「Lavender Blue」どこへいずこ

さっきまで左にあった月が、いつのまにか右側に移動していた。
 ジャンクションで大きくカーブしたからかな。
 ルームミラーに鮮やかな夕空が映る。
「後ろも綺麗だよ」と私が言ったら息子は「お城?」と聞き返した。ううん、うしろ。後ろ側には私のふるさとがある、いま母と別れてきた故郷が。
「このゴールドとピンクとブルーが混ざったような空の感じは、映像じゃ残せないよねえ」
「そうだねえ」と呟きながら、夕空に薄く浮かぶ満月を、息子はスマートフォンで撮っている。

 名古屋近郊の小さな街で育った私は、結婚して横浜に住んでいる。
 故郷の母に癌が見つかり、主治医の話を聞くため名古屋に戻った、その帰りの高速道路だ。
 母は、会うたびに年老いて小さくなっていた。ずっと前に父は亡くなり、弟は独身のまま母と暮らしている。
 高速道路に入る前に寄ったショッピングモールは、以前と違い閑散としていた。傾いた陽の中で母と弟は、私たちの車に手を振った。美しく、強く、傲慢だった母が、猫背になって小さくなって懸命に私たちに手を振っていた。
 私は、切なさが溢れそうになっている胸を抱えながら、ハンドルを握った。
 薄いラベンダーブルーの空に、儚く透明な月が浮かんでいた。ミラーに映る輝くオレンジ色の陽は、周りの雲を染めながらあっという間に落ちて行った。

 翌日私は上司に伝えた。母が癌になったことを。
「初期の乳癌で、来月手術になります。多分これから頻繁に名古屋に帰らなきゃいけなくなると思うんです、ご迷惑をおかけすることになるので、えーと、辞めさせていただくこともちょっと考えているのですが、、、」
 上司と言っても三十歳過ぎの若者は、真っ直ぐな目で私を見て言った。
「シフトに関しては、できるだけ協力させていただきますので、辞めるなんて言わないでくださいよ。」そして微笑みながら「いえ、辞めるのは絶対ダメです!!」
 私も笑いながら「そんな風におっしゃっていただけるなんて、本当にありがたいです。」
 私の職場は、障がい者の就労をサポートする施設の中にあるカフェだ。
カフェで働くのは、利用者と呼ばれる障がいのある人たち、そして職員と呼ばれるサポートする人たち。オープンキッチンに面したカウンター席と、テーブル席、ソファ席、外にはテラス席もある、清潔で心地よい明るい店だ。この店の一番の特徴は、電車が見えること。北に向かう大きな窓の真ん前がJRと相鉄線の線路、その向こうに西横浜駅のホームが見える。
「店長ったら、泉さんをロックオンしちゃって」同僚が笑いながら言った。
 3.11の後、私はこのカフェの非常勤職員となった。東日本大震災は、個人主義だった私の考えを少し変えた。今まで関わることのなかった人々の近くに行ってみよう。そしてこのカフェにやって来た。 
 私はここで様々なことを学んだが、一番は「他の価値観に寄り添う」ことだと思う。それを教えてくれたのは、障がいのある人達だけでなく、私の周りの職員や、カフェに来るお客様たちだ。本当に世の中には様々な人たちがいるのだなあと。 
 外見はもちろん、価値観、感情の出し方、考えるプロセス、言葉の選び方、他へのアプローチ、自分のそれがみんなのそれではないのだと、ようやくわかった。
 ある友人は、障がい者のことを「純粋な人たちだよね」と言った。
「それは違うと思うな」私は即座に反論した。
 ひとつの言葉で括れるほど、みんな無個性でもなければおとなしくもない。
「なんていうのかなあ、うまく言えないけど、純粋ってひとことで済ませちゃうのとは違うの」
 障がい者、いえ、障がい者という言葉さえしっくりこない、カフェで私と共に働く利用者たちは、みな一人ひとりの人たちだ。だから簡単に「純粋だよねえ」などと言われると、ちょっとムッとしてしまう。でもここで働く前までは、私もそんな風にざっくり括っていたかもしれない。
 それだけ、障がいのある人とない人とがクロスしてない世の中なのかな、と思ったりする。

 私の家は丘の上にある。天王町まで歩いて十五分、横浜駅には二十分。星川駅にも歩ける。
 大倉山の借家に住んでいた時、娘が猫を拾ってきた。その借家では猫が飼えなかったので、たった一日で家を探し、この家を買った。
 不動産屋の社長と担当の女性と私の三人で車に乗って、雨の中四件ほどの家を回り、最後に寄ったのがここだった。
 小さな玄関を入り、狭いリビングの窓を開けたら、西の空が拡がっていた。それでここに決めた。
 高台なので不便だし、駅まで遠い。でも、そのとき窓から見えた、雨に煙った緑の森とグレイの空が、美しかった。晴れた日には富士山も見えた、それは引っ越した後にわかったことで、サプライズプレゼントのように嬉しかった。
 娘が小学校、息子が幼稚園に入る年だ。
 新しい家で始まった私たちの暮らしは、本当に楽しかった。横浜駅までのバス便もあるのだけど、私たちは歩くのが好きだった。
 天王町へ下る細い坂道沿いの家々の小さな庭には、季節ごとに可憐な花が咲き、猫が日向ぼっこし、池には金魚や鯉が遊ぶ。娘はその道を「ジブリ道」と呼んだ。娘は高校時代、毎朝その道を通り、天王町から希望ケ丘まで通った。
 大雪が降った日には、車の通らない坂道でソリ遊びもした。風の吹く日は、富士がくっきり見えた。西の空が紅く染まる頃、東の空には黄色く大きい月が輝く。そんな荘厳な風景も、この丘で知った。東側にみなとみらいのビル群、そこから昇る朝陽、西側には丹沢山系と富士、そして夕焼け。空はいつも私たちの上にあった。
 そして、引っ越してから二十年目の去年、猫は亡くなった。空を仰いで育った娘と息子は、いまや社会人と大学院生だ。
「泉さん家もそろそろ細胞分裂の時期ですね」と、今年、恩師からの暑中見舞いに書かれていた言葉に、ちょっとドキッとした。

 私はもともと電車には興味がなかった。
 だから、カフェで働く利用者さんが窓の外を見ながら
「あー!あれ、20000系じゃない?試運転って書いてある!20000系だよ!!すごい!!めっちゃカッコいい!!」
 と叫んだ時も、他の列車とどこが違うのかよくわからなかった。
 でも、彼の、心から嬉しそうな顔をみると、確かになんだかかっこいい電車に思えてくる。
「色がすごくすてきだね、綺麗な紺」
 私の知らなかった世界だ。こんなにも電車を好きな人たちが世の中にいるなんて。
 ある日、視覚障がいの利用者さんと西横浜から横浜まで電車に乗ったことがあった。まったく見えないはずの彼女が
「この電車、9000系ですねえ」と言ったときは、驚いた。
「えっー?どうしてわかるんですか?!」
「9000系はリニューアルしたときに、床が変わって、ちょっと滑り止めみたいにざらっとした床なんで、足の感触でわかるんです。もちろん電車が入ってくる音でもわかりますけど」
「音でわかるの?」
「はい、横浜駅に停まっている電車に乗るときは、空調の音でわかります。」
 感動してしまった。彼女は電車をこんなにも楽しんでるのだ。
 そしてもちろんカフェに来るお客様には、電車目当ての人が沢山いる。
 一番多いのは小さい男の子。幼稚園くらいの男の子だ。お母さんやお父さんに連れられてやって来て、席に座る前から、キラキラした目で窓の外を見て「あー、そうにゃんだ!」などと叫ぶ。
 土曜日の午後なんかに、パパと男の子が、嬉しそうにお店に入ってくる。ママは用事があるのかな?男同士のお出かけ、しかも電車を見るためにカフェに来るなんて、迎え入れる私たちスタッフも、微笑ましくて、なぜかウキウキしてしまう。
「ここは電車がこんなに見えて、サイコーですね」
 などとお客様から言われると、嬉しくなってしまう。
 電車目当ては子どもばかりじゃないようで、大人の方もいた。仕事の途中なのか、スーツ姿で入ってくる五十歳くらいの男性。必ず電車の方を向いて座り、コーヒーを注文する。たまにデザートなどを召し上がり、窓の外をじっと見ている。
 ある日私は聞いてみた。
「電車、お好きなんですか?」
「ええ、まあ、そうですねえ」
 いつもこちらからは背中しか見えないので、それ以上話しかけるチャンスがなかった。   
 でもある時、お店がとても混んで、彼がカウンターに座ることがあった。私はオープンキッチンの中から、なんとなく聞いてみた。
「昔から電車がお好きだったんですか?」
「そうですねえ、、子どもの頃ね、家からすぐのところに踏切があって、僕が5歳くらいだったのかあ、とても電車に興味を持ったらしくて、母がね、よく連れてってくれたんです、電車を見に。その踏切のすぐそばに喫茶店があって、時々はそこでアイスクリームを食べたりしてね、」
「そうだったんですね。じゃあずっと電車ファンなんですね。」
「いえ、そうでもないんです、大きくなるとそんなこと忘れちゃって、高校、大学とフォークソング部に入って、音楽やってたんですよ、他にもいろんなことに興味も持ったし、母と電車を見た事なんて忘れててね。そしたら、あのホームからこの店が見えて、それでちょっとね、来てみたんですよ。」
「そうなんですね、じゃあ、今度お母様といらしてくださいよ。」
「ええ、まあ、、、でもね、去年亡くなっちゃったんですよ、、、」

 「泉は、お母さんがガンになったからショックかもしれないけど、お母さんは大丈夫だからね、なるようにしかならんで。」
 母はしっかりと言い放った。電話の母は、昔の強い母だ。華やかで気が強くて高飛車な、昔の母の声だ。
 私はいつからか、そんな母が苦手だった。穏やかで優しい父のほうが気が合った。だからといって、殊更父と仲が良かったわけでもなく、あまり話もしなかった。
 母とはよく話した、そして話すたびに衝突したり悲しくなったりした。
「お互い似てるからだ」と父は言った。
 結婚し家を離れた私は、とても自由になった。見えない重しが取れたように、大空にいつでも羽ばたけるような自由さで生きていた。
「自分の人生を生きてほしい、やりたいことは思いっきりやってほしい。」
 夫はいつもそんなことを言った。
 私はいろんなことをした。自分が必要だと思うこと、良いと思うこと、好きだと思うことを、自分で決められる自由さと責任を味わっていた。
 実家にいた頃は母がルールだった。母は正しく絶対だったので、私は、心の奥深い部分に、本当の自分を閉じ込めて、少し諦めながら生きていたような気がする。
 小学校低学年の頃、私が書く作文や描く絵を「こんなのはダメ」と言って、母が大幅に直した。私は自分の創り出すものに全く自信を持てない子供になってしまった。卑屈なって、母に可愛がられる弟や、天真爛漫な従姉を、羨ましいと思っていた。母は私に厳しかったし、ひどい言葉で罵られたり、時には手をあげられたこともあった。
 でも、辛かった思い出は数えられるけれど、実は数えきれないくらいの幸福な思い出があった。それはあまりにも日常のことなので、気付かなかったのだ。
 おいしいご飯を作ってくれたこと、可愛い洋服を作ってくれたこと、いろんな場所に連れて行ってくれたこと、抱きしめてくれたこと、笑って励ましてくれたこと。
 母は母のやり方で私を愛し育てた、それが当時の私にはあまり理解できなかったのだ。
 私が今の職場で学んだ一番のこと「他の価値観に寄り添うこと」が、最近やっと母に対しても出来るようになったのかなあと思う。
「お母さんは強いねえ。」
「そうだよ、私は強いよ、ガンなんかでクヨクヨしてないよ」
 母は、今回の乳ガンだけでなく、二年前から人工透析をしている。糖尿病の悪化で腎不全となったのだ。そして耳も聞こえにくくなり、目も網膜症になっている。背も縮み、足も悪くなった。
 そんな八十六歳。でも、前向きでひたすら明るく強い。
 その強さを、昔は畏れていたその強さを、今は心から尊敬し、頼もしいと思う。

 信州の空は素晴らしく青く、山々も川も木々もすべてが眩しかった。父の眠るお寺の石段を、母が息子に支えられながら歩く。夫がそれを写真に撮っている。
 「これが最後かもしれないから」と母が言い「おばあちゃんは、いつも最後だ最後だって、そんなことばっかり言って」と息子が笑う。
 父の実家では従姉がご馳走でもてなしてくれた。
「お父さんが生まれたお家なんだから。遠慮しないでいつでも来てね」
 子どもだった父がいたずらをして縛られた柿の木や閉じ込められたお蔵を、息子に案内しながら,若かった頃の父の気持ちを想像してみた。父はどんな思いでここを出たのだろう。
 末っ子だった父は名古屋の大学へ行き、母と出会い結婚した。
 名古屋郊外で家も建て、亡くなるまで住んでいたけど、きっと心の中には故郷への思いがいつもあったんだと思う。
 私が小学校一年の時に父の母、私にとっての祖母が亡くなった。
 五十年も前のことなのに、お葬式の光景をよく覚えている。古い映画を観るようにモノクロの映像で。
 沢山の人が集まりにぎやかだったけれど、父が寂しそうに庭の片隅に立っている、そんな映像だ。
 父が住んだ場所、父が通った道、父の故郷、私にとってそれはいつも、少しの切なさと寂しさを伴って思い出される。
 私自身も故郷を出て、違う場所に住んでいるからかもしれない。
 故郷に戻りたいとは思わない。横浜が大好きだ。でも、時折、西の空に沈む夕陽をみながら、その方角にあるふるさとをしみじみ思い出すのだ。
 旅をしているみたいに。

「お母様の手術の日にち、決まったの?」
「主治医がね、どっちでもいいと言うの。本当は手術を勧めるけど、どっちでもいいって。そんなに速く進行するガンじゃないから、うちの母は透析もしてるし年齢も年齢だし、リスクもあるでしょ?伯父や叔母や弟は、もう切らなくていいんじゃないかって言うんだけど、母はね、切る気満々なの。」
「あら、お母様が?」
「そう、母はものすごくアグレッシブな人なの。アグレッシブ過ぎて、一緒にいるとエネルギー吸い取られそうなくらい」
 西横浜駅へ続く歩道橋の階段を同僚と昇っている。
「でも泉さんも大変だね。名古屋へ行ったり来たりで。」
「大丈夫。近いよ。新幹線で一時間二十分だもん。」
 そう、何でもない距離だ。
 でもやっぱり遠い。あの時、父が突然倒れたと母から電話があった時、駆けつけるには遠すぎた距離だった。
 父を亡くした時、それはあまりにも突然だったので、悲しみよりも取り返しのつかない後悔の気持ちが私の心を覆い、私は悔しくて泣いた。
 亡くなる二週間前、長野駅で父は言った。
「蕎麦でも喰っていこうか?」
 二泊三日の旅行が終わり、私たち家族は横浜へ、父は名古屋へ帰るときだった。私は、夫や子供たちと軽井沢に寄るつもりだった。それを楽しみにしていた。
「軽井沢でお昼食べるからいいわ」
 冷たく言って私は車を停めた。
 父は車を降りて、寂しそうに私たちに手を振った。
 それが生きている父を見た最後だった。
 お葬式の時、母は言った。
「泉は根性悪だったって、パパは言ってた、ひとり寂しく中央西線に乗って帰ってきたよ。」
 そんな後悔はもうしたくないと思う。
 いつか必ず別れが来るのならば、今は、大切に、抱きしめるように、母との一瞬一瞬の時を過ごしていきたい。
「母はね、昔本当にきれいだったらしいの。わがままなお嬢様でね。私は昔、母の奔放すぎる性格と合わなくて、よく衝突したけど、でも、今はね、出来るだけ母といたいの。」「そうかあ、いろいろあるもんね、家族にしかわかんない気持ちとかね。みんなあるもんね。泉さんも体気をつけてね。」
「ありがとね、、、お疲れさまあ」
 改札に入っていく同僚に手を振り、私は振り返って歩き出した。
 歩道橋の上から線路を見ると。相鉄線の上を電車が緩やかに右側にカーブしていくところだった。そしてJRの列車がまっすぐに進んでいく。並走していた二つの列車が別々の方向へ進む。
 私は立ち止まり、その電車たちを見ていた。
 なんだか私たちみたいだな、ふいに思った。私たちはみんな家族になって並んで走って、でも途中から別々の道を行く。母と私もそうだし、私と子どもたちもそうだろう。
 あの二つの電車は、何処まで行くのだろう?そして、何処かで再び、出会うことがあるのだろうか?
 これまで生きてきた喜びと、これから生きていく切なさが、私の心に、海のように満ちてきた。
 電車はゆっくり走り去って行った。
 その先には美しい夕暮れの空があった。
 いつか見た、そして、いつも見ているあの空。
 
 ラベンダーブルーの空に、淡い月が、父のように浮かんでいた。

 

著者

どこへいずこ