「金木犀の咲くころ」村上やよい

 車窓から、雪を頂いた丹沢山系が墨絵のように見えたのは、かしわ台駅に差し掛かった辺りからだった。
 停車したドアから澄んだ空気が流れ込んできたので、海老名の街も水のニオイがするのかな、と想像していた。
 だが終点駅ということもあるのか、改札に向かう人の多さと、その流れの速さに驚いた。
 私の知らない土地だった。
 山村健也は私と話したこともなかったこの街に住んでいる。
 後味の悪い別れ方をしてしまった。
 そう思うとふいに胸が詰まり、雑踏に呑まれそうになった。
 年明けに、年賀メールがきた。住所が書かれていたことに微かな繋がりを感じて、私は『ありがとう』と返信したが、この約一年、気持ちはずっと引きずられていた。
 住所は一見して覚えた。ずっと忘れていない。
 検索してきた地図は頭に入れてきたが駅周辺のビルの多さで消されてしまう。
「国分南に行く道はここの? あちらの?」
 駅前でティッシュを配る美容院の女の子に訊くと小首を傾げたが、海老名の大ケヤキのある、というと左の大通りを指さした。
 私は敢えて彼に『届け物』を作って会いに行こうとしている。
 古い携帯など、何も郵送すればいいものを。
 着信音がメロディーからバイブに、やがて私が耳を澄ますからか、消音にと変わっていったガラ携だ。
 後味の悪さはもっと増すかも知れないのに。

 彼とは横浜美術館の美術情報センターで出会った。
 私は特別に調べものがあるわけではないが、静かな空間で美術雑誌や画集などを見ていると気持ちが和らいでいくようで、週末の心の置場になっていた。
 大学で油画を専攻していた彼は自分では絶対に買えない高価な美術図鑑などをふんだんに見られるからと、やはりよく利用していたらしい。
 たまたま机は斜向かいになり、何となくお互いの本を目で確かめていた感じがする。偶然、センターを出るとき同じエレベーターに乗った。軽くウインドーショッピングをしていたのに、偶然はどんな仕掛けがあるのだろう、駅に向かう歩く歩道でまた会った。
 軽い会釈をしたことから、話しは始まった。
「…というと、私は三歳年上になるわね」
「あ、そうですか、もう少し離れているかと思った…」

 健也は美大は出たが希望していた職業には付けず、染色業を営んでいた金沢にある実家の仕事を三年ほど手伝っていた。横浜に戻って塾講師をしながら絵を描いているが、これからの生き方に悩んでいるというのだった。
 作品を見せてもらうとどれも写実的であったが、目を逸らすと不思議に彼の強い主観が脳裏に残るのだった。強く興味を惹いた。
 私は絵画を鑑賞するだけではあったが、友人の画家の幸子とは美術館を巡ったり作品を挟んで話し合うのが好きだった。
 評論家だね、とからかわれていたが、感性が幸子と似ていたことから、気になる健也の絵を見てもらった。
 幸子には画廊を営む知人がいる。
 彼女からもその知人からも「悪くない」と言われると私は本気になって彼の面倒を見るつもりになったのだった。
 私はアパレルメーカーに勤務している。
 残業が多いので家事全般を彼にお願いしたいと同居を促した。
 健也はあまり乗り気ではなかったようだが、説得にはかなり強引さがあったと思い返す。
 母が他界した後の家の処分をどうしようかと考えているときでもあったので、空いている部屋を自由にアトリエとして使ってもらえたらとお願いした。
 
 バッグの内ポケットにある携帯を外から確かめると、青空にそびえたつビルや、目立つ家電の建物を見上げてから歩き出した。
 路地に入ると景色も空気も一気に変わる。
 黒い板塀をはるかに超えた満開の金木犀は濃厚な香りを漂わせていた。
 乾いた風が吹いてきた。花の香りは甘いのに、なぜか秋への寂しい香りに変えるのは、一人になった去年の今頃を思い出すからか。
 香りに纏われながらなだらかな坂を上ると健也のメールに書かれていた通り、大ケヤキが見えてきた。
『…その後、体調は?俺は未だに売れない絵を描き続けています。時折のバイトは力仕事ですが帰り際に見る大ケヤキに英気を貰っています…』
 売れない絵。
 許せなくなった、変わっていった感性。
 幸子から紹介されたモデルのことでも、意欲を見せなくなったことでも、イヤというほど咎め合った感情がざわざわと胸の中で湧き上がってくる。
 胸に手を当てて、彼が癒されるという大ケヤキを見上げて呆然とした。
 これほどまでに養生される樹を見たことがない。
 樹齢五百五十年以上の、洞になった根に近い部分には雨などからの、腐敗防止用のセメントが詰められ主幹全体には、簀(す)が巻かれている。
 痛々しく見えるが、地元に愛され見守られ、脇芽から成長した枝葉は大きく広がり、天に向かって伸びる二本の枝は母体の養分をたっぷり吸っているかのように健やかだ。
 健也はこのケヤキに癒されていると書いてあった。
 古い木肌にはたくさんの人達の手の温もりが感じられる。祈るように樹を見つめ、宥めるように簀を巻いたに違いない。
 取り返しのつかない思いが湧き上がってきた。
 彼の油画の才能を買っていたから何とか生業にさせたくて奔走していたが、どうやら私の独断専行だったらしく、自由になりたいといって出て行った。
 鋭い視線を受けた。私の全てを拒絶し、私を見たくないという目が忘れられない。
―涼子ちゃん、悪いけど、俺、疲れた。
 最後の言葉はそれだけだった。
 そして出て行った。
 乾いた風がケヤキの葉を揺るがした。
 仰ぎ見ると青空にひとつ、雲が浮かんでいた。
 今朝、家を出る前にこの近辺の案内絵地図を見てきた。この辺りでいちばん遠くが眺められるらしい『ひょうたん山』が目印だ。
 近くに小学校があるらしく下校の子供たちがランドセルを揺らしながら駆けてきた。
 汗で髪は額に張りつき、夢中で駆けてくる。足をもつれさせても、顔を空に向けて笑っている子もいる。
 遅れて走ってきた子が言葉にならない声で「待ってよ!」と言った声を聞いたとき、どうしたことか私は夢中になって走っているということだけで胸を熱くしているのだった。
 遅れて走っている子に、頑張ってと声を掛けたくなったが、
「ひょうたん山って、この道でいいの?」と
訊いた。すると、先を走っていた子たちが振り向いて、
「そうだよー、当たり!」と、それほど可笑しかったのか、転がらんばかりに笑っていた。

 メールには『眺めのいい場所で富士山も見えると言われているけど、まだ見たことがない』と笑いの絵文字が付いていた。
 かつての伸びやかな心を取り戻しているような気がして、また胸が痛んだ。
 この近くだろうと家々の表札の番地を探っていると蔦が這う小さな古い平屋の家に目が引かれた。
 木戸に貼られた手作りの表札が古民家にそぐわず浮き立っていたからだ。
 この表札。私はこれを確かめたくてわざわざ古い携帯などを持ってきたのだ。
 動悸が激しくなってきた。
 モデルをお願いしていた『真由香』の名前が連なっているのではないかと、どれほど想像しては心をかき乱していたことか。
 苦い唾を飲みこんだ。
 しかしそれには、山村とだけマジックで書かれていたことで肩の力は抜けたが、いやな解放感がどっと、のしかかってきた。
「涼子です」といってドアをノックした。
 すると、まるで誰かを待っていたかのように、ドアノブはすぐに回った。
「突然来ちゃって、ごめんね」
 彼の目を見てすぐに部屋の奥に視線をやる。
 モデルの真由香の姿を見たら何を言って、どうしようと思っていたのか、高鳴っていた胸の鼓動が鎮まらない。
 そして何度も感じていた自己嫌悪に陥った。
 メールもしないで来たことに戸惑う様子は見せないが、出ていくときに一瞬、振り返って見せた目の強さが残っていた。
 下駄箱が置けないほどの小さな玄関だったが、目の前からはフローリングが広がり、二人掛けのソファーとイーゼルがあるだけの簡素な部屋は清潔そうだ。
 上がるように促されて出されたスリッパが真新しい女物の白いサンダル風のものだったことに私は気後れがして、意味もなく俯くと、手にしていたストールがずり落ちてしまった。
 屈んで拾おうとしたら、パンプスの先に金木犀の花殻が付いていた。
「貧血、大丈夫?」
「血の気が多そうなのに、変よね」
 バッグから携帯を出した。
「ああ、ガラ携、捨てるの忘れてたんだ」
「勝手に処分してはいけないから」
 私に秘密のメールがたくさん入っているはずだ。
 テーブルに置いた携帯が、まだ息絶えてはいない、生き物のように思えて目を逸らした。
 健也の飲み残しのペットボトルの水を見ているうちに、ふと人のニオイのない家だなと感じて、またそっと部屋を見渡した。
 開け放たれた窓からは車窓で眺めた山並みが一望された。
「描いてるの?」
 黙ってイーゼルに目を遣る山村を目の隅にすると、言った言葉に棘がなかったかと自分の声の余韻が気になった。
「仕事しているってメールしたけど、引っ越しの助手みたいなものなんだ。声が掛ったときに行くぐらいだから大したことはないんだけど、絵を描く時間は持てるから」
―あなたが頑張らないから個展も企画できない。あなたのためよ! 私の友人が画商だって紹介するし画廊も貸してくれるって、何度も言ってるでしょう!
 叱責した自分の声が脳裏に響いている。
 彼もあのときの言葉が蘇り、耳を塞いでいたのだろうか。遠慮がちに溜息をついていた。
 溜息は言葉よりも重く伝わるものだ。
 壁に五枚のカンバスが立て重ねてある。
「見ていい?」
「…やっぱり俺はタイトルって付けたくない」
 売れる作品は描かない。自分のためにだけ描いているという信念はそのままだ。タイトルも作品だからと私が強く言ってしまったことへの言葉だろうが、口調は強かった。
 しばらくの沈黙は見えない盾だった。
 もう領域を超えたりはしないのに。
 見せてね、と言って一枚を手にして私は息を呑んだ。
 渓流に光が流れているように見えるが、白い和紙のようにも薄い女の躰のようにも見える。光の屈折から細長く群れをなした魚が泳いでいるようでもある。水底の淡い陰がモチーフを浮き上がらせている。
「相模川で?」
 好きで描いていた時期があった。
 昔の河は川幅が広く、大きな岩がたくさんあって、岩に堰き止められた水は子供用のプールのようだったらしいよと、作品から離れた話しに持って行かれ、これは真由香さん?と訊こうとしたが、彼がわざとはぐらかしているようで、口ごもっていてよかったと思った。
「幻想的で素敵、緩やかなのに目が覚めるよう。鮎みたいな女の子ね」
 私の元から離れ、どうしたことか、私が求めていた感覚より、ずっと伸びやかになった。
「あら? 山の絵もある」
 私が他の作品に気がいっている間に、彼は真由香のことを話してしまおうかとでも思ったのか、早口で、
「あのさ、あの子ね、川よりも海で泳ぐのが好きなんだって」と言った。
 鮎にされた女の子がするりと男の手から逃れて、海原に舞い戻っていった、というお伽話はなかったかと思いながら、創作力や意欲をなくしたのは彼女に気持ちを絡めとられてしまったのではないかと、恨めしく思っていた自分を顧みた。
 それなのに、これほどまでにいい絵を描かせてもらっていたのだった。
「その山の絵はね、俺が一番好きな場所で描いているんだ」
「こんなに山並みが見えるの?」
 私が行ってみたいという目をしたのか、彼は一瞬戸惑う表情を見せたが、よし、と言って玄関に向かった。
「実はね、そこの国分寺なんだ」
「あら? 私が歩いてきた道ね」
「参道の入口に大きなケヤキがあったでしょう」
 ケヤキの由来は先ほど立札に書かれていたものを読んではいたが、健也が丁寧に説明をし出したので黙って聞いていた。
「樹齢千二百年なんじゃないかって言われていたらしいけど定かではなくて、樹木医の診断から五百六十年だろうと推定されているんだ。千二百年との言い伝えは土地の人がこの樹を愛するばかりに大きく言いたくなったんだと思うよ。そんなところもこの土地の人のいいところだよね。好きだな。
 元々は船繋ぎ用の杭として逆さに打ったものが根付いてこんな大樹になってね。凄いのはこの根なんだ。実は太い幹や枝に匹敵するほど太くて、地面の中を脈々とっていうか、うねうねと伸び続けているみたいだよ」
 そういえば根で持ち上げられたアスファルトの裂け目がいく筋も入っている。
 健也は自分のことのように誇らしげだ。
 山並みが最高に見えるという場所は目の先の階段を上ったお寺さんの境内らしく健也は階段を上りかけた。
 そのとき後から歩いてきた二人の小学生らしい女の子が小声で、
「やだ、絵描きのおじさん、女の人と一緒だよ」と言ったのだ。
 スケッチをしている姿をよく見られているのだろう。
 何だよ、おじさんだって、と言いながら、来月になったら剃る理由があるという顎髭をさすりながら私に笑いかけた。
 今日初めて見る笑顔だった。
「塾に行くのかな、まだ一年生ぐらいね。無精ひげはおじさんに見られるから。でもおばさんと一緒って言われないでよかった」
 可笑しくなって笑った。
 健也が笑ったのでますます笑って、声までたてて笑った。

「どうして? 山並み、見えないじゃない」
 駅周辺のビルが山を隠している。
「実は眺めは部屋からの方がいいんだ、でもこの場所の空気を感じながら、建物の向こうの丹沢山系をイメージするのが好きでさ」
「それであの絵になったの?」
 確かにビルがなかったら見応えのある山並が臨めるのだと思う。
「空の色によってだけど、いつ眺めても景色が違う。山の麓を相模川が流れているんだろうね。夕暮れどきがいいんだ。何となく全体が暮れていく山のような、群青色になってね」
 寺の境内は手入れが行き届き、百日紅の赤い花は夏の名残りがある。
 拝殿の前には十二年に一度、寅の年に変えられるという御神木が立っている。
 その傍で墓参りに来たらしい老婦人が新聞紙にくるんだ菊の花を小脇に抱えて手を合わせ、深々と頭を下げていた。
「よく会うお婆さんの、相川さん」
 その声が聞こえたのか、
「あら、絵描きさん、今日はお連れさんと?」
 私が軽く会釈をすると相川さんは満面の笑みを浮かべて寺のいわれを滔々と話し出した。
「ほらね、お賽銭箱がありませんでしょう、住職さんはただただ、真心を手向けて下さいと仰っているんですよ。どんなに貧しい人でもここで手を合わせて欲しいということですから」と、また深々と頭を下げていた。
「ここの御本尊様は薬師如来さんですから、お医者様。私なんか、頭が痛くなりそうになるとすぐに来ることにしているんです。効くの、本当に」
 また手を合わせ直して頭を下げた。
 私と健也はずっと彼女に目を向けて微笑んでいた。
「涼子ちゃん、貧血治してもらえば?」
 老婦人がやおら私の手を取って本尊の前に進み、
「病に重きを置かれる『大医王』様にお願いしましょう」といって、私に手を合わせるように促した。
 手を合わせて振り向くと健也が笑っていた。
 庫裡から住職の奥さんが出てくると相川さんと健也が明るい声で挨拶をしていた。
「あら、山村さん今日はお連れさんと」
 すると相川さんが思い出したように、
「あっ、そうそう、寅年の人ってこの方?」と、健也を見上げるようにして訊いた。
 私は子年。
 彼の気まずそうな顔が知らない男のようだった。
「ここはね寅の寺でもありますから、十二年毎の寅年にはお稚児さんの行列があったり、山伏の格好をしてホラ貝を吹く人もいたり。一昨年も賑やかだったですけど、昔はもっと」
 相川さんは誇らしげな目をこちらに向けて、また御神木を見上げた。
 心が晴れていく。
 健也は優しい人の環に入っているようだ。
 庫裡の前庭は色々な花が植えられている。
 奥さんがジョウロで花に水をやっていた。
 猫が三匹、花壇の側で寝転んでいる。
 メダカを飼っている鉢が並んでいる。
 庫裡の中から優しい線香の香りが漂ってきた。
 健也はこの地から離れないだろう。

 参道からケヤキの下まで歩いてきたときにはもう夕闇が迫っていた。
「突然に来たりしてごめんね。心が狭かった、ごめんなさい」
 駅までのバス通り沿いに小さな食堂があった。『相模川の天然あゆ、在ります』の張り紙を写メして健也に送った。
 海老名駅に着いたとき、バッグの中でスマートフォンからカノンの着メロが鳴った。

著者

村上やよい