「銀色の球体」義井 優

 あれ?ここ来たことあったっけ。
そんなことが唐突に頭の中に思い浮かんだのは、湘南台駅から横浜駅に向けて走る相鉄線の中でのことだった。
夕方4時の電車内は、帰宅ラッシュも通勤ラッシュも無縁で、夕日に変わりつつある日差しが注ぎ込み、酸素もたっぷりあるように感じられる。心なしか穏やかな顔をした人の多い静かな車内で、私は外の景色を食い入るように見つめていた。
大学の事務の仕事の面接の帰りに乗った相鉄線は、鶴見区に住む私にとって乗りなれた電車ではない。それなのに、窓枠の外の一枚一枚めくられるような景色には何故だか拭えない既視感があった。
しかし見えるのは、これという主だった特徴のある景色ではない。住宅と時々畑が交じり合う、のどかな日本の風景だ。
どこだっけ。どこで見たんだっけ。頭をグルグル巡らせているうちに、足元からくる暖かさで頭がぼうっとなりかけきたときだった。
 トントン、と右肩を叩かれ、私はびくりと横を見た。横に座っている、黒縁のメガネをかけた30代ぐらいの女性が、こちらに向けてスマートフォンを向けている。
私はもう景色への郷愁も眠たさも吹っ飛んでいた。現実の事件は、懐かしさだとか眠気だとかをなぎ倒す力がある。心臓が数センチ浮きあがったような感覚を覚えながら、その女性のスマホを覗き込む。すると、メモの画面に「鶴見東小学校の、塚田かえちゃんじゃないですか」と、私の名前が表示されていたのでギョッとした。女性は、私が頷く隙もなくスマホを引っ込ませ「佳枝ちゃん?」「加絵ちゃん?」と何度か変換しては見せてくる。わざわざ漢字変換してくれたのに申し訳ないが、どれも違う。私は香枝だ。だけどこの人は私を知っている。それだけは分かったので、漢字のことはひとまず触れずに、私はうんうん、と何故か声には出さず頷いた。女性はパッと顔を輝かせると、またスマホのメモに文字を打ち始めた。
普通に話せばすぐ済むが、会話が一両分丸聞こえになる、この静かな車内で話すのには抵抗あるらしい。けれども彼女のこの行動は十分に目立っており、真向かいに立つサラリーマンの男性が、私と女性のスマホ筆談に気付いた様子で、こちら側をチラチラ見ていた。
 私はスマホに文字を打ち込むその女性の方を盗み見た。女性は黒い髪をキッチリ横に分けて後ろで一本に結び、オフホワイトのニットを着ている。あれ?誰だっけ。胸の中の心臓が定位置で正常に動き出すと、ふいに視界も冷静になる。この電車の窓の外の景色のように、私は彼女をどこかで見たことがある気がした。最近会った人じゃない。けど、どっかで見たことある。誰か小学校の頃の友達のお母さん?にしては若い。上級生か、誰かの姉か?にしては自分より少し年が上のように見える。私は頭の中で記憶のデータボックスをマウスでいくつもクリックして開くように、ここでもない、あそこでもないとどんどん開いていった。
 しかし女性が再びスマホをこちらに向けてきたとき、あ!と頭の中で、エンターキーが押されたように二つの記憶がバチリと繋がった。女性のスマホには「4年生のときに副担任だった、池本です」と書かれていた。
 
 4年生の頃、湘南台駅にあるプラネタリウム・湘南台文化センターに行った。理科の授業の一環だとか、そういう感じだったと思う。大の星好きで、天体望遠鏡を部屋に設置している父は、私よりもずっとこの遠足に興奮していて、私よりずっと熱心に学校で配られたプラネタリウムのパンフレットを読み込んでいた。
「いーじゃん香枝。宇宙劇場だって」
「うん」
「体験型で学べるだって。いいじゃん!」
「うん」
 父がいくら熱を上げても、しかしその星好きは私には遺伝していなかった。私は星より、
この地上で起こる人間との関係について悩んでいた。つまるところ、同じグループの子達と起こった危機的な喧嘩である。
どんな内容だったかは、よく思い出せない。
しかし4人グループのうち、私は1対3で形勢不利の状態。絶体絶命の四面楚歌の中、遠足という最も避けたいイベントがやってきた。
案の定、プラネタリウムの当日、グループの仲間は私をあからさまに避けた。私は時折3人がこちらを見ながら小声で何か話す目線にも疲れて、外にある階段に一人座っていた。外側からは地球をイメージしたような丸い銀色のプラネタリウムの外観が見えた。あの球体の中に、大喧嘩した友達もいる。面倒なことが詰まるその球体に入ることを拒否するように、私は外に座っていた。
「つまんないよね」
ふと声が降ってきた方に顔を上げると、そこには池本先生がいた。
まだ若い池本先生は、教室では大声を張り上げたりすることもなく、どちらかというと弱そうで控えめな印象を受ける先生だった。小柄で細い体は、教壇に立つのも板についておらず、やむなしといった感じは子供心にも伝わっていた。
その池本先生が低い声で発した「つまんないよね」が咄嗟に自分に向けられたものとわからなかったのは、とても生徒に対する口ぶりのように思えなかったからだ。声のトーンも発言もまるで同じ先生の仲間にぼやくような口ぶりで、心底驚いた。けれども何となくそれは表には出さず、
「うん、つまんない」
とだけ私は言った。
つまんない。銀の球体を眺めながら吐き捨てたときに、何となく救われたと私は思った。つまんない、と言えば、あの球体の中で起こったことが途端小さく見えてくる。くだらなく思える。自分とその周りの取るに足らなさが突然くっきり見えてきて、スニーカーの下で転がる小さな石が落ちそびれた隕石みたいにきれいに見えた。
帰り道、湘南台駅から横浜に向かう相鉄線の中でも私の隣に池本先生が座ってくれていた。今思えば池本先生が子供だった私に「つまんないよね」と言ってくれたのも、一緒に階段に座ってくれていたのも、すべて一人でいた生徒に付き添ってくれていたのだろう。まるで仲間を見つけたかのように当時の私はどこか思っていたけれど、相手は大人だったのだ。
 それ以降、池本先生と親しくなり彼女は一生の恩師になった、わけではない。小学校を卒業するときに泣いて別れた、覚えもない。池本先生との交流とはただそのプラネタリウムの日一日のことで、私はプラネタリウムに行ったことも、友達とそんな大喧嘩を巻き起こしたこともすっかり忘れていたのだった。

 横浜駅に着くと、相鉄線に乗って帰宅に向かう人波が、駅から改札内になだれ込んでくる。その流れに逆らって合間を縫って歩きながら、私と池本先生は改札の方へ向かった。
「いやーどっかで見たことあるなあってずうーっと見てたのよ。わかんなかった?」
「全然気付かなかったです」
「ほんと?相当見てたけどなあ。しかも真ん前で」
 池本先生は、しげしげと私の顔を眺めた。つやつやとした紅色が光る口元が「いやーしかし」と感心したように開く。
「大人になったねえ。あたりまえかあ。え、もう卒業したのも5年ぐらい前?」
「10年ちょっとですね」
「え!マジ!?うわーこわいなあ!」
 さほど怖そうでもなさそうに言いながら、池本先生はカラカラ笑う。こんなに笑う人だったっけとふいに思った。
 私はつい話したくなって、あのプラネタリウムの日のことを話してみた。すると池本先生は、「ああ、覚えてるよ」とこともなげに言って改札を通り抜けた。
「つまんないよねって言ってくれたんですよ。
 先生、あのとき」
「ああ!」
 池本先生は淵の中の目を少し大きく開けた。
「なんか外の階段座ってたときでしょ?」
「覚えてるんですか?」
「覚えてる覚えてる!」
 池本先生は何度も頷いた。
「ひどい教師だよねえー。何一緒になってサボってんのって話だよね」
「でも」と私は口を開いた。
「あのとき私、クラスの子と喧嘩したときで。変な話、助かったんですよね。先生が外でサボってた私のこと怒りもせずにああ言ってくれて」
 勢いづいてお礼を続けようとしたが、池本先生は懐かしそうに「私もさあ」と目を細めて話し始めた。
「私もあの頃先生になったばっかりでさあ、教師なんかなるんじゃなかったって毎日後悔してた頃でさ、しんどかったんだよね」
 え、と私は驚く。
「じゃああれって、先生が私に付き添って、励まそうとしてくれてたんじゃなかったんですか?」
 へ?と池本先生は目を丸くし、そのあと「
ちがうちがう!」とケラケラ笑い出した。通り過ぎるスーツ姿の男性が、こちらをちらりと振り返って歩いていく。
「よく覚えてないけど、ほんとに自暴自棄になってたんだと思うよたぶん」
 そんな風に思ってくれてたんなら悪いけど、
と先生は付け足す。私は自分の美化された思い出に拍子抜けしながら、「なんだあ」とヘラヘラと力の抜けた笑いをした。
「じゃあやめちゃったんですか?先生」
「ううん。やってるよ。小学校の先生」
 池本先生は私の知らない横浜市内の小学校の名前を挙げた。2年生の担任だと言い、「かわいいよ。たまに腹立つけど」と加えた。
「塚田さんは?今何してるの」
「今は、転職活動中です」
「あ、そっか。それでスーツなんだ」
 池本先生は、リクルートスーツの私を見上げていった。あのプラネタリウムでの思い出の時期が、新米教師だった池本先生にとってそんなにしんどい時期だったと聞いた後では、なんとも苦々しい思いだった。当時の池本先生とちょうど同じ年ぐらいの私は、「自分に合わない」とか何とか言って1年弱で新卒で入った前の会社をやめてしまったばかりだったからだ。
その私の心を見透かしたかのように、池本先生は「塚田さん」とぴりっと締まった声を出した。
「はい」
 池本先生は、ばしりと私の右腕をはたいた。
痛みが走るより前に、池田先生は、
「がんばんな」
 と私を見上げて言った。眼鏡の手前に付いた二つの黒い瞳が、こちらを見据えている。
「つまんないとか言っちゃったけど。意外と世の中面白いこと多いから」
 じゃあね、約束あるからまたね、同窓会とかやるんなら呼んでよねと池本先生はまくし立てるように言って、定期入れを手につかんだまま走って行った。
 私の記憶の中のあの細くて静かな池本先生は、たぶん記憶違いではないだろう。先生は強くなったのだ。あのカラカラ上げる笑い声も、この球体の中で「つまんない」と何度も吐き捨てながら、鍛え抜いた強さなのだ。
 横浜駅の街へと吸い込まれる人たちの渦を見たけれど、そこにもう池本先生の姿はなかった。私は黒いカバンを肩にかけなおし、人の渦の中に紛れていった。

著者

義井 優