「青龍・天に昇るー畠山重忠の苦悩と生涯」釈小空

(一)青龍・天に昇る
 元久(げんきゅう)二年(一二〇五年)六月二二日、日が西の空に沈みはじめ、青い空に富士山(ふじのやま) の姿が黒く描き出されていた。武蔵国の帷子川に季節遅れのホタルが数匹、揺れるように舞っていた。 それは、武士(もののふ)の魂がやすらぎを求めてその居場所を探しているようであった。
 するとその時、すーっと涼しい風が川面(かわも)を抜け、流れは激流となり川面が浮き上がった。
 見ると、青い大きな龍が天に向かって昇って行った。
 これを見ていた千を超える武将たちが心臓を抉(えぐ)られる思いがし、自らの傲慢(ごうまん)に慄(おのの)いた。
(二)出陣
 その数日前、畠山重忠は供の者数十人を従え武蔵国菅谷館を出て鎌倉に向っていた。妻の妹婿で従兄弟の稲成重成(しげなり)の急使「鎌倉に異変有り。至急参上願いたい」との義父・北条時政の伝言に応えての出陣であった。
 源平の合戦は二十年前に終わり、大きな合戦があるはずはなく、どうせ北条氏の内部、または他氏族との抗争であろう。泥臭い強欲の争いであることは察(さっ)しがついていた。重忠は軍装を鎌倉で整えることとし、急遽身近な武将たちを集め、平装のままの出発であった。

 重忠が元服して間もない頃、兄は突如出家を父・重能(しげよし)に願い出た。兄を思い止(とど)まらせるように、重忠は父に執拗(しつよう)に迫った。重能は言う、「重忠、重光の云う通りにさせてやれ。武者は善(ぜん)業(ごう)と悪(あく)業(ごう)の二面を持つものだ。重光は悪業がのしかかるとこれに耐えられぬ。しかし、お前は悪業を吹き飛ばす力がある。お前は善業を貫く力がある。一族と領民を守ることが出来る。そうさせてやれ」と。重忠にはこれに反論する術(すべ)は無かった。『あの時から何が俺にのしかかって来たのか』と考えながら重忠は馬上の人となっていた。
(三)笛吹峠
 菅谷館を六月十九日巳(み)の刻(こく)(午前十時頃)に出てゆっくりと兵を集めながら笛吹峠に着いたのは昼となっていた。
 皆は何の疑いや不安もなく重忠に従っていた。重忠は戦う時は勇猛果敢、幕府内では智仁勇の人と崇(あが)められ、無私無欲・無位無官の人であり、頼朝の信頼厚く、領主としては温情深く、民からしたわれた人であった。

 重忠が元服したのは治承三年(一一七九年) 幼名氏(うじ)王(おう)丸(まる)満十五歳の時であった。 その後、兄重光(しげみつ)の出家により惣領(そうりょう)となった重忠であった。若い重忠を阻(はば)むものは何も無かった。平氏である重忠が源氏頼朝に従い、同じ源氏の木曽義仲を打ち、悪政を顧みようとしない清盛平家を倒し、更に奥州藤原氏を討ち全国制覇を成し遂げた。建久八年(一一九九年)頼朝が亡くなる以前はそれなりに安定した時代であったが、頼朝死後は、御家人たちの『傲慢の誘惑』を抑える箍(たが)が失われた。
(四)入間川
 一行の全員・百三十四騎が揃ったのは入間川を渡り夜営をしている時であった。
 昼の暑さも夜となると涼しく、戌(いぬ)の刻(夜九時頃)、皆は久しぶりの鎌倉を楽しみにしているように安らかな眠りについていた。
「お館様、あの時は豪雨で難儀(なんぎ)でしたな。今日は快晴で皆もぐっすり眠れそうですな」宿老・本田親(ちか)常(つね)が重忠に静に語り掛けた。
「おうっ、親常もあの時を思い出していたか。俺も同じことを考えていた」重忠も二十五年前に平家方として頼朝討伐に出陣した時のことを思い出していた。
「でも、あの豪雨はお館さまにとっては、恵みの雨でありましたな」と、傍らから榛沢(はんざわ)成清(しげきよ)が重忠の当時の心境を語った。
「成清には俺の心の内がバレていたか」
「お館様!お館様の気持ちをお察し出来ないで役目は果たせません。それに、お館様はあの時はまだお若かったから、、、」
「と言うことは、今は俺も少しは成長したという事か。成清にはじめて褒められたわ、はっはっはっ」
「生真面目は変わりませんけどね」成清のすかさずの反撃であった。
 重忠の心境とは、二十五年前重忠が最初の難関にぶつかった時の事である。

 治承四年(一一八〇年)若き重忠(満十六歳)は、平家の横暴傲慢に腹が煮え立つ思いであった。
 「重忠、お前の気持ちは分かる。でもな、一部の公家や武将の不満が、全てではない。 秩父一族は平家に恩義があるし、加えて平家の智将・知盛殿は立派な武将であり、わしは尊敬もしている。重忠よく聞け。わしは近い内に知盛殿の要請で都に上る。お前が知っている通り、都の情勢が不安定だからだ」
「はっ。それでは私もお供いたします」
「馬鹿者!それでは一族をだれが観る。親(ちか)常(つね)と成清(しげきよ)を置いて行く。二人と相談し一族と民を守れ。例え何が有っても一族と民を守れ。親の屍を越えても一族と民の為に戦え。それがお前の使命だ。分かったな」
 父重能はその言葉を最後に供の者十数騎と共に都へ旅立った。

 重能が京へ旅立って一ケ月、治承四年八月北条氏を中心として伊豆豪族たちが頼朝を盟主に掲(かか)げて挙兵、先ず伊豆国府目代(代官)山木兼(かね)隆(たか)を夜襲した。
 清盛は相模の豪族大庭景(かげ)親(ちか)に頼朝討伐を命じた。景親は伊豆相模武蔵の平氏に参陣を命じた。伊豆の伊東祐(すけ)親(ちか)、相模の曽我祐(すけ)信(のぶ)、武蔵の熊谷直(なお)実(ざね)ら多くの武将が大庭軍に従った。
 当然、重忠にも参陣の命令が来た。一族の長老や宿老たちの意向は決まっていた。平家に与同である。
 しかしその時、重忠は相反する二つの気持ちに苛(さいな)まれいた。『源氏に参陣すれば父重能を敵とする』、でも『平家に参陣すれば若き血潮が許さない』と云う二つであった。
 重忠は迷いながら畠山館を出陣した。丁度その時、台風の襲来で大雨となり、河川は渡河を困難としていた。重忠軍はゆっくりと南下した。
 重忠軍が藤沢に着いたのは八月二十三日夕刻であった。いよいよ相模川・花水川・酒匂川を越え翌朝には石橋山で対頼朝軍を迎え撃つこととなった。
 二十四日まだ朝も暗い時刻、頼朝軍敗走の知らせが入った。三浦軍が大庭軍の拠点の大庭御厨(茅ヶ崎)の村々を焼いたのを見て、背後を突かれるのを怖れ大庭景(かげ)親(ちか)は戦いを早めたのであった。
 決断をためらっていた重忠は、一瞬、ほっとした。それを隠すように空を眺めていた。
(五)入間川の朝
 重忠は何故か今朝は浮かなかった。それは、昨夜の話の後のことを思い出していたからである。

 和田義(よし)盛(もり)を副将とする三浦軍が重忠の近くを抜けようとしていた。義(よし)盛(もり)は、重忠の母方の従兄で当年三十五歳になる剛直そのもの、相模武士の典型のような人物で、曲がったことは決してできない男であった。重忠はこんな義盛を頼もしいと思っていた。祖父義明の血を最も受け継いだ男と見ていた。その義盛が、自らが雨のため源氏軍に参陣適(かな)わなかった事と源氏軍敗走の怒りから、平家方重忠軍を挑発した。重忠の陣営に向って、
「三浦水軍の総帥三浦義明が孫和田義盛、一族の信義ため畠山重忠殿に申す。三浦軍、これより居城に帰参する」と声高に言上した。
 重忠は、これを聞いて困惑した。馬鹿な!何を今さら。重忠は、知らぬ振りをして三浦軍を通したかった。挑戦状を受けたようなものである。義盛に優るとも劣らぬ剛直な重忠である。重忠の若き血が吹き出てきた。黙って通しては、平家に対しても面目が立たぬ。
 重忠は一人、弓を取り馬に跨(また)がった。
「なりません。相手の愚かな所業に怒って戦うは、益々愚かです」 本田親常が諌(いさ)めた。
「秩父一族の名誉のためじゃ」重忠は聞く耳を持たなかった。
「なれば、我等もお供つかまつります。大将の猪突猛進はお控えください!」親常は、普段は見せたことの無い鋭い口調で、重忠を諌めた。続けて、
「皆の者、出陣じゃ。装備を厳重に点検せよ。急げ、秩父軍の矜持(きょうじ)を示せ、急げ」
 親常は『急げ』と言っておきながら、こと細かく命令した。親常は重忠隊が義盛を追撃するのに手間取っている間に、義盛が小坪へと消えてしまうのを願っていた。

 重忠が三浦軍を見つけたときは、三浦軍は由比ケ浜を通って小坪の坂を越えようとしていた。その先は、三浦軍の居城衣笠城があった。
「そちらに、尻尾を小さくまるめて行かれるは、源氏に加勢かなわぬ三浦軍とお見受けする。吾こそは、桓武平氏・平良文の末裔・秩父一族の棟梁畠山重能が嫡子・畠山庄司重忠である。我と思わん者は、この重忠と一戦交えよ!」
 それを聞いた殿(しんがり)の義盛は、汚名を着て帰参はできぬと、峠を走り降りて、双方が由比ケ浜で対峙した。
 重忠が、義盛軍めがけてまさに突進しようとすると、「お館さま、あえて無駄な争いに挑むとは愚かなことです」
 親常は成清と共に、重忠の愛馬三日月の手綱に強引にしがみつき、
「お父上さまは、秩父一族と三浦一族の和睦に苦労されました。それをここで壊してはなりません!この親常、命を賭しても愚かな戦いをお止めいたします」と親常は、重忠が驚く程に、猛然と重忠を叱った。
 重忠も、義盛を追跡する間に、冷静さを取り戻していた。両者に和議が成立した。
 重忠はほっとして、さて、秩父へ帰還しようかと馬首を返した。

 その時、義盛の弟・義(よし)茂(しげ)十七歳と従者七騎が、突然重忠軍に襲いかかった。重忠は、和議破りと不意打ちとに激怒し、阿修羅のごとくに怒りを現わし、これに応戦した。挑んで来る武者をめがけて先陣を切って刀を抜いて突進し、怒りを込めて一撃のもと首をはねた。双方に多くの死傷者が出た。
 義茂は兄義盛とは別行動をとっていて、和議成立を知らなかった。出さなくてもよい死傷者であった。

 由比ヶ浜の戦いから二日後の治承四年(一一八〇年)八月二十六日、重忠は後続隊と合流し、三浦一族の居城衣笠城に迫った。
 衣笠城は当時としてはめずらしく山城で堅固な守りではあったが、城と言っても急峻な丘の上に館を築き、小さな堀(ほり)と塀(へい)に守られている程度の城であった。秩父一族が城に迫っている。それにこの戦いは当方に大義が無い。とても防ぎきれるものではない。
 義明は心を決した。秩父一族と三浦一族がここで決死の戦いをしたら、双方に大きな損害が出る。ここは、なんとしても一族の温存を計らねばならない。 自らは城に立て籠もり最期を遂げ、一族を搦め手から逃そう。自分一人でも戦えば、秩父党の対平家への名分も立つであろう。今回の我等が過ちの責めを自分が取り、それで許してもらおう。孫の重忠と戦い討たれるなら本望だ。 重忠に、この老いぼれの最後の戦(たたかい)様(ざま)と死様(しにざま) を見せてやろうと考えた。
 平家と源氏に狭間に立たされ、一族の長(おさ)として重忠以上に苦悩する人物がここにもいた。
 しかし、義明には迷いは無かった。
 義明は、大手に江戸重長ら三百騎が攻めかかると、自ら門を開け、先陣をきって踊り出た。
「いざや、秩父の武者たち、よっく聞け! 桓武天皇が曾孫高望(たかもち)王(おう) 阪東に下りしより三百余年、相模国三浦にこれありと知れたる三浦水軍の総帥三浦大介義明ここにあり! この度の合戦、秩父党の方々に遺恨は御座らぬが、義によってお相手つかまつる。勇気ある者は、いざ、まみえん」と馬上から叫ぶなり、いきなり敵陣に刀を振るって切込んだ。
 通常の合戦は、互いに名乗り合い、弓での討ち合いから始まり、槍・刀の斬り合いになる慣わしであった。しかし、何故か義明は、名乗るが早いか敵陣に突っ込んだ。
 義明に続いて、二十騎余りの武者が従った。
いずれも、義明と同じ行動をとった。敵の槍を躱(かわ)し、刀を払いのけては、暴れまわった。義明の兜(かぶと)は落ち、髪は乱れ、鎧(よろい)は破れ、まるで阿修羅の如き様相であった。しばらくすると、従者はわずか数名が残る程になっていた。一方、秩父党には、死傷者は一人もいなかった。
 突然、義明は、「秩父の武者たちよ!三浦武者の戦いぶり、充分ご覧じたか。いざ、さらばだ。また、冥土で会おう」と言うなり、先に従者を城へ戻らせ、自らは夕闇迫る衣笠山の山道を、悠然と、威厳をもって、八幡大菩薩に守られた尊者の如く、城内に入り門を閉じた。
 義明は、従者と共に自決した。城に火をかけたりはしなかった。勇敢な武者ぶり、優美な死様(しにさま)、そして見事な最期であった。
 このときの祖父三浦義明がとった行動、一族玉砕ではなく一族を温存して、自らは死す。阿修羅のごとく激しく菩薩の如く優しく釈迦牟尼のごとく静かな姿、馬上の老将一騎が夕闇に輝き山野に静かに消えて行った。重忠の脳裏に深く刻まれた。
 それにしても、戦いとは? と重忠は改めて考えざるを得なかった。
(六)久米川
 重忠一行は、府中を目指して南下し、昼過ぎには荒川支流の久米川に至った。此処で携帯の炒飯(いりめし)や餅(もち)、更には干(ほし)肉(にく)など十二分の昼食と休憩をとった。
 重忠は、昼食をゆっくりと楽しく取ることの有難さを感じていた。

 重忠は三浦の衣笠城を落すと、里人を安堵しそのまま帰郷した。
 一方、頼朝は石橋山から敗走し箱根山中を
徘徊(はいかい)し、真鶴から房総へ逃げ伸びた。そこで三浦軍と合流を果たし、房総の豪族・上総介広常や千葉常(つね)胤(たね)を加え軍備を整え房総半島を鎮圧しながら北上した。
 頼朝軍の狙いは、上総と武蔵の境の隅田川の『長井の渡し』を渡り、武蔵国を通って鎌倉に行くことであった。そこで武蔵(むさし)常陸(ひたち)下野(しもつけ)  など周辺の豪族に参陣命令を出した。勿論、重忠にも書状は届いた。
 竹馬の友で下野(しもつけ)の下川辺行平、父の旧友で東武蔵(むさし)の足立遠元(とうもと)、一族の葛西(かさい)清(きよ)重(しげ) などがしきりに頼朝軍への参陣し共に腐敗した平家を打とうと誘った。重忠は迷った。 重忠の反平家への気持ちも昂(たかぶ)るばかりであった。頼朝軍の勢力は多くなるばかりであった。
 父重能が上洛の時の言葉を重忠は思い出していた。『例え何が有っても一族と民を守れ。親の屍を越えても一族と民の為に戦え。それがお前の使命だ』
 おれは間違っていた。 平家打倒は自分の望みであると思っていた。 自分の望みの為に父を犠牲にして戦う事は出来ないと考えていた。 しかし違う。平家打倒は、一族と民の為だ。父の屍を越えてもやらねばならい俺の使命だ。
 重忠は自らの決意を宿老や長老に伝えた。皆が重忠の意思と決断に従ってくれた。
 決断すると行動は早い。直ちに長井の渡しに向かった。すると、宿老本田親常がそっと重忠に耳打ちした、、、。
 翌日の昼過ぎ、重忠は頼朝の面前に居た。
頼朝は重忠に詰問した。
「そちは何故衣笠(きぬがさ)城を襲ったか? その者が何故今頃のこ(・・)の(・)こ(・) と参陣するか?」
「はっはっー。大将の仰せ御もっともでござります。しかし、我が父重能は京にあり父に敵対すこと適わず止む無く平家に加勢いたしました。また、衣笠城を襲ったは武将としての義によるもので、決して源氏に恨みがあっての事ではありません。それは義澄殿及び民に聞いていただければ分かるはずです。
 先ずここに控えます本田親(ちか)常(つね)の持つ白旗をご覧ください。これは前九年後三年の役の折、我が曾祖父・秩父武綱が八幡太郎義家(よしいえ)殿から先陣の功により賜った白旗で御座います。父重能は常々申しておりました。平家の恩は一代の恩、源氏の恩は累代の恩と。因って重忠ここに決死の思いで参陣つかまった訳でございます」
 頼朝は、重忠の言上に感心し、且つ頼朝の唯一の頼りである『源氏の権威』を示されうれしくなり、
「うっむ、殊勝(しゅしょう)なる心構え。鎌倉への先陣を命ずる。しかと心得よ」と命じた。
「はっはっー。ありがたき幸せ」と重忠の一世一代の大演技は終わった。
 その後、鎌倉入り…対平家冨士川の戦い…佐竹征伐と重忠は、鎌倉軍の武将として勇猛を馳(は)せた。
(七)府中
 久米川を昼に出た一行は、その日の夕(ゆう)時(どき)には武蔵国国府の府中に着いた。府中には国府の他にも国分寺や国分尼寺があり、人々で賑(にぎ)わい、多くの傾城(けいせい)の宿(女郎宿)もあった。
重忠は、各将兵を労(ねぎら)う意味で、明日は午後の出発とし、風呂や食事、及び酒も許し、ゆっくり過ごさせた。自らは一人、川べりの二階の部屋で外を眺め、想いに耽(ふけ)っていた。

 宿場町として賑(にぎ)わう国府に夙(あさ)妻(つま)太夫(たゆう)  という遊女がいた。 そこへ足しげく通う一人の男がいた。 重忠であった。
 重忠は、既に十七歳の立派な青年武将であった。話し上手な夙妻太夫のかすかに熟しかけた女の魅惑に、寡黙な重忠はなんとなく足が国府に向く様になっていた。
 太夫は、眼は大きく、眉毛がクッキリとし、鼻筋がくっきりとし、凛々しい女であった。どちらかと言えば醜女(しこめ)と言われていた。

 「重忠さま、会えてうれしい!」太夫は甘えるように重忠に擦り寄って耳元でささやいた。耳に当たるかすかな風と共に流れる太夫の声は、遠くで聞こえる鶯(うぐいす)の声のようであった。重忠も甘えられると悪い気がしない。いや、正直言ってうれしい。
「今日は、ゆっくりできるのでしょう。さあ、どうぞ」太夫はすがるような眼を重忠に向け酌をする。太夫の甘い香りが流れ、重忠の体全体を内部から揺り動かす。体全体が熱を帯び、心臓が激しく鼓動する。武芸の鍛錬とは異なる感覚だ!
「あー」重忠は酌を受け、ぐいっと飲み干す。
「太夫も一杯」重忠が太夫に杯を渡す。
「ええ、今夜は酔いたいわ」太夫は、両手で杯を受け、嬉しそうに一気に飲み干す。
「鼓(つづみ)は無いか?」酔いもまわってきた来た頃、重忠が急に言いだした。
「えー?ありますが?」太夫は突然の重忠の言葉に驚いた。無骨で寡黙な重忠と鼓。太夫の頭の中でその二つを一つの絵として描けなかった。
「持って来てくれ。太夫の舞が見たい。俺が打つから、舞ってくれ」
「まあー、嬉しい!」重忠さまが鼓を打つ? 太夫にとって、こんな意外な喜びは、産まれて初めてであった。
「勿論、舞いますとも。重忠さまの鼓なんて、想像も出来ませんでしたわ」
 鼓が来ると、重忠はさそく手に取り、左肩に軽く乗せると、右手でポン、ポン、力強く軽快に打ちはじめた。 太夫は謳いながら舞った。いかにも嬉しそうに、晴れやかに舞った。

 翌日の朝、重忠が目を覚ますと、太夫がそっと襖(ふすま)の戸を押し開け、「お目覚めですか」 うすい化粧した太夫が、そっと声を掛けた。
「うん、まー」重忠はなんとなく落着かない。
「朝のお食事の前に、お外を一(ひと)廻(まわ)りされませんか?」と、太夫が重忠を促した。
「うん、そうしよう」と太夫の言うなりに外へ出た。
 すると、太夫が後ろから付いて来たかと思うと、「どうぞ、こちらへ」と先に立って歩き出した。重忠には気持ちよかった。重忠は、共が後ろからのろのろ(****) と付いて来られるのが嫌いであった。
 やがて、太夫は近くの大きな池に案内した。
「静かで、きれいな池でしょう!」
「太夫は、よくここへ来るの?」重忠は太夫を気遣(きづか)うように聞いた。
「ええー、暇があれば」
「どうして、ここへ来る?」
「重忠さまに会えるから!」太夫は、微笑みながら、嬉しそう応えた。
「? 俺はここへ来たことがないよ!」
「ほらっ、覗いて見て! 重忠さまが居られるでしょう?」 重忠を手招きしながら、太夫は池を覗いていた。水面がかすかに揺れる池に映った大夫は、神秘的な美しさを現していた。
「本当だ! 俺がいるね。それに、城を傾けてもいいような美しい女が一緒だね」
 しまった!と、重忠は一瞬思った。重忠は、中国の故事の「傾城(けいせい)」をもじって、太夫の美しさを表したつもりであった。しかし、日本では傾城とは「遊女」を表す言葉となっており、、失言だったか?
「まあっ、ご冗談を、 でもうれしい」
 太夫はまんざらでもない顔を見せた。その顔に重忠はほっとした。

 その時突然、
「死ねっー。俺の女に手を出すな!」
 見も知らぬ若い二十(はた)歳(ち)前後の侍が重忠めがけて斬りかかった。
「?」重忠は瞬間、左腕で太夫を突き飛ばすなり、右手で男の腕を掴み一瞬息を止めた。
「バシャーン」男は池の中に投げ出され、もがいていた。重忠の左腕からは血が噴き出していた。

 その夜、太夫の介護を受けながら、酒も少少控えて早めに床に就いた。外は既に真っ暗であった。 強い風が吹き、木々は揺れ、女が男にすがりたくなるような、なにやら不安な夜であった。
(八)榛ケ谷御厨
 六月二十一日夜、一行は従兄弟の榛(はんが)谷(や)重朝邸に宿泊した。榛ケ谷御厨は、重忠の伯父小山田有重が開拓した荘園を伊勢神宮の寄進したもので、保土ヶ谷の名はこの『榛(はん)ケ(ガ)谷(や) 』に由来するという。
 六月二十二日巳(み)の 刻(こく)(十時頃)、重忠一行は鎌倉へ向かって出発した。 重忠はいつものように上(かみ)つ道(みち)から中(なか)つ道(みち)に入り鎌倉山(やまの)内(うち)をめざした。

 鎌倉に異変と言っても、たわいの無い派閥争いであり、その中に自分も引き込まれて行くことを、自分ではどうしようもないことも知っていた。 重忠は、時政からの出陣命令の意味を考えていた。時政は既に『傲慢の誘惑』に取りつかれ、以前の冷静さは消え失せていた。軽挙な行動は決してしないようにと、重忠は、再度心に促していた。
(九)鶴ヶ峰
 六月二十二日牛(うし)の刻(こく)(午後一時頃)、重忠と郎党百三十四騎は、鶴ヶ峰の帷子川の渡し・通称「鎧の渡し」を臨む北方の峰までやって来た。
 すると、 川を挟んだ前方の丘に無数の軍旗が揺れ動くのが見えた。 歩みを止めたその時、鎌倉よりの急使が届いた。嫡子重保(しげやす)が今朝由比ケ浜で討たれたこと、及び義時が重忠追討軍を指揮して北上したことを知った。
 重忠の懸念は当たっていた。 しかし、事態は懸念以上に悪かった。戦いの矛先は自分に向いていた。 重忠には、しばらく状況が掴めなかった。
「、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 重忠は、心を決した。「皆の者、ここで待て! わし一人で義時殿と会ってくる」
重忠の言葉が終わる前に、「私だけは、どんな場合でも父上とご一緒させて下さい」 小次郎重秀が哀願した。重秀は重保の死及び前方の北条軍から伺える切迫した状況から、父重忠の危機を感じていた。自分が父を守らねばと覚悟していた。
「馬鹿者! 重保亡き跡、秩父一族を誰が観る!」重忠が一喝した。
「ここは一旦、館に戻って軍備を整えてから、再び出動するのが上策と考えます」親常と成清は訴えた。
 重忠は、戦うためには二人の提言が妥当であると考えた。しかし、
「ここで引き返しては、汚名を後世に残すばかりだ。また、重保を死なせた今となっては、一族揃って戦う必要もない」と重忠は諭し、続けて、
「そち等は、ここに控えておれ。決して早やまるでないぞ! 義時殿が軍勢を率いてここにあるのは、必ずそうせねばならない理由(わけ)があるはずだ。俺が義時殿と話して来る」
 重忠は皆を鶴ヶ峰の渡しの後方・白根の丘に控えさせた。
「それは、なりません。万が一にも、敵の攻撃を受けたら一(ひと)たまりもありません」親常も成清も必死に重忠を止めた。
「これが天命とあらば、俺が鶴ヶ峰に死なんとも、何の悔(く)いがあろうか。それより、義時殿の真意を知らず、退却したり、攻撃したら、末代までの悔(く)いとなるであろう」
「分かり申した。それでは吾等二人だけはお供させてください」親常も成清も、ある決断をしていた。引き下がる様子は無かった。
 重忠は、鎧の渡しのはるか彼方の牧ケ原(後年の万騎ケ原)をじっと見ていた。
「よかろう」と言うと、重忠は静に、ゆっくりと、鎧の渡しに馬を進めた。

 進んで来る重忠を稲毛重成が見つけた。重成は、義時と重忠が会って、話し合いをしてはまずいとばかり、重成隊に攻撃を命いじ、自ら矢を放った。それを合図に重成隊が一斉に重忠めがけて、鎧の渡しへと攻めかけた。
 重忠は、重成隊の攻撃を見て、すべてを覚った。一旦始められた戦闘は、止めようも無く 義時殿との会見は許されない。 馬の手綱をぐっと引き締めると、次ぎの瞬間、
「我が死に様(ざま)を、天地よ御照覧あれ!」と叫んだ。その声は地から湧き出て天を突き通す如く、低く大きな響きであった。
 重忠は、馬の腹を軽く蹴ると速足で軽快に敵陣めがけて走り出した。一馬身ほど後ろに、親常と成清が従った。三人とも平装である。 その姿は、観音菩薩と勢至菩薩を伴った阿弥陀如来の来迎(らいごう)図ようであった。
 馬上にある孤高の老将・三浦義明の勇姿(ゆうし)。重忠の脳裏には、衣笠城での祖父三浦義明の最後の姿が浮かんでいた。重忠は今、一族のため及び民ため、この命を捧げようとしている。

 重忠をめがけて来る重成隊の動きを見て、お館さまの大事とばかり、後方の重忠隊は一斉に敵陣めがけて突進した。一騎当千の兵(つわもの)ばかりの重忠隊百三十四騎は、平装とは言うものの、その十倍の大軍を相手に激しく戦った。なんと皮肉!二五年前の重忠の初陣・小坪の戦いも、ちょっとした行き違いから起こったものだった。戦いとは、所詮そのようなものか?
 重忠隊が大いに暴れまわったところで、重忠は郎党たちに、「もうよかろう!みなの者、引け!命を無駄にするな。この戦いを重忠に預けてくれ!みなの者、一族を守ってくれ!行け!残る者は俺が斬る!分かってくれ!」 それは悲痛な叫びであった。
 その時、弓の名手・愛甲季(すえ)隆(たか)の矢が、重忠の胴をグッサと射抜いた。 重忠は、一瞬「うっ」と、息を詰まらせた。そして、自らの最期を知った。

「我が道に誤りありや! 我が道に傲慢ありや! 我が道は道理に適うや!」重忠は静かに自らに言い聞かせるように語りかけた。
 その時、すーっと涼しい風が川面(かわも)を抜け、木の葉が一枚、風に舞った。
「重忠ー、すまなかったなー。もう十分だよー」 風に舞う木の葉が囁(ささや)いた。それは兄重光の声であった。次の瞬間、風はヒューと音を立てて、木々を揺らした。「重忠! よくやった。もう十分だ。もう十分だ」 木々が重忠に語りかけた。 それは父重能の声だった。
 「南無阿弥陀仏」重忠はかすかに念仏し、息を引き取った。

 その時、季節遅れのホタルが、その霊を誘(いざな)うようにサーッと舞い上がった。 木の葉が川面に落ちると同時に、川が流れを早め、ゴーゴーと唸り、激流となり、川面が浮き上がった。と思う瞬間、大きな真っ青な龍が雲間を目指して昇って行った。

著者

釈小空