「8時56分発、後ろから2両目」江島ゆう子

 8時56分発、後ろから2両目のこの車両に、僕はいつも乗る。和田町駅でドアが開くと、少し人を吐き出し、そして、たくさんの人をのみ込み、再びドアは閉ざされ進んでゆく。
 離婚して、1年が経とうとしていた。そんな思いで眺める車窓の風景は、心なしかいつもよりくすんで見えた。それはきっと、小雨が降っていたせいだろう。アスファルトが少し濡れている気がした。線路沿いの葉桜は、もうほとんど若葉になっていた。横浜方面へ向かう人々が、今日もガタゴトと小さく揺られ運ばれてゆく。
 この車両の乗客は、もちろん僕が知らない赤の他人ばかりだ。しかし、大体いつもこの車両に乗る人というのは、毎日乗っていると自然に覚えてしまうものだ。管理職であろう白髪混じりの男性、イヤホンをつけている大学生風の青年、ОL、高校生、様々だ。いつもこの車両に乗り合わせる人をしばらく見かけないと、「どうしたのかな?」と、つい思ってしまう。向こうも、僕のことを少し覚えていたりするのかもしれない。
 その日も、ぼんやり考えごとをしながら電車に乗っていた。スマホを、少しだけ見て、バッグのポケットにしまい、何気なく車内を見渡した。いつもより少しだけ空いていた。物思いにふけるのに、電車とはなんとふさわしい場なのだろうか。適度な人の気配は、孤独な悩める僕のような人間を、時として救ってくれる。会社でのトラブルは尽きないし、年の離れた弟は高校を中退してしまった。別れた妻のことも、まだよく思い出す。子供ができなかったのは、結果として良かったのだと、今にして思う。
 と、その瞬間、驚くべき出来事が起きた。いつもこの車両でよく見かける若い女性が、星川駅に着く直前、僕のすぐ横でグラッと体を揺らしたかと思うと、バタッと僕にもたれかかりながら倒れこみ、動かなくなってしまったのだ。急なことでその瞬間うろたえてしまったが、すぐ、近くの人と一緒に、「大丈夫ですか!聞こえますか!」と、声をかけ肩をたたいた。しかし、しばらく声をかけ続けても反応はなかった。「駅員を呼んできます!」と、誰かの叫ぶ声が聞こえた。ぐったりとして力が入っていないその女性の体を支え、僕はただ呼びかけ続けることしかできなかった。このまま死んでしまうのではないか…。一瞬、最悪の事態が頭をよぎった。頭が真っ白になってゆく。名前も知らない誰かが、僕にもたれかかって命を終えるということが、あまりにも唐突過ぎて、これ以上思考することができなかった。
 声をかけ続けて、どのくらい経っただろう。30分位に感じたが、きっと3~4分だったのだろうと思う。その女性は、うっすら目を開けた。「はあ、よかった…!」僕は、心底そう思った。その女性は、ぼんやりしたまま僕を見た。顔色が悪いなと思った次の瞬間、
「うっ…。」
 その女性は、僕にもたれかかったまま嘔吐した。僕はとっさにハンカチをとりだし、彼女の口元をぬぐった。もう僕は、何も考えられなかった。僕の冷や汗は止まらず、シャツがびっしょり濡れていたことだけは、今も覚えている。その時、駅員が駆けつけてくれた。人々が少しざわめき、サーッと駅員を避けてゆく。その女性は、電車から手際よく運び出されていった。駅員が、僕にも何か言っていたが、うまく答えられなかった。緊迫する空気の中、急病人がいることを知らせるアナウンスが鳴り響いていた。
 嘔吐物は片付けられ、運転再開のアナウンスが流れた。そのまま乗車し続けることもできたが、少し手が汚れていたので、その駅で降りて手を洗い、次に来た電車に乗り込んだ。彼女は大丈夫だろうか。知らない人だが、知っている人だ。気になったまま、いつものように僕は出社した。
 次の日、いつのも電車に乗った。しかし、彼女はいなかった。次の日も、その次の日も。結局、それからずっと、彼女をこの車両で見かけることはなくなった。
 秋が来て、冬が来て、そしてまた、春がやってきた。今までよくこの車両に乗っていた年配の男性を、4月から見かけなくなった。その代わり、この車両に毎日乗ることにしたらしい新入生たちが、何人か加わっていた。彼らもまた、スマホで音楽を聴いているようだった。一体、どんな音楽を聴いているのだろうか、とふと思った。僕がまったく知らない音楽を聴きながら、毎日揺られているのだろうと、勝手に僕は決めつけ納得した。
 あの時の倒れた女性を、ふと思い出すこともあったが、だんだん記憶は薄れていった。それにつれて、僕の抱えていた仕事の悩みは、少しずつ解決していった。部署が移動になり、仕事のトラブルを一旦リセットすることができた。弟は、定時制高校に行き始め、バイトを始め、少しずつ彼の時間を取り戻していた。別れた妻のことは、だんだん過去のことになっていき、思い出すことが少なくなっていった。
 ある朝、電車で天気とニュースをチェックしていた時、小さな子供を抱っこ紐でかかえている女性に、突然声をかけられた。
「あの、失礼ですが…。」
 知人ではなかった。
「はい?」
 どこかで見たことあるような気がした。
「一年ほど前、私、この電車で倒れてしまったんです。その時、助けてくださった方じゃありませんか?」
 硬い表情で、その女性は僕に尋ねた。
「え?あっ…」
 あの日、あの瞬間の映像が、よみがえってきた。そうだ、この女性は、いつもこの車両にのっていた、あの倒れた女性だった。髪も、服装も、かつての彼女とは違うけれど。だんだん思い出した、そうだ、彼女だ、と、確信した。
「あ、はい…。」
 僕は、うまく言葉が出てこなかった。
「あぁ!やっぱり!」
 彼女の顔が、少し緩んだ。
「あの日、気づいたときに私を支えてくれていた人が、同じ車両にいつも乗っていた方だと、うっすら覚えていて。失礼かと思ったのですが、あの、一言お礼を言いたくて…」
 小さな声でそう言い、彼女はまた微笑んだ。僕の知っている彼女は、無表情だったから、笑うとこんなに雰囲気が変わることに少し驚いた。
「あの…、あの後、大丈夫でしたか?」
 とても気がかりだったことを思い出した。
「はい。おかげさまで大丈夫でした。実は、あの後、しばらく入院したんです。」
「え?」
 僕は、あの時の冷や汗を思い出していた。
「あの時、私、妊娠初期で、早期流産しかかっていたんです。貧血もひどくて。でも、すぐ病院で処置をしたので、大事に至らずに済んだんです。ほら、この子、ちょっと小さめだったんですが、ちゃんと元気に生まれたんですよ。本当にありがとうございました。」
 彼女は、頭を下げ、そして、小さな赤ん坊の顔を僕に向けた。目を閉じて静かに眠っていた。
「この子が、お腹にいたんですか。」
「はい。今は、産休中なんですよ。一人親だから、がんばって働かないといけないんです。」
 彼女は明るい声でそう言った。
「そうですか。」
 とても不思議な気分だった。今から会社に行くというのに、どこか違う世界へ向かっているような気がした。
「あの…。ハンカチ、貸していただきありがとうございました。汚してしまったので、似ているハンカチを買ったのですが…。」
 彼女は、綺麗にラッピングされた小さな青い包みを僕に差し出した。
「わざわざ、いいのに…。」
 と、僕は言ったが、彼女は、僕にこのハンカチを渡せることが、とても嬉しく満足そうに見えた。なので、礼を言って受け取ることにした。彼女は、僕が受け取ると、小さくお辞儀した。そして、こう続けた。
「こんなこと、急に言われても、ご迷惑かもしれないのですが、今度うちの店に、一度食べに来ていただけませんか?ぜひ、ご馳走させてください。」
「いや、いいですよ、気になさらないで下さい。」
 こんなこと言われると思っていなかったので、僕は遠慮することしかできなかった。
「あの、ご都合よいときでいいんです、ぜひ来てください。これ、お渡ししておきます。天王町にある、結構おいしい店なんですよ。お待ちしています。」
 手渡されたオレンジ色の綺麗なカードには、店の名前と場所が書かれていた。彼女は、通勤中に急に声をかけたことを詫び、会社に向かう僕と横浜駅で別れた。彼女は、僕が店に来るという前提で別れる間際までしゃべっていた。この流れだと、行くのが自然なのかもしれない。
 僕は、横浜駅から出て、人の波に乗り、会社に向かった。遠くに見える桜の花は、ちょうど五部咲きだろうか、少しだけピンク色に色づいていた。僕の新しいタームが始まったのかもしれない、そう少しだけ思うことができた。オレンジ色のカードを胸ポケットに入れた僕は、少しいつもより早足でオフィスに向かった。(完)

著者

江島ゆう子