「風の通るとき」七瀬さくら

 
 「なんでかなぁ。」咲子は心の中でつぶやく。
もう何度目になるかわからないけれど、気づくと自問自答している。答えが出るわけでもないのに。
 八月に職場の健康診断で要検査となった。自覚症状すら感じないが、問診をした医者の言葉に従って、紹介された病院へ行った。けれど気楽な私の気持ちとは裏腹にグレーな結果が積み重なり検査項目が増えていった。そしてこの路線の専門病院を紹介され、今日、結果を聞きにきたのだ。
「なんでかなぁ。」あ、また言ってると思いながら咲子はぼんやりと考える。この九月の誕生日で五十三歳になった。三十代で子どもを一人授かったけれど、その数年後に離婚した。元夫を嫌いになったわけではないが気づいたらお互いの向く方向が違っていた。咲子は自分の仕事が好きだった。だから忙しくても、家の中が片付かなくても全部、頑張りたいと思っていた。けれど彼は落ち着いた生活を望んでいた。きれいに掃除され、あたたかな手作りの食事が待っている我が家。子どもの具合が悪くなっても父親は仕事に打ち込める家庭を。気持ちのすれ違いが際立っていって、このままでは本当にこの人を大嫌いになってしまう、と思ったのが咲子の離婚の理由だった。子どもの父親を大嫌いになることは、子どものためにしたくなかったのだ。以来息子と二人暮らしになった。はじめは二人きりで、大きな海に漕ぎ出すような不安な日もあったけれど、息子も去年成人式を迎えた。今では逆に支えてもらうこともある。思いやりのある子に育ったと思う。
「でも、やっと二十歳になったところ。一人ぼっちになっちゃうなんて。」じんわりと息子の笑顔が滲む。気持ちで涙が出るだけでも輪郭が滲むんだ、なんて冷静に考えている自分がいる。仕事も子育ても頑張った。頑張りすぎてあちこちガタが来てる。でも他人様に迷惑をかけないよう生きてきた。選挙だってちゃんと行ってる。なのに・・・。
 考え考え歩いて、いつのまにか駅に着く。
本当は横浜方面に帰らなきゃいけないのだけれど。まだ輪郭がぼやけていて、反射的に反対方向のホームに降りて行く。停まっている電車に乗ると静かにドアが閉まった。そういえば、この電車の終点ちかくでは大山の山並みが広がっていたっけ。むかし心がすうっとおだやかになったことがあった。このまま乗っていってみようか。
 「なんでかなぁ。なんで私なんだろう。」午後の電車に乗っている人たちは、みんな幸せそうにみえる。スマホを見つめている人、居眠りをしている人、あそこのベビーカーの赤ちゃんをのぞき込んでいる若夫婦、まるで昔の私たちみたい。時が戻せるならあの時に戻りたい。未来には希望しかないなんて思っていたころ。あの頃に比べて私は幸せになっていないのかな。仕事ではやりがいと成果と仲間や友だちができた。離婚はしたけど息子と二人かけがえのない時間を過ごしてきた。いろんな人に助けられた。・・・そんなに悪い人生ではなかった・・・。
 「いや、ちょっと待って。そんな簡単にまとめないでよ、私。何を弱気になっているの?」病院を出てからはじめて頭の中がはっきりしてきた。そうだ、まだスタートラインにも立っていない。今、病気であることがわかった。しかし治療方法もある。打つ手もある。
あきらめるのはまだ早いのだ。
 「仕事。どうしよう。みんなに迷惑をかける。でも辞められない。糧を稼がねば。何より仕事は生きていく甲斐だ。手放したくない。」ぐるぐると考えが広がる。職場では心配をしてくれる人もいれば、そうでない人もいるだろう。単純におもしろがる人もいるかもしれない。「だけど。」咲子はおなかに力を込めて思う。「私を哀れんだり、かわいそうがれるのは私だけ。だから卑屈にならずそのまま生活するだけなんだ。」
 窓の外に富士山が見え隠れする。秋の山はまだ雪をまとわず力強い土色だ。「富士山って黒い山だったな。」小学生のころ、五合目の駐車場から頂上付近を見上げたことを思い出した。山の途中にいながらその頂を望める不思議さ。「その時私、富士山に登って上から下を下を覗いてみたいって思ったんだ。」突然、頭の中のやりたいことリストのページがめくれる。ジャズピアノを弾けるようになりたい、パリに行きたい、オーロラを見たい・・・そうだ、嵐のコンサートにも行きたかったんだわ!」こんな非常時になんてお気楽なんだろうと肩の力が抜けた。同時にさっきまで、窓の外を見る余裕もなかったことに気付いた。車窓からは、富士山が足元からすくりと立ち上がって見える。
 「ここはどこ?」予想していた景色ではなく、どうやら違う線に乗ってしまったらしい。むかし咲子が知っていた線路はずっと伸びて新しい街につながっていた。昔と全く同じものなんてないのだ。
 「時間は進んでいる。例え、タイムマシンであの時に戻ってもきっと私は同じ『今』にたどり着く。」そう、人を羨んでも詮無いこと。さあ、終点だ。仲睦まじい若い家族も降りてゆく。家に帰ろう。そしてこれからどうするか考えなきゃ。私には私が手に入れてきた幸せがある。医療の世界も日進月歩。きっと未来は明るい。咲子は立ち上がって一歩歩き出した。

著者

七瀬さくら