1  その高校生の女子は、後輪が浮くようになる自転車のスタンドを立てた。後輪は少し空回りした。スポークに挟まるような棒が出っ張る鍵をかけ、やっと目を離すことがかなう。ポケットの定期券を気にしながら、安心感と新鮮さを持つ景色を見るため顔を上げた。二つは両立するのだ。毎朝、カーテンを開ければ朝日があるように。  月極という文字がどこにもない、駅前にある個人の自転車置き場だった。フェンスもなければ柵もないのだが、一日中見守っていてくれる、おばあさんの管理人はいる。敷地、というか庭を活用しているのだ。どこに置こうが自由なのだが、みな決まった場所で鍵をかけるようになっていた。松の木の下、おばあさんの目が届く縁側の近く、あるいは、仲良しの誰かの隣。安心感があり、かつ、太陽のように、いつもおばあさんが見守ってくれている。  普通の家や普通の庭だった。二階建ての家があり、ポストがあり、砂利の庭と少しの庭木がある。高校二年生の女子は沢山の自転車を見渡し、こんなに孫がいたら賑やかかもしれないな、と思った。  田舎の無人駅の手前だったので乗降客も少なく、学生のためだけに駐輪場を整備しても採算は合わないとみえた。それでも、中学生や高校生の数を合わせれば、それなりの人数だ。 「おはようございます、石井さん。じゃあ、いってきます」  石井さんは、朝と夕方にいつも立っていてくれる。横断歩道の緑のおばさんみたいに(たまに縁側で、遠くから来る本当の孫の相手をしていたりする)。女子は頭を下げ、目と鼻の先にある木造の駅舎に向いた。 「ちょっと」  んぐ、と喉につっかかった感じだった。 「はい」  石井さんが手招きをしていたので、他の学生が駅へ向かっているのを一人、別方向に行った。 「なんでしょう。あ、いえ、今月の使用料でしたら」 「どうして、毎日挨拶をしてくれるの?」 「しないん、ですか? みんな」 「しない人もいるのよ。でも、三山さんはしてくれるのね」 「だって、そういうものじゃあ」  三山は、自分が足踏みを始めてしまうのではないかと心配した。まだ電車まで時間はあるのだが、逃せば四十五分は待たねばならない。すぐに計算するが、時間を持て余すからといって一度、自宅に戻ったとしても、ゆっくりできるのは十分ちょっとだ。 「いえ、わかっているのよ。ごめんなさいね」 「わたしは、あの」 「学校が終わってからでいいのよ」 「聞きますよ」その場で深呼吸し、断りもなかったが撫でつけながら縁側についた。「おっしゃってください」 「また、なぜ。学校に遅れるのではないの」 「アポロンのおっしゃることですから……」  石井も縁側につくのだった。 「実はね、置き場をやめようと思って」  とりあえず驚いた。「ど、どこにもっと安い値段の業者が!? わたしはここを使い続けますよ!」  石井は笑いだす。 「まさか、ガンか何かが!」 「息子がね、一緒に暮らそうと提案してくれて」と、石井は言った。「嘘だけど」 「ここは空き家に? って、嘘なんですか」 「何かを感じる?」 「わたしは、ずっと管理人をやって欲しいって思います。だって、そうじゃなきゃ盗まれるかもしれないし。盗む人なんて、こんな田舎にはいないでしょうけど」  それでも、カゴにゴミを突っ込まれていたことは何回かあった。自分の自転車ではなくとも、ゴミそのものより、やった人間の心が嫌なのだ。その時のゴミはファストフードの紙くずと、コンビニで買ったらしいおにぎりのビニールだったが、わざわざコンビニの袋に入れてあった。口を縛って。悪いってわかってんじゃないか。  三山は、縁側から望める限りの、中にある部屋を見た。家という、材木やい草の集合体は自分ではどうにもできないかもしれないが、こたつやこたつ布団の柄や、出しっぱなしかどうかとか、その上にある薬の袋や水の入ったコップや、入れ歯のケースなど。全てが個性を表しており、目の前の人物に結実している。薬は血圧のものだと、なぜか知っていた。コップはガラスではなく、落ちても割れない素材だ。  家具調のシンプルな仏壇には、若い頃の旦那さんの遺影があった。  でも、なぜなんだろう。みんなの役に立っているのに。自然なうちに三山は自分を見下ろしており、ここで正座をしなければならないのではないか、と考えはじめた。本人は、自分の眉間の皺に気づいてもいない。 「どうして、なんですか」 「柔道ってやったことある?」 「授業で、何回かは。体育館に畳を敷いて」 「色々あったのよ。健康の心配もそうだし、あまりにまぶしくなってしまったのも理由の一つ」 「まぶしい、って?」  石井さんは太陽なのに。 「毎朝、若い人たちを見るでしょう。すると、自分がどこに立っているか、わからなくなってしまうの。他の理由も話しましょうか。わたしも買い物には出かけるんだし、四六時中、というわけにはいかないわ。いつも誰かがいるのが売りなのに、もし盗まれでもしたら?」 「そんな。でも、それと柔道のどこに……あっ」  効果。有効。技あり。累積していく。  石井はうなずいた。「どれが理由というわけじゃないのよ。ただ、ちょっと色々あり過ぎたし、もういいかな、と思えるようになったの」 「じゃあ、次は誰が自転車を見てくれるんですか」  問い詰めるような口調だったので自戒した。三山は、く、と小さな音を喉から発し、視線を逸らした。 「ごめんなさいね」  なんで謝るんですか、と言いかけた。こっちが、あんな声を出しておいて。自分のせいにもかかわらず、いたたまれなくなった。  ひょっとしたら、電車を待つ間の会話という物事は、世の中でも良好なことの一つに入るのかもしれない。やめ時が明確にあるからだ。三山は自然なうちに、時間を気にしだした。 「もう行ってちょうだい。おばあさんは大丈夫だから」  なぜ、自分のことをそう呼ぶんですか。なんなら、わたしは学校を休んで一日中、この問題について話し合ったっていいのに。休みたいからじゃないです。自転車が置けなくなったら、話しすらできなくなるんじゃないんですか。 「はい。じゃあ、いってきます」 「いってらっしゃい」  背を向け、定期券を確認し、険しい顔。     2  三山は、この世の全ての問題に対応する全ての解決法が、図書室にあると思い込んでいた。本はどの家庭にもあるだろうが、他の、たとえば理科室や音楽室の備品はない場合がある。にもかかわらず、ここは最も独特な香りがした。友人とお喋りもせず、ひっそりと引戸を開け閉めし、本が主役のところへ入り込んだ。カウンターには誰もいない。ここにある全ての図書の、裏表紙を開いたところにポケットがつけられ、貸出カードが入っているなんて途方もないことに思えた。  でも、どこを調べりゃいいんだろ。文学ではもちろんないだろうし、社会問題か? でも、分類にそんな項目があるなんて聞いたことがない。駅と、自転車置場と? いや、これは高齢者福祉に関してか? 気がつくと、冷やかしのような行動しかしていなかった。背表紙を、眉間に皺の状態で追うだけだ。縦書きの文章を読むようにタイトルを。今にも女主人のおばあさんが駐輪場を辞めそうな時に読む本、ってタイトルはないだろうなあ。  目に留まったのは、ベンチャー、という文字が入った題名だった。やっぱり起業なんて冒険だからか? 人差し指で上辺に触れ、倒した。生徒を教育どころか、焚きつける目的であるようにみえて気に食わなかったが開いた。数学と古文以上にわけがわからない内容だったが、どちらかといえば古文のわかりにくさに通じている。見たこともない記号はいいが、日本語なのに理解もできなかったからだ。  これはパスにしておこう。もっと簡単な、マンガでできてる入門書みたいなのはないかな。  自分の人生で一、二を争うと自覚できる困り顔をしていたが、気を逸らしたい気持ちが高まり、背表紙を見ないようにしていた。貼り紙が目に入った。曰く〈購入希望アンケート 次の本の中から選んでください。なお、他に希望があった場合は書名と学年、クラス、名前を記入してください。〉  署名? お願い? 嘆願? 歴史でやった目安なんとか? これだ。     3 「だめだったんです」  自転車の鍵を外すのは罪悪感が伴うとわかっていたので、そうなる前に近づかないようにした。重要なことだ。治療より予防が一番なのだし、こんな考え方もこまっしゃくれていると理解しているのだから。  夕方の、自転車がまばらになったそこは打ち捨てられた遺跡みたいだった。人も自転車も影は長く、時間すらもそうなっているようにみえる。三山がためらっていると、石井は声をかけた。正直に、だめだったんです、と申し上げるしかなかった。 「署名を集めるだなんて。学校や幕府なら動いてくれるかもしれませんけど、でも違うんです。一人の考えや感情なのに。ごめんなさい。わたしは間違っていました」 「もう決めたのよ」 「わたしは、どうしたら」 「新しい置き場所を見つけるのよ。それが、あなたの領分。わたしの領分が何かは、わかるでしょ。干渉についても」  だけど、と言いかけた。あまりに酷で、太陽が一度か二度ぐらいは傾いたようにすら感じた。撤退戦だってのか。負け戦だってのか。どれだけ被害を少なくするかで、解決なんてできないことなのか? 三山が拳を握りしめ、あまりに思いつめた表情になったので、石井が申し訳ないと思うほどだった。 「ね、三山さん。体に毒よ。今日のところは暗くなる前にちゃんと帰って、美味しいものを食べて、お風呂に入って、寝てね」 「わかって、います」 「どうもありがとう」  打ちのめされかけながら鍵を外すしかなかった。上の空で乗っていたので気がつくと家だった。いつも、今日あった出来事は母に報告するのだが嘘をついた。嘘は学校にいる頃から練っていたので苦労はしなかったが、負けを意識していたのかと自分が嫌になった。  翌日の朝と朝日。事故らないように気をつけながらいつものごとく自転車を置きに向かった。手段が目的となっていたが、悪いとは思わない。  見慣れない人間がいた。自転車もなければ学生でもない、自分の母親ぐらいの年齢の人だった。朝っぱらだが、きちんと化粧はしているようだ。にもかかわらず、服装は横に赤いラインのついたジャージだった。それらは良いとしても、腕組みと険しい顔が感情の全てを物語っている。自分はどうだろう、と眉間をつまんで揉んでから、三山は自転車を降りた。  その人は、石井を正面にしていた。「おはようございます」と、三山は女性のほうへ声をかける。 「ああ、聞いた?」と、女性。「困るのよね。あなたもでしょ」  同じクラスにいる女子が、同じような言葉で味方を増やそうとしているのを見たことがあった。嫌だった。 「ええ、聞いています」三山は石井のそばへ行き、肩に触れた。「どうしたの。何があったの」  石井はおろおろするばかりだった。 「察しはつきますけど。でも、仕方がないんじゃないんでしょうか」三山は女性を見据えた。 「でも、だってねえ」女性は自分の頬に触れた。「駐輪場がなくなるんじゃ、不便でしょ。ここにしかないんだもの」 「使われてましたっけ? おばさんは」わざと言った。 「うちの子が使っているのよ。なくなったら、徒歩で駅まで行かなきゃならなくなるわ」 「その、ご本人は? お子さんは?」 「学校に遅れちゃ大変でしょ」  うへえ。「じゃあ、こうしましょう。一人一人が言うんじゃ大変ですから、代表者を立てて、一任するってので。選挙と同じですよ」 「あなた、投票権なんてまだないでしょ」  うへへへえ。なるほど、この人は話が通じにくい、もしくは通じない人間であるとわかった。とりあえず追い返したいが禍根は残したくないし――禍根なんて言葉は初めて使った――できれば、自分の心の健康のためにも、この場でこてんぱんにしてやりたい。  なら、話題を逸らすという方法をこちらも使わせてもらおう。「でも、ま、そういや、前の衆議院議員選挙ではM候補にわたしは投票しましたけどね。頭の中だけで。おばさんは、誰に入れられたんですか」 「え? わたしも、もちろんM氏によ。当たり前でしょ」  あほか。そんな名前の人は立候補してすらいないっての。「じゃあ、やっぱり比例もB党に?」 「ええ。だけど、今話したいのはそういうことじゃなくて」 「おばさんって、何歳からおばさんなんですか? じゃあ、何歳からおばあさんになるんですか? わたしは小娘ってやつなんですか?」三山は自転車で訪れる他の中学生や高校生をいくつか発見した。「おーい。この人が話があるって」 「関係ないでしょ!」 「みんな関係者ですよ。そうじゃなきゃ、選挙みたいに代表者を立てるか、ですけど。」詰め寄った。ずい。「選挙に興味もないって、ばれてますよ? おばさん。自転車置き場より先に、子供に教えることがあるんじゃないんですか」  学生たちが自転車にスタンドを立てながら注目していく。あとひと押しかと思ったが、その必要はなかった。女性は退散していき、三山はいかっていた肩を下ろした。自分がこんなにも緊張していたとは知らなかった。 「もし辞められるにしても、わたしが全部、話をつけますよ。セッショウってやつ? も全部やります。あんな人がいるなんて信じられないけど、いるみたいですからね。まったく、なんで余計な仕事が増えるんだろう。いえ、ああいう奴のクレームの対策も、もしかしたら最初から考えておくべきだった?」  自問自答。 「どうもありがとうね。さあ、学校へ行って。もう電車が来るでしょう」 「休みたいですよ。今日は、今日も、か? さぼりたかったんで、渡りに電車ならぬ、船ならぬ、おばさんでしたよ。ここでもムカついて、学校でも主に先生とかでムカつくなんて身が持ちませんよ」三山は縁側へ目を向けた。「いいですか。疲れたんです」  返事を聞かないうちに、三山はさっさと歩いていった。どっかりとついたのは、いらつきゆえだ。石井はしばらく立っていたが、やがておもむろに同じ行動を取った。  日本のどこかでは、絶景に背中を向け深く深くお辞儀をし、股の間から天地逆に見るところがあるという。茶もお菓子も猫もない縁側で、三山はここからの景色を眺めた。視線は少し低く、今までは意識もしなかった置き場の反対側が見えた。石井さんにとっては、こちらからの見た目こそが本当なのだろう。三山は膝のあたりをならした。もうほとんどの学生が行ってしまったようで、自転車はいつもの位置にあり、どこにも変わり映えはなかった。素晴らしい。一応は携帯電話を持たされていたが、写真は撮りたくなかった。いや、撮るべきではなかった。三山はぼうっと、解釈をせず視界に景色が飛び込むままにしておきたかったが、勝手に頭は回転していた。ここはなくなるのかもしれない。自分には押しとどめる術はないのかもしれない。ダムに沈む村でこそないが、どこかに存在する、もしくは存在していたものより、三山にとってはこちらのほうが重要だった。故郷? 実家でこそないものの、準じるものだ。だが、石井さんはここで旦那さんや子供たちと暮らし、独立を見送ったり伴侶を看取ったりしたのだろう。自分ごときが解釈など、おこがましい。  なのになんで、こんなにも動揺しているんだろう。三山は胸に手をやり、ぎゅっと握りしめた。痛いのではないし、痒みでもない。でも、ずっとここにいて味わっていたかった。  逆に、見慣れているがゆえに石井に感興はなかった。微塵も。  なんとかして、この場を完璧なものにしたい。それでも、三山にできるのは携帯電話の電源を落とすことだけだった。     4  暖かくうららかな日だった。半袖はややきついが、歩いているうちに平気になってくるかもしれない。どんな服装にするか迷ったし、制服が一番いいのではないかという結論にもなりかけた。三山は半透明のボックスの前で、折りたたんである衣服を取り出してはしまった。家族に揶揄されるのだけは耐えられないのだ。お出かけ? 相手は誰? と。自分では神聖なつもりだったからだ。トイレに入っているところを見計らい、声だけかけて脱出した。  駅や駅前での待ち合わせではなく、駅前の自転車置き場で待つのだった。塀にはカレンダーの裏にマジックで書いた〈今までありがとうございました。〉の表示がガムテープで留めてある。なぜ、放置気味の自転車のカゴにはそれぞれ、小分け包装になっているアメが入っているのだろうか。  まだ時間はあったので、すぐそこにある木造の駅舎を見上げた。駅名の看板のみ新品に近く、汚れもなく白かった。漢字とアルファベットで名前が。改札口には人が立てるところがあり、駅員さんとパチパチのはさみがあれば絵になるだろう。でも、無人になって久しかった。造りつけのベンチすらも木製で、たまに親分のような猫がのびていることがある。今はいない。  待合室のそのベンチにつき、時間が過ぎるままにした。時刻表は駅名の看板の次に新しいとみえる。  入場券はなかったが、売ってもいなかった。三山はぱっとベンチから降りると、左右を見回してから早足で改札を通った。線路をまたぐ階段を上り下りし、誰もいないホームに立った。ここからは人の姿は、世界の終わりのようにどこにもない。近くに目を向けると、民家や舗装されていない農道が見え、たった今、ミニカーのようなのがひたすらまっすぐに走っていくところだった。国道を使わず、たまにこんなところを使う人もいるのだ。あらゆるものを見つつ、いちいち判断を下していくのは神様になったみたいだった。アポロンもこんな感じなのだろうか。  石井さんは、石井さんじゃないみたいな格好だった。  もう最終日である置き場で、三山はひょこっと頭を下げた。石井さんはゆっくりと礼をした。次に三山は、不思議そうにカゴを一つずつ見ていく。石井さんは、困ったように笑んだ。  世界の終わりの旅に出た。終末を存分に、楽しめはしないかもしれないが味わってやろう、というものだ。休日、日が昇って生物が活動しはじめてから、黄昏まで。人生を二十四時間にたとえれば、今の自分はまだ正午にもなっていないのだろう。でも、この人は違うとみえた。二人は縁側についた。 「家族か、仲の良い友達しか座ったことがないのよ」 「わたしは例外ですね」 「何を言っているの」石井は三山にたしなめるように触れた。「あなたは、家族のほうではないほうよ」  恥ずかしくてたまらなかったが、三山は居住まいを正すしか表現を知らなかった。  庭に向きなおる。世界の終わりならば、どこを切り取ろうと美しいのではないだろうか。見ているほうの感性や気分でどうにでも変わるのはわかっている。自分が感動する必要はなく、隣の――友達?――のことを考えるのだ。ふと石井のほうを見ると、目は潤んでいるように見え、映り込んでいる景色もまた水を含んでいるようだった。水っぽいのはごめんだし、我慢できなかった。何も解決できなかった自分に。座ったばかりで縁側に熱も移らないうちに三山は立ち上がり、松のそばに行った。  ざらざらの樹皮に触れた。どのくらい前からここにあるのだろう。伐採し年輪を確かめなければ、きっとわからない。人間にも同じようなことがいえるのか。その人をよく知りもしないくせに、残念だろうとか悲しんでいるだろうといえるのか。石井の目の潤みようは悲哀のそれではなかった。  三山は空を見上げた。松の木がもしもまっすぐで、宇宙エレベーターのように天空まで届いているとしたら、それをたどっていく視線だった。快晴であり、雲もまばらにしかない。三山はそこに、今にも激突せんとしている隕石かUFOを期待したが、どちらもなかった。終わりや破滅を示してくれる存在が欲しかったのだ。  三山はすごすごと縁側に戻っていき、足の力をなくすことによって座った。隣の友人は動じてもいなかった。やっぱり今日で終わりなんだな、と意識した。庭には、まだ取りにきていない生徒の自転車が数台残っている。  それでも、引き取りに来る人間が現れた。いつも同じ駅を使い、知り合いではあるが、よくよく見てみると、こんな人いたっけ? となるような人間だった。中学校の制服で、まだ十四、五歳だろう。少年はこちらに気づくやいなや、開口一番に発した。 「日割り計算、できますか? ほら、今日は月末ってわけじゃないし」  三山は面食らったが、石井は穏やかだった。 「今、計算機を持ってくるわね」石井は膝をかばいながら立った。  三山が信じられないという表情をしている間、少年はカゴに入った二個、それぞれ色が違うアメの包装を破り、一緒に口に放り込んだ。少し舐め回していたが、左右の奥歯で噛み砕いた。音がこっちまで届くようだ。まさか、こいつの母親は? いや、誰であろうとどうでもいい。三山の脳裏には百ほど拷問の方法が浮かんだが、友人への迷惑という一念が押しとどめた。  石井が、掌で包み込めるような計算機を持ってきた。電池は残っているかしら、と何度も裏返しだしたが、三井はそれをひったくる。0の字が浮かび上がったが、素早く37564、加えて49と連続で打つと、目の前にいた少年に突きつけた。 「少しは考えろ! この……いや、話す価値もない!」  三山は石井の手を引いた。 「二人乗り。しょっぴかれるかもしれないけど、しませんか」 「二人乗り? そんな、でも」 「今すぐ、かっ飛ばしてどっかに行くんですよ」 「どこに?」 「なきゃいけないんですか。目的とか目的地とか、なきゃいけないんですか」  三山は自転車の鍵を外し、スタンドを蹴上げた。繋がれた馬を解放した。またがり、荷台をぺしぺし叩く。少年が見ている中で、石井も乗るのだった。  全てを背後の方向に過ぎ去らせるように発進した。もう前しか見えないし、見なければ危険だ。石井は三山にしがみつき、三山は思考を足の回転によって打ち消そうとした。いつもの駅通りのはずが、意図して視界をせばめているせいで小さい。小窓の中に収まっているかのようだ。車輪が回転する音と、呼吸の音のみが聞こえた。  向こうから誰かが来た。休日に登校もないだろうが、指定の自転車を使っている学生だ。風を切りながらすれ違うと、石井に気づき驚いたので少しだけ良い気分だった。そうよ、この人はもう出ていくのよ。出ていったのよ。  石井は、自分があまり外出していなかった事実を噛みしめた。置き場の利用者はいつも、このような景色のほうを噛みしめ、いや、味わっていたのだろう。番をする必要がなくなったので、これから自分は学生のように出かけられるのだ。いや、置き場の番をしていたとて、出かけられていたはずだった。そのつもりがあれば。  交差点に出て、三山が信号で止まった。石井が少しばかりぎゅっと力をこめると、三山はどうしました、と聞いた。 「わたしがこいでもいい?」 「もちろん」  三山と入れ替わったのではなく、石井は自分だけがまたがっている状態にした。サドルが多少高く、目線もまた高い。 「ちょっと行ってくるわね。あなたはいつも、どこから乗ってきたの」 「家、ですが?」 「そこまで行くわ」 「はあ」 「その先には何があったの?」 「家の先、ですか? 家を中間点として、学校とは反対側にあるもの? 何かはわかりませんけど、まあ、未開の地かも」 「見つけに行ってくるわね」 「石井さん?」  くしくも三山が自転車を馬にたとえたように、石井もそれの横っ腹を足で打つのだった。拍車。開拓。  三山は、徐々に小さくなっていく後ろ姿を見守った。石井が生徒たちの心を噛みしめているように、三山もまた帰る場所を守る者の気持ちを知るのだった。歩いて戻り、置き場にずっといるつもりだった。石井が帰るまで。  同時に、尊い仕事が一つ消えたのだなとわかり、とても残念だった。     (終)