「遠回り」守部小竹

 付き合い始めて、最初の喧嘩だった。そして最後の喧嘩になる。恐らく、きっと。

 校門を出て、いつもと逆の方角へ小走りで向かう。卒業式の後、学校周辺はまだ沢山の人でざわめいていた。スーツ姿の保護者、見送る在校生、そして旅立つ私たち卒業生。そこには泣き顔も多く混じっていた。だから大丈夫、私の涙もそうは目立たないはず。
 涙…?
 足早に川を渡り切ったところで、漸く私は自分が泣いていることに気が付いた。気付いた途端、堰を切ったように嗚咽が漏れた。

「留学することにした」
 高校生活最後の日、裕は唐突に切り出した。初めは冗談かと思った。私たちは来月、同じ地元の大学に進学するはずだった。少なくとも、私はそう信じていた。あまりの不意打ちに私が茫然としていると、沈黙に耐え切れなくなったのか、裕はぽつりぽつりと言葉を継いだ。
 留学先はイギリス、志望専攻はスポーツジャーナリズムであること。向こうの大学は九月始まりなので、まだしばらくは日本にいる予定であること。でもその間はアルバイトを掛け持ちして、少しでもお金を貯めておくつもりであること。早速明日は、引越しの単発バイトが入っていること。
 今後の展望が具体的な計画を伴って語られたのに、私には全く現実感がなかった。考えてみれば当たり前だった。私はその展望に含まれていないのだから。
 この人は、いつの間にそんな準備をしていたのだろう。私の知らないところで。どうして今まで黙っていたんだろう。どうして、どうして…。
 疑問は喉元まで出かかって、結局一つも声にはならなかった。言ったところで裕の答えは変わらない。二年間の付き合いで、それだけは判っていた。だから私は、黙って彼の前から立ち去った。裕も私を引き止めなかった。

 平沼橋駅へ続く階段を上る。終点の横浜駅までは各駅停車で一駅、歩いても十分程度の距離にあるこの最寄り駅を利用したのは、高校生活を通じ数えるほどだった。今日だって、いつもと同じように一駅分歩いて帰るつもりだった。陸橋から見上げれば、空は透き通って青い。その片隅を飛行機が滑っていく。私はそれを見ないふりして、改札を通った。

 結局、卒業式の日まで言い出せなかった。
最悪だ。
「そうか。お前、その顔で帰国子女だもんな。語学力は問題なし、か。…ところで、結城には伝えてあるのか?」
 夏休み明けすぐの進路相談で第一志望の変更を告げた時、担任の森川先生は最後にそれを訊いた。留学については殆ど何も突っ込んでこなかったくせに、さすがはモリー。口は悪いが、指摘は鋭い。
「…いえ、まだ。変に動揺させて、受験勉強の邪魔をするのも厭ですし」
 我ながら、まともな言い訳だと思った。こちらの心の裡を見透かしたのか、モリーは小さく溜息をついて付け加えた。
「判らないでもないが、こういうことはなるべく早めに伝えておいた方がいいぞ。ぎりぎりになるほど、後で厄介なことになるからな。覚えとけよ。ここテストに出すからな」
 モリーの不吉な予言は、見事的中した。

 卒業式、そして高校最後のホームルームの後、それぞれの部活の後輩や友達と一通りの挨拶を済ませ、昇降口脇でいつものように冬子と落ち合った。書道部の後輩から貰ったのか、薄いピンクの花束を抱え先に待っていた冬子は特に感傷に浸る風でもなく、いつも通りの笑顔だった。
 モリーの忠告があったにも関わらず、留学のことは結局言えずじまいだった。今日こそ伝えなければ。それが自分で決めた最終リミットだった。今日を逃せば、出発までもう何も言えないような気がしていた。
 慎重に、言葉を選んで話をしたつもりだった。思った通り、冬子は俺を責めたりはしなかった。ただ、激励もなかった。束の間瞬きを忘れたように目を見開いただけだった。
 冬子は何も言わず、そのまま足早に俺の隣から離れていった。校門を出ていつもとは真逆の方へ向かう後ろ姿を、俺は黙って見送った。長いポニーテールが不安定に揺れていた。

「裕!裕!」
 突然、頭上から雷が降ってきた。見上げれば、校舎の窓から身を乗り出したモリーが、憤怒の形相で怒鳴っていた。先ほどの静かなる修羅場を、どうも担任に見られていたものらしい。まだ周りに多くのこっていた父兄や生徒たちが、何事かと一斉にこちらを振り返る。
「お前、何で俺の言うこと聞かなかったんだよ!ここテストに出すって言っただろ?」
 あああもう、とひときわ高い雄叫びを上げると、モリーは視線を遠くに投げた。
「あいつ平沼橋の駅に向かってるぞ。早く行け」
 俺が追いかけていいのだろうか。そう、ずっと抱えていた疑問は結局のところ、ここに収斂していくのだった。これから日本を離れる俺に、冬子を束縛する権利はないのではないか。きっと冬子は…。
 気が付けば、いつのまにか目の前にモリーが立っていた。肩で息をして。
「お前、ちゃんと言えたのか。留学のこと」
 無言で頷く。
「お前の気持ちも、ちゃんと伝えたのか」
 自分の気持ち…?はっとして、顔を上げた。先ほどと打って変わって、穏やかな表情のモリーが言った。
「相手のことを慮るのも結構だが、そればっかりだと、動けなくなるぞ」
 モリーは腕時計に一瞬目を走らせた。
「行くなら急げ。もう電車が来る」

 モリーから借りた自転車で、運河沿いの道を全速疾走する。この道は横浜駅までの最短ルートではないけれど、車も人通りも少ないことを知っていた。帰り道、冬子と毎日歩いた道だった。
 付き合い始めの頃、二人の関係が友達にばれるのが恥ずかしくて、この道を選んで帰った。初めて手をつないだのも、ここを歩いていた時だった。俺たちはただでさえ少々遠回りの道を、その上ゆっくりと歩いた。
 時間はたっぷりあった。それでも留学のことを言い出せなかったのは、怖かったからだ。
冬子は俺の決断を理解しようとするだろう。笑って「頑張ってね」と言った後、きっと夜中ひとりで泣く。何だか昭和の耐える女みたいだけど、冬子はそういう人だ。俺が恐れていたのは、冬子の泣き顔ではなかった。これを機に冬子の心が離れるのが怖かった。
 西口の映画館前で自転車を乗り捨て、二段飛ばしで階段を上り、橋を渡る。西口五番街。急激に人出が多くなる通りを、それでもありったけの速さで走る。いつも冬子とゆっくりゆっくり歩いていた道が、こんなにも短いものだったことを、今初めて知った。

 勢いのついた嗚咽は、自分でどうすることもできなかった。涙に鼻水、挙句に吃逆まで併発したところで、もう開き直ることにした。こうなったら、行き着くところまで発散した方がいいように思った。そう思えたら、少し気持ちが楽になった。
 ホームに各駅電車が入ってくる。卒業式帰りの保護者と思しき人影はちらほら見えたものの、平日のお昼過ぎ、横浜までたった一駅の平沼橋から乗り込む客はやはり少ない。後ろ寄りの、より乗客の少ない車輛を選んで乗る。扉が閉まり、列車は動き出す。緑色の水を湛えた運河の脇を、列車はゆっくり走ってゆく。
 裕と付き合い始めたのは、ちょうど二年前の今頃のことだった。それから部活を引退するまで、何百枚と半紙に筆を滑らせながら、サッカー部の練習が終わるのを待った。夕方、私たちは運河沿いの道を選んで帰った。毎日の、ほんの少しの遠回り。あれだけ沢山話をしたのに、どうして私は裕の気持ちに気付かなかったのだろう。多分ヒントはどこかにあったはずなのに。
 落ち着き始めた涙がまたもぶり返してきて、私は後輩のくれた花束に顔を埋めた。すぐに列車は速度を落とし、終点のホームに到着する。本当に、あっという間に横浜だ。いつも裕とゆるゆる、ゆるゆる歩いていた道のりがこんなにも短いものだったのかと、今日改めて知った。

 横浜駅の改札に飛び込んだ時、ちょうど各駅電車が構内に滑り込んできた。平日の午後一時過ぎ、乗客はそれほど多くない。跳ねる息をなだめながら、冬子を探す。

 扉が開き、乗客たちが降りてゆく。ハンカチで瞼を押さえてから、私も席を立つ。まだ裕は学校にいるだろうか。このままじゃいけない。会って話をしなければ。でも何を言えばいいのだろう。拭いたはずの両目からまた涙が滲んできて、私の視界は揺らめいた。思わず視線を落とす。ホームに降り立つ瞬間、間近で裕の声がした。
「冬子」
 私の目の前に、汗だくの裕が立っていた。

                 (了)

著者

守部小竹