「雨の喫茶店」武田航生

 今日は雨のせいかやけに寒い。空は六時を過ぎたので、もう真っ暗だ。昨日までは少し暑いくらいだったのに、近年の地球の天気はどうかしていると私は思う。
 入社してから半年ほど経ち、ようやく社会人生活に慣れてきたが、入社したての頃は、勤め先の二俣川からゆめが丘までの帰り道は、疲れて寝てしまう事がほとんどだった。ただ、最近は心に少し余裕ができたのか、考え事をする機会が多くなっていった。ここの所は、自分の存在意義についてずっと考えていたが、考えれば考えるほどいつも訳が分からなくなってしまう。私は、何のために産まれてきたのか、何のために生きているのか、生きる理由とは何なのか….こんな様な事ばかり考えては悩んでいる。
 電車の中で考えていた事が頭の中でもやもやしていると、肌が凍ってしまうくらい寒い風が、私の体に吹きつけてきた。私は、温かいコーヒーでも飲みたいな、と思いながらも、地味な灰色の傘を広げて、雨の中をキャベツ畑を横にして歩き始めた。日中は、開発のための工事の音がしているが、日が沈むととても静かになり、電車の走る音と、たまに通る車の音ぐらいしか耳に入ってこない。静寂の中、駅を発車して一定のリズムで電車の通る音が速くなっていく。やがて電車の音が聞こえなくなると、再び静寂が訪れて、自分の足音が聞こえる。その足音を聞いていると、とても切ない気持ちになってくる。
 しばらく歩いて、より静かな住宅街に入ってくると、今日の朝まで何もなかったはずの空き地に、初めて見る喫茶店があり、窓から明かりが漏れていた。私は少し不思議に思いながらも、体も冷えきっていて、コーヒーも飲みたかったので、入ってみることにした。
「いらっしゃい。」
ドアを開けると、カウンター越しに低い声がした。店内を見渡したが、客は一人もいなかった。私はカウンターの真ん中の席に座り、コーヒーの砂糖多めで頼んだ。すると、白髪混じりの髪の毛を七三に分けたマスターは、最低限の言葉しか発さずに、私の頼んだコーヒーを作り始めた。
 マスターがコーヒーを作っている間、生きている理由とは何なのか、とまた考えてみたが、いくら考えても答えにたどり着かない。何で私は生きているのか、いったい誰のだめに生きているのか、と考えてると、何だか生きているのが馬鹿らしく思えてきてしまった。これは、自分だけで考えていてもしょうがないのではと思い、初めて会ったマスターに聞いてみようか迷っていると、目の前に見るからに熱そうなコーヒーが置かれた。ひとまず口で冷ましながら飲んでみると、とても甘かった。そして、もう一口飲むと段々と意識が遠くなっていく様な気がした。
 目を開けると、いきなり目の前に閃光が走った。とても眩しくてすぐに目を閉じてしまったが、もう一度開けてみると、その正体は太陽だと分かった。私は今の状況を把握しようと周りを見渡すと、そこは木々に覆われていて、森の中だと分かった。
「今日は雨のようですね。」
後ろからいきなり声がしたので、私はとてもびっくりした。振り返ると、いかにも優しそうな老人が立っていた。ただ、私は老人の言っている言葉の意味は理解できなかった。しかしそんな事よりも、今私の置かれている状況の方が理解できなかった。
「ようこそ悩みの森へ。私はこの森の案内人でございます。」
老人は、頭を下げながら私に向かって言ってきた。
「悩みの森?」
私はすぐに聞き返した。
「あなたが何故ここに来たのか分かりますか?」
「分かりません。」
私はそんな事を聞かれても分かるわけないじゃないか、と思いながらも老人の話を聞いた。
「あなたが今悩んでいらっしゃるからですよ。この道を真っ直ぐ進むと、一軒の山小屋があります。そこへ行けばきっと、あなたの悩みは無くなることでしょう。」
そう言うと、案内人と名乗っていた老人の姿は見えなくなってしまった。私はとても驚いたが、ゆっくりと周りを見渡しながら息を整え、今置かれている状況を整理した。そして、一つの結論にたどり着いた。多分、私は自分の生きる理由の答えを聞くために、この『悩みの森』と言う所に連れてこられたのだ。私は、案内人に言われた道をおそるおそる進んで行った。
 三分程歩いただろうか、案内人に言われたとおり小さな山小屋が見えてきた。山小屋は木でできており、窓からは明かりが漏れていた。扉の前までくると、そこにはウェルカムボードがかかっており、『悩みの森の悩める人達へ。私が悩みを聞いて差し上げます。』と綺麗な字で書いてあった。私はゆっくりと扉を開けると、中には木のテーブルと椅子が二つあり、私から見て奥の椅子にはお茶を右手に持った老婆が座っていた。私は立ったまま老婆に聞いた。
「案内人の方がここに行けば悩みがなくなるといわれたのですが…」
「まぁまぁ。いいから座りなさいな。」
老婆はとても優しい声で私に言ってきたので、言われるがままに椅子に座った。
「で、あなたのお悩みはなんですか?」
私は少し戸惑いながらも、
「私は最近、自分の生きる理由が分からなくなってしまいました。」
と老婆に言った。老婆は手に持っていたお茶を飲んで、少し考えてからこう私に質問してきた。
「分からなくなってしまった、っていうことは前までは分かっていたのかね?」
私は言われてみてから思ったが、多分前も分からなかったのだと思う。もしくは、そんな事は考えた事が無かったのかもしれない。
「多分分からなかったと思います。」
「そうだよねぇ。私も今まで色々な悩みを聞いてきたけれども、生きる理由は私にもよく分からんのだよ。」
私は答えを教えてくれるんじゃないのかよ、と思ったが、老婆に聞いてみた。
「答えなんてあるんでしょうか?」
老婆はまた一口お茶を飲んで言った。
「生きているということはいずれ死ぬという事。私達の死ぬ日は決まっていて、皆死ぬ日に向かって生きているのだよ。でも、中には最後まで生きようとしなくて、途中で生きるのをやめてしまう人もいる。だから、自分の死ぬ日まで一生懸命生きるという事が生きる理由なのかもしれないね。」
老婆はそう言うと立ち上がって、コーヒーを入れて私に渡してきた。
「ほれ、これでも飲んで明日からも頑張ってね。」
こう言い残して老婆の姿は見えなくなった。山小屋には私一人になった。私は老婆から渡されたお茶を飲むと、なんだか意識が遠くなってきた。
 目が覚めると私は家のベットに寝ていた。時計の針は、朝の六時半を指していた。私は不思議に思いながらも、いつものようにご飯を食べ、着替えてゆめが丘の駅へ歩き始めた。ふとあの事を思い出して、喫茶店のあった場所へと急いだ。
 しかし、あの空き地には何もなかった。
 空は雲一つない晴天で、太陽が光り輝いていて眩しかった。

著者

武田航生