「10月5日」小峰鈴二

 自動改札を出て階段を降りる。足取りは少々重い。
「宝くじ売り場の前で待っていてね」といわれた。階段を降りきると、左手にその売り場が見える。ハンカチで汗を押さえながら待ち合わせ場所を確認する。
「それにしても暑いな」、思わず、言葉が口をついて出た。からっと晴れ上がったせいか、この時期にしては気温も高い。少し動けば汗ばむ陽気だ。思わず見上げた空は高く、すっかり秋空の装いだ。暦の上では秋の真っ只中だが、今日の残暑は特に厳しい。降り注ぐ陽の光は強く、駅前のロータリーの照り返しが眩しい。少し奥まった場所で待つことにした。
 「とうとう五日になってしまった」心の中で呟く。
一ヶ月前、恋人から結婚の挨拶に来て欲しいとせがまれた。今回が初めてではなかった。結婚に対して終局的なわけではない。挨拶に訪れることに自信が持てなかったのである。
「相鉄線の二俣川駅は知っているわね」「その次の駅で降りるのよ」「次の駅よ」
彼女は、小学生に言い聞かせるように下車駅を伝えた。二人の会話は、いつもこんな調子である。結婚に関しても、主導権は彼女にガッチリと握られていた。
 西谷正夫は地方の生まれで、弘明寺のアパートで一人住まいだ。横浜市内の自動車販売会社に勤めている。車のセールスマンなので移動の中心は車である。そのため、市内の鉄道網は詳しくなかった。また、南区在住なので相鉄線にはなじみが薄かった。ただ、仕事柄、運転試験場のある二俣川はよく知っていた。彼は、今日、初めて相鉄線に乗車した。それは、結婚の挨拶をする決心を固めたからだ。
 挨拶する決心を彼女に伝えたのは夏であった。彼女の家を訪れ、どのように話しを切り出したらよいものか、そんなことを考えているうちに月日が過ぎ去った。そして、あっという間に昨夜を迎えてしまった。一晩中考えてはみたが、やはり挨拶のイメージは湧いて来なかった。一睡もしないまま朝を迎え、彼女に指定された駅で下車したのである。
 駅前のロータリーにはバスの終点があり、朝夕は学生で膨れ上がったバスが発着していく。駅前ロータリーの先には商店街があり、商店街を抜けると住宅地が広がる。昭和30年代に相鉄が分譲した新興住宅地である。複雑な谷戸の地形を造成したので、駅に出るまでは坂も多い。近年、立て替えが増え、街の各所で新しい景色が見られるようになったが、まだ宅地は広めで庭のある家も多く、街ははゆったりした印象を与える。開発当初に県立高等学校も誘致し、当時としては、計画的な街づくりだったようである。開発から半世紀が経ち、街は落着いた雰囲気を醸し出している。彼女の実家も、この閑静な住宅地の一角にある。駅から歩くと二十分ほどの場所だ。
 正夫は、今年で42歳になる。都内の大学を卒業したあと大手の自動車販売会社に就職した。当時はバブル経済の影響が残り、大卒であれば大手の企業に就職しやすい時代だった。多くの同期が居たが、バブルの恩恵が消滅する頃、会社を去った同僚も多い。彼は、勤続20年になるが、出世には縁が無かった。いまだに一介のセールスマンである。まじめな仕事振りで、顧客の信用も厚い。ただ、口下手な性格が災いしてたのか、出世コースからは見放されてしまった。同期入社の仲間達は、部下を従え精力的に仕事をこなしている。仕事は好きなので、そんな自分の状況も苦にはしていなかった。
 星川智は、28歳を迎えた。すらりとした長身で、涼やかな目元の美人である。中学高校時代はバスケットボールの部活動に明け暮れた生活だった。薬科大学を卒業後、横浜市内の薬局で薬剤師をしている。彼女が勤めているのは個人店舗なので、調剤の他に薬の配達も担当していた。明るい人柄で人当たりも良い。仕事も性格にこなし速いので、彼女を指名する客も多い。心配りを忘れない性質なので、大学時代も人気者だった。当然、周囲からは、決まった相手がいると思われていたが、長く付き合うような特定の恋人はいなかった。彼女に理想の恋人像を訪ねると、「一緒にいてホンワカできる人が良い」というのが彼女の答えだった。今ひとつ判りかねるので、「ホンワカ」のイメージを訪ねても、ピンと来る説明が返ってこない。彼女自身も判っていなかったのかもしれない。
 二人が付き合い始めて二年経つ。出会いのきっかけは、正夫が智の務める薬局に営業車をセールスにきたことだ。納車が決まってからは、営業車を運転する機会の多い智と話す回数も増えた。初めは担当者として話していただけの正夫だったが、智のペースに引き込まれ、いつしか色々と話しをするようになった。口下手な正夫でも、智とは話しが弾んだ。智が相手だと、会話が苦痛にならなかった。むしろ、会話は心地よいものだった。生まれて初めて味わう感覚だった。智の方も、正夫と会話を重ねるうちに、彼を意識するようになった。正夫の言葉には、いつも嘘がなかった。背伸びして自分を飾る筆宵もない。人の話しも良く聞いてくれる。全くストレスなく話しができるし、正夫のまじめな人柄が分かるにつれ、何でも躊躇しないで話せるようになった。これまで、智は相手により、話題を選んできた。意識したことではなかったが、その方がスムースに生活できたので、いつしか習慣になっていた。煩わしいと思うこともあった。正夫とは、今までの付き合い方とは違う付き合い方ができた。彼と話していると、気疲れしないで、すぐに時間が過ぎてしまう。智にしても、こんな感覚は始めてだった。正夫と過ごす空間や時間の心地よさを気に入り、智から声をかけ、二人は付き合い始めたのである。
 「お待たせ」、気がつくと、真っ赤な軽のオープンカーが目の前に停車した。小気味良くマフラーが音を響かせている。運転席から笑顔で手を振る智の姿が見えた。フルオープンで登場した智を見て、正夫は「元気だなぁ」と思う。「まぁ、二十代だからな」と、苦笑しながら思う、今年になり、なんとなく年の差を気にするのが癖になっている。
「乗って」。彼は助手席に大きな体をすべり込ませた。同時に車は勢いよく走り始めた。人通りもあるので、やたらに飛ばすようなことはしない。街には相鉄ローゼンのようなスーパーマーケットもあるが、元気に営業している個人商店も多い。流れる車窓からでも魅力的な店が多そうなのがわかる。彼が商店街の感想を言うために口を開こうとした瞬間、車は一軒の洋菓子店の前に停車した。駅からは遠くない。
「アマンデン?」彼が店名を小さく口にした。
「正夫さん、何か持ってきた」
と聞かれて、彼は手土産も持たずに来たことに気付いた。そして、「若いのにしっかりしているな」とも思った。
「やっぱり」
困り顔の正夫を確認すると、智は笑いながら店内に消えた。
 アマンデン洋菓子店で買い物を済ませると、再び、車は滑るように走り出した。商店街を抜けて住宅街に入ると、オープンカーの車内にほんのりとキンモクセイの香りが漂ってきた。建替えが増えたとはいえ、この辺りの住宅は庭のある家も多く、手入れの行き届いた庭では四季折々の花の香りが楽しめる。数分走ると智の自宅が見えてきた。部屋に入ると既に酒席の用意が整い、智の父親、星川鉄史が座っていた。あわてた正夫が中腰のままで頭を下げると、鉄史も頭を下げ、黙って座るように手で促がした。鉄史の面立ちは智と似ていた。彫りが深い顔でガッチリした体躯を持ち背丈もありそうだ。黙って座る姿を見ていると気圧される。正夫は、なかなか顔を上げられなかった。
「お父さん、こちら、西谷正夫さん」「父の鉄史です」
智がお互いを紹介する。その声をきっかけに、やっと正夫が顔を上げた。
「こんにちは」、正夫が小さな声で挨拶した。
「まず乾杯ね」、智の一言で食事が始まるが、話すのは智が一人だけだ。父は智の話しにうなずくものの、笑顔は一切見せない。正夫は酌をしながらも真っ直ぐに顔を上げられず、鉄史の表情をみることができない。部屋の空気が徐々に重くなっていく。破裂はしないが、このまま固まってしまいそうな気がする。これではまずいと、やっとの思いで鉄史の様子を窺がうと、怒っているようには見えない。それでも正夫は気後れしてしまい、何を離せばいいのかわからなくなってしまった。大切な話しをいつ切り出せば良いのかも分からない。鉄史も正夫に話し掛ける素振りは見せない。そのまま、男二人は黙々と酒を飲み交わし、食事をするばかりだ。気まずいというよりも、淡々と食事が進んでいく。
「今日のお料理は、わたしのお手製よ」と智、「正夫さん。お口に合うかしら」
「うん」と、蚊の鳴くような声で返事をする正夫。
「父さん、おいしい」。「うむ」とうなずく父。
どうにも場は盛り上がらない。正夫は申し訳ない気分でいっぱいである。智は笑顔を絶やさず、かいがいしく場を仕切っている。その姿が正夫を追い込んでいく。そのうちテーブルの上の料理もすっかり片付いてしまった。
「お茶にするね」。智がデザートを用意するために立ち上がった。
「このタイミングだ」と思い、正夫は鉄史をじっと見つめたが、言葉が出てこない。五分ほどしてティーポットとケーキの小皿をお盆に載せて智が戻った。部屋に紅茶の良い香りが広がる。緊迫した空気が僅かに動いたようだ。
「正夫さんからよ」と、父の前に智がケーキの皿を置く。鉄史は正夫に目礼してケーキを食べ始めた。
「相変わらず美味いな」、ポツリと鉄史が言う。鉄史好みのバタークリームを使ったケーキだ。進化したバタークリームは逸品だ。二杯目の紅茶がすっかり冷めた頃、鉄史は正夫に黙って頭を下げると自室へと引き上げた。智もあえて父を呼び止めようとはしなかった。正夫も鉄史の後姿に深々と頭を下げた。正夫は全てが灰燼に帰したと悟った。
 これでは、ただの会食に過ぎない。いや、話しもしていないから会食ですらない。正夫は無口な自分を呪った。彼は、智の表情を気にする余裕もなく黙って立ち上がると、そのまま玄関へと向かった。靴を履きながら蚊の鳴くような声で「ごめん」というのが精一杯で、玄関の扉を開けりと、そのまま外に出て行った。
 門を出て駅への道の半分ほどを歩くと、正夫は、後ろから小走りで近づく足音に気付いた。振り返ると、肩で息をする智が立っていた。
「帰り道、分からないでしょ」と、にっこり笑う彼女。正夫はすまなそうに彼女を見つめる。駅への帰り道、智が静かに話し始めた。
「うちに母がいないことは前に話したわね。実は、父と母は離別なの」彼女は少しいいにくそうに話す。「別れたわけは話してなかったわね」と続けた。
「父は35歳のときに22歳の母と結婚して、すぐにわたしが生まれたの。そして、わたしが5歳のときに二人は分かれたのよ」
「二人が別れた原因は、母に新しい恋人ができたからなの。母と同い年の男だったわ」と彼女が続ける。始めて聞いた話しだった。正夫は、はっとして彼女を見つめた。
「わたし、心変わりなんてする心配ないのに」
「自分の娘が信じられないのかしら。お父さん、失礼ね」と智は苦笑いをした。
「でもねェ、ああ見えて、父は人見知りなのよ」「慣れてくると気さくな人よ」
「わたし、二人を見ていると、可笑しくなっちゃった」
「十月五日は二人の記念日になるかな」、そう言って悪戯っぽく笑う。そんな智の表情も、正夫には皮肉に見えてしまう。智の話しを聞いているうちに駅が見えてきた。
「上りに乗るのよ。一番ホームよ」、
智はそこまでいうと少し口篭もってから、「そうそう、父からの伝言があるわ」と続けた。何だろうと訝る正夫を智が見つめる。正夫は胸騒ぎを覚えた。伝言を聞かなくても結論は出ていると思った。
「あのね」と、智は真顔になり、「父がね、こう言うのよ」
「今度は、酒のつまみになる田舎の名物をもってこい」
「だってさ」とにっこりしながら伝えた。
それを聞くと、正夫は、「ふうーっ」と強く息を吐いた。少し足元がふらつくようだった。
 駅に着くと、智は、二階の改札まで送ってくれた。正夫の姿が見えなくなるまで胸元で手を振っている。改札を抜け、階段をゆっくり降りて一番ホームに立つ。そのとき初めて、今日お世話になった駅名を意識しなかったことに気付いた。朝から緊張し、駅名を確認する余裕も無かった自分に気付き苦笑した。駅名表示には、「希望が丘」とある。
「き ぼ う が お か」、心のうちで駅名を繰り返した。「きぼう・・・」か、正夫は、今日始めて表情を和ませた。
 案内のアナウンスが流れ、ホームには濃紺に身を包んだ上り列車が入線してくる。「ヨコハマネイビーブルー」という色だそうだ。相鉄を象徴する新しいイメージカラーだ。今朝、駅でポスターを見たのを思い出した。ドアが開くと、正夫は軽い足取りで乗り込み、クロスシートに腰をおろした。走り出した車窓から何気なく外に目をやると、遮断機の向こうで無邪気に手を振る智の姿が目に入った。駅前のロータリーは茜色に染まっていた。正夫は、今度訪れるときは、自慢の地酒も持参しよう思った。
 
 
 
 
 

著者

小峰鈴二