「踏切」せき ごう

 車窓からこんもりした丘陵地帯が見えてくるとやがて鶴ヶ峰の駅だ。峰、と言うだけあって帷子川の削った南の断崖上を相鉄線は走って居る。地形的にこの川は渓谷のような様相の筈だけれど、斜面にまで立ち並んだ家屋が地形の特殊性を覆い隠していて、今更そのような視点で街を見る人など殆どいないだろうと思われた。
 高台と言えば山の手と言った名が付きそこそこの住宅街があったりするものだが、ここには獣道の名残をそのまま無秩序に広げたような住宅街が雑然と広がっているだけで、どうしてこのような街に戻ってくるのだろうと、太郎は風景を見る度に自問し続けている。
 答えの出ないこの問いはチューインガムのようだ。
 息子が会いたがる母親が居るから、または、帰巣本能、そして、もうひとつは…。
 ゴムの塊になったガムを棄て、また新しいガムを口に入れる。これまでの帰郷はまさにそのような感覚だった。
 踏切の音が通りすぎる。じき駅に着く。
 踏切は奇妙な空間だ。
 そう思ったのは、いくつの頃だったか、まだ幼い時だったと思う。遮断機の手前で見る線路の向こう側の風景が、電車が通りすぎると一変していることがある。居なかった人が現れ、または、その逆であったりほんの数十秒の間に踏み切りの向こう側は別世界になる。だが、遮断機が上がって仕舞うと、程なく2つの世界は中和されてしまうのだ。
 ただ、あの時を除いて。

 踏切の音がし始めると彼女は小走りに線路を渡りこちらを見やる。走らない太郎は手前で電車を見送り、その後まさに表情と共に仁王立ちする彼女と向かい合わせになる。それは何十回も繰り返された事だった。
 電車が過ぎた後、彼女が消えたあの時以外は。

 車内アナウンスを聞いて相司は太郎をみあげる。
「降りるよ」
 と小声で告げるとつぶらな瞳で太郎を見つめ彼はニコリと微笑む。 
 相司の手を引いて駅前に出ると彼が嬉しそうに叫んだ。
「おばあちゃんだ」
 交差点のこちら側で自転車と共に佇んでいる太郎の母。片手を小さく振りながら孫の方を見ている。
「いらっしゃい、相ちゃん。」
「ただいま、って」
「おばあちゃん、ただいま」
「はい、お帰り。そろそろかと思って待っていてみたわ。あら、ママは?」
「今日はお仕事だよ」
「ごめん、母さん、明日来るって」
「そ、大変ね、年末なのに。あのね、ついでに買い物と思って来たのよ。先に行ってて」
「じゃ、相司、公園の方に行ってこようか」
「うん、行く」
「あ、それがいいわ。じゃ、後でね」
 二人は別れて母が行くのであろうスーパーとは逆の方へと歩き出す。思いだしたように背中から母の声が届く。
「車に気を付けるのよ、相ちゃん」
 かつては自分の名前だった事を思いながら振り返って手を振らせる。

「ね、どうして走らないの?」
 信号を渡った所で彼女は言う。
「点滅は、止まれ、でしょ」
「注意してわたれ、じゃないの」
「えー、そんなに急がなくてもいいんじゃない。信号に急かされるなんて、人間性の崩壊だ」
「…あ、そ」
 言葉こそ違え、何度も同じような言い合いを繰り返しつつ高校時代の我々は付き合いを続けていた。
 もっとも、大方の人間は信号が点滅し始めると走る。発車のベルが鳴り始めると駆け込む。だから彼女が別に特異である訳では無い。
変わっているのはむしろ、太郎だった。
 しかし、意見が合わないのはこの辺りだけで、学習面でも趣味の面でも恐らく気が合ったからこそ居心地良くこの関係が続いて居たのだと思う。後年聞いたところでは同級生間ではひとつの理想的カップルだったらしい。
 同じ美術部だった彼たちは、美大受験に向けて放課後のデッサンを週に数日行っていた。美術室には他にも五~六名の仲間が居て、同様に切磋琢磨を続けている。
 進学校では、むしろアウトローの空間だが、理解のある教師が芸術系志望の駆け込み寺として指導してくれていたのだ、と思う。
 しかし、彼女の第一志望は畑違いの国立大学だった。家業を継ぐための国立の選択枝は関東には一学部しかなく、そこに届かなければ宮城に行かなければならなかった。現時点で都内の国立大を選択するには彼女にも家族にも度胸が必要だった。私立や浪人の選択枝は避けたかったのか。
 そのような中、彼女が全くジャンルのちがうデッサンを続けていたのは太郎が美大1本だったこと達成感だったのだろう。この絵に費やす時間をそちらの入試科目に振りわけていればとも言われただろうが、絵が好きだった彼女は何かを試したかったのかもしれない。
 この電車に乗って実家に戻る度、当時は気付かなかった事が段々理解出来てくる。

 駅から繁華街のなだらかな坂を下りていくと帷子川が見えてくる。久しぶりだった。四才の相司にも初めての場所だ。橋の中央に立って川を見下ろす。
「わーすごい川だね」
 確かにすごい川に見えたこともあった。
「そうだね。ぐるっと見てご覧、ここだけ低いよね」
 太郎は腰をかがめて相司の目の高さに合わせて景色を見回す。
「本当だね、周りは山みたい」
 幼子の素直な反応が嬉しい。そして、かつて父と同じ事をした思い出が暖かい。
 かつての風景は激変している。緑が減って高低差のコントラストが和らいだ分を駅前の高層ビルが補っているかのように川を見下ろしている。
「ね、この川は凍ることがあるの?」
「え?いや、ないよ…あれ、寒のか?」
「ううん、大丈夫。でも、もし凍ったらいいね。ずーと滑っていけるでしょ?」
「あぁ、いいね。海まで滑っていけるぞ」
「すーってね…ね、パパ、公園行こう?」
 この渓谷の底に吹く風は、季節のわりには柔らかいが少々冷たい。
「うん、そうしよう」
 幼子の手を繋いで歩き出す。相司がなぜそのような事を言ったのか少々心に引っかかりながら、脳裏をあの時の光景が駆け抜ける。
 
 卒業式の当日だった。学校を出て再び集まった我々五名は、道具を持ってこの橋にやってきた。用意万端整った所で、大人達の集団に止められた。
 何をしているんだ、卒業記念行事です、そんな危険な真似はさせられない、でももう卒業しました、いや今月一杯はこの高校の管轄下にいる、しかし危険ではありません、ごねるなら警察を呼ぶし、おまえたちの推薦入学は取消だ…
 道具も没収され太郎以外はあっさりと引き下がりその場を後にした。それにしてもどうして教師達がここに来られたのか。このメンバーの中に内通者がいることは明かだった。 
 話はその三ヶ月前に遡る。
 ハードディズナイト冒頭のコードをかき鳴らし、太郎が口を開く。
「な、何かさ、ぱっとしたことして卒業しようぜ」
「何、イベントってこと?」
「卒業コンサートとか?」
 バンド仲間の四人が楽器の用意をしながら反応する。
「いや、ちょっと違う」
 リーダーの太郎は主導権を持つ。
「うーん、パッとハデで、手間のかからないもの。受験も近いから」
「花火?」
 今年最後の練習をと音楽室に来てみたがイベントの予定がある訳でもなく練習よりこちらの方に気持ちが移ってくる。
「ま、それも考えたけど、市販の花火なんて大したことない」
「なるほどね…」
「職員室のガラス割って逃げるとか?」
「お、やってみたい気はしていた」
「今更、ガキだろ、それ」
「…まぁ、どうせやるなら、達成感のあることがいいよな」
「山登り!」
「えー、いやそれは」
「なんだよ、全員かよ。達成感あるのに」
「じゃ、海だ」
「泳ぐ?飛び込み?」
「いやー、それならまだ山の方がいいわ」
 そういったやりとりを聞いて閃いたのがこの卒業イベントだった。
 その時、音楽室近くの美術室では彼女たち数人がデッサンの練習していた。
「じゃ、おまえたち頼むよ。もう受験がないんだからさ」
「しょーがねーな、じゃな」
 こう言う会話を残して太郎が部屋に入って来た。
「また、悪巧み?」
「あ…い、いや」
 太郎が言葉に詰まったのを見て他の連中もはやし立てる。
「面白そうなことなら、声かけろよ」
 彼女がじっと見つめるのを避けるように彼もまたデッサンを始める。
 別に約束した訳では無いが、これは彼女に内緒にして置いた方かいいかと思われ、あえて隠した。彼女はそれ以上聞かなかった。

 年も明けてセンター試験が終わると殆どの生徒が受験勉強室で自主勉を始める。  
 入試がないにも関わらず太郎のバンド仲間は頻繁に登校して何やら作業をしているようだった。元々目だつ連中だから同級生の口の端にも上る。さらに時折太郎も加わっているのを彼女も知っているし、素知らぬ顔で昼食を共にしたりもする。
 ある日、真剣な顔で話がある、と言われたときは企みがバレたのかと太郎は焦った。だがそれは、彼女の出願先を決定するための相談だった。
「宮城と東京とどっちが良いと思う?」
 相談とは言っても太郎が試験に対して的確なアドバイスを送れる筈は無い。教師は点数だけで判断するだろうし、家庭ではまた思惑があるだろう。そのような状況下で、太郎が何を言えるのか。
「え?自分はどうなの?」
「東京受けたい、でも冒険。かと言って宮城に一人で行くのもなぁ」
「あぁ、でも俺、あっちに行ける学校ないしなぁ、ごめん…」
「…今更いいよ。」
「私立とか浪人とか、ま、こんなこと言ったら家の人に怒られるだろうけど」
「美大卒業してから私立ならいいかな」
「は?」
「でも、許してくれる筈がないわ」
「…」
「大体、そしたらいくつになっちゃうんだよ、私…」
 太郎は東京に行って欲しかったのだ。学校は違っていても自分と一緒に。それを、はっきりしない、よく言えば遠慮がちな言葉で表現したつもりだった。
 反面、太郎の志望ははっきりしていた。それは技術的な自信から来るものでもあってその時点では揺るぎないものに見えたし、彼女はそのような彼をまた好いていたのだろう。
 結局、彼女は宮城の大学に願書を出した。だが、共に受けた私立の美大からは芳しい結果が来なかった。

 その後、どのような会話をしてどう触れあっていたのかはよく覚えていない。ほとんど毎日のように見ている彼女の空元気に騙されたのか、自身の絵の事で頭が一杯だったのか、ただ、二人で居られる時だけが心地よく感じられて、ただそれだけで二人の時はむなしく過ぎて行った、のだろうと思われた。

 バンド仲間には理系もいる。
 彼たちは、橋から川面までの距離を測ってGを計算し、市販のゴムバンドの強度と伸縮率から必要十分な本数を手に入れ、束ねて固定法をも考案していた。
 バイトが禁止の学校にあってこの作業は大学入学の決まっている彼たちの無聊を慰めるにはうってつけであったのは言うまでも無い。
 残る問題点は、最初に飛び込む人間のくじ引きだった。
 しかし、くじを主張したのは太郎だけで、他のメンバーは作業したことを引き合いに出し、また発案者の責任を盾に譲らない雰囲気であった。
 それはそうだ。決して安全とは言えない。まして高校生の計算だ。自分で振っておきながら結局自分で人柱にならなくてはならない事態に太郎は自身の甘さを知る。
 覚悟を決めた積もりで虚勢を張りつつその目的地に到着した時、そこに現れた教師達の一団に救われた思いがしたのは、正直な所、事実だった。
 その教師たちに抗議したのはただの反骨だったかも知れないし、仲間への見栄、或いは情報が漏れた事への苛立ちだけだったかも知れない。
 その後、メンバーからは大した文句も出なかった事を見ると漏洩者はメンバーの中に居たのかも知れないし、もしかしたら彼女だったかも知れないと思ったりする。いや、恐らく彼女なのだろう、年と共にそれは確信に変わっていく。

 この半都会的な風景が故郷と呼べるなら、ここは甘酸っぱくほろ苦い思い出に満ちあふれた空間だ。
 人々が悲劇の芝居に何度でも涙を流すのと同様に、太郎は都度ここに戻り青春時代の疑問を紐解いて行こうとしているのかもしれない。あの時の彼女の心情を。そしてそれが動かしたであろう、自分の運命を。
 
 鶴峰公園でひとしきり遊び、線路の向こうの実家に向かう。子供は元気だ。このエネルギーがきっと大人を支えている。
 途中の帷子川親水公園は、かつての河道だ。曲がりくねった川を直線にし、不要になった部分を公園にしてある。ここだけ見れば都心にもある雰囲気ではあるが、相司は何か嬉しそうにも見える。
 恐らく十年以上来ていないこの辺りの公園にもまた来る理由ができたのかもしれない。 公園を出で緩やかなカーブを歩き線路に向かって坂道を上がる。
 やがて電車で通過した踏切が見えてくる。それは、あの時の踏切。
  
 何故、こうもナーバスになったのか、と今でも思う。何でも思う事を話しあって来た二人の間に何故これは壁を作ったのか。
 卒業の日の一件後、その事に対して彼女は一言も話さなかった。元々、太郎も伝えていないため自分から言い出すのも躊躇われたのは事実だ。
 下手をすると警察沙汰になるかも知れない事に対して、本能的に彼女を関わらせてはいけないと言う気持ちが働いたのだろうか、とも思う。それとも若気の至りと気持ちのもつれ、たった一瞬の思いつきの惨めな結末を彼女に話す勇気がなかったのか、と今だから思える。

 宮城の試験の前日、彼の地で前泊する彼女を東京駅まで見送る事になっていた。駅に向かう道すがら、いつものように踏切の警報器が鳴り始め、いつものように彼女は駆け足で踏切を渡る。何時ものように太郎は遮断機の手前でノンビリと立ち止まる。さらに何時ものように遮断機の向こうに苛つく彼女の顔が見えた。が、電車が通過したその後に、彼女の姿はそこに無かった。
 少なからぬ衝撃が太郎の心に走る。しかし、太郎は動かなかった。いや、動けなかった。心のどこかで予想していた結末…何かが凍り付いて行った。それからお互い何の連絡も取っていない。
 
 太郎と相司が踏切の手前に差し掛かったとき警報器が鳴り始めた。
「あ、踏切だね」
「そうだよ。どんな電車が来るかな」
「どんなのが来るの?」
「ここで見てようか」
 考えてみると相司が踏切で電車を見送るのは初めてだった。住まいの湾岸エリアに踏切は皆無だからだ。
「あ、赤いのだ。さっき乗ったのと違うね」
「うん、相鉄線は色々なのが走ってるんだよね」
「へえ」
 大きい声で話すのもつかの間で電車はすぐに通過する。
「あ、おばあちゃん!」
 遮断機が上がって行く向こう側を太郎の母が手を振りながら歩いて来た。相司が太郎の手を引くように母に向かって行く。初めてのレールに視線を泳がせながらも母の元に辿り着くと母は大げさに相司を抱きしめる。
「公園に行ってきたの?相ちゃん」
「うん、遊んできたよ。すごい川もあったよ」
「そう、良かったね…遅いからどうしたかと思っちゃったわよ」
 会話の後半は太郎に向けてのやや非難めいたトーンである。
 自転車がないところをみると一端家に戻って食材を冷蔵庫にしまい、時計を見やってから徒歩で出て来たのだろう。
 そう言えば、かつて若い母もここに立ち、踏切の向こうを見ていた事が多かったように思う。その視線の先は自分だった。
「あ、また電車来るよ」
 警報器が鳴り始める。今度は上りの電車だ。「よし、ちょっと離れてみよう。その方が全体が見えるからね」
 相司は素直な返事と共に後退する。
「あの矢印が電車の来る方向だよ。」
「あ、今度はこっちから来るんだね」
「あら、相ちゃん、踏切見るの初めてなの?」
「うん。」
「あらまぁ…」
 大きな走行音が近づいてくる。
「青いよ。パパ、今度は青いよ」
「本当だ。青だねー」
「面白ーい」
「電車バイバイ」
「バイバイ」
 相司と目の高さを合わせて太郎は手を振ってみる。相司も真似をする。最近気付いた幸福なひと時だ。
「行っちゃった…」
 電車を見送ったあと、踏切の向こうに妙齢の女性が立っている事に気付く。子供と一緒とは言え恥ずかしさが過ぎり目を伏せてすくっと立ち上がる。
「あら、先生」
 母がそう呼んだ。母が先生と呼ぶ人物など太郎の学校時代の教師しか思いつかない。
 太郎も会釈をして相手を見やる。向こうも母に気付いてこんにちは、と挨拶を返す。仰々しい仕草がないことから、母とは頻繁に会っていると推察できる。学校の恩師ではない。大体若すぎる。
「あら、お孫さんですか?」
「えぇ、ほら相ちゃん、ご挨拶は」
「はい、こんにちは!」
 相司の元気な声に女性は優しく微笑んで膝を折り言葉を返す。
「こんにちは。お、良い歯してる。おりこうさんね。」
 相司は突然褒められて恥ずかしそうに母の方を見上げている。母も笑顔で頭を撫で、急に表情を変えたかと思うと太郎に強い調子で言い放つ。
「ほら太郎もちゃんとご挨拶なさいよ」
 まるで子供を叱るかのような口調に戸惑っていると、女性は太郎を見上げて言った。
「よ、久しぶり!」

              つづく

著者

せき ごう