「通勤電車」比些志

 その日は雨だった。車内はすし詰めの満員列車。今日がいよいよ初出勤日だ。高校生のときから乗りなれた朝の通勤電車だが、真新しいスーツ姿で乗りこむと、心なしか気分も違う。ようやく自分も社会人の端くれに加わることができたというような誇らしさに浸っていたが、すぐにひたひたと押し寄せる緊張感のせいで吊革を握る手が汗ばみ始めた。――突然、停止信号で電車が止まった。なんのアナウンスもないまま、沈黙と人いきれに支配された時間が行き過ぎる。入社祝いに両親からもらった真新しい腕時計をなんども見た。なんだか、お腹が痛くなってきた。……

 9月最後の日。この一年間、毎日わたしは、途中のターミナル駅から乗ってくる彼女といっしょに通勤している。毎朝息をするのもはばかられるような車内ではゆっくり話しをすることもできない。でも、ただいっしょにいると感じるだけで、朝の通勤地獄が確実に最高に幸福な空間と時間に変わった。
 その日も、彼女はわたしの横にだまって立っていた。いつもなら時おり気恥ずかしそうな視線を横目で送るだけなのだが、その日の彼女はまじまじと訴えかけるようにわたしの顔をのぞき込み、不安げな目配せをしきりと送る。その視線の先では、大柄の男がさっきから彼女の腕にひじを押してつけていた。わたしは、何も言わずに彼女の肩をひきよせた。わたしの胸に顔をうずめる彼女の黒髪からシャンプーの匂いが立ちこめ、鼻先をくすぐる。彼女は今日が最後の出勤日。明日から、この人が自分の妻になると思うと、胸が自然と熱くなる。

 昨日、上司と喧嘩をした。自分が悪いのか――?いや、オレは悪くない。じゃあ自分はどうすべきだったのか?これからどうすべきなのか?
 熱帯夜を一睡もすることなく自問自答した。頭がさえればさえるほど、わたしは自分だけが正しく、自分以外はすべて敵であるという考えから逃れられなくなった。挙句の果てに、朝、妻に八つ当たりしてしまい、体調だけでなく気分も最悪だ。
 途中のターミナル駅に着いた。背中が汗ばむ。電車を降りたい。そしてホームの反対側に止まっている電車に乗っていっそのことどこか知らない場所に行ってしまいたい、とぼんやり思っていたら、妻と幼い子供の不安げな顔が頭に浮かんだ。……

 今日は昇進試験の日。電車は師走のあわただしさを乗せていつもの路線を走る。わたしは、吊革につかまったまま、もう一度、この日のために何日もかけてまとめたノートに目を通す。
 ――管理職になれるか、万年係長で終わるかが、今日の試験で決まる。たかが雇われサラリーマンの一生だが、この差は、天と地ほどの違いだ。――そう思ったら、急にお腹が痛くなった。額に脂汗がにじむ。わたしは途中のターミナル駅で下りて、一目散にトイレに駆け込んだ。

 今日は最後の出勤日。車窓から見る風景とも今日でお別れだ。わたしは、いつもの時間のいつもの車両のいつもの吊革につかまった。この三十五年間、変わることのない、わたしのルーティーン。ただ、ちがうのは、わたしの横に、大学生になった娘が立っていること。
 ターミナル駅に到着したとき目の前の席があいた。娘が、「お父さん、座りなよ」、と言ってくれた。この子も来年は社会人、ひとなみの大人になったものだと感慨にふけっていると、背後からふたりの間に割り込んできた鼻息の荒いヨレヨレのスーツ姿のサラリーマンが、その席に座ってしまった。そのまま腕を組んで眠り込む男の様子を見下ろしながら、わたしは娘と目を合わせて微笑んだ。

 今日は、ひさしぶりに電車に乗った。長らく病気でベッドに伏せっていたため、ひさしぶりの外出だ。どうやら世間は休日なのか――退職してから、毎日が日曜日みたいなものだからすっかり暦に疎くなってしまっている――電車はガラガラだった。座席も空いていたが、わたしは現役時代の習い性で腰掛けることなく吊革につかまった。なぜか車窓を流れる風景は、電車好きの子供のころに胸をときめかせながら見たような田園風景である。空は雨模様。こういうときは夜に決まって雨が降る。折りたたみ傘を忘れたことを後悔しつつ、まわりを見ると、現役時代にいつも同じ車両に乗り合わせた乗客たちが乗っている。しかも、その「戦友たち」はみなわたしに向かってにこやかに笑顔を見せている。しばらくして電車はターミナル駅に止まった。窓の外のプラットホームに、懐かしい父や母や祖父母がいた。じっと立ち尽くしたままこちらに向かって手を振ってくれている。
 ――そうか、そういうことか。もう帰りの傘は必要ないのだ。
 発車のベルが鳴る。となりに立っている紳士が「降りますか?」と聞いたが、わたしは首を振り、紳士のやさしい心遣いにだまって会釈をした。やがて電車はふたたび走り出した。車窓の景色には満開の桜がまるでにじむようにぽつぽつと広がっている。新しい一年の到来とともに、わたしのいない世界でも新たな時代は確かにはじまろうとしているのだ。
 ふと、目の前に座っていた女子高校生が、にこやかに「どうぞ」といって席を立った。けれど、わたしは吊革につかまったままおだやかに断った。
「この景色をこころゆくまで眺めていたいんでね」

著者

比些志