「褒め言葉なんて出てこない。」匿名希望

 三年間住んでいた長期出張先の部屋は職場から歩いて五分も掛からない距離だった。だから全く気がつかなかった。横浜から二俣川に向かう急行電車の窓から見下ろした街の木々の葉は赤や黄に色づいている。まだまだ気分は春先なのに、いつの間にか秋になっていたらしい。
 いずみ中央駅のホームに下りる頃には、随分と陽が暮れていた。くん、とひんやりとした空気のにおいを嗅いで、にやりと笑う。
 ボストンバッグを肩にかけ、仕事用のブリーフケースを手に階段をおりていく。改札の前でICカードを探していると、
「お、珍しい」
 声を掛けられた。改札の向こうに見知った顔を見付けて、目を丸くする。
「よぉ、拓実」
「何、旅行帰り?」
 久し振りとも元気だったかとも言わず、からかい口調で尋ねる拓実ににやりと笑い返す。
「スーツ姿でかよ。三年、住んでた部屋を引き払って帰って来たことだよ」
「その格好、似合わねぇな」
 そう言う拓実もスーツ姿で、
「お前には言われたくねぇよ」
 顔を見合わせて、揃って笑い合う。
「長期出張だっけか? お袋がそんな話、してた気がするわ」
「そっちも仕事帰り? 結婚したんだっけっか」
「したした。式、まだだけど。……言ったっけ?」
「お袋から聞いた」
 顔を見合わせて、揃って押し黙る。
「母親情報網、まじで怖いわ」
 声をひそめる拓実にコクコクと同意して、ようやく見つけたICカードをかざして改札を出る。
「一杯飲んでいける?」
「いいね。あぁ~、でも夕飯用意してあるから、ちょっとだけな」
「既婚者は大変だな。んじゃあ、なんか買って適当なとこで飲むか」
 渋い顔をする拓実の事情を察して、笑いながら目の前のローゼンに入る。
「ビールでいい?」
「おう。つまみはどうするよ」
「良いの持ってるよ」
 ボストンバッグを叩くと、拓実がにやりと笑う。
「さすが。旅行帰り」
「仕事帰りだって。ふざっけんな」
 拓実のふくらはぎを爪先で小突く。レジを済ませて、袋を受け取って、
「どうする?」
 バスロータリー側の出口に向かいながら聞く。まぁ、答えはわかっているのだが。
「いつものところでいいだろ。じゃぶじゃぶ池」
 案の定。拓実はさっさと和泉川に掛かる橋を渡り、水遊びができる広場に向かう。じゃぶじゃぶ池というのは通称らしいが、正式名を知らないので良い年になっても、こうとしか呼びようがない。
 広場を眺められる位置に腰を下ろせる段差と屋根がある。その段差に腰を掛けて、袋からビールを開けると乾杯もなしで揃って口を付けた。
「前に会ったのって、大学んときだったっけか」
「んー、そうだったっけか。高校んときじゃなかった?」
 どうだったかな、と首を傾げる。
 拓実とは幼稚園から中学まで一緒で、散々、つるんでいた。でも高校に上がってからはロクに連絡も取らず、数年に一回、ばったりと会って喋る程度だ。母親同士はしょっちゅう会っているみたいで、そっち経由で近況を聞くせいか。いつも久々という感じがしない。
 夏なら幼稚園くらいの小さい子供たちが水遊びをしていて賑やかだが、さすがに秋の――日が暮れたこの時間帯では子供の姿はない。ここが出来た頃には俺たちは水遊びをするような年齢じゃなかったが、今日みたいに偶然会って、座り込んで喋るのに良く使っている。
「そうだ。土産、食う?」
 缶ビールを脇に置いてボストンバッグから出張先で買って土産を取り出す。
「お、いいじゃん。食う、食う。いいな、旅行」
「だから仕事だっつってんだろ」
 けらけらと笑う拓実を小突くが、言いたい気持ちはわかる。こっちも拓実がスーツ着て働いてるなんて信じられない。
「どうだったのよ、向こうは。寒かった?」
「市内はそんなじゃないかな。まだ。――お客さんも良い人、多かったし。やりやすかったよ」
「へぇ。――お、うまい」
「だろ? 向こうで食うもんも、すげぇ旨いの」
「酒も旨そうだよなぁ」
「お客さんにあちこち連れてってもらったけど、やばかった! 毎週のように公園で、なんかしらイベントやってるしな。しかも飲める系の」
「なにそれ、俺もそっちに住みたいんだけど!」
「そういやお前、今、どこ住んでんの?」
 あの時間帯に改札に入ろうとしていたということは、今は実家を出て、いずみ中央以外に引っ越したと言うことだろうか。案の定、拓実がこくりと頷く。
「隣。いずみ野に部屋、借りた」
「へぇ。あ、あれ、特急って何!」
 二俣川駅で乗り換えるときに見た時刻表を思い出して、声を上げる。
「いずみ野止まるくせに、いずみ中央止まんないって。区役所、区役所!」
「それな! いずみ野のくせに生意気……って、敦に言うとなんだかんだで蹴飛ばされるから気を付けろ」
 敦とも言うのも中学時代の友達だ。いずみ野のくせに、いずみ中央のくせに、は同じ中学の連中が揃うと始まる定番の論争ネタだ。高校の友人が入ると途端に目くそ鼻くそ扱いされて、消沈するのだが。
「奥さんも一緒に住んでんの?」
「むしろ、それでいずみ野に部屋借りたんだって」
 だよな、と呟く。職場が近ければ実家から出る理由はない。俺だって長期出張に行くまでは実家暮らし。こっちに戻って自社出社になれば、また実家暮らしだ。
「この辺、ありなんだ。嫁さん」
「この辺に住もうかって言い出したのも向こうだし、そこそこ気に入ったんじゃね? ここも桜がきれいだとか言ってたし」
 言って、拓実はじゃぶじゃぶ池をぐるりと見回す。すっかり葉が落ちているが、そういえば春になると桜が咲いた。気がする。
「あと坂上った十字路のあたりに公園あるじゃん。あそこの桜も立派らしいよ」
「そうだっけ?」
「な、地元民ってそんなもんだよな。あ、あとなんかゆめが丘にうまいピザだがパスタだかあるらしいよ」
「え、なにそれ。それも嫁情報? ゆめが丘のくせに生意気」
「嫁。さらに元ネタは、うちの母親。一緒に行ったらしいよ。それはそれで何、言われたんだかめちゃくちゃ怖いんだけど」
 遠い目をして言う拓実に、ご愁傷様、と笑う。缶ビールを傾けると、もう空だった。もう一本、買っておけばよかった。
「旦那といい、引っ越し先といい。蓼食う虫もって言うけど、まさにそれだよな。お前の嫁さん」
「黙れ、おい」
「目の付け所が違うよな。それか変人。……って投げんなよ、ビール! ベタつく!」
「どうせ帰ったらクリーニングだろ!」
 投げつけられた缶ビールの飛沫に悲鳴を上げる。拓実も飲み終わったらしいが冷たい。
「まぁ、確かに。褒めろって言われてもな。悪口ならいくらでも出るけど」
「養豚場とかな」
「あ~、わかる! あの臭い嗅ぐといずみ中央に帰ってきた感あるよな」
「さっき、ホームについたときも真っ先に空気の臭い確認したもんな。今日、臭わねぇの。ここはいずみ中央じゃないに違いない」
 わかるわかる、と言いながら拓実が腹を抱えて笑う。
「あれ、養豚場じゃないらしいけど。養鶏場? 畑の肥料?」
「どうでもいいし。――お客さんとこでも、けなしまくりなそんなノリ? 社会人やってるの、マジで信じられないんだけど」
 冗談半分、本気半分で聞く拓実に、胸を張る。
「やってる、やってる! 褒めまくり。俺の本気、見せてやりたいね!」
「その本気、一回でいいから俺に対しても発揮してみせろよ」
「……無い袖は振れない」
 真顔で言うなよ、と言いながら肩を叩いてくる拓実に笑い声を上げる。と、拓実がスマホを取り出して、やば、と呟いた。
「奥さん?」
「何時に帰ってくる? だってさ」
「早速、尻に敷かれてやんの」
 拓実に投げつけられたのと自分のと、空の缶ビールをビニール袋に突っ込んで立ち上がる。結局、ろくに近況を聞きもせず、どうでもいい話で終わってしまった気がする。まぁ、これもいつも通りか。
「おう。結婚式の日取りが決まったら……連絡するか?」
「しろよ、聞くなよ」
 拓実の白い目に笑うと、いやいや、と拓実が首を振る。
「お前、何、話し出すかわっかんねぇからな。母親と親戚のおばちゃん並みに怪しいんだけど」
「その並びに入れんなよ」
 そう言ってみたが、まぁ、気持ちはよくわかる。にやにやと笑うと、
「まじでやめろよ?」
 拓実が身構える。その屁っ放り腰に大笑いしながら歩き出す。和泉川に掛かる橋を渡り、十字路の横断歩道を渡って、
「んじゃあ、またな」
「おう」
 ひらひらと手を振ると、拓実はさっさと駅に向かって歩き出した。お互い様だが、あっさりしたものだ。こっちも緩やかな坂道を登り始める。
 歩きながら思う。出張先やお客さん相手になら、本音も建て前も含めて褒め言葉が出てくる。でもこの辺や拓実のことになると別に出てこない。
 と、電車の音に振り返る。高架橋をいずみ野駅方向に電車が走って行く。拓実はあれに乗れたのだろうか。
 物心がつく頃にはすでにいずみ中央駅はあったけど、最初からこうだったか。少し変わったんだか。拓実だって幼稚園から一緒なんだから変わっているはずだが、昔の顔なんて全然思い出せない。
 拓実の結婚式では口を開かないようにしようと心に決める。にやにや笑いは堪え切れそうにないが。
 あって当然。いて当然。そんなものに貶し言葉こそ出てくるが、一生、褒め言葉なんて出てこない。

著者

匿名希望