「7月7日」小峰鈴二

 友子と徹男は小学校の五、六年と同級だった。友子は小学生にしては背も高くスタイルも良かった。ショートカットの髪、活発でハキハキとしていたので、ボーイッシュな印象の少女だった。運動も得意で目立つ存在だった。徹男は書道や絵画が得意で、教育熱心な母親の存在もあり、勉強もできる方だった。小柄で運動は不得意だが、はっきりものを言う少年だった。二人は六年生のときに席が隣同士になったのがきっかけで話すようになった。妙に気が合い、徹男にとっては、気さくに話せる女子の友達だった。女の子という意識も薄かった。
 春になり、二人は同じ中学校に進級した。中学は一学年が十二クラスもあるマンモス校であった。相鉄線の駅から十数分歩いた丘の上にあった。二人は違うクラスになり、自然と話す機会も減った。入学したての頃の徹男は、校内の書道展や市の絵画展で入賞するなど実力を発揮していた。自分でも自慢であり、母親も同様だったのだろう。
 4月半ば過ぎ、正門の前で下校する徹男の前に、ニコニコしながら友子が近づいてきた。お互い、制服姿も板についていない。
「徹男くん、帽子かしてよ」
「なんでよ」
「いいからかしてよ」
「なんで友ちゃんに帽子貸さなきゃなんないだよ」
そんな会話を交わしていると、不意に友子が学帽を取り上げて走り去った。
「オイ!友子」大きな声で叫んだ。しかし、周りの視線に気付くと、徹男は恥ずかしくなり、友子のあとを追えなかった。翌朝、友子は学帽を返してくれたが、友子と直接話すのは、これが最後になった。
 一年生が終わる頃から徹男の成績が下がり始めた。二年になるとさらに成績は下がり、母親の小言も増えた。成績低下の原因は良く分からなかった。徹男の表情から笑顔が消え、口数も少なくなった。得意だった書道や絵画の評価も下がりが始めた。徹男はますます自信を喪失していき、目立たない生徒の一人になった。
 二年生になっても友子とクラスは違った。夏休み間近のある日、徹男は久しぶりに仲間と談笑する友子を見た。友子は徹男には気付かなかったが、徹男は友子の変化似気付いた。そこには、清楚で大人びた雰囲気に包まれた友子が立っていた。真っ白なブラウスに長身を包み、肩を超えて伸びた髪が初夏の風に揺れていた。制服のスカートの紺色が、白いブラウスとの対比が眩しいばかりだ。鼻筋が通り、大きく涼やかな目、意思を感じる口元。気楽に話していた頃は、その美貌など意識していなかった。徹男は息がつまった。振るわない自分を考えると、惨めで話しかける勇気は持てなかった。
 三年生になると、徹男達も進路の時期を迎えた。生徒の八割は進学を目指しているので、話題は高校に関することが多くなる。仲間とも受験校の話題が増えた。しかし、徹男はその輪を避けるようになった。三年生になり頑張ったつもりだったが、芳しい結果は得られなかった。あっという間に受験日が近づいてきた。遊び仲間は県立トップのK高校を受験するようだ。k高は徹男には無理なレベルだ。彼は惨めな気持ちを押し殺した。この頃、母親との会話は一切なくなっていた。受験校も両親とは相談せずに新設された県立のA高校に決めた。新設校なら評価も定まっておらず、ランク付けもされていないと思ったからだ。この選択は、自分のプライドを保つためだった。
 願書の締め切りが迫ったある日、徹男は廊下で一人の女生徒に呼び止められた。全く知らない女生徒だった。
「君、九組の鈴田徹男くん」
「そうだけど」「あんただれ」訝しがる徹男のことばには全く応じずに。
「教えて欲しいことがあるの」彼女は真剣な表情で続ける。
徹男は彼女の雰囲気に気圧されて無言でうなずく。
「君、どこ受けるの」
「エッ、なに」徹男は質問の意味がわからなかった、少し間を置いて、「なんでそんなこと教えなきゃなんないんだよ」徹男は少し怒りを込めて答えた。
「ある人に頼まれたのよ」
「だれだよ」
「それは絶対にいえないの」
しばらく沈黙が続く。女生徒は諦めるそぶりを見せない。言葉も発さない。だまって徹男を見つめている。彼は、ついに沈黙に耐えられなくなり答えた。
「S高だよ」
「市立S高ね。ありがとう」そういうと彼女は踵を返し歩き去った。
S高校は市立の上位高だ。徹男には安全なレベルではなかった。慎重な担任は,S高の受験に難色を示した。度胸のない徹男はS高の受験を諦めた。女生徒にS高と答えたのも、徹男のくだらないプライドの現われだった。見知らぬ相手にさえ、少しでも自分を良く見せたかったのである。追い込まれた精神状態だった。
 4月になると徹男はA高へ進学した。同級生に顔見知りはいなかった。新設のA高は、皮肉にもK高に校舎を間借りしていた。詰襟が主流の時代、ネクタイにブレザーの制服も皮肉としか感じられなかった。その上、徹男は、高校入学時の健康診断で不治の内臓疾患が見つかり、医者から一生無理はできないと宣告された。もう、全てのことがどうでもよくなっていった。
 A高に進学してまもなく、希望が丘の踏切の向こう側から歩いてくる友子に出会った。友子も徹男に気付いたようであったが、じっとこちらを見ると、プイッと顔をそらし、背を向けて歩き去った。藤沢友子はS高の制服に身を包んでいた。
 この出来事があってから、徹男は友子に見合う人間になろうと必死になった。彼女も作らず、高校の三年間、友子を想い続けた。徹男は高学歴を獲得することを目標に高校生活を送った。それが、友子に見合う自分になることだと信じていたからである。他人から見れば、その姿は滑稽でもあり、哀れでもあっただろう。しかし、徹男はすがるような気持ちだった。名の知れた大学に合格したら、自分も友子に相応しい人間になれるような気がした。大学に合格したら胸を張って友子に連絡しよう。彼は、本気でそう思っていた。彼だけ時が止まっていた。人の気持ちは変わり行くという、簡単な真実にも思いを馳せることもなかった。
 結局、徹男は三流の私大に進むことになった。大学4年間も、心の中を占めていたのは友子の面影だった。大学時代は何事もなく、淡々と過ぎていった。定期健康診断に行くことはやめた。検査結果が治癒につながらないので、ばかばかしくなったのだ。4年生になり就職を考える時期になると、徹男は難関といわれる公務員試験に照準を定めた。公務員なら大学の優劣は無関係と思えたのだ。合格したら、今度こそ勇気を振り絞り、友子に連絡しようと決心した。神奈川県の公務員試験会場でのことだった。中学校の同級生が話し掛けてきた。なんとなく顔は覚えているが、中学時代は付き合いのない男だった。昼食時間だったので、会場のベンチで雑談をしながら一緒に弁当を食べた。別れ際に、その男はこんな話しをした。男の真意はわからない。
 「なぁ、中学時代同級だった藤沢覚えてるか」
 「藤沢友子だよ」
 「ああ」
 「あいつ結婚するらしいぞ」
 「相手は高校の先輩だってよ」
 友子に振られることが恐くて、徹男は自分の気持ちを伝えられなかった。これが、その結末だった。
 ここまで書くと錫来徹司郎は丁寧に原稿用紙を束ねた。そして、原稿の束を手に持つとマッチで火をつけた。原稿の束は、キッチンの狭い洗い場の中で、あっという間に灰となった。彼は薄笑いを浮かべながら、最後まで皮肉な結果だったなと思った。
 徹司郎は都内の小さな商社に勤めている。横浜までは相鉄線を使い通勤している。今日も下車駅の改札を出て、アパートへつながる商店街の坂を歩き始めた。秋になると歩道に黄金の絨毯を敷き詰める銀杏並木も、今は緑の衣装を身に纏い、元気良くその枝を天に向かい突き上げていた。夏の日は暮れたが歩道は熱気を貯めている。徹司郎はアパートへの坂道を、ハンカチで汗を拭きながら上っていた。坂の途中の店先では七夕飾りが揺れている。短冊が夏の生暖かい夕風にゆれている。長い上り坂を登りきり、今度は坂を下り始める。すこし下った先に彼の住むアパートがある。アパートの先をさらに下ると、大池と呼ばれる農業湯のため池がある。現在は、池を中心に整備された自然公園になっている。谷戸の地形と、池の回りを取り巻く林を生かした公園である。横浜らしさを有する自然公園だ。花見の時期、夏のジャズ・フェステバルでは大賑わいだ。この公園は徹司郎も気に入りの空間だ。めったにはないが、休暇を取れたときは、この公園で一日を過ごすこともある。
 「今日は七夕か」歩きながらつぶやく。
 「織姫と彦星は、一年に一回は会えるわけだ」「確実性があるな」
 ほんの五分前の出来事だった。電車を下車しようとして、徹司郎は、ふっと目の前の座席に目をやった。そして、思わず、もう一度、その席を見直した。そこに腰掛けていたのは藤沢友子だった。一目で友子だとわかった。彼女と目が合ったが、友子の表情は変わらなかった。友子は相変わらず美しかった。幸せそうな暮らしをしていることは、その佇まいですぐにわかった。ほんの数秒の出来事だった。発車のベルが鳴るとドアが閉まり、電車はホームを出て行った。友子の姿は、徹司郎の視界からすぐに消え去った。
 終電の常連だった徹司郎は、今日、久しぶりに夕方の電車に乗っていた。早めの帰宅なのは、彼が会社に寄らなかったからだ。それは、数ヶ月前から重ねていた検査の結果が、本日の午後に示されたからだった。長年、重石のように彼を苦しめてきたしゅくあだが、さらに悪化してきた。体調の悪さを無視できずに検査を受けたのだが、最初から芳しくない検査結果が続いていた。そして、とうとう最悪の結末を迎えた。これからは、機械に頼らねば生きていけないらしい。
 徹司郎は思う。これまでの人生で、二者択一を迫られたとき、結果を恐れて選択してこなかった、あるいは、選択ができなかった。もしも自ら選択したのなら、どんな未来を見せてくれたのか。仮に選択したとしても、不正解の方を選択したのではないか。と、ここまで考え、結論の出ない無意味なことと考えていると悟った。徹男は、以前からの考えを決行しようと決心した。これまでの自分に、一気にけりをつけてしまおうと思った。帰りの電車に揺られながら、こんなことを考えていたときに、友子に出会ったのだった。
 二十年以上も利用してきた駅であるが、こんなこともあり、初めて駅名が心に迫った。
「二俣川か」少しばかり運命的なものを感じた。「二つに分かれる流れか」
今の自分はどんな選択をしようとしているのか。いや、今回は選択などしない。徹司郎はそう思う。選択無しの決定だ。これまでの、失敗続きの自分にけりをつけてやる。もう自分には何も残されていないし、先に何の希望もない。選択などする必要もないのだ。彼の眼に見えている「流れ」は、たったの一本きりだ。
 キッチンに立ちこめる煙に、思わずむせ返り、横の小窓を開ける。換気扇は、とっくに壊れていた。小窓から覗くと、薄明かりが射し、夜は明けたようであった。徹司郎はゆっくりと冷蔵庫に歩み寄ると、その扉をそっと開けた。開けた扉の向こうには、良く磨かれたトカレフが、一丁だけ入っていた。開けた扉はそのままにした。徹司郎が勤める商社は、様々な国を相手に商売をしている。中でも、東欧諸国は、主要な取引相手だった。そのような環境でも、さすがに、これを入手するのには骨が折れた。徹司郎は、拳銃を無造作に掴むとタオルで包み、そのままスーパーのビニール袋に押しこんだ。そして、玄関のドアを後ろ手で閉めるとアパートを出て行った。
 今日も良く晴れて暑い一日になりそうだ。早朝の街路には人影もなかった。アスファルトの歩道は熱をオ帯びていたが、前日、あれほど暑かった空気は、思いのほかひんやりとしている。自然公園の樹々は天然のクーラーなのだ。その性能はすばらしい。一晩で熱気を一掃してくれる。徹司郎は、朝の冷気を深々と吸い込むと勢い良く吐き出した。胸の奥がすっきりした。こんなに清清しい気分を味わうのは久しぶりだ。瞬間、この街を意外に好きな自分に気付く。少し遅すぎたようだ。
 朝の気持ちよさが、小学生時代を思い出させた。思い出したのは夏休みのラジオ体操だ。不意に、ツユクサの葉に光る朝露を覗き込む、幼い自分の姿が心に浮かんだ。遠くに体操をする同級生達が見えた。そういえば、体操はせず仲間と話しばかりしていた。ラジオが鳴り止むと、慌てて列に並び、参加カードにスタンプだけ貰った。そのまま家には戻らずに、近くの林へ仲間とクワガタを採りに行ってしまった。空腹を覚えると、慌てて朝食を取りに家へと急いだものだった。そこには、将来に不安など抱かない自分がいた。年をとることなど微塵も考えていない、きらきらとしている自分がいた。弾けるような笑顔だった。
 二俣川の駅が見えてきた。徹司郎は、スーパーの袋を握り締めると、小走りで坂を下り始めた。始発電車に間に合いそうだ。

著者

小峰鈴二