアメリカ人の女の子と仲良くなっていて、それは、しばらく行った所に米軍基地があったのだが、その関係で働いている、マイケルさんという方の娘さんだった。(と言うのは、後から聞いたのだが)妹とは同い年で、アメリカンスクールのバス停が止まるうちの前でよく顔を合わせたり、庭先では声を掛けたり掛けられたり。それで一緒に遊んだり、ケーキを御馳走になったりしていたようだ。妹は別に英語ができたわけではないが、一歩一歩通じ合っていく過程が楽しかったのかもしれない。
 
 わたしたちを、基地で開かれるお祭りに誘ってくれたのも、マイケルさんだった。三十分ぐらい歩いたところに、いきなり“アメリカ”があり、目を丸くした。広大な敷地、一面の芝生、大きな木や贅沢と思われるほどの広い道。そして色鮮やかなポップや、ユニークな形のテント。手作りのクッキーをたくさん買い、当時まだ珍しかったピザも初めて食べさせてもらった。その晩、興奮のるつぼに落ちた妹とわたしは、帰宅して、その異文化体験を夢中になって親たちに話し続けた。それは、この土地ならではの思い出の一つだ。

 
 さて、店に来る子供たちの中に、ひろちゃんという小学一年生の男の子がいた。おかっぱ頭で、いつも黄色のジャンパーを着ていた。買い物が終わっても、学校での事や、友だちのことなど、なんでもよく母にしゃべっていた。母はそういう話を聞いては大笑いしていた。ひろちゃんが、母をなついていたのには、訳があった。ひろちゃんのおかあさんは、ひろちゃんが小さい時に家を出て、遠い所で暮しているらしい。そのおかあさん像を、母に重ねていたのかもしれない。
 
 母はその事情を聞いてから、特に気に掛けていたようだ。薄着でやって来ると、「もう一枚着た方がいい、風邪ひくわよ」とか、お菓子ばっかり買っていくと、「夕飯食べられるの?」とか。牛乳を買えば、こぼさない様な注ぎ方を教えたり、カップめんを買えば、「家でお湯を沸かすのは危ないから、ここで食べて行きなさい、おばさんがお湯を入れてあげるから」と言ったり、麦茶が飲みたいと言えば、作り方を説明するなど、なんだかんだと心配し、世話をやいていた。昔は電子レンジも電気ポットもないし、ペットボトル入りのお茶もなかったのだから、一年生の子が、父親と二人で暮すのは、今よりずっと大変だっただろう。

たまに、
「ああ、もう帰らなくちゃ。お風呂の掃除しておかないと、お父さんに怒られるんだ」
とつぶやくひろちゃんを、不憫に思う反面、母はとても感心していたことも確かだ。

 ある、寒い日の夕暮れだった。ひろちゃんが
「おばさん。電話、電話かけて」
と言って飛び込んできた。店には公衆電話があった。いわゆる赤電だ。ひろちゃんは恐らく、電話番号が書かれたメモを、母に渡したのだろう。当時、長距離を掛ける時は、店の人が電話器の鍵穴に鍵を差し込み、交換代を呼び出し、そこからつないでもらうというシステムだった。母が手続きをし終わると、しばらくして呼び出し音が鳴り、繋がったようだった。
 赤電は、ショーウインドーの上に置かれていて、そこでの会話は居間にいるわたしの耳にも届いた。ひろちゃんは、遠くに住むおかあさんに電話をしていた。
「おかあさん、おとうさんが死んじゃったの」
と、そう聞こえた。わたしは驚いて思わず
「ええ?」
と、声を出してしまった。あわてて店の中を覗きこむと、母と目が合う。母のうろたえた表情があった。聞いてしまっていいのか悪いのか、どう反応していいのか…、母の戸惑う様子が感じられた。
「いやだよ。だって…。やなの!!おかあさん帰って来てよ。いつ?…いつなの?…いつ帰れるの?…ぼくいい子じゃなくたっていいもん!!おかあさんってば!」
と、ねだる様な、ぐずる様な、すねる様な、そんな切ないひろちゃんの声を、胸が締めつけられる思いで聞きながら、わたしも店のサンダルを履いて、近付いていった。

 ひろちゃんは、ぼろぼろと涙を流し、ひっくひっくとしゃくりあげ、しばらくして電話を切った。電話代として握って来た数個の百円玉を母に渡すその姿が、なんだかいじらしく見えた。
「おとうさん。会社で倒れて、そのまま死んじゃったんだ」
と、涙声をこらえながら、母に助けを求めていた。母は膝をついてひろちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「そんな…ずいぶん急だわね…悲しいね、ひろちゃん」
「おばさん…どうしよう」
「お家に誰かいるんでしょ?」
「おじさん」
「そ…う」
「おかあさんには電話しちゃいけないって言われているんだ。だから、内緒ね」
と、ここまで言って、ひろちゃんはまた、しくしくと泣きだした。わたしは、じわじわと涙腺が緩み、視界が狭まって行くのを感じながら、ただ立っているしか出来なかった。母はひろちゃんの頬を伝わる涙を両手でふいて、背中をなで、そして、ものすごく動揺して、心を痛めている、そんな感じだった。
「わたし、おうちまで送ろうか?」
と、母に向かって言った。
「そうね。家におじさんいるなら、ここに引き止めておくわけにはいかないしね」
わたしは、居間にある上着を取って来て、それを羽織り、そして半べそのひろちゃんの手を取った。ひろちゃんは振り返って母を見て
「おばさん、ぼく、おじさんちにもらわれていくのかなあ、やだよ…」
と、すがるように言うと、また大粒の涙があふれ出た。母の顔もぐじゅぐじゅだった。ひろちゃんの辛さは母の胸に痛いほど迫り、さりとて、どう助けたらいいか分からなかったに違いない。
「おばさんが、何か力になってあげられるといいんだけれど…」
母はやっとのことで、それだけ言う。わたしも
「ひろちゃん、また明日、来れたらおいで。何か出来ること、あるかもしれないから」
と話し掛けた。ひろちゃんは、まだしくしくと泣いていた。わたしたちは、いつの間にか暗くなった道路を、足早に歩いた。途中で空を見上げると、落ちてきそうなほどのいっぱいの星。慰めたい気持ちで
「星、きれいだよ」
と、声をかけた。ひろちゃんは黙って空を見上げた。とても、とても奇麗なのに、その空は、ものすごく悲しく、そして冷たかった。

 それからひろちゃんは店に来ることはなかった。母も気に掛けて、同じ年頃の子が、店に来ると、
「ひろちゃん、最近見かけないけれど、あなたたち、知らない?学校で会わない?」
などと聞いていたようだ。ところが、一、二週間たった頃だったか、ひろちゃんは、おじさんらしき人に連れられて店にやって来た。母が閉店の片付けをしていた頃だった。
「弘明が、色々お世話になっていると聞いています。ありがとうございます。わたしはこの子の伯父に当たるものですが…」
「まあまあ、この度は大変な事で…」
などと挨拶をしている声が聞こえていた。そしてそのあと、おじさんは
「こんなに遅い時間に伺って、突然お願いするのは図々しいのですが…」
と恐縮そうに切り出した。
「一日、二日、この子を預かってもらえないでしょうか。必ず迎えに来ます。ちょっと事情があって…」
と、本当に申し訳なさそうに切り出した。さらに詫びる言葉を言い出しそうになるのをさえぎって
「もちろん構いませんよ」
と、母は迷わず答えた。それを聞いてわたしは
「ひろちゃん、上がっておいでよ」
と、声をかけた。ひろちゃんは嬉しそうに、店から続く居間へと入って来た。久し振りに見るひろちゃんの笑顔。胸のつかえが、ちょっとだけ軽くなった。

 ところが、一日、二日たっても、おじさんからの連絡はなく。三日、四日となり、このままでは心配だと言い始め、預かった連絡先に電話をしてみることに。当時は携帯電話の様なものがなかったので、連絡をつけるのに骨が折れたようだ。やっと繋がると、おじさんは恐縮して、もう一日、二日お願いできないかと懇願してきたらしい。

 母はわたしにその事を説明しながら
「うちはいいわよ。ひろちゃんがいて楽しいし。でもさ、ひろちゃんの気持ちはどうよ。こんな小さいのに、よその家に預けられて。かわいそう過ぎるわ。なんの事情なのかしらね。無責任よ」
と、不満げだった。寂しい気持ちや、不安や、居心地の悪さもあるだろうに、それを表に出さず、ぐっとこらえているひろちゃんが、母にはとてもつらそうに見えたのだろう。だからこそ、精一杯のことをしてあげていた。

 ひろちゃんは、結局三週間ぐらいうちにいた。おじさんから電話があり、翌日、迎えに来るということだった。ひろちゃんはおじさんの家で暮すことになったらしい。あの時赤電で「お母さん、帰って来てよ」と叫んだ願いは、やはり聞かれなかったのだろうか。

 それにしても三週間は、ひどかったなと思った。一日、二日なら、旅行気分で過ごせるだろう。でも、三週間も過ごし、やっと“よその家”に馴染み始めたら、ハイ終わり!と、今度は一方的に引き離されてしまうわけだから、それはたまらないな、というのは、十五歳のわたしにも分かる。大人の事情とは、ずいぶん勝手なものだと思った。その晩、最後の夕飯に、母はカツカレーを作った。ひろちゃんは、
「カレーなら知っているけれど、こんなの初めて!!すごいねー、すごいねー。カッコいい料理だね!!」
と、大はしゃぎ。そんな言い方がおかしくて、母はとても嬉しそうに笑っていた。

「おばさんちに、お手紙書くからね」
と、ひろちゃんは、うちの住所を丁寧に紙に書いていた。母が
「書いてあげようか?」
と言うと
「大丈夫。ぼく、字が書けるんだ、だって、一年生だから!」
と、胸を張って言った。

 そうだ、ひろちゃんは一年生だ。一年生の子は、字が書けるし、寂しくても泣いたりしないんだ…と、言っているようで、最後の晩も気丈な様子を見せていた。わたしの方がよっぽど悲しかったし、心残りだったのを覚えている。

 おじさんは、翌日、立派な車で迎えに来た。
「ひろちゃん、元気でね」
と母が声をかけた。ひろちゃんは、それまでにこにこしていたが、急に寂しくなったのか、唇をぎゅっと結んで、母の顔を見上げると、見る見る間に涙があふれて来た。泣くまいと思ったのか、拳を握った両手に力が入っていた。そして深く息を吸い込んだかと思うと、
「ありがとう。さうよなら」
と、大きな声で言った。それは、泣いてはいけない、しっかりしなくちゃ、弱虫じゃ駄目だという、「一年生・ひろちゃん」の健気な決意だったのかもしれない。ひろちゃんの目から一筋、二筋…涙がこぼれおちた。それでも、うつむかずしっかり母の顔を見つめていた。

 おじさんは丁寧に
「このご恩は忘れません」
とお礼の言葉を述べ、手土産と、白い封筒を置いていった。住まいの場所を、母は聞かなかったし、おじさんからも伝えられなかった。

 車に乗ったひろちゃんをわたしたちは手を振って見送った。
「またおいで」
と、わたしが言うとコクンと、首を縦に振った。

 後になってこの時の話題になると、母は必ず
「最後に、ぎゅー、してあげれば良かったなって思うのよ。だって、おかあさんだけじゃなくて、おとうさんも、いないんだもんねえ」
と、残念そうに話すのだった。

 ひろちゃんから手紙が届く事はなかった。母も期待はしていなかっただろうけれど、届いた郵便物を見ながら、時々
「ひろちゃん、どうしているかしらね」
などと漏らす事があった。やはり、お手紙書くからね、と残した言葉を、少しは信じていたのかもしれない。

 道でランドセルを背負った子を見かけると、ひろちゃんも、確か三年だとか、もう、四年だとか、そんな事をよく言っていた。

 やがて、わたしも、妹も成長し、学校を出、就職し、そして結婚して家を出た。店はかろうじて営業していたが、「もう辞めようか」、「家は、古くなったから建て直そうか」、「あるいは引っ越すか?」という話が度々出ていた。わたしが
「ここは、駅からちょっとあるじゃない。これから年を取って、歩くのが大変になるから、もう少し駅に近い所に移ったら?」
などと言うと、母は
「ここがいいわよ。建て直したとしても、ここに建てる」
と、頑として聞かなかった。

「だって、わたしたちこの街に見守られて、育てられて、ここまで来たのよ。思い出がいっぱいあるわ。思い出はね、頭の中にあるんじゃないわね。街の中にあるのよ。何度も歩いた道だったり、何度も乗った電車、何度も通った病院や公園、毎年枯れては茂る街路樹にまで、そのひとつひとつにある。何十年も掛けて、わたしたちの人生に彩りを添えてくれたの。街って、気心の知れた相棒みたいなものだわ」
と、母は、子どものように言った。
「まあね、それは分かるけれど…」
「ほら、ここへ越してきたから、あなた、今、市の職員として働けているんだし。美奈子だって、喘息治ったし。あの、アメリカ人のマイケルさんたちと親しくなったから、英語に興味もって、留学したんだし。わたしだって、ここへ来たから、店を開こうなんて、考えたわけでしょ。色々な道筋が、この場所からスタートしたのよ。ここへ来て、良かったわ。だから、わたしは、この“相棒”と一緒にこれから先もずっとここにいる」
そう言って、何かをかみしめる様にほほ笑んだ。

 結局両親たちは、家を建て直さず、大改造して住み続けることにした。
 
 そんな時、意外な出来事がおこり、家族じゅうが懐かしい気持ちに引き戻された。

 家の大改造の折り、押入れを整理していて、あのひろちゃんが忘れていったノートが、出てきたという。母は、ページをめくりながら、とても懐かしくなり、当時の思い出を、原稿用紙に書き記し、そして、新聞の読者欄に投稿したという。すると、それが掲載されたのだ。内容はだいたいこんな感じだ。

 二十年ぐらい前に、母親と生き別れ、父親と死に別れた、近所の男の子を、縁あって三週間ほどお預かりし、少しでも慰めになればと、お世話させてもらいました…というように始まり、楽しかった思い出などをまとめ、今はどうしているか、何歳になったかなあ、背はとっく抜かされているな、などと思いを募り、幸せを祈っています、という言葉で結んでいた。

 母は、その文章が取り上げられたことを電話口で嬉しそうに話してくれた。ところが、それで終わりではなかった。

 それが掲載されてから何カ月もたっていたが、すらりと背が伸びた青年が母を訪ねてやってきたというのだ。

それは、あの、ひろちゃんだった。

「新聞に載っていた『男の子』は、絶対僕のことだって思いました」
ひろちゃんは懐かしそうにそう言ったらしい。

 ひろちゃんは、新聞を読んで、「小学生の時に預かってくれたお菓子屋さんのおばさん」は、確かにいた!と、思い出したそうだ。それで、投稿した人の住所を教えて欲しいと頼み、やっと「お菓子屋さん」を訪ねることが出来たという。

 あの時書いた住所にひろちゃんはお手紙を出してくれたという。でも、残念なことに
書き間違えたのか、あるいは、他の家に届いてしまったのか、母の所には着かなかった。

「もう、驚き過ぎて、心臓が止まりそうだったわよ」
と、母は笑いながら電話してきた。

「だってね、すごく大きくなっていて…。二十八歳だって。あれからそんなにたったのね」「うわー、そうなの?わたしも会いたかったなあ」
「もう、見違えちゃったわよ。すっかり立派になっちゃって。だけど人なつこい笑顔は変わってなかったな。嬉しかったわー」
「なあに、まるで離ればなれになっていた恋人に再会したみたいね」
「ふふ、それで、今度、結婚するんですって。だから、お嫁さん連れて、また来てねって言っておいた」
と、無邪気にはしゃぐ母。
「ひろちゃん、幸せになれたんだね。あの時のこと、覚えていてくれたなんて、ひろちゃんって、どこまでいい子なんだろう。おかあさん、またこの街で思い出、増えたね」
と言うと
「そうね。やっぱりここに住んで、良かった。それに…やっぱり引っ越さないで良かった」
と、独り言のように言った。

「あ、ひろちゃんね、『おばさんのカツカレー、また食べたいな。あれ以来大好物なんだ』
って言ってたの。そんなことも覚えていたのよ。だからいつでも作ってあげるわって言ったわ」
「お母さん、やだ、それはお世辞よ」
「ああ、そうよね。カツカレーなんか、今は、どこにだってあるわね。ふふふ」
「そうよ。あるわよ。ふふ。あ、ねえ、おかあさん、それで、その忘れていった、ひろちゃんのノート。何が書いてあったの?」
「ええ?うふふ」
「なによ?」
「秘密」
「やだ、なにそれ」
「あのね…『おかしやのおばさんが、おかあさんだったらいいな』って…」
母は照れ臭そうに言った。そうか、それなら、胸がときめいちゃって、誰かに言いたくなって投稿したの、分かるな。
「良かったね、おかあさん。きっとまた来てくれるよ」
わたしは本気でそう言った。

 実家の、あの高台から見える溢れるほどの緑や、きれいな青空や、一直線に延びた道路を思い描きながら、母は、ますますこの街を離れないだろうな、と思った。

あとがき
もし、駅からしばらく言った高台に、住まい続きの、古くて小さい食料品店を見つけたら、それは母の店かもしれません。母は恐らく、ひろちゃんがまた来てくれるまで、細々と店をやっていると思うのです。

著者

かぜかおる