「Diamond 2035」青い空

穏やかな草原の中にいたあの頃からこの街が好きになっていた。僕の名前は翼、君の名はAna、相鉄線の大和駅から15分の新興住宅地に住んでもう何年になるのだろう、まだ開発されていない険しい坂を上りながら大和駅まで歩く、横浜、品川、恵比寿と通勤を繰り返していた。

大和駅は小田急線が相鉄線を覆うように交差している基幹駅だと思う。乗り換えの乗客がごった返しするが、僕はこの駅の相模大塚よりのホーム上にあるコーヒースタンドが大好きだった。山小屋を小さくした店内は5人も入れない、いれたてのコーヒーを分厚い淵のあるカップから急いで飲む。あーなんておいしいのだ、時間と引き換えに香りを楽しみ、電車の接近を感じながら飲むコーヒーは他では味あえない。

相鉄線のホーム上にこんなコーヒースタンドがあった事など今の若い方は知らない。僕があの街を気にするようになったのは、既に開発中の路線に沿って新しい住宅地が出来始めるとの噂を気にするようになっていた。僕は26歳になっていた、そして1976年4月にいずみ野線が開業する。

新しい沿線には夢がある、その数年前に根岸線が全線開通し横浜から本郷台、港南台、洋光台と台地の名前がつく素敵な新興住宅地が開発されていた。高倍率を乗り越え、港南台の住宅地に当選した消防士が、購入資金不足で泣く泣く購入出来ない事が新聞のニュースにもなっていた。

当時の二俣川駅のホームはコンクリ―トでなく、板張り、運転試験場がある駅なのに、とてもみすぼらしい。大和から横浜に通勤している僕は、通過駅だったのであまり気にしていなかった。しかし、その新しい新興住宅地はいつ頃に出来るのだろうと、そんな事を時々思いながら、大和駅まで帰ってきていた。オイルショックで新線建設費も高騰していた。

どの沿線にお住まいですかと聞かれると、きっと知らないだろうなと、脳裏を横切る。横浜から出ている電車です。ああ、東海道線、横須賀線、京急線、京浜線、新しい根岸線、いや違います。そうごめん忘れていた、渋谷から桜木町の東急東横線沿線でしょ。いえ違います。横浜には、もう電車路線はないよ、と多くの方が答えるのです。相模鉄道があります。え、どんな路線、当時はこれが現実、相鉄線はローカル路線だった。

だから、小田急江ノ島線の大和に住んでいますと答えていました。1960年代後半の相鉄線は地方中小鉄道の一つに過ぎませんでした。それがまさか、大手の一角になるなんて夢の中の夢だった。

昭和62年に3000系の改良型がデビューした、電気・空気ブレーキはあったが回生ブレーキはなかった。段階的な変速スピードを体で感じるこのモータ感覚が好きだった。しかし改良型はVVVFになった。電圧と周波数を制御し交流モータを動かす、回転子に接点がなく保守性に優れ、スムーズな運転制御が出来る様になった。

乗降客に快適な乗り心地を提供する小さな改良努力は乗客数を増加させた。しかし、相鉄線が大きな路線に成長できたのは、大都会横浜を起点にしている路線だからである。海老名以西からの乗客は相鉄線を経由して横浜から東京方面に移動する。連絡線であるが、経済成長のお蔭で、利用者が増加していった恩恵だと思う。編成が8両で運行形態も比較的単純なダイヤ編成、乗車率の高い運行が、この路線の利便性を高めた。

嫌いな相鉄線が好きになるきっかけが、1976年いずみ野線の開業である。いずみ野線は名称からしてモダンな近代的な雰囲気を醸し出していた。僕はこの物語が始まるのは、このいずみ野線からが最もふさわしいと思う。

二俣川から電車は左に湾曲しながら登り勾配を進みながらトンネルに入る、少し進行して新幹線の高架下をくぐる、僕はこの瞬間が好きだ。万騎が原を発車してすぐに長いトンネルをくぐると緑園都市駅がある、はずだった。翼がそこに見たのは、まだ開発されていない深い森、小さな小川も見える。何時の何処にいるのだろうと目をこすった。

素晴らしい風景だ、霧ヶ峰高原、いや八ヶ岳連峰、美ヶ原より広い草原に翼はいた。だれもいない、線路も消えていた。しかし、線路のあるべきところは小道がまっすぐにあり草原を散策するのにちょう良い、草木と草原、そして遠くには森林があった。

この風景は、どこかで見た気がする。戦争から帰還した父が江戸川の河川敷に連れていってくれた、昭和30年ごろ見た風景。本当に苦労して祖国に帰ることが出来たあの忌まわしい戦争の記憶を消し去りたいと父は時々、僕をつれてこの河川敷の草むらに連れて来てくれた。

父の鋭い眼球は怖かった、戦後10年過ぎてもいつ何時夜襲を受けるかもしれないと。父は青春を赤紙一枚で徴兵され陸軍の軽機関銃士だった、そのためなのだ、目が座っていた。それが僕には怖かった。ワキ腹には大きな手りゅう弾による傷跡も鮮明に残っていた。戦争の残滓を引きずりながらも、懸命に戦後の復興を国民が果たそうとした昭和30年代だった。

緑園都市が将来建設される前の森林の中に、今、翼は佇んでいる。横浜の丘陵、南を見ると緩やかな尾根が行く手にある。右側の急斜面から目の前を横切り左側前方に緩やかに下る斜面が、小さな小川を伴い湧き水とともに流れていた。

翼は、しゃがみ込み、その湧き水を少し飲んでみた。冷たくておいしい。なんだか、どうしてここにいるのだろう。人影すら感じない、不思議な草原の中心にいるようだ。さっきまで二俣川駅にいた自分は遠い過去の自分なのだろうかと、不安がよぎる。周囲のセミの鳴き声が聞こえるだけである。

子供の頃の自分がそこにいた。戦争が終結し、僕ら子供たちはたくさん生まれた、どの家庭も3人兄弟、4人兄弟が多く、小学校は各学年とも5組はあった。家の前では未舗装の道路があり、時折三輪式トラックが横切る、子供のころに銭湯で大人の会話をよく聞いていた。クラッチとアクセルはシーソー動作をするのが基本だ、子供には分からない大人同士の会話は鮮明に耳に残っていた。

この草原にいると、過去の自分を思い出してしまう。いや、今自分は本当の過去にいて、その時間を見ているのかもしれないと不思議な感覚が全身を包みこんだ。翼はこの場所で、人影を探した。どのくらいこの場所にいたのだろうか。遠くから電車の音だけが聞こえてくる。

僕は目を瞑った、急に体が浮いたと思うと、暗いトンネルの中にいる車両の窓ガラスに映る自分が見えた。社内アナンスは、間もなく、南万騎が原と告げていた。トンネルをくぐり
横浜行きの快速電車は南万騎が原駅に停車した。

二俣川駅からの急坂を上ると、運転試験場が見える、その奥に海外留学生のクラス寮がある。今日、留学生のAnaに会いに来た。彼女はコーヒーよりもミルクティーが好きな女の子。駅前の喫茶店で香たつロイヤルミルクティーに、焼き立てのスコーンを食べるのがお気に入りだった。和田町の高台の上にその国立大学がある、彼女は二俣川駅から和田町駅まで相鉄線で通学していた。

海老名から横浜は相鉄線の本線である。海老名からの乗客は急行を利用するから、二俣川からは一駅で横浜に到着する。和田町に停車する各駅停車の列車には乗り換えない。僕は弥生台駅の丘陵地帯に大和から引っ越していた。弥生台駅はトンネルとトンネルの間にある駅だ、まるで地下鉄の駅に似ている。ホームには跨線橋もなく、スムーズに移動できる。

弥生台は快速が停車するが、必ず着席が出来る各駅停車が好きだ。横浜までなら余り時間はかからない。二俣川からAnaはいつも僕の車両の隅に乗車してきて窓の外を眺めていた。
初めて知り合った時、Anaの名前は航空機と同じ発音だったのですぐに覚えたことを思い出していた。80年代の歌詞に出てくる、あのフレーズ。海老名、横浜辺りから相鉄線に乗って来るシャイな男の子。似ているなと思っていた、いつか知り合えるかなと。

僕は、この南万騎が原駅から緑園都市に通じるトンネルを夢のトンネルと命名した。ここを通過するときに不思議な体験をするからだ。いつもは何も起こらない、いや殆ど夢など起こらない。しかし何か特別な想いがあるときにその事象が現れる。だから夢のトンネルだと思う。

Anaは美術を専攻していた。日本が大好きな留学生。鎌倉、江ノ島、富士山だけでなく、中山道、飛騨高山、伊勢志摩、宮島などバックパッカーで日本での生活を楽しんでいた。たった一年間の留学期間を最大限に生かしていた。そしてかわいい浴衣が大好きで、その浴衣を着て、鎌倉をいつも散策していた。日本人が忘れかけている日本文化を今は留学生が楽しんでいる。彼女は鎌倉の流鏑馬に感動していた。

僕は出来るだけ案内をした。鎌倉なら東慶寺、円覚寺、建長寺、浄智寺、明月院、浄光明寺、錢洗弁財天。東京なら、根津美術館、五島美術館、江戸博物館、新国立美術館、浅草流鏑馬。Anaは秋葉原で剣道「るのうに剣心」のフィギュアを購入してとても喜んでいた。

相鉄いずみ野線の最終接続発は12時27分。仕事に疲れていても、品川駅に11時58分までに東海道線に乗らないと帰宅できない。東海道線などの他社線の到着がおくれると横浜発の海老名行きは接続待ちをしてくれた。最終電車はいつも混んでいた。僕は先頭車に乗る、運転方向を見ている子供のように景色を見て安心している自分がいた。

二俣川で乗り換え、いつもの南万騎が原を発車して急に眠くなった。いずみ野線は本線に比べ、比較的すいていて着席出来るからだ。安心して目を閉じた。翼は急に、オレンジ色の光に驚き、目覚めた。あ、また時空を超えてしまった。いま、どこ、今は、一瞬の間をおいて冷静に外をみた。緑園都市にその列車は停車した。ホームの電光掲示板は10時08分、右下に大きなダイヤの輝きを伴いながら周囲がリング状となっている太陽、ダイヤモンドリング、それが天空にあった。まさに未来のこの街の夜明けのように。

徐々に空が明るく輝き始めた、翼はゆっくりだか冷静に目を凝らして周囲を見た。街の南側にタワーを中心に大型のショッピングモールが見える。その先の丘陵地帯には大学の研究施設と思える建物が幾重にもあり、総合医療センターも見えている。インフォメーションには「ようこそ緑園都市」。施設案内の記載には複数の私立大学、AI研究都市、医療センター、ホテルなど大規模な都市を表していた。

駅の改札を出てた。いつもの景色である高層のマンション群があり少し安心した、ドーナツ屋さんも在る、よかった。一戸建て住宅もいつもの景色を醸しだしていた。でも駅の南側は、大きく変貌していた。ショッピングモールがある場所は、確か遊水地があったはず、総合医療センターの場所は介護施設があるはずだった。目こらしてみた、施設はあったがその周辺が劇的に変化していた。これは緑園都市の未来の街。

翼はすごいと驚いた。もうここはいつもの緑園都市でなく未来都市だと思えた。自分がどこの、どの時間にいるのか知りたかった。昭和35年NHK「時間よ止まれ」のドラマがあった、同じだ。すべての動きが停止していた。車も人も改札も静止している。誰かに聞くことができない。週末のようだ、校門をくぐり大学から受講生に貸与されていたカードをかざした。ピーという音と共にゲートが開いた。自分の周りだけが動いていた。

ゲートの右奥に新聞コーナーがあるはず、急いで新聞の日付を見た。2035年9月2日、本日皆既日食実現の記事。しかしそれ以外はいつもの見慣れた光景だった。僕は、自分の眼を通して未来の都市を見ているのかもしれない。自分の心が期待している未来の姿が現実の形で構成しているのかもしれない。想いは形をつくると学校の先生から聞いた事を思い出した。この未来の緑園都市は好きだ、きっと僕の想いなのだ、でもここには話相手がいない。どうしょう。

街の魅力は、その街を構成している人の想いだと思う。その上に街作りのコンセプトがしっかりしているとさらに魅力的な街になる。緑園都市はそれをゆっくり、だが実現し始めていた。ローカルな郊外路線から夢を叶える、街、人、交流を作り始めた。駅前を中心とした街つくりは、それを構成する人が熟成させた。駅前の花壇に毎日水やりをしている人、遊歩道を綺麗にしている人、Anaの友人が言っていた言葉。この街はいつも綺麗になっていると。

留学生の両親が来た時、留学生の恋人がその国から来て一緒にcaf?した時も街をほめてくれた。日本は本当に綺麗で安全、そしてこの街で勉強している学生は良い環境で素晴らしい。
横浜から20分程だか、高台からは富士山が見える。晴れた日には大船、鎌倉の山並も見える。横浜市区内の中で一番農地が多く残っているエリア、自然が共存している。僕はこの街にいつか住もうと心に決めていた。

その最終電車は深夜の弥生台駅にしずかに到着した。弥生台駅の終電到着時は、みんな駆け上がる。タクシーが数台しかない、そのため10人近くは並ぶ。待つこと30分なら今日も歩くことにした。15分はかかるが途中から大手不動産が開発した遊歩道がある。

この遊歩道の途中に自宅がある。分譲時はバブル、何回も100倍近くの抽選にもれて買うことが出来なかった。仕方なく親との共有購入で分譲価格よりも高い価格で購入した。金額が高く国土法の審査を受けた。母を将来同居する条件で父は共同購入に協力してくれた。

母も父も今はもういない。こうすればよかった、もっと親孝行しておけばよかったと思う。昔の人はよく言葉にした、「いつまでもあると思うな親と金」である。街に住めばその街に貢献する事で社会貢献ができる。弥生台には総合病院がなかったが、新しい総合病院が出来て新しい小学校も出来るらしい。街は住民が作りあげていくものだと思う。

大和から弥生台に住まいを移動したもう一つの理由は、将来相鉄線に東部方面線の計画が予定されていた。大和から恵比寿まで片道1時間30分、毎日往復3時間はつらい。でも僕らの世代は戦争を知らずに育った時代、あの忌まわしい戦争が終結して10年たった昭和30年頃から僕の記憶は鮮明にある。本当に貧しい、台所兼居間兼寝室の4.5畳での生活、10円あればアンパンが、35円あればたぬきそばを食べるれる。もう戦後ではないと言われた。

往復3時間を勉強時間として活用した、そのお蔭で会社での評価、収入も増加。高いと思いながらもいずみ野線沿線の新興住宅地を購入する事ができた。辛い通勤にも何かしらの素晴らしい代償作用があった。結果自然、出来る事をしっかりすれば未来は買えるとこの時に確信した。東部方面線が出来ると弥生台から東京に行ける、僕の夢は大きく、そして凄く膨らんだ。まだ30代後半の自分には定年までには開通する希望を相鉄新線に託したのだ。

相鉄和田町駅から徒歩20分で国立大学の南門に着くが、三ツ沢上町からは15分で正門に着く。その大学は毎年海外の優秀な留学生を受け入れている。毎年留学生たちと横浜市街を案内するイベントがある。桜木町駅前から日本丸の係留を観て、旧電車道を歩く。その先はレンガ倉庫、横浜大桟橋、開港記念館、山下公園、中華街を散策する。

大学に留学した学生にとって1日で横浜を知る良い機会だと思う。中国、韓国、台湾、インドネシア、ベトナム、パラオ、米国、欧州と、留学生の多くはアジア系が多い。ボランティア団体は海外駐在経験の多い方が中心となり活動している。共通語である英語を通じて日本を好きになってもらいたいとの思いである。学生は日本に留学を決めた時点で日本が大好きなんですと答えてくれる。

Anaは1年間の留学を終え、新しい学生寮のある湘南台の駅構内にいた。僕はその日から開催する国際学会に参加する予定があり、成田への送別が出来なかった。1年間の思い出が入ったスーツケースをもって湘南台東口のエスカレーターからAnaは降りてきた。偶然に出会った、湘南台で開業している先生との待ち合わせをずらして成田まで送迎しておけばよかったと後悔している。

せめて、相鉄線の地下3階のコンコースまでお見送りすべきだったと思う。湘南台駅は小
田急線、市営地下鉄線、そして相鉄線のいずみ野線が交差するキーステーションである。横浜市営地下鉄は湘南台が終点だから地下2階、いずみ野線は平塚までの路線延線の許認可をとっているから地下3階にコンコースが建設された。最下階だから、いずみ野線は延伸可能な構造体になっている。

いずみ野線は1999年3月にいずみ中央駅から湘南台まで延伸された。僕が一番好きな列車は1978年の緑園都市号である。緑園都市を列車名にするなんてすごいと思う、そして1998年には横浜駅前に高層ホテルが開業した。この頃から相模鉄道はモダンな近代的な鉄道会社に変身していった。

ホテルのSロゴマークもスーパマンを連想させてくれてとても愉快だと感じる、相鉄のイメージ戦略で相鉄瓦版の発行は白眉ものだと思う。素敵な街は、その街に住んでいる方との自然な交流である。つまるところ、人と人との間にある。

僕は相鉄線を自慢するようになっていた。数年後には、あの恵比寿まで湘南台からの直通電車が運行すると思う、僕が夢にみた東部方面線の開通である。自分の現役時代に果たせない夢が、自分の子供達が享受できる。鉄道事業は長い時間を必要としている。その時間の中で
新しい街が形成し、新しい交流が生まれ、新しい出会いが繰り返す。僕はついに、大好きな
この街に引っ越す事にした。

過去と未来を少しだけ見る事ができた。そして現実はその夢に近づいて行く。二俣川のジャズフェスティバル、緑園都市駅前の音楽祭、近隣女子大のフラメンコ。時を刻むほどに成熟していくこの街を今、僕は駅前の高層階から見ている。留学生との楽しい思い出、これからこの街での新しい出会いにワクワクしながら。そして横浜ネイビーブルー20000系があの夢のトンネルから東京方面に運行する日まで僕と翼は静かにこの街を応援していきたい。

                      完

著者

青い空