「鎌倉武将飯田五郎家義とその末裔たち」匿名希望

~頼朝の父義朝を祭神とするサバ神社と泉親衡の乱~
相鉄線「ゆめが丘駅」周辺には、鎌倉武将飯田五郎家義の館とされる富士塚城址や、明治の頃出土した五輪塔と家義の守護仏薬師如来が東泉寺境内に安置されている。「いずみ中央駅」に近い須賀神社は、信濃の住人泉親衡が非業の最期を遂げた二代将軍頼家の遺児を擁して挙兵を企てる際、京都の祇園社を勧請したと伝わる。昭和六十一年泉区誕生と同時に開園した中央公園内には、空堀や土塁が現存する中世武家館跡があり、隣の長福寺には公園整備時に出土した南北朝時代の板碑が山門脇に安置されている。この一帯が『新編相模風土記稿・和泉村長福寺』項に、鎌府盛んなる頃泉小次郎が創建せし道場なり、今境内に天王山と呼ぶ方三町許の地あり、南より西に廻りて城渠の遺蹤というべきものありと記される「泉小次郎伝承地」で、昭和六十三年に市の地域文化財に登録された。風土記稿も【小次郎の事詳ならず、東鑑にみえし泉小次郎親衡がことにや思ふに、是は建暦三年三月二日、工藤十郎主従を撃って逐電すとあればその時代爰に合せず】と、建暦三年に逐電した泉親衡が182年後に再び登場して長福寺を創建したとする伝承の矛盾点を指摘しているが、平成二十五年に川戸清氏が史書『鎌倉大草紙』や『鎌倉九代後記』に、気生坂で禅秀の大軍と戦った人々の中に「飯田小次郎」の名前があることを発見されたことにより、泉中央公園一帯の小次郎伝承は、建暦の泉親衡と、応永の持氏馬廻衆飯田小太郎の二人の伝承であることが判明した。
 泉区を南北に走る環状四号線は、平成九年「中の宮北遺跡」発掘調査で最大幅十五mの道路遺構が確認され、飯田は正安三年編『宴曲抄』の「鎌倉上ノ道・飯田」だと分かった。『宴曲抄』の成立は、新田義貞鎌倉攻めの三十年前であり、この道は飯田・瀬谷・鶴間を経て関戸・分倍河原・小手指へと続いている。この鎌倉期の軍用路に沿った下飯田のバス停近くに南北朝時代の古戦場跡がある。数代にわたって家族に災難が続き、祈祷師に相談して明治二十七年に建立した供養塔には軍人六百八十五名、内十一名大将と刻まれている。大山道と環状四号線の交差する「地蔵原の水辺」一帯も泉小次郎の戦場跡に祀られた地蔵様にちなんだ地名である。平成二十六年刊『泉区の中世石造物』調査で、泉区内の紀年銘を有する四十基の板碑は、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した元徳三年から、南北朝時代を経て足利持氏が鎌倉公方に就任した応永十七年頃に造立された事が分かる。「ゆめが丘駅」から環状四号線を横断、和泉川を見下ろす高台の和泉村領主能見松平氏の菩提寺宝心寺は、前身は小次郎が創建した泉龍寺と伝わる。和泉郷の初見は『役帳』の、【笠原藤左衛門五十貫文、東郡泉郷】で、応永の飯田小次郎の時代までは和泉は飯田郷の一部であった。そして境川流域・和泉川流域には義朝や満仲を祭神とするサバ神社が存在する。頼朝の危機を救った飯田五郎、飯田五郎の所領内に北条氏打倒のアジトを置いた信濃の住人泉親衡。この地には昭和の時代まで日本人が大切にしてきた祖霊信仰が息づいていた。それは、人は死によって無になるのではなく、死後も祖霊として永く存在し、盆や正月など年に何回となく他界からこの世の子孫の家を訪れるとする考えがあり、地震・山崩れ・火山噴火・台風・洪水・旱魃・冷害・大火事・疫病などの災害は、政治的に失脚した人々の怨霊の仕業と恐れられ、祭神として祀られた。
 相鉄線いずみ中央駅からいずみ野駅間の車窓には富士山や大山、丹沢山塊が眺望出来る。神龍が住むといわれる富士山は、古代から日本の龍脈の根源であり、祖先の霊魂が宿る神奈備山の大山は、奈良東大寺の僧良弁が大山山頂に不動秘法を修め、聖武上皇の勅願寺として建立、雨降山大山寺と号した。820年には空海が大山寺第三世となり、山頂の阿夫利神社の本尊社を石尊大権現とした。日向薬師は行基が薬師如来の託宣で大山の東方山麓に、白髭明神と熊野権現の援助で霊木に薬師如来を刻んで一堂宇を構えたとされ、戦国武将たちの崇敬を集めた。地理風水に興味をお持ちなら、日光の男体山から南下する線上に、足利学校跡・さきたま古墳・川越喜多院・府中大国魂神社・いずみ中央・花応院・江ノ島に到達する霊ラインを確認して頂きたい。東西の西は、富士の五合目を経て出雲に到達する。出雲は、諏訪社の祭神建御名方神の父大国主命や祇園社の祭神須佐之男尊や子神五十猛神の本拠で、良弁・空海・行基も共に国家鎮護に関係している。これらの山々を遙拝出来る場所に義朝や頼家の鎮護の史跡が存在する。文永十一年の蒙古襲来の年、願行は鉄の不動明王、二童子像を鋳造し大山寺に奉納、祈りを捧げて国難を回避している。
  平安末期頼朝と飯田五郎家義の出会い。その後の飯田氏
 飯田家義の名は『吾妻鏡』1180年八月二十三・二十四日の石橋山合戦の場に登場する。伊豆国目代平兼隆を攻め国府を占拠した頼朝は、参百余騎を率いて八月二十三日に小田原市に近い石橋山に布陣、大庭景親率いる三千余騎の大軍と戦った。『鏡』は、【景親いよいよ勝ちに乗る。景親これを追い立てまつり、矢石を発つのところ家義、景親の陣中に相交わりながら頼朝を遁し奉らんがためにわが衆六騎を引分ちて景親と戦わしむ。この隙を以て椙山に入らせ給う】と記している。翌二十四日には頼朝が紛失した念珠を持って現れ、頼朝を感動させている。
 箱根山中に潜んでいた頼朝は、實平、土屋宗遠、土肥遠平、岡崎義忠、新開忠氏、安達盛長らは真鶴から安房国に向かった。世に云う「七騎落ち」である。三浦氏義明は河越重頼や江戸重長等数千騎に衣笠城を攻撃され討取られた。三浦義澄・義連・大多和三郎義久・義成・和田義盛らは海路を安房に進み、義明の甥安西景益のもとで頼朝等と合流した。義盛や盛長が上総広常・千葉常胤を説得して廻り、頼朝は軍勢三万騎を従えて九月十九日には隅田川まで兵を進めた。秩父党の出方を待って十月四日には源氏の白旗を持った重忠を先鋒に軍を進め、府中を経て鎌倉に入ったのは十月六日とされる。鎌倉に鶴岡八幡宮や大蔵の居館を建設した頼朝が、平家軍追撃の為二十万騎(実際は五万騎ほど)を率いて鎌倉を出発し駿河国に到着したのは十月二十日であった。飯田家義が再び登場するのは、二十二日の富士川の戦いの場面で、平氏の家人伊藤武者次郎の首を持参して合戦の次第と子息太郎の討死を報告した家義は、頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されている。翌二十三日の相模国府での論功行賞には家義も名を連ね、本領の上下飯田町の他に、石橋山・富士川での功績により新恩として和泉町を与えられたとみられる。
 平成十六年刊『泉区散策ガイド』は、東泉寺の薬師如来は鎌倉永福寺の薬師如来とし、『東泉寺薬師如来霊験記』の薬師如来は、家義が石橋山や富士川に出陣中無人の薬師堂で毎夜家義の武運長久を祈念していたとある。
 故大湖氏は平成四年には、『源義頼譲状』から飯田氏は源氏と主張されていたが、色々な文献では定説として「鎌倉永福寺の地頭飯田能信と同族」としている。平成二十四年になって川戸清氏が、暦仁二(1239)年と寛元二(1244)年の年始に、五の馬を牽く飯田家重と、延応元年九月に飯田三郎能信が没収されていた旧領の地頭に復帰している。暦仁二年と延応元年は途中から年号が代わった同じ1239年である。その一月と九月に登場する家重と能信の二人は別系統の飯田氏であり、鎌倉郡の飯田と足柄下郡の飯田郷の総生産額を計算するとその差は四倍弱あり、鎌倉時代に永福寺薬師堂の所当米百八十石を請負ったのは足柄下郡の飯田郷で、鎌倉郡の飯田郷では請負不可能だったと指摘され、鎌倉永福寺の地頭足柄下郡の飯田能信は藤原姓であるが、鎌倉郡の下飯田を在所とする飯田家重は、1330年の『源義頼譲状』に、義頼が源姓で署名しているので源姓である。義頼は『源義頼譲状』に、相模国飯田郷の他に 伊豫国行元名・長門国大野庄の地頭職を兼ねていた。
 『鎌倉大草紙』や『鎌倉九代後記』に登場する飯田小次郎は足利持氏の馬廻衆であるから、飯田氏は家重の代から将軍の馬廻り衆であったようだ。その後の飯田氏については、永享十(1438)年十月、鎌倉公方持氏と関東管領上杉憲実とが不仲になり持氏は憲実の殺害を企てた。憲実の訴えにより将軍義教は鎌倉征伐を命じ、鎌倉の諸将も憲実に応じたので持氏は敗北、自殺した。持氏の末子栄寿王は信濃の大井持光を頼って佐久の安養寺に匿まわれ、赦されて足利成氏と名乗り関東公方として鎌倉に来たが、上杉憲忠を父の敵と殺害し、幕府の命にも叛き、古河に移って古河公方となった。この激動の中で、足利持氏の馬廻衆飯田小次郎の消息は途絶えた。大湖光雄氏は飯田五郎家義の系譜は、戦国期以降尾張に移りのち織田信雄に仕え、旗本飯田能登守易信に継承されたと発表している。

『源義頼譲状』 (故大湖光雄氏提供資料」
      (東京古典会創立六十記念善本入札目録)
譲与 嫡子次郎四郎義雄
所在 相模国飯田郷 伊豫国行元名 長門国大野庄
  地頭職等
 右 於所々地頭職者 義頼重代相傳之所領也 而為義雄
 嫡子 相副代々御下文并次第手續證文等 所譲与之也 
 次重代籏鎧者 代々嫡子相承之間 同付渡之事 随而有
 限関東御公事以下 守先例可令勤仕之 若子孫等中仁 
 背此状有致違乱競望輩者 於不幸之仁可被處罪科也  
 将又庶子等中仁 背惣領之命族者 任定法申行罪科 
 至于其跡者 可知行惣領者也 仍為後代□鏡状如件
  元徳貳年十月廿八日  源義頼 (花押)

 

 

    飯田家義の所領内にアジトを置いた泉親衡の乱とその背景
石橋山合戦から三十三年後、信濃の住人泉親衡の事件が発覚、それが導火線となって和田合戦に発展した。乱に与する者帳本百三十人、伴類二百人といわれ、親衡等は事件の二年前(去々年)から、飯田家義の所領内に謀反の拠点を置いたとされ事件が発覚、塩田(上田市)の独鈷山の僧阿静房安念の自白によって和田義盛の子義直、義重と甥の胤長が捕らえられた。この事件について、『鎌倉市史総説編・和田事件の真相』(昭和三十四年吉川弘文館)は【張本人である泉親衡は逃亡し行方不明になっているし、結局和田胤長以外には刑罰を受けた者は居ない。何とも不思議な事件である。そして義時は義盛を滅ぼす迄落ち着いて事を運んでいる。どうもこの事件は、義時の陰謀から出た感が深い。】とし、ネット上で「泉親衡」を検索すると、親衡は義時と馴れ合い芝居を演じたかのような書込みがある。これは冤罪であって、親衡の事件より116年後の嘉暦四年の『守矢文書』に「前田・岡村泉小二郎知行分」とあることから、親衡は所領も没収されなかったという誤解が生じたが、泉親衡の本拠は四番の津井(筑)地で、一味の上田原一族も所領を没収されている。さらに木曽義仲に館を提供した依田氏が、飯沼・中山・内村・腰越・真田の五郷を没収されている(丸子町誌)。十番の泉小二郎知行分舞田には、澁谷金王丸の総高212㎝の五輪塔が1186年に造立されている。澁谷重国の弟金王丸は頼朝の父義朝の従者で、尾張の長田忠致の館で義朝が謀殺された時、金王丸は一人逃げ延びて伊豆の土肥次郎を頼り、出家して土佐坊昌俊と名乗った。平治の乱に義朝に従った信濃武士は、泉親衡の同族片桐景重や木曽義仲を養育した諏訪下社の一族木曽中太・弥中太であった。泉親衡の所領に金王丸の五輪塔が造立されたのは、頼朝が父義朝と鎌田正清の遺骨を鎌倉に迎え、勝長寿院を建立した翌年で、舞田は親衡事件以前には既に金王庵の社地になっていた事が分かる。
 鎌倉から逃亡した泉親衡は、河越重頼の本拠西川越の豊田源兵衛尉景快を頼って隠遁し戸泉氏と名乗った。豊田源兵衛は大庭景義の弟豊田景俊の一族で、親衡を川越に導いたのは、戸塚本陣と同じ家紋を持つ内田氏である。河越重頼の祖父重隆は、【かの義賢(木曽義仲の父)、仁平三年夏の頃秩父重隆が養君になりて武蔵国比企郡に通いけるが】とあり、比企郡大蔵館で義平の為に義賢と共に討たれ、遺児義仲は斎藤別当実盛によって木曽の中原氏に託された。
 
『守矢文書』(諏訪郡宮川村 守矢真幸氏所蔵)
諏方上宮五月會付流鏑馬之頭・花會頭与可為同前御射山頭 結番之事
二番御射山右頭、海野庄内岩下郷海野次郎左衛門入道知行分、付国分寺     ・南條並善哉・塩野両郷地頭等
 十三番五月会右頭、山家郷地頭、付小泉庄内加畠・御子田・室賀
     海野信濃権守知行分
 十番□□□□□□□□間郷地頭等、小泉庄内前田・岡村泉小二郎知行分 四番五月会左頭、小泉庄半分内上田原・津井地・穂屋 薩摩守知行分
  右結番之次第、無懈怠可勤仕、者依鎌倉殿仰、下知如件
    嘉暦四年三月 日   相模守平朝臣(北条守時) 
(在御判)

       頼朝の挙兵と比企一族そして渋谷氏
 伊豆配流中の頼朝の援助をしていた比企尼。木曽義仲没後、信濃国の軍事指揮権を掌握した比企能員は比企尼の甥で、能員の娘若狭の局は二代将軍頼家に嫁ぎ一幡を産んでいる。頼家は、建仁三年八月、出家させられ伊豆修善寺に
幽閉された。その直後の九月二日、比企能員が時政邸にて暗殺され、時を移さず三浦義村や義盛、畠山重忠も加わった北条軍は比企邸を襲撃、頼家の子一幡は焼死、妻の若狭の局も憤死した。実朝が三代将軍に就任したのはこの五日後のことであった。頼家は翌元久元年七月十八日、政子の実家北条氏によって二十三才で殺害されている。
 泉親衡の本拠塩田庄の地頭は、比企尼の長女丹後内侍と惟宗広言の間に誕生した惟宗(島津)忠久である。丹後内侍は安達盛長に再嫁、その娘が範頼の室になった。河越重頼は比企尼の次女と結婚、その娘は義経の正室となっている。
親衡の所領に五輪塔が造立された金王丸の兄澁谷重国は、平治の乱で所領を失った近江源氏佐々木秀義を澁谷庄に二十年間も滞在させ、太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱の兄弟は、澁谷庄から蛭ケ小島の頼朝の許に出入りして再起の時を狙っていたとされる。重国の館は飯田五郎の所領と境川を隔て隣接する長後天満宮だとも、早川城であるともいわれる。重国は娘と秀義との間に出来た孫の佐々木義清と共に石橋山では大庭方として参戦している。石橋山で大負した定綱・盛綱・高綱の三人は、箱根山中に潜んでいて途中頼朝の異母弟全成と遭遇、密かに渋谷の重国の館に連れて行った。鎌倉幕府成立後、宇治川の先陣争いでも有名な高綱は故あって出家、了智上人として親鸞上人の門に入り各地を修行した後、泉氏の出自の地中山、和泉に接近した松本の島立郷に正行寺を開いている。
    飯田家義と泉親衡そして依田氏・手塚氏・金刺(諏訪)氏
 飯田氏と泉親衡は同族の関係にあり『清和源氏伊那氏流』系図には、泉親衡の祖公扶と飯田家義の祖飯田三郎為実が兄弟の関係にあり、さらに、実信は小田(依田)・佐那田(真田)・飯沼の祖となっている。為実は一方では依田六郎を名乗り、その子実信は義仲に自分の城を提供した人物。泉親衡の乱では依田五郷を没収され、信行の時代を最後に手塚と飯沼に姓を変えている。手塚信綱の子諏訪太郎盛重は、承久の変に嫡子小太郎信重を東山道軍に派遣、幕府執権北条氏得宗(本家)の筆頭被官となり、現御成小学校、鎌倉市役所一帯に屋敷を構えていた。幕府滅亡の際盛重の子真性は東勝寺で北条高時に殉じ、兄の盛高は高時の遺児亀寿丸(時行)を奉じて諏訪に逃亡、のちに上社の祝頼重は滋野氏と共に時行を擁して挙兵(中先代の乱)した。このため、御射山祭や御柱祭など諏
訪社の祭祀や造営は公務として信濃武士達に科せられ、祭祀に奉仕する信濃武士に諏訪の神を祀る同族的意識が生まれ、神を紐帯とした党的武士団に成長した。依田氏は信濃国造氏を名乗った小県の他田舎人大島の末裔で、諏訪下社を設置した金刺氏と他田氏は共に神武天皇第一皇子の神八井耳命を始祖とする多氏の出で、欽明の金刺宮、敏達の他田宮両朝に仕えた舎人であった。
     鎌倉鶴岡八幡宮放生会と諏訪下社大祝金刺盛澄
 多氏の一族には、『古事記』を取りまとめた太安万呂や、壬申の乱に大海人皇子に私邸を行宮に提供した尾治大隅や、武器類を提供した伊福部氏などの尾張氏がいる。歴代尾張国造を務めた尾張氏の娘美夜受比売は日本武尊の后で、三種の神器の一つ草薙剣を奉斎する熱田神宮は、日本武尊の死亡後、妃のもとに残された草薙剣を祀ったとされる。後に天武天皇朝に尾張稲君が大宮司になり、平安時代後期の当主員職が娘を尾張国目代の藤原季兼に嫁がせ、季兼と員職の娘との間に季範が誕生した。霊夢のお告げにより外孫である季範が大宮司家を嗣いで、季範の娘の一人が源義朝に嫁ぎ頼朝が誕生しているので、頼朝も諏訪下社大祝金刺氏も多氏の一族である。
 頼朝は文治三年七月、信濃国目代と同国御家人に善光寺再興で協力を命じ、八月十五日に、義仲方諏訪下社大祝金刺盛澄を鶴岡八幡宮で弓射の妙技を披露させ、赦免している。『中世都市鎌倉の風景』(松尾剛次著)には、鶴岡放生会は、文治三年八月十五日に始まり、建久元年より十五日は将軍参宮・奉幣・法会・若宮回廊での舞楽、十六日には馬長・流鏑馬・競馬等が馬場で行われた。鶴岡放生会は、平家を滅ぼした減罪のために石清水放生会を真似たが、流鏑馬儀礼は石清水放生会にはないと説いている。鎌倉八幡宮の流鏑馬は諏訪下社大祝金刺盛澄が始め、現在は小笠原流・武田流によって鎌倉の流鏑馬奉納がなされている。
「諏訪大明神絵詞」によれば、下社祝金刺盛澄は木曽義仲を婿にとり、義仲が北陸道を経由して上洛した時、越中まで従ったが、御射山神事のため、弟の手塚太郎光盛を軍に残し帰国した。義仲を養育した中原兼遠は下社の諏訪一族である。義仲敗死後巴御前は和田義盛の妾となって三浦に住み、いずみ野駅近くの「横根神社」には、巴御前が一泊したとされる伝承がある。下社の御射山図には、霧ヶ峰高原・八嶋湿原から蓼科山に向かって祭壇を設け、甲州侍や勅使の桟敷に並んで頼朝生存中の幕府の御家人北条・千葉・和田・佐々木・梶原の桟敷がある。
御射山祭は旧暦の七月二十六日から五日間、連日巻狩りや鷹狩、草鹿、小笠懸、相撲、競馬などの武技が競われ、虚空蔵様(国常立命・大元尊)の祭りで、春から夏にかけて農作業を見守った神霊が山宮に帰られるので、人々は精進潔斎をして山に登り数日間神人相嘗共に過ごす。下社は稲作、上社は狩猟で上社の御射山祭は八ケ岳山麓で行われる。谷川健一著『青銅の神の足跡』「不破から三重へ─つきまとう金属精錬の影」の中で、日本武尊はやっと伊吹山から脱出して下山。麓の泉の水を飲んで人心地を取り戻した。そこは玉倉部(岐阜県不破郡関ケ原町玉)であった。尾治大隅は壬申の乱の後、私邸を大海人皇子に提供し、「軍資を供助」した功績によって、功田四十町を三世にわたって賜ったとある。天武天皇朝に尾張稲君が熱田神宮の大宮司になった。頼朝の母方は尾張氏である。一方信濃国の善光寺についても七世紀末に草堂から大伽藍の善光寺になったのは、国造の子孫金刺氏や三輪(美和)・刑部・倉橋部などの戦功に天武天皇が経済的、政治的恩典を与えたのだとされ、依田氏・泉氏・飯田氏もその一族である。
     頼朝の死と源家三代の滅亡と四代将軍頼経
NHK『歴史誕生』取材班「将軍の暗殺」では、晩年の頼朝は京都の朝廷に接近し、東国武士団との軋轢を強めていた。二代将軍頼家も独裁への道を探りはじめた時、将軍職を追われ殺害された。三代将軍実朝は京都の後鳥羽上皇の側近源仲章を幕府の政所№2の地位に抜擢、幕府の権力を独占しようとした。執権の北条一門を中心に東国武士団は、朝廷に接近しようとする実朝に鎌倉幕府崩壊の危機を感じて暗殺した。実朝の死以降『吾妻鏡』の後半部分は全ての頁が宗教的儀礼の記述であると指摘。井沢元彦氏は非業の最期を遂げた者は必ず怨霊となって祟る。東国武士たちは彼等が殺した実朝の怨霊を必死で祀ったと鎌倉の寿福金剛寺・秦野の金剛寺・政子が建立した高野山の金剛三昧院を挙げ、暗殺事件の翌日壱百人の東国武士が出家してその死を悼んだとしている。
 正治元(1199)年正月十三日、源頼朝は前年暮に相模川橋供養の帰途の落馬が原因で、五十三才の生涯を閉じたが、その死には頼朝に誅された志田義広・義経・行家や安徳天皇の怨霊によるとの見方がある。頼朝の死後二代将軍頼家の排除、梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛など頼朝側近の有力御家人が次々粛清され、1219年一月二十七日、三代将軍実朝も頼家の遺児公暁によって殺害され源家三代の血脈は絶えてしまった。頼朝暗殺が謀られたとされる1193年五月の富士野巻狩での曾我兄弟の仇討、兄弟は工藤祐経を討った後頼朝の宿舎に斬込んでいる。兄弟は時政の従者である。仇討の前年1192年三月に後白河法皇が没し、七月になって頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、鎌倉に居ながらにして天下の諸将を統率出来る権力者の座に着くことが出来、その八月には千万(実朝)が誕生した。この頃から生じた頼朝と北条氏との亀裂は、三代将軍実朝の殺害で終止符を打つ。1221年承久の変が勃発、幕府は後鳥羽討伐軍出発の翌日に、天皇一代一度の大仁王会なる鎮護国家の法会を行い勝利した。大江広元について、実朝暗殺後は北條義時と行動を共にし、「承久の乱」では、関東での防衛作戦を止めさせて、断然京都進撃の積極作戦に決めさせたのも広元である。戦後のあの断固たる処置も、長く京都に住み、公家社会の内幕を知り尽くした広元なればこそ、神仏の罰をも恐れず、三上皇配流、天皇廃位の厳しい措置を決し得たのであろうとの評価がある。貞永元(1232)年八月には北條泰時が、鎌倉幕府の基本法である『御成敗式目』を制定、その第一条には神社を修理し、祭祀を専らにすべきことが掲げられ、御家人達に、如在の礼奠怠慢せしむることなかれと、全国的規模で荘園内の神社や仏教の寺院の運営にあたるべきことを課している。この根底にあるのは、『神社の歴史と祭』の解説【律令祭祀制の起源伝承は、崇神天皇五年、国中に疫病が蔓延し、多くの人々が死亡した。疫病の流行は天皇自身の徳では治める事が出来ず、占うと大物主神の神意が示され、わが子太田田根子をして祭祀を執り行うことが求められた。神意のままに太田田根子をして大物主神始め諸々の国津神を祀り、天社・国社・神地・神戸を定めたことにより疫病は止み、五穀も豊かに稔った。地域の首長は共同体を代表して神祭りに関わり神意を知り災害などの神の怒りに対応した。】とある。大物主神は大国主命の和魂とされ、大物主神の正体は蛇であったとされる。真弓常忠著『神と祭りの世界』には、祇園祭・天神祭・神田祭も御霊信仰に基いて夏に多い疫病を退散させるために災禍をもたらす霊魂を鎮める為に行われるとあり、怨霊もその御霊を祀ることによって幸いをもたらす神になると信じられていたと説かれる。
      飯田家重の生きた時代と泉親衡伝承
 将軍頼経が征夷大将軍になったのは嘉禄二(1226)年、寛喜二(1230)年に頼経は十三才で二代将軍頼家の遺児二十八才の源媄子(竹の御所)と結婚している。飯田郷の領主五郎家重は将軍頼経の馬廻り衆であった。頼経は鎌倉幕府の公式行事として陰陽道祭祀や四角四境鬼気祭を行っている。頼経の時代からは諏訪盛重が北条氏得宗被官となり、反北条氏騒動を鎮圧、和賀江島の修筑の巡検、三浦泰村の乱鎮定をしている。長福寺の創建は蘭渓道隆の法弟とされるが、時代的には1253年の建長寺創建の後、二代将軍頼家の遺児源?子と頼経によって、飯田家重の所領に寺が創建されたと思われ、頼朝の父義朝も頼家も無念の最期を遂げた怨霊であり、その怨霊鎮魂のため飯田氏の所領内に祀られた。北条氏の時代になると、鎌倉の鶴岡八幡宮は源氏の氏寺から幕府の祈祷寺として都市鎌倉を中心とした関東の鎮護を祈る寺(社)になり、東大寺・延暦寺・観世音寺(太宰府)の戒壇で受戒した鎮護国家を祈る資格のある僧位・僧官が就任することになっている。寛元四年(1246)来朝した蘭渓道隆は、京都の皇室菩提寺泉涌寺の月翁智鏡を頼り、同寺の来迎院に止宿。時頼の招きにより宝治二年十二月に常楽寺に移り、禅宗専門道場建長寺を建長五(1253)年十一月に開山した。我が国最初の禅宗専門道場建長寺は、が処刑場のあった地獄谷に建立され、その主旨は「上は皇帝の万歳・将軍家及び重臣の千秋・天下の泰平を祈り、下は三代の将軍・二位家(政子)及び一門の冥福を弔うことにあったとされる。
 京都八坂神社の祇園祭の先頭を行く長刀鉾の天王台に泉親衡の人形が飾られる。諏訪大社の祭神建御名方神の后八坂刀売神は海神の宇都志金拆命の女で、金刺舎人が京都の八坂郷の土地神を諏訪神社に勧請したとされる。安曇郡の式内社「川会神社」社伝には、建御名方神の后は海神の女なり、太古海水が国中に氾濫し、建御名方神とその后は、治水のため水内山を破って水を流し、越海に注ぎて平地を得た。神胤蓄殖し、よってここに祀るとあり、穂高神社の祭神「日光泉小太郎」の由緒を記し、泉親衡は泉小太郎の末裔とされる。
京都祇園社は、斉明天皇の即位二(656)年に、新羅の牛頭山に座す須佐之男尊の御神霊を齋きまつり、我が国にお遷し、朝廷より愛宕郡の八坂郷の地と八坂造の姓を賜った。牛頭天王はもとはインドの舎衛城にあった祇園精舎の守護神で、武荅(塔)王の太子で沙喝羅龍王の娘を后として八王子を産む。猛威ある御霊的神格から素戔鳴尊に習合され京都祇園八坂神社に祀られて除疫神として尊崇される。沙喝羅龍王は八大竜王の一人で、雨乞いの神ともされる。一説に須佐之男尊は子神五十猛神と共に新羅に渡り、後に舟で出雲に着いたとされる。鶴見川沿岸の杉山神社の祭神は当初の忌部三神から、日本武尊と五十猛命、大物主神に変わったと聞く。私達の泉区には御霊信仰の寺社として、義朝を祭神とするサバ神社がある。泉親衡の本拠塩田平下之郷には、宮中でも祭祀する生島・足島神で生神とは大八州之霊・日本国の国魂とされる生島足島神社が鎮座しており、御神体は土である。新嘗祭・大嘗祭は、皇孫ご降臨の際皇祖より御授けになった斎庭の稲穂の新穀を頂くことを主にした祭で、天皇は斎戒沐浴の上、三百四座の神々に幣帛を奉られた後、先ずサバ(散飯)をサバ(天神地祇)に捧げてから陛下が新穀を召されるのだという。(完)
    

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匿名希望