「雪虫」花野 夢夫

 その赤いハーフコートを着た女の子は、傍の母親とおぼしき女性の手をしっかり握りながら、僕の顔を見ていた。凝視するというのでもなく、かと言って漠然と眺めるというふうでもなく。
 希望ヶ丘で目の前の席に座っていた中年の男性が降りたので、思いがけず座ることができた。ちょうど読みかけの小説が面白くなってきたところなので、座って読めるのはありがたかった。まだ二十代なのに五人も子供を産んだ女性の主人公とともに横丁の路地に入っていったところで、女の子の視線を感じたのだ。
 通勤電車で人の視線を感じることはあまりない。閉ざされた空間を共有する者として、互いの存在を無視することが暗黙のルールになっている。田舎の実家辺りの人たちみたいに、いちいち挨拶したり会釈をしたりしていたら、都会の大量輸送は成り立たない。だから、その女の子の眼差しは一面の曇り空から洩れる薄日のように僕に届いたのだろう。
 遠い時間の遠い場所から呼び戻されて顔を上げると、その子は正面から僕を見ていた。歳はみっつかよっつくらいだろうか。その子の視線の高さがちょうど僕の顔の位置に当たる。もしかしたら、彼女はただ真正面を向いているだけで、僕など見てはいないのかもしれない。窓外に何か珍しいものでも見えるのかもしれない。そうも思ったが、やはり焦点は自分の顔に当たっているとしか思えない。
 最初は変な子だなと思ったが、表情ひとつ変えずに見つめられるとこちらの方が照れてしまう。いったん視線を文庫本に落とし、少し活字を追うが、もうそろそろ他のものに気が移っているだろうかと顔を上げると、やっぱり元のままにこちらを見ている。試しに周りの乗客に怪しまれない程度に微かにほほえんでみる。それでも女の子の表情は変わらない。照れくさいのを通り越して居心地が悪くなり、しかたなく文庫本の世界に戻ることになった。
 大きな揺れがひとつあり、電車は乗換駅の二俣川に停まった。各駅停車に乗り換える人たちがどっとホームに流れ出る。いつの間にか小説の世界に戻っていたので、さっきの女の子はどうしたかと見ると、知らないうちにいなくなっていた。隣の母親らしき女性もいない。ドアや外のホームにも視線を送ったが、どこにもそれらしき人影はない。きっと途中駅のどこかで降りたのだろう。少し拍子抜けしたような気分だった。
 降りる人と乗り換える人がみな降りてしまい、車内がほんの一瞬がらんとする瞬間に、反対側に停まった電車のドアの辺りで白いスプリングコートがひるがえった気がした。それは数年来春先になると、この駅で何度も浮かんでは消える幻だった。本当はまだ冷え込みが厳しくて、乗客はみなもっと重いコートを着ている。
 大学の卒業式の翌日を境に、見ることがなくなったガールフレンドのスプリングコート。束ねた栗色の髪がその上で揺れていた。そのとき実際には、僕が急行から各駅停車に乗り換えたのだ。大学の部室に置いてある荷物を引き上げようと、空のボストンバッグを肩に担いでいた。彼女は秋からの留学に備えていったん札幌の実家に帰るところで、赤い小ぶりなスーツケースのハンドルを握っていた。
「飛行機に乗り遅れるといけないから、このまま行くね」
「うん、じゃあ」
 そんなありきたりなことばを交わして僕たちは交点を通過した二本の直線のように別々に歩みだした。彼女を乗せた急行が走り去るのを見送って、僕は四年間乗り馴れた各駅停車に乗ったのだ。どこにでもいそうな二人のどこにでもありそうな別れだった。

 
 彼女が留学の話を最初に切り出したのは、前の年の秋だった。十月に入っても気温の高い日が続き、この先ずっと半袖シャツのままで済むのじゃなかろうかと半ば本気で思いながら卒業設計に励んでいた。ところが十一月に入ると途端に木枯らし一号が吹いたというニュースが流れ、コート姿の男女が目立つようになった。
「私ね、卒業したら札幌に戻ろうと思って」
 洗濯物を畳んでいた彼女が突然口を開いた。僕はパソコンの画面で、自分が設計した横浜駅の細部をいじっていた。
「だって、君はもう内定もらってるじゃないか」
「実は電話を入れて断ったの」
 そこで僕は初めてマウスから手を離した。思わぬことばが口をついて出た。
「もしかして、僕が嫌になった?」
 彼女は大人びた表情をつくり、首を横に振った。
「前に私の家庭のこと話したでしょ。ちょっと複雑だって。でも、世の中にはもっと複雑でこんがらがった人生を送っている人たちがたくさんいるのよ」
 彼女はテレビで見た難民キャンプのドキュメンタリーに心を動かされ、非政府組織の活動を研究するためにイギリスの大学に留学するのだという。そして将来は自分もそういう組織の一員として活動したいという。その方面の研究では、イギリスが群を抜いているらしい。
「費用はどうするの?」
 彼女の方に向き直り、その手が器用に僕のパジャマを畳むのを見ながら訊いた。
「これまで貯めたバイト代の貯金があるし、奨学金も貰えることになったの。残りは親が出世払いで貸してくれるって。だから、余分なお金つかわないように秋の新学期まで実家で過ごすことにしたの」
 どうしてそんな大事なことを勝手に決めるんだ、と喉まで出かかっていることばを呑み込んで、僕は洗濯物をクローゼットにしまう彼女の後ろ姿を眺めていた。
 夕食の食材の買い物がてら、二人で散歩に出た。二人とも無言で河原の土手を歩いていると、薄曇りの空から雪が舞い降りてくる。
「あれ、もう雪?」
「これは雪虫だよ」
「ゆきむし?」
「雪のように見えるけど、小さな虫なんだよ。札幌じゃこれが舞うと初雪も近いという合図で、みんな冬支度を急ぐの」
 雪虫はイギリスと札幌で頭が混乱している僕の周りに静かに舞い続けた。
 数年間一緒にいても、何もかもわかりあい、共有しているわけではない。そんな愚にも突かないことを実感しながら、僕はマウスを細かく動かし続けた。その晩抱き合った後、彼女はぽつんと「ごめんね」と言った。

 白いスプリングコートはもう見えなくなっていた。彼女に似た人は電車の中に入ってしまったのか、元からただの幻だったのか。
 すぐに乗り換えの乗客たちが入ってきて、僕の視界も遮られてしまった。もう小説の世界にも戻れず、仕方なしに電車の振動に身を委ねる。
 斜め左の方には大学生らしき二人組が立っている。ひとりはダンガリーのシャツの上に革のジャンパーを羽織って、イヤフォンで何か聴きながら首を動かしている。もうひとりの、鷲か何かをデザインしたカウチンセーターを着た小太りの学生もやはり何かを聴きながら参考書のようなものを繰っている。 
 二人を見るともなく見た後、改めてピンストライプのネクタイがぶら下がっている自分の胸元を見る。自分が大学でしてきたことや彼女とのぎこちない共同生活はもう時のかなたに去ってしまったことをネクタイが能弁に語っている。戻りたいとか懐かしいとかいうのではないが、ついさっきまでそこに当たり前にあったものが永遠に失われたという感じがあった。永久歯が突然抜けたら、こんな気持ちがするだろうか。
 やがて電車は大学のある小さな駅を通過した。僕の感傷を嘲るように街はよそよそしく、ちらほらと見える学生たちも他人行儀に見えた。僕は目をつむった。一面の空に雪虫が待っている。
 ターミナルの横浜が近づき、僕は再び現実の中に投げ出された。今日午前中に予定されている会議でのプレゼンを予習しながら電車を降りた。人々が一斉に改札に向かって動く流れに身を委ねる。もう雪虫たちはどこかに消えてしまった。ガールフレンドだの生きる目的だの、余計なことは考えなくていい。今後何百回、何千回繰り返すかしれないこの毎日。この毎日の繰り返しが僕を自ずとどこかに運んでくれるだろう。電車が乗客をターミナルまで運んでくれるように。
 そのとき、僕は改札横にさっきのハーフコートの少女を見つけた。ショッピングモールの方向をきょろきょろ見ている母親の横に立って身じろぎひとつせず、僕を見つめている。さっき電車の中でそうしていたように。
 僕は虚を突かれて、少し間抜けな顔をしたと思う。思わず彼女を見返しながら彼女の脇の改札を通過した。そのとき、少女ははじめてにっこりと笑ってくれたのだ。その日一日分に余りあるほどの笑顔で。 (了)

               

著者

花野 夢夫