「MAKE」楓

 朝起きるのが嫌だ。洗面所に行くのが嫌だ。だって、鏡を見たくないから。
 でも、朝は来てしまう。
 いつもより三十分早く目が覚めた。デジタル時計の日付を見る。一気に気分が明るくなり、勢い良くベッドから起き上がった。
 今日は、誕生日だ。
 洗面所に行く。鏡を見て、やっぱりテンションが下がった。映るのは、超地味な女。寝起きのせいで、ブス度が増している。これが、今日十六歳になった女子高校生だろうか。
 でも、これは私じゃない。まだ、私じゃない。言い聞かせるようにつぶやく。
 顔を洗って、制服に着替え階下に降りる。リビングのドアを開けると、キッチンに立つ母が、笑顔で振り向いた。
「おはよう、美咲。誕生日おめでとう」
ありがとうと言って、席に着く。
 母が、ハッピーバースデートゥーユーの鼻歌を歌いながら、朝ご飯を並べに来た。今日はちょっと豪華だ。
「そうよ、美咲十六になったのよねぇ。早いわぁ」
 どう答えたらいいかわからなくて、適当に話を合わせた。早いわぁ、なんて言われても、私はそう思ってないのに。
 朝ご飯が終わって、全ての準備が出来た。まだ五時台だ。まあ、やることもないし、もう出てしまおう。
 玄関のドアを開けながら、母が言った。
「そうそう、帰ったらお誕生日プレゼントとケーキだからね。早く帰って来るのよ」
「うん、楽しみにしてる。いってきます」
 十一月半ばの夜明けは遅い。街灯が、薄暗く道を照らしている。住宅街の坂道を、足早に下っていく。坂にあるのが、希望が丘駅だ。
 駅にはいつもより少し早く着いた。人が少ないホームに、風が吹きぬる。マフラーをきつく巻きなおした。吐く息がメガネを曇らせる。
 だんだんホームが混んでいき、やがて、青いラインの車両が滑り込んで来た。電車に乗り、すぐに席に座る。ドアが閉まると、電車はゆっくりと動き出した。
 途中の二俣川えきで人が増えた。その次の横浜駅で降りる。
 電車の青とホームの白の配色が、近未来的だと思っていた。険しい顔をしたサラリーマン、OLが、改札へとなだれ込む。みんな急いでいる。
 誰にも知られず「変身」するには、ぴったりな場所。
 改札を出て、トイレに急いだ。今日は運がいいみたいだ、二、三人しか並んでいない。
 個室に入り、鍵をかける。
 変身開始だ。
 美咲がトイレに入ってから出てくるまでを見ている人がいたら、驚くだろう。
 入っていくのは、野暮ったい黒縁メガネで、お手本みたいにピシッと制服を着た、地味な女の子。二十分後に出てくるのは、おしゃれな女子高校生。メガネは外してコンタクトレンズにして、制服は流行どおりに着こなしている。そして、メイクは完璧だ。
 トイレを出ると、ふわりと微風が通り過ぎた。人ごみの中を、JRの改札口へ歩いていく。誕生日のワクワク感も手伝って、気分は「変身」前よりずっと軽い。
 今の美咲を母が見たら、仰天してしまうだろう。母は、美咲がメイクしているのを知らない。黙っているのだ。母が、メイクしている高校生を見て、しなくていいのに、と言ったのを聞いていたから。でも、母は基本なんでも自由にさせてくれる人だ、メイクしたいと言ったら良いよと言うだろう。いつかは言おうと思いつつも、なんとなく言い出せずに今にいたっている。
 同じ高校の女の子たちは、ほとんどみんながメイクをしている。真面目に制服を着ている子なんてほとんどいない。染髪している子、パーマを当てている子も少なくない。
 自分だけかわいくないままでいるのは嫌だ。同じ高校生なら、かわいくありたい。だから、早めに行って勉強するから、と親に嘘をついてまで、メイクするのだ。…正直、もっと寝ていたいし、面倒なんだけれど。
 改札を通って、JRのホームへと上がって行くと、
「みーさき!」
声がした。おはよ、と手を振ったのは、茶色の髪をくるくる巻いた女の子。
「ハッピーバースデー、美咲!」
美咲は微笑んだ。
「ありがとう、若菜」
 若菜は、美咲と同じサッカー部のマネージャー。かわいらしい顔をしているが、メイクやヘアアレンジなど、さらにかわいくなるための努力を怠らない。ファッションだけでなく、勉強や行事、部活に対しても、いつでも全力。男女関係なく親切で、みんなの人気者だ。
 一緒に学校まで行く。電車から降りた後、途中で何人かに会った。おめでとう、と言ってもらった。
 学校に着き、それぞれのクラスに入る前に、若菜がプレゼントをくれた。予想通り、センスが良いかわいらしいものが詰まっていた。プレゼントとは別にもらった、手作りのカップケーキも、おいしそうだ。
 これだけレベルの高い物をもらってしまったら、若菜の誕生日には、何をプレゼントすればいいのだろう…。というのは、まだ考えないことにする。
 眠たい授業があっという間に過ぎた。部活が終わったのは、十八時。
 横浜で若菜と別れて、また相鉄線の改札へ。トイレに入る。今度は、変身を元に戻すのだ。個室から出てきたときは、完全に、朝家を出たときの自分に、戻っている。
 階段を登って、少し待ってから電車が来た。
 席に座って、スマホを開く。ラインが来ていた。
「美咲!誕生日おめでとう!」
 梨香からだ!彼女は、小学生の時からの親友。不思議なもので、学校が別になってからは、近所に住んでいるのにほとんど会わなくなってしまった。
 でも、美咲の誕生日は明日だ。
「ありがとう!!ひさしぶり」
「本当にひさしぶり!うちら何年会ってないのよ」
「記憶にございません」
「もうあんたの顔忘れたわ」
「ひどい!」
 しばらく、馬鹿なやり取りで盛り上がった。ずっと会っていなかったのに、中学のあの頃のままのよう。何も気にせず、くだらないことを言える仲が、心地よい。
 途中で駅に着いたので、一度トークを終わらせた。坂を上って家に帰る。夕食まではまだ時間があった。部屋のベッドに座り、梨花とのトークを再開した。
 お互いの学校の話などをしていた時だった。
「そういえばさ、美咲って、横浜駅で相鉄線から乗り換えてる?」
 梨香が聞いてきた。
「うん、JRに乗り換える」
「ほんと??この前あんたっぽい人見た気がするんだけど」
「え、そうなの?声掛けてくれれば良かったのに」
 「既読」になってから少し間を置いて、返信が来た。
「あのさ、めっちゃメイクしてなかった?」
 えっ。美咲は固まった。
 梨花と美咲の親は仲が良い。梨花が、このことを梨花の親に話したら。
 美咲は、一瞬小さく息を吸った。
 家族にばれたくない。
「え、メイク?してないよ?」
「だよね、人違いだったわ。すごくメイク濃くて、高校生に見えなかった。美咲があんなのするわけないよね笑」
 梨花は、変なスタンプ付きで返してきた。
 当たり前でしょ、何言ってんの。
 そう送って、ベッドに倒れこむ。もう寝るね、と言ってスマホを閉じた。
 仰向けで天井を見上げた。階下で、父が帰ってきた声がした。
 あの様子だと、梨花はメイクをしていないのだろう。毎日顔を作らなくて良いことに、いいな、と思ってしまう自分がいた。
 このまま嘘をつき続ける?
 高校卒業までの残り二年ちょっとの間、隠し続けることは出来るのだろうか。
 上機嫌の母に呼ばれるまで、美咲は、目を見開いたまま動けなかった。

 次の朝は、母の声で目覚めた。目覚まし時計をセットし忘れていたようだ。
 慌ててベッドから体を起こす。頭が重い。
 ほとんど眠れなかったのだ。梨花のこと、メイクのこと、ばれたらどうしようということで頭の中がいっぱいだった。
 バタバタと準備をして家から出たのは、いつもより一時間近く遅い時間だった。曇り空の下、坂を駆け下りる。
 横浜で降りる時間がない。電車でメイクするしかない。
 一晩悩んだ。メイクやめようかな、と昨日は思った。
 でも、やめるとしても、明日からにしよう。今日はいつもに増して酷い顔なのだ。
 なるべく空いている車両に乗った。周りには、眠そうな会社員たちと、スマホをいじっている男の子がいるだけ。
 ちょっとくらい、一回くらい、いいよね。そんなに迷惑なことでもないし。
 リュックで手元を隠しながら、メイク道具を取り出した。
 揺れている車内でのメイクは、思ったより難しい。鏡も、ペンシルを持つ手も揺れる。おまけに、二俣川から混んできた。気をつけないと、手が当たってしまう。
 それでも、「まもなく、横浜」とアナウンスが入る頃には、何とか見られる顔になっていた。揺れにもだいぶ慣れた。
 毎朝電車でメイクすればいいのかも。そうすれば、早起きしなくてすむ。
 もう一度鏡を覗き込んだ。普段とあまり変わらない顔が、眠そうに見つめ返してきた。
 そうこうするうちに、電車は駅に到着した。
 立とうとした時だった。
 あの、と声が降ってきた。見上げると、知らない男子高校生が、高い背を屈めている。差し出して来たのは、折り畳んだ小さな紙。
「えっ」
眠気が一気に吹き飛んだ。反射的に受け取ろうとしたが、
「横浜、横浜」
電車のドアが開いた。寿司詰め状態になっていた人々が、一斉に動き出す。慌てて立ち上がったと同時に、横から強く押される、思わず、指先で持っていた紙を離してしまった。
 押し流されるようにホームに降りながら、何度も後ろを振り向いた。もちろん、小さな紙切れなんて、人ごみの中で見つけられるはずがない。
 あの男子高校生も、いつの間にか見失ってしまった。

 授業中、美咲はぼんやりと窓の外を眺めていた。
 あの紙に、何が書いてあったのだろう。
 ちらっと見ただけだけど、あの人、かっこよかったな。
 もしかして…と考えると、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
 落とさなければ良かった。
 明日も、同じ時間の同じ車両に乗れば会えるかな…

 今日は部活が休みだった。
 電車に乗り、いつものように横浜のトイレでメイクを落とす。トイレを出たところで、ちょうど電車が来ていた。
 座ろうと、リュックを前に抱えた。
 普段使わないサイドポケットから、何か白いものがはみでていた。
 どきっとした。間違いなく、今日あの人からもらったものだ。落としてしまったと思っていたけれど、ここに引っかかっていたようだ。
 丁寧に折りたたまれた紙を開くとき、手が少し震えた。
 そこには、黒のボールペンで、
「電車でメイクするの、みっともないですよ。恥ずかしくないんですか?」
一瞬、意味がわからなかった。内容を理解すると、一気に顔が熱くなった。
 こんなこと、書かれてしまうなんて!
 「電車で化粧をするな」というCMやポスターを、何度も見てきた。それほど、いけないことだとは思っていなかった。それを言うなら、ヘッドフォンから音漏れしてる人とか、一人で何席も占領してる人とかの方が迷惑じゃない?と。実際、電車の中でメイクしてる女の人を見ても、不快になったりしなかった。
 でも、良くないなあと思う人が本当にいるなら。うるさいおばちゃんじゃなくて、同じ高校生に言われてしまうなら、やっぱり、良くないのだろう。
 よく考えてみたら、電車で親しい人が乗ってきたら、目の前でメイクはできない。本当は家でやってくるべきだもの、その人に失礼だ。
 親に嘘ついて、遅れそうになっても意地でもメイクして、注意されて。馬鹿みたいだ。今日はメイクしなくても良かったのに。みんなに言われたら、寝坊しちゃった、と言えば良いのに。
 ふいに、車内がぱっと明るくなった。
 雲が引き、あたたかい光が顔を照らしてくる。夕焼けの街は、オレンジ色に光っている。
「まもなく、希望が丘」
アナウンスが入り、電車は減速し始めた。
 母にちゃんと話そう。きっと許してくれる。これからは家でメイクしよう。
 いっそ、やめてしまってもいいし。
 開いたドアから、大きく前に踏み出した。

著者