「52,596,000分の朝と夜」新井爽月

 沙織は、電車に揺られながら、チラとスマ―トフォンの待ち受け画面を見た。
 二十二時二十二分。偶然だが、見事なゾロ目だ。今夜はいつもより、だいぶ帰りが遅い。
 でも、母には、つい先ほど、手短にメールで連絡を入れておいたので、心配ないはずだ。
 沙織は、手にしていたスマホをバッグの中にしまい、乗車口の扉に寄りかかるようにして、その場に立った。
 金曜の夜だからかもしれない。車内は、どこも、いい感じに混みあっていた。会社勤めの人もいれば、自分と同じくらいの年恰好をした学生らしき姿も、ちらほら見てとれた。
 沙織は、電車の揺れを感じながら、扉の向こう側を見つめた。
 線路沿いに立ち並ぶ、幾つもの高層マンションと、色とりどりに輝く店の看板。  
 大学への行き帰り、何度となく目にしている風景が、今夜は少しだけ違って見える。
 日の出ている時間に見る風景と、日が完全に落ちてからの風景は、こんなにも印象が異なって見えるものなのだ。
 カタタン。カタタン。
 扉の向こう側から、車輪の音がする。
 普段はそれほど、音なんて気にしないのに、扉に身を寄せているせいかもしれない。
 夜の闇を走り抜ける銀色の車両が、目に見えるような気がした。
 車内アナウンスが頭上の辺りで鳴り響いた。
 ようやく上星川の駅だ。
 電車は、ゆっくりとスピードを緩め、駅のホームに滑り込んでいった。
 目の前で乗車口の扉が開く。熱のこもった車内とは違い、外の風は、やけに冷たく感じられた。
「さぶっ」
 沙織は、ホームに降り立ってすぐ、コートを体に巻きつけた。頬だけがうっすらと熱く感じられるのは、お酒に酔っているせいだ。
 二十歳になってから、初めて飲んだお酒の味は、苦味と甘味の二つを味わった。
 ビールは苦くて、それほど美味しいと思えなかったけれど、二杯目に頼んだカクテルは、甘酸っぱくて、口当たりも良く、ついつい調子に乗って飲んでしまったのだ。
(早く、家に帰ろ。まだ、バス間に合うかな)
 改札へと続く階段を上りながら、ふと、目の前を行く人に、見慣れた何かを感じた。
 らくだ色のウールのジャケットに、灰色のズボン。腰の辺りにしっかりと巻き付けた黒色のウエストポーチ。
「……じいじ? 今、帰りなの?」
 沙織は、ほんの少し前を歩いていた祖父に追いつき、階段の途中で声をかけた。
 祖父は、沙織に声をかけられ、思いの外、驚いたみたいだった。まだ、後ろから上ってくる人がいるにも関わらず、祖父は、「おうっ」と大きな声をあげ、その場で立ち止まってしまったのだ。
「なんだ。びっくりしたなぁ。おまえも今、帰りなのか?」
 沙織は、祖父の腕を自然につかんでいた。ぐらついて、倒れでもしたら大変と、体が勝手に反応していたのだ。
「うん。今日はちょっと遅くなっちゃって。じいじと駅で会うなんて珍しいね」
 沙織と祖父は、再び階段を上り始めた。
 電車はとっくにホームを離れ、次の駅へと向かっているはずだ。
「久しぶりに、勤めてた頃の連中と、東京で一杯やろうやってことになってな。ついつい、いい気分になって、飲みすぎちまった。やつらもみんな、今じゃあ立派なじいさんだよ。どいつもこいつも、じじいばっかりで。笑っちまうよな」
 祖父は、改札の手前で足を止め、赤らんだ顔を沙織に向けた。沙織も多少酔っているが、祖父はどうも、沙織以上にお酒が回っているようだ。頬だけでなく、耳までも真っ赤で、声もかなり大きい。
「もしかして、切符探してるの? じいじ」
「ああ? 確かこの辺に突っ込んだはずなんだが……。どこに、しまい込んだもんか」
 祖父は、黒い革製のウエストポーチの中に手を突っ込み、ガサガサといろいろなものを引っ張り出した。ハンカチにちり紙。黒糖の飴玉に、保険証。使い古した小銭入れ。
 どれもこれも、祖父の物に間違いないが、肝心の切符が出てこない。沙織は、自分が代わりに切符を探すからと、祖父のポーチを預からせてもらった。
(無いなあ……。レシートとかメモとか、全然関係ない紙切ればっかり)
 沙織は、すっかり酔いが醒めた気がした。
 サークルの仲間と過ごした、にぎやかで楽しいひと時が、一瞬にして、リアルな現実に塗り替えられていく。
「沙織! あったぞ、あった!」
 祖父は、勢いよく沙織の肩を叩いた。どうも祖父は、上着のポケットの中に切符をしまい込んでいたようだ。
 祖父は、普段からあまり、探し物が得意な方ではなく、常に何かを探して歩いているようなところがあるのだ。
「んも~。人騒がせだなあ……」
 沙織は、ポシェットの中に物をしまい直し、祖父に手渡した。改札前の時計が、二十二時三十五分を指している。
「やば。終バス、もう行っちゃったかもしれない」
 沙織は、祖父の背を押しながら、急いで駅の改札をすり抜けていった。
「あーあ。やっぱ、間に合わなかった」
 駅前のバスロータリーに、降り立ったものの、そこにはもう、発車待ちのバスなど、どこにもなかった。沙織が普段利用している路線は、二十分以上前に最終のバスが、この場を後にしていたのだ。
「……行っちゃったもんは仕方ないね。タクシーで帰ろうか」
 沙織は、バッグの中をあさり、財布の中身を確認した。深夜料金で乗るにしても、ここからならば、千円以内で自宅に着けるはずだ。
「何、言ってるんだ。沙織。タクシーなんてもったいない。歩くぞ」
「えっ。ウソでしょ?」
 沙織の返事を待たずして、祖父は、すたすたと歩き始めた。駅を出てすぐのところに広がる国道十六号を進み、長い長い坂道を歩いて帰ろうと言うのだ。
「ちょ……。ちょっと待ってよ。無理だって」
 沙織は、祖父の後を追いかけ、何とか引き留めようとした。けれど、祖父の勢いは止まらない。先ほどまで、あんなに酔っぱらっていたのがウソのように、アスファルトの歩道をずんずんと突き進んでいる。
「こんなに綺麗な月夜の晩に、歩かないなんて、ソンだろ。月見をしながらの散歩だよ」
 祖父は、顎をくいと上げ、頭上に輝くまん丸のお月さまを指し示した。
「ホントだ。満月なんだ? 今日って」
 沙織も、祖父と同じく空を見上げながら、呟いた。日中もよく晴れていたせいか、今夜はやけに、月が綺麗に見える。
「中秋の名月だ。今日はまだ、十三夜だな」
 祖父は、ぼそりと口にした。いつもならば、バスであっという間に通り過ぎる道を、祖父と二人で、とことこと歩き続けた。
「十三夜ってことは、もうすぐ十五夜?」
 祖父は、こくりと頷いた。目の前に緩く長い坂道が迫る。
「沙織たちが小さかった頃は、よく、ばあさんがダンゴを作っただろ?」
「うん。覚えてる。甘辛いタレをからめて、食べたよね」
 沙織は、祖母がこしらえてくれたダンゴの味を思い返した。歯ごたえのある、もちもちとしたダンゴで、噛んでも噛んでも、しっかりとした弾力があった。
「そういえば、玄関にススキ飾ってあったね」
「ああ。ススキだけな。ダンゴは買い忘れたから、明日以降に持ち越しだ」 
 沙織は、祖父の背中を見つめながら、坂を上り始めた。小、中と地元の学校に通っていた頃は、この坂道を歩くのなんて、全然へっちゃらだったのに。
 高校、大学と学年が上がるにつれ、こんな長い坂、歩きでなんて上れないと、拒み続けてきたのだ。
「……じいじ。しんどくないの?」
「平気だよ。このくらい、なんてことない」
 強がりではなく、本気で言っているようだと沙織は思った。祖父の足取りは、沙織より、よほどしっかりしているし、前へ前へと進むリズムも正確だったからだ。
「はぁ……。はぁ……」
 坂を上り始めてまだそれほど経っていないというのに、沙織は息が上がり始めた。何度となく肩で呼吸をくり返し、行く手に続く長い坂道をうらめしく思った。
「大丈夫か? 沙織」
 道の途中で、祖父が後ろをふり返った。
「大丈夫じゃ、ない。マジ、しんどい」
 沙織は、息も絶え絶えに、何とかこう口にした。肌寒さを感じていたのがウソのように、体中が熱を帯びていた。
「運動不足だな。そんなことじゃ、わしみたいに、長生きできんぞ」
 祖父は、沙織を見て、カハッと笑った。
 八十歳の祖父に、二十歳の沙織が心配されるなんて、なんとも情けない話だ。
「じいじなら、百歳でも、余裕そうだね」
 沙織は、嫌味ではなく、本気でそう思った。
 祖父は、ほとんど風邪も引かないし、足腰もかなり丈夫なのだ。
 長く緩い坂道を一本越えたところで、比較的、平らな道が開けた。自宅への道のりは、このまま真っすぐバス通り沿いを歩いて帰ることもできるし、住宅街を抜け、細い道を歩いて帰ることもできた。
「沙織。どっちの道で、帰りたい?」
「えっと……。このまま真っすぐ? あー、でも。やっぱ、その角を左かな?」
 沙織が選んだのは、住宅街を抜け、病院の裏手を行くルートだった。どちらを選んでも坂は避けられないけれど、バス通りとは違う風景をたまには、見てみたいと思ったのだ。
 祖父と沙織は、信号の角を左に曲がり、傾斜のきつい坂道を上り始めた。
 右手にも左手にも家が立ち並ぶこの辺りは、道幅もかなり狭い。けれど、ひとたび、坂を超えれば、その後は平らな道が続くため、多少遠回りをしても、息が上がることなく、歩くことが出来るのだ。
「この辺にも、ススキって結構、生えてるんだね」
 沙織は、外灯の少ない通りを歩きながら、道端の草木に目を向けた。ススキは月明かりの下、静かに黄金の穂を揺らしていた。
「たまには、いいもんだろ。夜の散歩も」
 祖父は、得意気に胸を反らした。
 どこからか金木犀の香りが漂ってくる。
 甘くて強い、花の香りだ。
「この辺を散歩するなんて、最近はほとんど、したことなかったな」
 沙織は、ひとりごとのようにぼそりと呟いた。ついこの間まで、暑い暑いと、うわ言のように繰り返していたのに、季節はいつの間にか、秋色を強めていたのだ。
「体を動かすとな、運がついてくるぞ。沙織。ただじっと待っているだけじゃなしに、自分が動くことで、運を味方につけるんだ」
「運か……。そう言われると、何か気になるかも」
 前方から、一台の車がライトを照らしながらやってきた。あまりの眩しさに、一瞬、目を背ける。祖父は、そんな沙織を守るように、歩道のない狭い道で体を張ってくれた。
「大学はどうだ? いい仲間ができたか?」
「うん。結構楽しいよ。今日も、サークルのみんなと、盛り上がったし」
 沙織は、不思議な気分になった。
 年寄りの言うことなんて、お説教ばかりだと煙たく思っていたのに。
 今夜は、自分でもびっくりするくらい、やけに素直に会話ができた。祖父が一緒にいてくれることが、心地良かったのだ。
「寄り道ついでに、羽沢の駅も見ていくか」
「羽沢の駅って……。貨物しか通っていないんじゃなかったっけ?」
 祖父は、首を小さく左右に振り、外灯の下で笑みを浮かべた。
「まだ工事している途中みたいだけどな。このところ、ずいぶん、様変わりしてるから、たまには、見てみるといい。あの辺りの様子もな」
 確かに、祖父の言う通り、羽沢の貨物駅の辺りにまで足を向けることはほとんどなかった。母や父が運転する車に乗って出かける際、線路沿いの道を、ちらりと通り過ぎるだけだ。
「見て、見ようかな。せっかくだから」
「そうか。そうだな。それがいい」
 祖父がこう返事をしたのと同時に、「ポーッ」と、唐突に、甲高い音が鳴り響いた。
 多分、今、耳にしたのは貨物列車が通過する時の音だ。
 沙織がまだ幼かった頃、祖父や祖母に手を引かれ、大丸橋から見える線路や列車をよく見に行ったのを思い出した。
「今の音ってさ。船の汽笛みたいに聞こえるよね?」
「ああ。ここからだと、さすがに海は見えないけどな。不思議と、海を感じるような音に聞こえるもんだ」
 沙織と祖父は、互いに顔を見合わせ、ふっと頬を緩めた。一刻も早く家に帰るはずが、祖父と共に、だいぶ遠回りして、羽沢の辺りまでたどり着いていた。
 青色をしたアーチ状の短い橋から、線路が見える。大丸橋は、今も昔も、変わっていなかった。小さくて短いけれど、橋の下に線路が走っている。
 幾つものコンテナを載せた貨物列車が、ゴトゴトと、この線路の上を重たそうに走っていくのだ。
「沙織。こっちだ」
 大丸橋から動こうとしない沙織に対し、祖父は、さらにその先を指さした。
 祖父が、案内してくれたのは、線路の様子が、より良く見ることができる跨線橋だった。
「すごい……。あんな遠くの方までずうっと、工事が進んでるんだ」
 高い位置から見渡す羽沢駅周辺は、深夜にも関わらず、幾つもの明かりで照らされていた。特に目につくものなど何もなかったはずの場所に、真新しい建物や道路ができている。
 あと、何年かすれば、新しい駅がここにできるのだと、小さい頃から何度となく聞いていたけれど。
 何年か先というのが、いったい、いつになるのか。それは、どのくらいで実現するものなのか、沙織は、ほとんど、わかっていなかった。
「どうだ? いよいよって気がしてきただろう? ここに新しい駅ができるって」
 祖父は、跨線橋の左右を囲む鉄網の合間から、遥か先を見つめるような顔をしながら、言った。
「新しく駅ができるなら、ますます長生きしなきゃじゃん。じいじ」
「はは。確かに、そうだな。ここに駅ができれば、ますます便利になって、楽しいことも増える。今日みたいに、あんな長い坂を上ることもなくなるんだからな」
 祖父は、まるで子どものように目を輝かせ、にこりと笑った。沙織は、その笑顔を見て、ふと、あることを思い立った。
 祖父と沙織の年齢を足すと、ちょうど百歳になる、と。
 百年前のこの辺りは、いったい、どんな様子だったのだろう。沙織はもちろんのこと、父も母もまだ、生まれていない頃だ。祖父でさえ、この世に生まれていない頃の時代。
 人々は、何を思い、どんな希望を持って、明日を夢見ていたのか。
 沙織は、バッグの中からスマートフォンを取り出し、素早い動きで画面を操作し始めた。
 沙織の手の中で、小さな長方形の画面が、光を放つ。沙織は、画面の上に指を滑らせ、慣れた手つきで、ピピピと、電卓をはじいていった。
「わかったよ。じいじ」
「わかったって、何のことだ?」
 祖父は、沙織の手の中をのぞき込みながら言った。スマートフォンの画面には、何桁もの数字がずらりと並んだままだ。
「あのね、百年って、36,500日じゃない? 単純に計算すると」
「んー。まあ……、そういうことになるな」
「うん。だからね。そこから計算して、百年が何時間と何分になるのか、出してみたの」
 祖父は、「ほお」と気の抜けた声を上げ、何度かまばたきをした。沙織が言いたいことが、よくわからない、とでも言いたげな顔だ。
「四年に一度、うるう年があることも、ちゃんと考えて計算し直したんだけどね。百年ってなると、876,000時間にもなるんだよ。分で表すと、さらにややこしくて、52,596,000分になるの。ね、すごくない? 五千二百五十九万六千分だよ? あたしとじいじが生きてきた時間を足しただけで、こんな、とんでもない数字になるなんてさ」
 画面に映し出された数字は、あまりにも大きすぎて、想像することすら、できないくらいだった。
 五千二百五十九万六千分だなんて。
 どれだけの朝と夜を超え、たどり着くことができるものなのだろうか。
「何をしているのかと思ったら。随分、変わったことを考えるもんだな。お前ってやつは」
「へへ。これでも一応、リケ女だからね」
 沙織の返事を聞き、祖父は、眩しそうに目を細めた。目尻の辺りと頬の周りに、幾つもの細かい皺が見える。
「そこまできっちり計算してもらったなら、ちゃんと百歳まで長生きしなきゃだな」
 祖父は、ますます、目を細くした。
 すると、沙織の手の中で、ブブブといきなり、スマートフォンが振動し始めた。
「電話だ。お母さんから」
 沙織は、画面にタッチし、母からの着信に応答した。今から帰ると連絡したはずなのに、一向に帰ってこないことを、母は、心配してくれていたのだ。
「ゴメン。今ね、おじいちゃんと一緒にいるんだ。え? うん。家の近所だよ。大丈夫。すぐに帰るから。うん。じゃあね」
 沙織は、電話を切った途端、ふふふと笑い出した。跨線橋の上から見える月が、白銀に光って、とても美しかった。
「帰ろっか。じいじ」
「そうだな。だいぶ、寄り道したからな」
 沙織と祖父は、二人並んでゆっくりと歩き始めた。
 沙織にとっての百年は、まだまだ先だけれど、今夜のことは、これから先も多分、忘れることがないような気がした。
 きっとまた、明日になれば、朝が来て、いつものように夜を迎える。
 でも、思いがけず今日、特別な夜を過ごせたように、明日も明後日もまた、自分にとって、特別な一日にできるかもしれない。
 どんな朝を迎え、どんな夜を過ごすかは、自分次第なのだと、沙織は思った。
「たまには、寄り道もしてみるもんだね」
 沙織は、ひとりごとのように呟いた。
 自宅へと続く道のりを、月明かりが、優しく照らし続けていた。 
                  (完) 

著者

新井爽月