「Boy Meets Girl ~ 思い出の電車に乗って」大将海老

 9月初めの週末、久しぶりに、両親の住む実家に帰ることとなった。といっても、飛行機や新幹線で遠方まで帰省するわけではなく、相鉄線に乗り三駅目の希望ヶ丘である。
 最寄駅から綺麗なネイビーブルーに塗り直した9000系車両の各停電車に乗り、二俣川で海老名行の急行電車に乗り換える。今度は、少し薄汚れたシルバーの7000系車両がすべりこんできた。昭和50年代後半の製造だろうか、自分が小学生の頃からさんざんお世話になってきた、年季の入った車両である。
 ドアが開き車内に入ると、朱色のロングシートの座席は横浜からの帰途の人々で埋まっていた。仕方なく進行方向左側の両開きのドアの脇に立ち、左の肩をドアに軽くもたせ掛けながら、列車の揺れに身を任せる。
 二俣川を出て、ゆっくりと右手にカーブを切った電車は、分岐して左前方に上っていくいずみ野線の高架の下をくぐると、直線区間に入りぐんぐんと加速する。窓の外では、黒ずんだ小高い崖とその上に並び立つ小さな家々という平凡な風景が流れて去っていく。
 ふと、車内を見渡す。壁は少し模様がかった薄いセピア色をしていた。昔は、ピカピカのクリーム色だったと思う。いろいろな人の思い出が染みついたのだろうか。
 直線を走ること1分弱、左手の崖にへばりつくように建つ大きなコンクリートの壁のような集合住宅が現れると、昔も今も変わらずこれを目印にしているかのように、「間もなく希望ヶ丘、希望ヶ丘です」というアナウンスが流れる。同時に、電車は減速しながら右手に大きくカーブを切り始める。
 やがて、左手の視界を覆っていた小高い崖と家々が切れて、突然、青い空とぎらぎらと輝く昼下がりの太陽が現れた。まぶしさに思わず窓から顔をそむけた瞬間、目の前で一人の高校生の女の子がドアに正対して立っていることに気付いた。白いワイシャツに、膝丈より少し短めの紺色の制服のスカート、黒いリュックを背負い、毛先に少しパーマのかかったストレートの髪を肩先まで伸ばしている。
「うちの高校の後輩?」
 ちょっと大きな瞳をしたその女の子の横顔をちらっと見た瞬間、まるで車内の壁から剥がれ落ちた小さな思い出の1コマが、窓からきらきらと差し込んでくる太陽光線で大きく映射されたかのように、忘れかけていたあの時の光景が突然心の中に浮かび上がった。ちょうど25年前の同じ9月のはじめ、あの甘酸っぱいような、ほろ苦いような、思い出のシーンが。そして、大人の階段を登りはじめていたあのころの自分を思い出していた。
 
 話は、「25年前」のさらに2年前、高校2年生の頃にさかのぼる。
 私は、「4年生」、すなわち予備校生になるまで、通学で相鉄線のお世話にはなっていない。高校は、自宅から歩いて15分ほどの距離にあるK高校に通った。
 希望ヶ丘は、戦後山を切り拓いてできた横浜西部のベッドタウン、文字通り「丘の街」である。実家からは、急坂を駅まで下り、駅の左脇で相鉄線の踏切を超え、また坂を登ってひと山越え、ようやく高校の正門にたどり着く。正門を抜け、うっそうとした林の中をうねうねと曲がりくねった短い坂を登りきると、右手に古ぼけた体育館とその奥の校舎、左手に大きく開けたグラウンドが現れる。記憶に焼きついた通学風景である。
 実は、Kは第一志望の高校ではなかった。旧制中学の流れをくむ名門校で、このエリアの学区では最難関校と言われていたが、その一方で、受験指導の類はもちろんのこと、制服や校則も一切なしという自由な共学校であったから、多くの生徒は勉強そっちのけで3年間青春を謳歌し、大半の生徒が卒業後予備校にお世話になるという評判だった。
 元来口べたで人の輪に加わるのが苦手だった私は、中学時代、身長も低く、目立たない存在だった。真面目に勉強するだけが取り柄で、Kは自分には合わないと思い、別の進学校を目指したが結局Kに入ることとなった。
 入学時、私は、またまじめに勉強するだけの3年間を想像した。
 ところが、その後、予想もしていなかったことが次々と起きていく。私は、まるで見えない何かに背中を押されるかのように、実は心の片隅で憧れていた「青春ドラマ」の世界にちょっぴり足を踏み入れることになる。
 
 評判どおりの学校だった。自由な校風の中、学校行事に、部活動に、一部は男女交際に・・とみんな青春時代を謳歌していた。男女比はほぼ1:1、元気いっぱいでちょっと個性的なやつが多く、教室の中では男子と女子が仲良くワイワイガヤガヤやっていて、とにかくいつも「お祭り状態」だった。
 そんな周囲に背を向けるかのように、私は、黙々と授業を受け、授業が終われば部活動に精を出すクラスメートを尻目に、一目散に帰って勉強した。学園祭などの行事にもあまり積極的に参加しなかった。
 1年生が終了し、2年生になったところで、ちょっとした異変が起きた。
 人の輪の中に入っていくのがもともと苦手な私は、新しいクラスに当初全くなじめず、完全に「浮いた」状態となった。当時のK高校は、男女が隣り合わせに座り、3週間に1回ぐらいのペースで席替えをしていくのがルールだったが、周りではみんな隣り合った男女がきゃっきゃっと会話を交わしているのに、自分と隣の女の子はほとんど会話がなく、次第に「暗いやつ」と遠巻きにされるようになっていった。1学期が終わろうという時期になっても、クラスの誰ともろくに会話が成立しなかった。
 帰り道は、いつも暗い気持ちで、一人とぼとぼと駅まで続く下り坂を歩いていた。駅前の小さなロータリーを突っ切り、相鉄線の踏切を渡ろうとすると、警報音とともに遮断器がゆっくりと閉まり出した。
「この高校はやっぱり自分には合わない」
 目の前を、若草色の下り電車が減速しながら左脇の駅の下りホームにすべり込んでいく。そして、今度は、向こう側の上りホームに電車が入ってきた。まるで、殻を破れずに行き詰まっている自分を象徴するかのように、いつまで経っても目の前の遮断器は開いてくれなかった。

 そんな中、密かにある女の子の存在が気になり出していた。銀縁眼鏡をかけ、髪は肩より少し短いおかっぱ頭、背丈はまあ普通。眼鏡と髪型がちょっと子供っぽい雰囲気と相まって、ごくごく地味な「まじめちゃん」という印象を作り上げていた。標準服と呼ばれる白ワイシャツ、紺のベスト、ひざ下までの紺の折り目のついたスカートをはいていて、運動部のジャージ姿だったり派手な色の私服だったりという元気いっぱいの「動」の女の子達とは好対照の「静」の雰囲気を醸し出していた。ただ、自分のように孤立しているということはなく、ちゃんとクラスに溶け込んでいた。
 そんな彼女の横顔を、授業中本人に気付かれないように、ちらちらと見た。ちょっと猫のような大きな瞳をしていて、あの眼鏡を外したらかなりかわいいんじゃないかなと勝手に想像を巡らせた。
 けれど、結局のところ、「同じクラスの普通の女の子」以上ではなかった。夏休みを過ぎるまでは。
 
 高校の卒業アルバムに、1~3年生の春に撮った各クラスの集合写真が載っている。1年生の時はみんなまだあどけなさが残っているけど、3年生になると、もういっぱしの大人みたいな顔をしている。特に、高校2年生は、急激に大人への階段を登っていく時期だったのだろうと思う。そう、彼女も、そして私も。
 夏休み明け、窓側の席に座る彼女をちらっと見ると、顔の真ん中から眼鏡が消えていた。そして、肩先まで伸びた髪の毛に軽くパーマがかかっていて、少し大人びた雰囲気に変わっていた。時々瞳をまばたかせながら、細い指で髪の毛先をもて遊んでいる。
「かわいい・・」
 私は見事に一目ぼれしてしまった。他にも、感電してしまった連中が何人かいたようで、休み時間に彼女を取り巻く男性軍の数が目に見えて増えていった。
 そして、「運命の神様」は、私の背中を「ぐい!」と押してきた。ほどなく、クラスの席替えがあり、彼女と私は隣り合わせで座ることとなったのである。
 席替えをした当日、3時間目が始まる何分か前だったと思う、勇気を振り絞っておずおずと私は彼女に話しかけた。
「えーっと、どこに住んでるんだっけ?」
 当惑気味な反応を予想した自分の意に反し、彼女は大きな瞳でまっすぐに私の目を見ながら、きちんと答えを返してきた。
「うん、W台なの」
 W台団地は三ツ境駅までバス・・、途中の国道246号で朝の大渋滞に巻き込まれ・・、会話を続けたい一心で、また一生懸命話しかける。
「それじゃあ、朝遅れちゃったりするんだ」
「そうなのよ、バスがよく遅れちゃって。大変なの」
 彼女はとても誠実な人だった。とつとつとした自分の下手な話しかけもすべて真正面で受け止めてくれて、きちんとボールを投げ返してくれた。あれ・・、はじめは驚きと喜び、そして次第に自信が胸いっぱいに広がった。私は、人が変わったように一生懸命彼女に話しかけ、ふたりの会話が続いた。
 一日が終わると、私は、彼女の満開の魅力にヘロヘロにされていた。学校から帰って机に向かっても、その日どんな話をしたのか、その時彼女がどんな様子だったかをいちいちおさらいして、ひとりでにやにやしてしまう。目の前の参考書の中身は何も頭に入ってこないし、手に持ったシャーペンはピクリとも動いてくれなかった。
 さて、ある日、授業が始まっているのに気付かないまま、彼女との会話に夢中になっていた私は、「こらっ」と英語の先生に怒られた。ふたりは一番前の席に座っていたから、この様子はたちまちクラスメート全員の知るところとなり、驚きのニュースとなって教室中を駆け巡った。
 これが思わぬ効果をもたらした。クラスの男子連中が私のところに寄ってくるようになった。へえー、こいつも女の子に夢中になるんだ、と親近感を持ち出したんだと思う。
「楽しそうじゃん」
「いやいやいや・・・」
 彼らがちょっかいを出すたび、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら大まじめに否定する自分のリアクションに笑いが起きた。少しずつではあるが、私はクラスメートの輪の中に入っていくようになった。
 そして、また信じられない力をもらった、もう一つの「事件」が起こった。
 冬休みを目前にした12月初旬の球技大会、私は、じゃんけんに負けて人数がなかなか埋まらない男子サッカーに組み入れられた。あまりスポーツが得意でない私を、誰も戦力とは期待していない様子で、とりあえず右サイドのバックスにされた。
 グラウンドの周りの桜並木は、いつの間にかすっかり葉を落としていた。試合直前、浮かない気分でだらだらと練習していた私の後頭部を、どこかから飛んできたボールが直撃した。いま思い返すと、「神様」が「しっかりしろ!」と私にボールを投げつけたとしか思えない。
「いてっ」
 うまい具合に私の心にスイッチが入った。
「このやろう」
 熱い何かが急に胸の中に湧いてきた。試合開始と同時に、攻め上がってくる相手の3年生に猛然と挑んでいた。何度も、ボールを奪い、クリアした。サイドライン沿いに一列に並んで応援しているクラスメートたちから驚きの歓声が上がり始めていた。
 そして、後半の終わり頃だったろうか、サッカー部元主将の相手フォワードが味方を次々とかわしてひとり抜け出し、シュートを放とうとしていた。絶体絶命のピンチだった。
 私は左斜め後方にいた。ふわっと体が浮いた感じで、自分の足が勝手に動いて行った。するすると相手の後方から忍び寄ると、体を寄せてボールを奪い、右横にクリアした。応援していた女の子たちの悲鳴が黄色い大歓声に変わった。試合には負けたが、私個人は、またしても意外な形でスポットライトを浴びることとなった。
「トオル、おまえ、おいしいとこ全部持ってきやがって」
 これ以降、クラスメートは、私を一目置く存在として認めてくれるようになった。自信を持つようになった私は、周囲の仲間たちにどことなく背を向けてきた自分の凍った心がどんどん溶けていくのを感じた。
 
 3年生になり、新しいクラスになった。彼女とは・・、なんと同じクラスになった。またもや、「神様」が背中を押していた。2年生の頃より少しだけスマートな印象になった彼女は、なにやら大人びた色っぽさを匂わせ始めていた。数人の男子が新学期早々攻撃を開始していた。
 私は、2年生の時に身長が10センチ以上も伸びて170センチ近くになり、いつのまにか「若者」の顔になっていた。相変わらず口数は少なかったが、もうクラスで完全に浮くといったことはなかった。女の子から時折、興味ありげな視線を浴びることがあり、「意外と自分はもてるのかも」と思ったりした。
 しかし、彼女とは、目立った進展はなかった。掃除当番が一緒になった時とかに、とりとめもない短い会話を交わすことはあったが、元来意気地なしの私は、他の勇敢な男子のようにアプローチをかける勇気がなかった。
 一方で、受験勉強の方はというと、無情にも1学期に受けた模擬試験の結果は、ことごとく厳しい合格判定を示していた。
 陸上競技大会、学園祭、球技大会、期末テスト・・次々とイベントは過ぎていき、1学期も終わりかけたある日のこと、いつもの帰り道、駅まで続く下り坂で、抜けるような青空に伸びる鮮やかな飛行機雲を見つけた私は、ふと立ち止まり空を見上げた。
 視線を下げると、眼下の商店街を抜けたはるか先で、かすかな警報音とともに駅前の踏切の遮断機がゆっくりと下りて銀色の電車が通過していく。いつの間にかすっかり夏色を帯びた太陽の光は、足下のアスファルトをじりじりと容赦なく照らしていた。
「このままだと志望大学には受からない」
「卒業したらもう永遠に彼女とは会えなくなるのだろうか・・」
焦りと切ない思いがないまぜになって胸を焦がしていた。
 
 そして、また夏休みが明けた。なんとなく予感がして、その通りになった。10月くらいだったと思う、席替えで私と彼女はきっかり1年ぶりに隣同志となった。
 ふたりは授業の合間にいろいろな話をした。それから、授業中も、受験間近でお尻に火がついている彼女に、英語や数学を聞かれるまま教えてあげた。話すたびにふたりの距離がどんどん縮まっていくような気がした。
 彼女の大きな瞳や、ふんわりとパーマをかけたやわらかそうな肩まで伸びた黒い髪、そして軽くパーマのかかった毛先をいじるか細い指先・・、匂い立つ魅力を目の前に、胸の奥まで締め付けられるような思いでどきどきしていた。そして思った。このまま、ずっと時が止まってしまえばいいのにと。
 そんなある日である。彼女が数学の問題集の解き方を聞いてきた。確か学校で渡されたチャート式の問題集で、巻末の回答を見ても答えだけで解き方が載っていないという不親切なシロモノだった。
「ねえ、トオルくん、この235番なんだけど、なんでこんな答えになるのかよくわかんないの。わかる?」
「どんな問題だっけ。ちょっと見せて」
 ふたりの真ん中に開かれた問題集を見ようと、彼女と私の顔がぐっと近づいた。彼女の髪の毛のシャンプーかリンスのレモンのようなかすかな甘い香りが、私の鼻をくすぐった。
「3次方程式 2X3・・・ が3つの実数解をもつような定数aの値の範囲を求めよ」                      
 これ、姉貴のお古の青チャートに出てたじゃん・・・、私は、心のなかでにんまりした。そして、「まず、F(X)=2X3・・と置くよね、そうすると・・」と説明した。
「うん、うん」
うなずいて聞いていた彼女は、私の説明が最後の答えまでたどりつくと、
「すっごーい、どうしてそんなすらすら答えられるの」
と顔一面に驚きと憧れの混じった表情を浮かべだ。
 そして、その日の6時間目終了後、清掃も終わり、後はホームルームだけという時間帯だったと思う、帰り支度が済んだそれぞれの机の上にずらりとかばんが並んでいた。私のかばんは薄汚れた白のボストンバック、彼女のかばんはクリーム色のキャンバス生地のトートバックだった。
 いつもは離れて置いてある彼女のトートバックがボストンバックにもたれかかっていた。
 まるで自分の肩に彼女がもたれかかっているような光景に、私はどきりとした。もしかしてという勝手な期待がむくむくと膨らみかけた。だけど、掃除当番が、机を移動している時に間違って置いてしまうことはたまにある。私は、あわててそれをふりはらった。
 結局、どうすることもできず、卒業の時を迎えた。受験は残念な結果に終わった。
 
 ここでようやく25年前にたどりつく。
 4月から予備校生となり、希望ヶ丘と横浜を相鉄線で往復する電車通学が始まった。通い始めてすぐに気付いた。同じ高校の仲間たちが勢揃いしていた。えっ、S君も?T君も?Nさんも?という感じで、通学途中や校舎の中で次々とばったり出会った。
「ほんと、『4年制高校』だよな」
 仲間がたくさんいるという安堵感が自分の心を少し軽くしてくれた。
 そして、2週間ぐらい経過したある日のことである。朝から晴れていた。いつものとおり横浜駅の改札口を通過し、早朝の人もまばらな地下街を通り抜け、急な階段を上って地上に出ると、ビルの合間に青空が広がっていた。今日は誰とも会わないなと思いながら、ぽかぽかとした陽気の中、校舎への道を急ぐ。
「トオルくん」
 聞き覚えのある声が後ろから自分を呼んでいた。背中を柔らかい手でそろっと触られて、全身から力が抜けそうになるような脱力感を感じながら、私は振り向いた。
 すこし離れた後方に、彼女は立っていた。大きな瞳がまっすぐこちらを見つめていた。水色のコットンのブラウスに紺色のデニムのジーパンというラフないでたちで、いつの間にか背中あたりまで伸ばした髪をポニーテールにしていた。
 また少し大人っぽくなったなぁ、まぶしい思いで彼女を見つめた。走り寄りたい衝動をおさえながら、私はゆっくりと歩み寄った。
「えっ、もしかしてS予備校に通ってるの」
「そうなのよ、4年生になりました」
彼女は、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべた。
「いやあ、見てのとおり僕も・・」
 それから、校舎に着くまでの短い間、いろいろなことを尋ね合った。彼女はすぐ上の階の別の文系クラスに所属していた。
 帰りの相鉄線の車内で、車窓を流れるいつもの風景を見ながら私は茫然としていた。予想もしなかった再会に、甘酸っぱい喜びの気持ちと信じられないという驚きの気持ちがいっしょになって胸いっぱいに広がっていた。またしても「何か見えない力」が自分の背中を押しているように思えた。同時に、また、結局何もできないのだろうという諦め半分の気持ちが自分を支配していた。もう後がない浪人生である。そんな自分の前に三たび彼女が現れるという運命の皮肉を私はのろった。
 ふと気が付くと、「歯列矯正Y歯科、希望ヶ丘駅から徒歩2分」という見慣れた希望ヶ丘駅の広告看板が目の前にあった。私はあわててホームに飛び降りた。
 
 また、夏がやってきた。1学期が終わり、私はS予備校の成績優秀生に選ばれた。高校時代「帰宅部」だった私は、スタート時点ではアドバンテージがあったのだろうと思う。私は表彰状と記念盾に加え、副賞として2万円の賞金を受け取った。高校を出たばかりの若造からすると、結構な金額である。優秀生のリストは校舎2階のホールにでかでかと掲示され、たちまち、K高校の仲間たちの知るところとなった。
 そして、このことが夏休み明けのあの出来事につながっていく。
 
 9月に入り予備校の新学期が始まった。K高校の仲間たちが次々と声をかけてきた。第一声目は「おめでとう」、「すごいじゃん」、そして、多くの男子の第二声目は「金持ちだね」、「おごれよ」であった。
 ある日の昼休み、2階のホールを歩いていると、後ろから背中をバンと叩かれた。
 振り返ると、2年生で同じクラスだったNがにやっと笑って立っていた。彼は別の理系のクラスに所属していた。水泳部出身、浅黒い肌に、スポーツ刈りがちょっと伸び気味のやまあらしのような髪型が特徴で、典型的なやんちゃで元気なタイプ。一方で、実はなにげに仲間思いで優しく、繊細であるという側面も知られていた。
 うるさい奴が来たなと身構えていると、
「トオル、おめえ、すげえ大金もらったんだって?おごってくれよ」
予想どおり切り出してきた。そして、適当にいなしてこの場を切り抜けようと口を開きかけた私に、予想外のひと言を発してきた。
「『彼女』と一緒にジャンボパフェなんかどうよ」
 間違いなく、彼女の名前が出た途端、私の顔に見事にスキが出たのだろう。Nはそれを見逃さず、畳み掛けるように、メンバーは彼女とその友達のMさん、そしてN、私の4人でどうだと提案してきた。気が付くと、私は、昼休みが終わって悠々と教室に戻っていくNの姿を見送っていた。
 そして、当日になった。
 待合せの場所に向かうと、もうパフェが目の前に浮かんでいるのか、3人は満面の笑みを浮かべて立っていた。彼女は、肩まで髪をストレートに伸ばし、グレー地に紺色のリボンのついたパーカーのような上着に、濃紺のタイトスカート、黒いパンプスという完全な女子大生ルックだった。彼女の姿にくぎ付けになりそうになる視線をあわてて3人全員に合わせ直した。
「トオルくん、ありがとう。ごちそうさま」
 彼女とMさんが甘えるような声でにっこり笑いながらお礼を言う様子をNがまねると、Mさんが「きもちわりー」と言って笑いが起きた。その後、勝手知った様子でお目当ての店に向かってどんどん地下街の奥へと進んでいく3人に私はついて行った。
 店に着くと、目の前に、通常サイズの2倍くらいの巨大なパフェが現れた。他の3人はポンポンとおしゃべりをしながら、慣れた様子でどんどん食べ進んでいく。一方の私はというと、そびえたつアイスの山を必死で食べ進んでいるうちに舌が冷たさでしびれてしまい、あまり会話に加われないまま、あっという間に時間は過ぎていった。
 帰り道の地下街で、Nが「ちょっと用事があるから」と言って別れた。そして、相鉄線の改札口の直前で、今度はMさんが「買い物があるので」と言って去って行った。
 ふたりきりになった。
 彼女は三ツ境で下車だから、一緒に2番線に停車していた銀色の7000系車両の急行電車に乗りこんだ。反対側のドアの両脇にふたりは向かい合うようにして立った。電車はいつのまにか横浜駅をゆるやかに発車していた。私も、例のごとくあたりさわりのない話題からおずおずと切り出した。
 会話はあまり弾まなかった。Nのように軽妙なおしゃべりができない自分がもどかしかった。その一方で、どうもいつもとちがう彼女の様子に気付き始めていた。何かよくわからないが、張りつめたような雰囲気・・、背後で帷子川の鉄橋を渡る電車の「ごぉー」という金属性の轟音が響く。気押されるように、次第に私の口数は少なくなり、ふたりに沈黙が訪れた。
 西谷を通過した電車は、鶴ヶ峰直前の急な登りカーブを悲鳴を上げながら登り切り、駅を通過して加速した。気まずい沈黙をなんとか破るため、私は、お互いが知っている別のK高校の同級生の話を切り出した。
「そう言えば、A君ってどうしてるかな。浪人したらしいけど、Sでは見かけないよね」
「そうなんだ。でも、A君のことはどうでもいいよ」
 私はびっくりした。いつもの彼女は、こんな感じで話をぶちっと切ることは絶対なかった。再びふたりに沈黙が訪れた。
 電車はいつの間にか二俣川を発車していた。言葉がみつからず、私は彼女から視線を外し、首を左に向け、窓の外の風景をながめた。いずみ野線の高架の下をくぐり、電車はスピードを上げていた。
 もう一度彼女の方を見た。まず、胸のあたりの紺色のリボンにぼんやりと視線を合わせ、恐る恐る顔を上げた。
 彼女はまっすぐに私を見つめていた。ふたりの視線がばちっと合った。彼女が少しだけ微笑んで、そして、微笑みが消えた瞬間、瞳の奥にいままで見たことのないような色を見た。いたずらっぽく、きらきら光る何かの色を。
 ほどなく、私の心の中で、誰かが大きな声で騒ぎ始めた。
「行くんだ」「希望ヶ丘で一緒に降りるんだ」「告白するんだ」
 ところが、また、もう一人の誰かが冷静にぶつぶつとつぶやいている。
「やめときなよ」「気のせいだろ」「あんたは後がない浪人生だ」
 二人は激しい言い争いをはじめた。ふたつの声に挟まれて立ちすくむ私。
 やがて、左手の崖にへばりつくように建つ、例の特徴的な建物が見えてきた。
「間もなく希望ヶ丘、希望ヶ丘、・・・」
 いったいどうするんだ。
 その時、左手の視界を覆っていた小高い崖と家々が切れて、突然、夕陽が私の眼を直撃した。一瞬にして視界が真っ白になると同時に心の中の二人の声はぷつっと消え、自分の頭の中も真っ白になった。右にカーブを切った電車は、踏切を過ぎ、ゆっくりとホームに滑り込んでいく。
 ドアが開き、どうすることもできないまま、私は呆けたように、「じゃあね・・」という言葉を残して、ホームに降り立った。気のせいかもしれないが、その瞬間、彼女の瞳に意外そうな、失望したような色が浮かんだのを覚えている。

 気が付くと、電車のドアは空いていた。目の前の女子高生はもういない。
「閉まるドアにご注意ください」
あわててホームに飛び降りた。
 後日談がある。もう二度と会えなくなるかもしれないという切なさに押しつぶされそうになった私は、2月の予備校の最後の授業の日に意を決して彼女を待ち伏せし、校舎の裏手で「受験が終わったら付き合ってほしい」と告白した。
 しかし、彼女の瞳の中には、もうあの夏のようなきらきら光る何かはなかった。
「あなたは、雲の上の存在だから・・」
 雪がいまにもちらつきそうなどんよりとした空の下、どこかの山の稜線を見つめるような遠い目をして彼女は言った。

 でも、いまはしみじみ思う。とても不器用だったけど、彼女や仲間たちに囲まれて、自分がまさかあんな「青春ドラマ」を演じるなんて思いもしていなかった。なんてあのころの思い出はまぶしいんだろうと。
 そして、この電車に乗って、この駅のホームからこの街に降り立てば、また、きらきら輝く思い出にきっといつでも会うことができる・・。ホームの端にある駅舎への階段に向かって歩を進めながら、自分につぶやいた。
 ふと、後ろを振り返ると、ゴトンゴトンと音をたてながら去ってゆく急行電車の顔と目が合った。真ん中の赤い貫通扉と両側の運転席の長方形の窓が、まるで見開いた眼と大きな赤い鼻のように見えた。愛嬌のあるその顔は、少しだけ私に微笑んでくれていた。

著者

大将海老