「雨降る踏切」やぐちひろかず

 楽老峰と呼ばれている高台の外れにある小さな公園の一角で、僕は風に吹かれている。
 公園の隅には、ひっそりと目立たぬようにヤマグワの木が立っていて、季節になると艶のある実が鈴なりにみのる。
 かつてこの辺りは養蚕が盛んだった。蚕を育て絹糸を得る。絹はその独特な光沢としなやかさから、人が手にすることのできる最高の衣料と言われていて、現金収入を得たい農家は競って蚕を育てた。
 僕の古い知り合いも、この前桑の葉を大事そうに刈っていったけれど、今更なにに使う気でいるのやら。
 ふと線路向こうの厚木街道へ目を向けると、痩せた背中が急ぎ足で街道を下っていくのが見えた。
 彼女も僕の古い知り合いで、下平可南子(しもひらかなこ)。この近くの病院で看護師として働いている。隣町の大和から毎日通勤しているんだけど、高校を卒業する頃までこの三ツ境駅近くに住んでいた。
 大人になっても生まれ育った街と縁が途切れない彼女の日常は、単調だけれど平穏な日々で、それなりに幸せに暮らしているのを見かけるのは、古い知り合いとしては喜ばしい限りだった。
 ところが、運命の変転は否応なく人の日常に押し掛ける。母親が交通事故で亡くなり、父親が長く務めた会社を定年間際にリストラされると、一家は急に火の消えたような寒々しい生活に沈んでしまった。
 そして今また、彼女の日常にちょっとした出来事が訪れようとしている。それが彼女にとって、喜ばしいことなのか、はたまた迷惑なだけなのかは分からないけれど、せめて彼女の為に僕なりに見守っていたいな、と思っている。
 急ぎ足で遠ざかっていく痩せた背中に、どこか焦りと戸惑いがにじみ出ているのを見ると、それはどやら始まっているらしい。
 さて、どうなることやら。

          *

 私がそれに気づいたのは、やっぱり雨の降る日だった。
『間もなく三ツ境、ミツキョウです。降り口は左側です』
 青と黄色のラインが入った相鉄のシルバーの車体が、緩いカーブを描きながら中原街道を跨ぐ橋を超え、雨で黒く染まるなだらかな斜面を駆け上がる。
 その先はこの辺りで一番標高が高くなるって言われている三ツ境駅で、電車はスピードを落としながら滑り込んでいく。
 大きく庇がせり出した対面式のホームが待つ三ツ境駅のそのちょっと手前に、ポツンと踏切がある。
 石を投げれば楽々届く。というより、このままホームに上がれたら便利なのに、といつも思うほどに駅間近のその踏切は、私の通勤ルートでもあって、職場からの帰り道は毎日必ずここを通る。
 職場は相鉄の車窓からも見える総合病院。私はそこで看護師をしている。出勤する時は相鉄ライフの中を通り、歩道橋で線路を越して厚木街道に降りると、そのまま道なり。
 でも帰り道は、歩道橋の階段を上がるのが面倒だから、この踏切を渡ってちょっと遠回りして、ライフの中を冷やかしながら駅まで上がるのが、ほぼお決まりのコース。仕事や、あれやこれやで疲れてるんだから、いいじゃない。
 そう疲れている。
 母が交通事故に遭ったのは、私が病棟看護師として三ツ境の病院に勤めだした翌年だった。顔を見ると小言を繰り返すような人だったけど、家事はしっかり切り盛りしてくれた。 
 そんなワケで相変わらず実家住まいの私は、当たり前のようにそれに寄りかかっていた。
 私が勤めだしたのと入れ替わりに、長く勤めた会社を定年間際にリストラされた父は、根っからの仕事人間で、自分のしてきた仕事に自信があったらしいけど、会社からはあっさりと切り捨てられたようだ。
 毎日家に居続けてはグチを言う父に、外へ出て仕事を探すように、と尻を叩き続けていた母が突然亡くなって、家の中は大混乱。
 お通夜、葬儀とバタバタしているうちは気も紛れたけど、四十九日が過ぎてそれもすっかり落ち着くと、父は抜け殻のようになって、家に閉じこもった。
 私はただでさえ忙しい看護師の仕事を続けながら、家のこともやらざるを得なくなって、何もしない父の背中をにらみながら、鬱々とした毎日を送って今に至る、という感じ。
 正直どうして私だけ、と思う。
 夢だの恋だのはすっかり縁遠くなって、休みに睡眠時間を確保するのがやっとな日々。
 何かいいコトないかなぁ。
 それはともかくとして、雨の日だった。
 その朝はいつになく電車がゆっくりと三ツ境駅に近づいていって、ついにはホームにあと少しという処で止まってしまった。
「なによ、あと少しなのに」
 車掌さんが、緊急停止ボタンが使用されました、とかなんとかアナウンスをしているのを聞きながら、私は軽く舌打ちして、ふと窓の外へ目を向けた。
「あれ」
 いつもの踏切にも雨がしとしとと降り注いでいて、その踏切の遮断機の向こうが白くモヤモヤとしている。
 それは、霧が掛かっているとかっていうのじゃなく、薄っすらとした気配がボンヤリとした形になっている様に見えた。そう、まるで何かがそこに立っているみたいに。
「う~ん?」
 低い声で唸って手の甲で目をこする。やっぱり私って働きすぎなのよ、と心の中でため息をもらす。
 先月に二年先輩の看護師が辞めて、ちょっとシフトがきつくなった。おまけに先週は子供の病気だとかで同僚が抜けたせいで、ただでさえ人手不足の職場は、言葉そのまんま戦場になった。
「今度休みが取れたら、絶対寝溜めよ」
 固く心に誓いながら目を開くと、雨で煙る踏切の辺りが、やっとスッキリ見えた。
「え?」
 白い着物の小さな男の子だった。やたらとレトロな和傘をさして、ボンヤリと厚木街道を眺めている。下駄履きの足が、何かを感じ取ったように向きを変えると、男の子の顔が
こちらを見た。
「…………」
 電車を見つめる男の子は髪も真っ白で、ご丁寧なことにその瞳も黒目がなくて白く輝いている。
『お待たせいたしました。安全の確認が取れましたので、運転を再開いたします』
 車掌さんのアナウンスと一緒に、周りの音が一斉に戻ってきた。やっと動き出して軋む車体と、車輪が線路を叩くガタンゴトンという音。乗客たちのため息、グチと批難の声。
 目を覚ました時間がまた動き始めるその瞬間、白い男の子の輝く目は、確かに私を見てニタリと笑った。

          *

「下平さん」
 はっきりそう聞こえて、あっちこっちへ散らかっていた意識を、慌ててかき集める。
「はい、え~と」
 椅子を回して振り返ると、同僚の高梨小梢が、不満そうな顔をしてそこに立っていた。
「大丈夫なの?」
 担当患者の午後の検温結果を電子カルテへ入力しながら固まってしまったらしい。 
 気がつくまでに高梨に何度か呼ばれたみたいで、五年先輩の視線がちょっと怖い。
「ごめんなさい。大丈夫です」
「そんなぼんやりカルテ打ちなんかして、数値間違ってたりしないでしょうね。何かっていうと指原先生がイヤミ言うんだから」
 高梨さんって、いつもひと言余計なんだよなぁ、と思うんだけど、今日のは仕方ない。あの低温動物みたいなイメージの指原先生のイヤミは不愉快だし、仕事の効率を下げる大元凶だもの。
「最後のチェックをしてたところなんで、大丈夫です」
 素早く入力した数値に目を走らせた私は、胸を張って返した。
「疲れてるのはお互い分かるけど、勤務中は緊張感保っておかないとね」
 真面目な顔でそう告げる高梨にハイ、と素直に返事をした私は、頭も軽く下げておいた。
「ところでさ」
 言いながら高梨がナースセンターの中を見回す。なんだろう、と私は首を傾げて、
「どうしたんですか」
「話し声が聞こえた気がしたんだけど」
 その言葉に、私も思わず部屋の中を見回した。今この瞬間、ナースセンターには私と高梨の他には誰もいない。
「誰もいないんですけどね」
「それは分かってるわよ」
 鼻息荒く返した高梨は、不思議そうにまた室内を注意深く見つめている。
「聞き違いなのかなぁ」
「なにが聞こえたんですか?」
 あの雨の日に白い男の子を目撃してから、身の回りに変な気配がするようになって、私はちょっと気味悪く思っていた。
 もしかして、と思いながら私が聞くと、高梨はう~ん、と腕を組んで短く唸る。
「ハッキリ聞こえたわけじゃないんだけど、誰かが呼びかけているような声が、ね」
「呼びかけ、ですか」
「そう。お~い、とか聞こえてないのか、とか。だから、誰か患者さんでも来ているのかと思ったんだけど」
「通行人の声とかじゃないですか?」
「そうなのかなぁ。あれ?」
 高梨の視線が、ある一点で止まる。
「え?」
 視線を追って、私は隣の事務机に目を向けた。
「葉っぱだ」
「どこから入ったのかしら」
 高梨が事務机の上に置かれていた艶のない木の葉を指で摘まんで持ち上げた。
「桑の葉ね」
「桑?」
 縁がギザギザした葉を、高梨は私の鼻先に突きつけるように差し出した。
 薄手の小さな葉は、書類や電子機器ばかりのナースセンターで、目に沁みるような青さに映る。その輝きは、どこか神秘的な印象さえ感じさせる。
「何なんですか、これ」
「いや、あたしが逆に聞いてるんだけど」
 腕を組んだ高梨が、ちょっと呆れたような顔をしている。私はちょっと迷った末に、実はですね、と切り出した。
「ここ何日か、誰かに見られているような気がしているんですよね」
「なにそれ。ストーカー?」
「駅を降りて病院へ歩いていると、誰かに見られているっていうか、つけられているような気がして」
「相手の姿は見たの?」
 私は首を振った。
「姿は見えないから、やっぱり気のせいかって思ってたんですけど、高梨さんが気配を感じたっていうんなら、もしかして」
「え~。いやだなぁ」
 他に誰もいないナースセンターを見回しながら、私たちはどこかに闖入者の姿が見えないかな、と無意識に探していた。
「とにかく、身の回りに注意した方がいいよ、下平さん」
 姿の見えない相手に、注意って言われてもなぁ、と私は指の先で右頬を?いていた。

          *

「ホント、気をつけた方がいいわよ」
 その日の仕事が終わって職場を出た私は、帰る方向が逆な高梨とは病院前で別れを告げて、三ツ境駅に向かって歩き始めた。
 事務机に置いてあったあの桑の葉は、結局捨てられずに、テッシュに包んでバックの中にしまってある。
 見えない人の気配に、桑の葉。それにあの踏切で見かけた着物姿の男の子。やっぱり関係がある?
 すっかり日が暮れて、行き交う車のヘッドライトが眩しい厚木街道をひとりで行く。
 朝はいつも降りるのに使う歩道橋の階段が見えてきて、ちょっとドキドキしながらその向こうにある踏切に目を向けた。
 今日もあの白い着物の男の子の姿はない。あの男の子のニタリ、という笑いを見た途端私は怖くなって、あの朝はこの踏切を避けるように遠回りして病院まで行った。
 あの日の夜、雨も上がった仕事からの帰り道に、怖いもの見たさもあって踏切をのぞいてみたけど、男の子はいなかった。
 次の日も、その次の日も。ホッとしたような、それでいてなんだか物足りないような。
 その代わりでもないけど、三ツ境駅から出ると、誰かに見られている、近くに誰かがいるような気配がして、どうしようもなく落ち着かない。
 でもよくよく考えると、最初ニタリと感じた男の子の笑いは、そんなにタチの悪いものでもなかったかも、と思い直す。
 車が侵入しないように、フェンスが設けられている踏切の際に立つと、ホームの蛍光灯の明かりが眩しい。
 線路際の『三ツ境一号踏切』という白い掲示板を見ながら踏切を渡ろうとした私は、視界の隅になにかが動いたような気がして振り返った。
「あれ」
 歩道の外れの暗がりに、金色の目が輝いている。ボンヤリとした輪郭のそれに、懐かしさを感じて、元来た道を引き返した。
「ソウジロウ?」
 腰を落としてこちらを見つめている金色の目は、大きくて黒い猫のものだった。子供の頃近所でよく見かけた黒猫によく似ている気がして、つい名前を呼んでしまった。
「そんなワケないか」
 猫がそんな長生きした話なんて聞いたことがない。他人の、じゃなくて他猫の空似だよね。そう思っているうちに、黒猫は首をちょいと傾げて、クルリと背中を向ける。
「帰るの?」
 思わず呼びかけると、二三歩進んでから、顔だけこちらへ振り返って、
『来ないの?』
 とでも言いたそうな顔で私を見る。
「にゃあ」
 言いたいことが通じるワケでもないのに、私は猫の鳴きまねをして、彼の後を追う。
 黒猫は、厚木街道の横断歩道を渡ると、りそな銀行の前を通り過ぎて、明かりの乏しい路地を下って行く。
 時々チラリと振り返る金色の目に、どうしてなのか私は心をくすぐられて、ひと気のない暗い路地を、夢見るような足取りで辿る。
 実を言うと子供の頃、住んでいたのが三ツ境駅近くだったから、私はこの辺りの様子にまあまあ詳しい。だからなのか、不思議とほんわかした気持ちで猫の後に付いて行く。
 左右にゆっくりと揺れる尻尾の動きを見ていると、そこの曲がり角からかつての同級生が、路地の寂れた飲み屋からは近所のオジサンがフラフラと現れて、不思議な展開になるかも、と想像がどんどん飛躍していく。
 三ツ境駅南側の斜面を下って、また上るといつの間にか商店街の明かりの中にいた。
 黒猫は相変わらず尻尾をふり振り進んでいくのに、たまに行き交う人たちは、その優雅な姿に目もくれない。
「ねえ、ホントにどこに行くの?」
 黒猫は金色の目でチラっとこちらを振り返ると、フラワーショップの角へ急に飛び込んでいった。
「あ、ちょっと!」
 慌てて私も小路の突き当りを右に折れて立ち止まった。右手には鬱蒼とした木立があって、その向こうはバスのロータリー。正面の小路の先にはまた厚木街道が見えている。
「にゃんこちゃん?」
 左手に黒猫を探しながら進むと、暗がりの中に棟門が並んでいて、手前の門の向こうには手水場があるのが目に入った。
 瀬谷区役所の白い掲示板があって、この白姫神社の由緒が書いてあった。
「『お白様(おしらさま)』だって」
 街灯の明かりを頼りに、今まで何度か目にしたことのある掲示板をあらためて読む。この神社に祀られているのは、蚕の神さまなんだと。どうして蚕の神さまの神社がここにあるのか、いつも不思議に思う。
 商店街の一角に、無理やりはめ込んだような神社には、一応手水場も一対の狛犬もあって、鳥居代わりの棟門と並んでいる。拝殿の正面は障子で閉ざされていて、その障子の下側に『←おさいせん』と書いてあり、穴がその上に開いているのが何だか笑える。
 境内の隅に、神社には似合わない銀色の掲示ボックスがあって、この近隣に関わりのチラシやポスターがぎっしりと貼られている。
 私の視線は、そのうちの一枚に吸い付けられるようにして止まった。
「『親子養蚕体験教室』?」
 
          *

「いやあ、スゴイ久しぶりかも」
 しとしと降り続く雨の中で立ち止まる。ひと息ついて、額の汗を手の甲で拭いながら、私は最後の下りを前にひとり呟いていた。
 三ツ境駅からダイエーの辺りを経由して南へ下り、二十分も歩くと鬱蒼とした杉林に突き当たる。その杉林の縁に沿って降りていくと、古民家を中心にした一角にたどり着く。長屋門公園だ。
 ここはかつての農家の長屋門と、別な場所から移築された母屋や土蔵などの古民家群、三ヘクタールもある広い敷地に、杉林や散策路から成る自然体験エリアが付属した体験型の文化施設だ。
 ボランティア団体が管理・運営をしているこの公園では、様々な体験企画や、教室などが開催されている。 
 そんな企画のひとつとして『親子養蚕体験教室』という催しが週末に開かれることをチラシで知った私は、何かに導かれるようにこの長屋門公園へやって来た。
 長屋門の前に立つと、降っていた雨がふいに上がった。
「あの」
 門をくぐって、ボランティアのスタッフらしい女性に声を掛ける。
「今日の『親子養蚕体験教室』を見学させて頂けませんか」
 たぶん同年代だと思うスタッフに聞くと、彼女は穏やかに笑った。
「どうぞ。人数に余裕もありますから、もし良かったらプログラムにも参加できますよ」
 スタッフの女性に促されて、長屋門の左手に上がると木の階段に足をかけた。
 二階の空間は、普段はギャラリーとして使用されているスペースで、今は五組くらいの親子連れが思いおもいに椅子に腰かけて、プログラムの開始を待っていた。
 そもそもこの公園にある長屋門――江戸時代に多く作られたもののようで、お屋敷の門の両側に人が住める部屋をくっ付けた建物だとか――の二階は、養蚕の為に使われていたなんて話を聞くと、不思議に思う。
 三ツ境駅の南側に広がる阿久和という地域は、昭和の始めの頃まで養蚕が盛んだったところで、この長屋門公園の近くには製糸工場が二軒もあったらしい。
 阿久和や隣の瀬谷という地域は、お米の収穫が乏しくて、農家は現金収入を得るために一生懸命に蚕を育てていたそうだ。今ではそんな当時の光景はまるで想像できないけれど。
 でも、それを私はかつてある人から聞いたことがあって、今まで忘れていた。

          *

 雨の日だった。
 そんな日は外で遊ぶ子もなく、私は線路向こうの明恵ちゃんの家へ向かっていた。
 母に持たされたスナック菓子が入ったカバンをぶら下げて雨の厚木街道を渡り、近道である踏切へ歩いていくと、どうしてなのか白くてモヤモヤしたものが目に入った。
「わあ」
 思わず私はそう口にしていた。
 雨はしとしとと降り続き、辺りを黒く染めても尚止まない。そんな空の下、そこに居たところで雨を避けられないのに、踏切の柱の根本には座り込んでいる小さな人影があって、私は足を止めてまじまじと見てしまった。
「どうしたの?」
 雨に濡れるのが気にならないのか、膝を抱えて座り込んでいるその人影は、真っ白な着物姿の白髪頭の男の子だった。
「え?」
 呼びかけられて、ビクリと肩を震わせた白い男の子は、雨に濡れた顔を私に向けて驚いた表情を隠さない。
「もしかして、われが見えておるのか?」
「あたりまえでしょ」
 なに言ってんだか、という調子で返事をすると、白い男の子は目を丸くして私をしばらく見つめている。
「もしかして体の具合が悪い? お医者さん行った方がいいんじゃないの?」
 私がそう聞くと、白い男の子はゆるゆると首を振った。
「医者になど行っても仕方ないのだ。われは病なんぞではないからな」
「じゃあ、なに」
 しつこく聞くと、白い男の子は黙って私を見上げる。そう言えばこの子は目に黒い瞳がないな、とやっと気づいた。
「われはかつての力を失って、もうじき消えてしまうのだ。人々がわれという存在を忘れてしまったからな。久しぶりにこの辺りを歩いてみて、諦めがついた」
「友だちが誰も一緒に遊んでくれないから、ガッカリしたってこと? そんな日だってあるよ。だからってこんな所で雨に濡れていたら、ますます落ち込んじゃうじゃない」
 どうしてなのか、私はおせっかいを焼きたくなった。小さな傘を差し掛けて、
「また誘えばいいんだよ。お天気になったらまた気持ち良く遊べるんだから。もしかして歩きまわったから、お腹も空いているんじゃない?」
「確かに腹は空いておるが」
 その時、私は男の子が手になにか持っているのに気付いた。
「ねえ、それなに?」
「篭だ。これに蚕の繭を載せて近隣の神々に寿いでもらうのだ」
「カイコって、なによ?」
「そう、知るまいな。人は蚕を育て、やがて繭を手に入れて、生糸を取り、絹を紡ぐ」
「ああ、そのカイコ。お祖母ちゃんが前に話してくれたことあった」
「そうか。絹は美しい衣となる。光沢があって滑らかな肌触りのな。人が作り出す最高級の衣だ」
 しかしな、と男の子は、底の浅い篭を持ち上げて悲しそうに笑う。
「この篭に繭が載ることはもうない。人は蚕を育てることを止めてしまったからな」
「はい」
 男の子が差し上げた篭に、私はカバンから取り出したスナック菓子を袋ごと載せた。大好きなカルビーのサッポロポテトだ。
「な、なにをする!」
 驚いて、しかもちょっと怒ったように顔を赤くする男の子に、私は笑い返した。
「あげる。なにか食べたら、落ち込んでいてもきっと元気になるし。それ私のお気に入りだけど、あげるよ」
 男の子は目を丸くしたまま、固まっていた。
「くれるのか、われに」
「うん。じゃあ、お家まで送っていくよ」
 私がさあ、と呼びかけると、男の子はおずおずと立ち上がった。
「どっちの方なの?」
 男の子は厚木街道を戻る方へ指を向ける。私たちは小さな傘に身を寄せ合って、雨の街道をとぼとぼ歩き始めた。
 歩きながら男の子が話してくれたのが、昔この周辺で養蚕がいかに盛んだったか、という話だった。
「天の虫と呼ばれていたのだ」
 彼はそう言った。子供だった私にはあんまりよく分からない話だったけど。ゆっくりと十分も歩いた頃、男の子はある角で足を止めて、振り返ると私の名前を聞く。
「そうか。下平可南子よ、送ってくれたことと、供物のことは礼を言う。それに、また誘えばいいと言ったな。お天気になれば人はまた集うと」
 変な言葉使いにちょっと笑いながらも、私は大きく頷き返した。
「そうだよ。雨はきっとあがるもの」
「その言葉を励みとしよう。そして、可南子よ、おまえが今日のわれのように打ちひしがれた時に、きっとわれがおまえを励まそう。今日のおまえに報いるために」
「別に気にしなくていいよ。ところで、あなたの名前は?」
「オシラサマ」
 そう言うと、男の子はスッと離れて、角を曲がった。後を追うように踏み出した私の視線の先に、あの白い着物姿はなくて、小さな神社が雨に濡れているのが見えるだけだった。

          *

 長屋門の二階から湧くような歓声が聞こえてくる。さっきまで降っていた雨は、いつの間にか止んで、空には晴れ間がのぞいている。 
 足音を忍ばせて、そっと木製の階段を上がると、僕は二階の広間を覗く。
「こちらの枠のような道具を『蔟(まぶし)』と言います。蚕は桑の葉を食べてある程度の大きさになると、この蔟の中に入って糸を出し、繭を作ります」
 講師であるらしい、よく日に焼けた若者が親子連れを前に説明をしている。
「今日は、この蔟から繭を外す『繭かき』という作業と、繭をいくつか使って『糸ひき』つまり、糸を紡ぐ作業をしてみましょう」
 目を輝かせている子供たちに交じって、彼女の姿も見える。白く輝く繭を無心に見つめ、顔を赤く上気させている。
 そんな彼女の傍らには、白い着物姿の蚕神が立ち、手にしている篭には久しぶりに近隣の神々に祝福された蚕が載っている。
 白い着物姿の古い知り合いは、その篭を誇らしげに彼女に差し上げる。
 彼女の目には白い着物姿は映らない。あの雨の日の出来事は、雨と、境界としての機能をもつ踏切が生み出した、気まぐれなイタズラなのだろう。
 でも、彼女が言ったように、晴れた日に人は集まった。集まって、かつて人に富をもたらした白い繭を見つめ、かつてこの地で繰り広げられた営みを想像する。そうして、長屋門に柔らかな想いが満ちて、お腹がほこほこと暖かくなっていく。
「ありがとう」
 ふいに横を向くと、彼女の口がそう言った。
 窓辺の柔らかな陽だまりに立つ、白い着物姿を見つめて、彼女は確かにそう告げた。

              ( 了 )

著者

やぐちひろかず