*鉄道小説大賞応募作品* 【作品タイトル】丘のうえの夏 【作者】手嶋淳 【以下、本文】  ベビールームの中では何の心配もいらない。  天下泰平ののどけさのなかで思いのまま、なすがまま。あっちのものを口に入れてあむあむして満たされ終わったらこっちにまた手を伸ばす。のびやかにふわりと視線を浮かせて身体をよじらせてみせる。ひらりと体制を整えてまた次の興味へと移っていく。  そんな仕草を目で追っているコトリは右手の指先でつまんでいるけん玉の存在をすっかり忘れてしまっている。宙に垂れる玉が待ちぼうけを食らっている。  二つ目の部屋を覗いてみる。  そこは子ども部屋。闊達に動き回ってもりもり食べ、羽ばたく日に備えてがっしり逞しくなってゆく。厚みを増す胴回りには頼もしさすら感じる。ベビールームとは雰囲気が異なり活気に溢れている。みんな元気で問題なし。いいじゃん。カチッと明快な音がしたのは、コトリが剣先に玉を嵌めるのに成功した音。  水色の亜麻カーテンを手の甲で払って、最後はサナギ部屋。この部屋を出るときは、保土ヶ谷の丘を駆け上る気流に乗って羽ばたいていくとき。小さく軽い和紙のぼんぼりのようなサナギが二つ、木の枝と部屋の天井にそれぞれ静止している。エメラルドグリーンの生きものはどんな夢を見ているのだろう。  幼虫たちの観察はコトリの毎日の楽しみであり、日課だ。なぜ三つの虫かごを置いているのか。観察しやすいようにという理由以外に、過保護な理由があった。当初は、いろいろな成長段階の青虫たちを一つのスペースに入れていた。  しかし二週間前、サナギの上を這おうとするちょこざいな幼虫に対して、サナギが暴れ馬のごとくびくんびくんと跳ねて抗戦しようとするのをコトリは見たのだ。一緒にいた夫の真都としばし見つめ合った。目をまん丸にしたまま「え、今のなに!」と、真都は笑い、口元がほころぶ。白昼夢だったのか、サナギは何もなかったかのように静止している。  サナギとて眠りを妨げられるのは不快だろう。まったく抵抗ができないとしたなら死活問題になりかねないだろう。そんな会話を交わして二人はとりあえず落ち着いた。  真都が同じ虫かごを二つ追加で買ってきたのはその翌日だった、というわけだ。  夏も終わりの熱帯夜。まとわりつく夜気。上星川駅のホームに普通列車が停車すると仕事を終えた人々がホームに降り立ち、階段をゆっくりと目指す。  真都もまた階段から改札を抜けて南口に降り立った。  しばし考える。  青虫のエサを補填するのは真都の仕事。葉っぱが尽きかけているので今晩エサの補填は必須である。  帷子川に先に向かおうか――。  帷子川沿いには彼らの故郷のミカンの木が生えていて、旺盛に葉を生い茂らせているのだ。帰り際に氷を買ってきてとコトリに頼まれたのはアイスコーヒー用のかちわり氷が必要ということなのだが、ローゼンで買い物をした足で帷子川へ迂回したならば買い物袋のなかで氷が溶けてしまう羽目になるかもしれない。  真都は新芽を手折り駅前へ戻ってゆく。そしてローゼンをうろつく。腹ぺこの仕事帰りは陳列だなに並ぶどれもこれもが食欲をそそり、ついつい首を伸ばしながら一巡りしてしまうものだ。白色光に包まれながらひんやりとした冷凍コーナーに立ち止まった時に我に返る。早く帰ろう。手折ったミカンの枝が四方八方に香りをまき散らしている……。濃く、甘く、苦くて酸っぱい、フレッシュな香り。  玄関を開けると、リビングに家族みんなが集まっていて何やら夢中になっているような雰囲気だった。 「まこと〜、きてきて!」  玄関の真都に気付いた五歳の峻多がすぐに飛んできた。 「峻多、まだ起きてんの?」 「見て、見て」  父親に何か面白いものを見せようと興奮している様子だ。「なんだ、いきなり」と言いつつ一緒にリビングに入り、ソファであぐらをかいている笑顔のコトリにただいまと言う。  その時にコトリが後ろ手に隠している真っ黒のものがちらりと見えたのだが、それは押し入れのどこかにしまってあったくまモンのぬいぐるみ。峻多がさっとそれを掴み上げて生後九か月の櫂の目の前に突き出した。と、笑顔の櫂がうろたえ後ずさった。目新しいものにはなんであれ一直線に摺り這いして勝ち取って、口に入れて威勢よくなぶるいたずらな赤ん坊が。 「あれ」  もう一度くまモンを目の前に見せるとやはり櫂はまごまごする。 「櫂にも怖いものがあったんだな」  コトリと峻多はその発見に盛り上がっていたようだった。  布団に入るとさっさと寝付くかと思いきや、峻多はもぞもぞ寝返り、櫂はふがふがと泣いている。櫂に添い乳するコトリは「まだ寝ないのか〜」とやきもきし始めた。じくじくした時間が流れる。やがてコトリは「寝ないなら、もう知らない」とぷいっと櫂に背を向けた。眠いのか、疲れているのか、コトリも限界なのだろう。真都は真都でスマホをいじりながら峻多の肩をとんとんして寝かしつけながらぼんやりコトリの言葉を聞いていた。  と、もう寝付いたかに見えた峻多がむくりと半身を起こして真都に小声で耳打ちした。「もう知らないなんて言ったら櫂がかわいそうだよって、コトリに言って」――おそらくコトリの耳にも聞こえたであろうそのまっすぐな言葉は印象的に心に響いた。真都は「分かったよ」と伝えて峻多の頭をなでた。  二十三時を回るころ。アイスコーヒーを飲みながら、二つの部屋を掃除する。糞を捨て、古いミカンの木を取っ払ってそれぞれの部屋に新鮮なミカンの木をレイアウトする。そして、サナギを見る。 「下の部分が黒くなっているな」 「今晩から明け方だね」  コトリは柄の長いスプーンでかちわり氷をカラカラさせながらサナギ部屋を覗き込む。黒くなってきたかと思うと、やがて透けて羽根の模様が見て取れるようになる。そうすれば翌朝だ。音もなく大きく美しい羽根を広げる瞬間が待っている。 「さっきさ」 「なに?」 「峻多が言ってたよ。櫂がかわいそうだよって。もう知らないなんて言わないでって」 「うん、聞こえてた」 「櫂が悲しんでいるように思えたんだろうね」 「そうね」 「峻多が見た悲しさってのは、本当に櫂の悲しさなのかな」 「え?」 「ひょっとすると峻多の悲しさじゃないかな」 「どういうこと?」 「ゼロ歳児にははっきりした悲しさなんてたぶん芽生えてないさ。たとえ本当に見放されても、見放されたなんて自覚はない。言葉も態度も意味が分からないだろうし。だけど、峻多は錯覚したんだ。櫂は悲しいに違いないという、錯覚。なぜかというと、峻多の中に悲しみという感情がしっかり自分の中にあるから。だからこそ、他人に投影してみるんじゃないかな」  コトリは顔から笑顔を消した。 「峻多は悲しみを味わったことがある。『もう知らない』って見放される悲しみ」 「そうなのかもしれないけど」  コトリは声を低めて言う。 「私の五年間を否定されたような気持ちになる。つらい」  いつもとは様子が違った。時に深く言葉が刺さってしまうことがある。 「ごめん」  真都は言葉が詰まった。 「誰のせいとも言えないものだけど……」 「私のせいだと言いたいんじゃないの?」  峻多は今まで親一人子一人の二人きりで生きてきた。二年前に真都と一緒に住むようになり、九か月前に櫂が産まれて一気に日常が賑やかになった。点々と住む場所を移し、多くの出会いと別れを経験している。  その峻多の人生にぴったり寄り添って歩んできたのがコトリである。苦しませた苦しみも知っているし、分かち合った苦しみも知っているし、分かち合った楽しみもまた、知っている。  真都はそのことをある程度は理解しているつもりだった。にもかかわらず、峻多とコトリの二人の歩みを軽々しく否定するような、しかも他人事のように突き放した態度だっただろうか。 「真都は平気でそういうこと言えるよね。悲しい思いをさせたかもしれない。でも、しょうがないじゃない」  コトリは寂しそうに言った。 「あとさ、ゼロ歳児にだって、悲しさはしっかり芽生えているもんよ」  コトリのその言葉は冷め切ったホットコーヒーのようなものだった。  目を合わさず、キッチンに立つ真都の肩に手を置いてコトリは布団にもぐった。残された真都はコトリの寂しげな肩を見送っただけだった。  眩しい太陽が照り付ける朝、サナギを破って羽を広げてしきりにばたついている成虫を見つけたのは峻多だった。 「おおー! 蝶になってる。キアゲハだ!」  みんなで虫かごの中を覗く。チーズパンを口の中に入れたままコトリはよくよく観察する。そして四枚の羽根のうち一枚欠損しているのを見て取ったのだ。 「見てごらん。羽根が一枚ないよ」  真都は狭いかごの中でばたついている程度にしか見ていなかった。が、確かにコトリの言う通りだった。手こずっているように見えたのはかごのせいじゃない。自由に空を飛ぶのは絶望的だ。 「どうする?」  駐車場の植木にその蝶を放しに行ったのが真都だった。  ふわふわと浮遊をしながら植木に落下して、しばらくは植木の上を這い、浮き上がらない自分の身体を浮かそうと三枚の羽を上下させている。もう一度そのキアゲハを捕まえるのはそう難しいことではなかった。真都はキアゲハをビニール袋に保護し、帷子川のミカンの木に向かった。  真都の考えうる限りで、キアゲハにしてやれることはそれだけなのだ。  翌週の週半ば、お昼に差し掛かろうかという時。真都も峻多もいないがらんどうの明るい部屋のなかで虫かごの観察をし終えたコトリは、異変に気付いた。  釣り糸で曳かれるように両目玉がめいっぱい上瞼の裏へ隠れ、全身がガタガタと打ち震え続け、それから櫂はすっと呼吸を止めた。  あまりに急な出来事だった。  長く感じる。嘘のように響き渡る自分の上ずった声を聴きながら、痙攣の様子、呼吸の様子、目玉の動き、顔色、すべてをコトリは頭の中のメモ帳に速記した。  時計の針が二分三十秒を経過したとき、糸が切れたかのように張り詰めたものが緩和されてゆく。  ふうっと焦点を取り戻して母親の顔を見ようとする櫂に、コトリは声をかけ続け、痙攣が落ち着いたタイミングでかかりつけの病院に電話する。  熱性痙攣を診断されて経過を見守るのだが、その日中に二度、そして深夜に三度目のひきつけを起こしたため、救急車で緊急病棟に運び込む。コトリはその足で一緒に入院することになり、一通り診断と手続きを終えたのは深夜の二時を回っていた。  眠る峻多をおぶって真都がやってきたのは、帷子川のミカンの木。夏の湿った空気を帯びてむせ返る濃厚な香りは少し心落ち着くものがあった。  峻多が一人きりで家にいることはできないので、何をするにも峻多と一緒でなければならない。二人を入院させた夜もまた真都はエサを求めてやってきた。  目の前に繁茂するミカンの木の中からもっとも美味しそうな葉っぱを摘み取る。いつも以上に、目を凝らす。  何かを占うような気持ち。  街灯を頼りに葉を一枚ずつ丹念に調べる。家で待つ幼虫たちに柔らかくて匂いたつ極上の葉を持ち帰ってやろう。たった一本のミカンの木を舞台に小さな生命がうごめいていた。新しい卵が産みつけられている。つやつやした卵を見つめるほどに持ち帰って育てたくなるものだが、その葉っぱは手を着けない。今はこれ以上の幼虫を育てることはできまい。一齢幼虫の姿も見つけることができる。無心に葉を削り食っている。現実と夢が渦のように巻いて混ざり合わさっているのだろうか。寝ていたと思った峻多が肩で寝言のような言葉を漏らす。 「ううう〜ん。コトリ」  真都は一仕事を終えて帰路に着く。八王子街道を渡り、深夜の階段を四百段登り切った高台の我が家へ。  十年前の春、コトリと真都は上星川の高台の蕎麦屋で出会った。  中央病院のほど近くのその十席もない蕎麦屋は当時大学生だった真都のお気に入り。小鉢も丼も蕎麦も美味い。休校日の昼、程よい満腹感を得て散歩に出かける。住宅街を歩いていけば羽沢駅を眺めて楽しめる陸橋があった。  羽沢駅は真都が今まで一度も見たことのない貨物専用駅だった。多数のレーンと巨大倉庫。小さな貨物が集積されていき、そして配送されていく。  駅で貨物列車が通過していくのを見ることがある。それは決められた時間にめがけて忠実に仕事をこなしている表情だ。しかし羽沢駅ではまた別の表情を見ることができる。ある貨物列車は昼寝をしている。貨物が引き下ろされた列車が停止している様は長期休暇中にも見える。またある列車は充電期間を終えて億劫そうに仕事にとりかかり始める。そう、ここでは貨物列車の別の表情が様々に見られるのだ。  駅前の喫茶店でのんびり過ごすこともあった。丘の下を切通しのように走る八王子街道を歩き、和田町へ、そして雉子川沿いに逸れて星川、天王町と歩く。時には横浜駅まで歩き切ることもあったし、星川駅のドトールで本を読みながら雉子川を眺めたりした。この雉子川はぐねりぐねりと丘の間を縫ってうねりながら横浜港まで流れ着くのだが、横浜駅近くの川沿いおでん屋街を通過していくのだ。どこに行っても丘の起伏が楽しいのが横浜だ。見て楽しく、登って楽しい。  薄暗くなってきたなかで四百段の階段を上って上星川のアパートへ戻る途中にお気に入りの場所があった。一番星と夕暮れる町を見晴らせる、せりあがった場所にある駐車場。俺のいる丘とは別の丘に住まう家々の明かり。  過密する斜面の家々は美しい夜景を生む。そしてヘッドライト、下方の八王子街道からざわざわと届く懐かしい騒音――煌く夕景の向こうに暮れなずむ富士山が見えた。  その日は不思議だった。  思い出しても思い出せない。どんなふうないきさつだったのだろう。とにかく蕎麦屋で初めて会った真都とコトリはその場で喋り、その場で意気投合したのだ。真都は授業がなく、コトリは授業をさぼったのだったか。二人はそのまま散歩に出かけたのだった。  コトリは南区に住んでいた。南区もまた同じように丘がちだよ、と丘トークで盛り上がったことだけは覚えている。コトリは京急沿線弘明寺の門前町に住んでいたのだが、お寺の裏の丘を登って景色を眺めるのが好きだった(のちに真都もその丘を何度も登ることになる)。なにはともあれ、真都の丘トークが初めて通じた(というより初めて炸裂させた)のはこの蕎麦屋後の散歩中だ。  縄文時代、海がもっと内まで迫っていた縄文海進時は今と大きく地形が違う。真都は丘に登ってその当時の景色を重ね合わせて想像して楽しむ癖があった。江戸時代の吉田新田埋め立て前の東海道沿い宿場町や寒村の風景、明治開港後の風景などを想像しながら丘から景色を眺める習性を持つコトリと意気投合しないはずがない。  駅前に戻って満天の湯で汗を流してから夕飯をのんびり食べながらも話はとどまるところを知らなかった。  二人は出会い、よく喋り、喋り尽くした三年後に別れた。しかし、喋り尽くしたかに見えたが実のところ、まだ喋り足りていなかったのだ。  別の男と離婚が成立した後のコトリに再会した真都は、もう一回二人の生活を始めようと伝えた。そのようにして、かつて暮らした上星川近く常盤台にて新しい生活が始まったのだった。  病院では櫂の脳波検査や容体観察が続いていた。医師の診断、コトリの話、自分で調べたことを総合すると、このままいくならば大事には至らず退院のはずである。特殊な熱性痙攣ではあるが、安定状態がこのまま続けばそれで終わり。事態が急転しない限りは……。  櫂のことを心配するだけで時間は埋まらない。気付かざるを得ない。尽きない心配と、引き続く日常と、そして、自分の心にうごめく不可思議な気持ちに。  あの夜のコトリの思い。コトリと櫂と峻多の悲しみが一斉にたばになって、真都の心の根っこの部分を揺さぶるかのようだ。  なんでだろう……。  真都は昔のことを思い出しがちになっていた。  峻多を保育園へ送って仕事をし、早退をして峻多をお迎えに行く日々が続いた。そして二人で雉子川に行ってミカンの葉をもぐ。帰って早くテレビが見たい、と峻多は言うが、真都は新鮮な葉を峻多と一緒に取りたかった。  駅前の中華料理屋で二人してたらふく食べた夕方、帰宅するとアオスジアゲハがその姿を現していた。  アオスジアゲハは美しい。コバルトブルーの玉模様が点々と黒地のうえに線上に並んでいていかにも優雅だ。薄闇のなかにアオスジアゲハを放した。 「バイバイ〜」  風に巻かれて視界から消えそうになりながらも、いつまでも真都と峻多の目の前から去ろうとしない。写真を撮ってコトリに送る。  コトリは櫂の容態を伝えてくれる。入院中に何があったか、今度のお見舞いのときに何をもってくるべきか、面白い看護師さんの話、など、さまざまに話をしてくる。  そんななかでも、喉に骨が引っかかっているかのように真都は感じる。  十年前の春、丘トークをした日のこと。閃光のようにあの日の二人の姿が脳裏によみがえり、真都はゆらゆらと揺さぶられる。 「川」の字ではなくなった寝室。コトリと櫂のいない部屋で、隣に寝ている峻多のひっそりとした寝息を聞きつつ、真都は豆電球だけの天井に目を凝らす。  二人が別れた日のことも鮮やかに蘇る。  家族が増え生活が目まぐるしくなると、たった一人に向けて感情がぎゅっと結晶する恋愛的な感情は霧消していく。ちょっと懐かしいな、と真都は苦笑いがこぼれそうになる。自分を見失いそうになるような胸の苦しみ。もう二度と味わえないだろうし、もう二度と味わわないだろう。三年の付き合いを経てふられたときに感じた、えぐられるような悲しみ。懐かしさとともに具体的に思い出されてくる。  そんな折だった。  巡る思いと記憶の渦から抜け出てぽっかりエアポケットに入ったかのように、ふと真都は自分自身のことについて、ひとつ発見した。  弟に自分の寂しさを投影したのがお兄ちゃん。そして子どもたちに自分の寂しさを投影しているのはお父さん……なんじゃないか?  自分とて子どものような悲しさがしっかりと存在する。忘れてはいやしないか。自分は無関係かのように装ってはいないか。父親であることを気負い過ぎているのか。  真都はつぶやいた。  コトリがいないのは寂しい、と。  上星川の丘の上は夏の星座が光り瞬いていた。丘の上のさらに上空、大気は大きく移り変わろうとしていた。屋根の下で真都は相変わらず豆電球に目を凝らしていた。電子音が絶え間なくなり続く病室で眠る母子を心に描きつつ。  真都はスマホを取り出して「コトリがいなくて寂しい」という言葉をコトリに伝えた。唐突で場違いかもしれないけど、今、伝えようと思い立ち送信したのだった。  自分は、自分の悲しみを五歳児に投影する三十一歳児かもしれない……。だけどそれでいい。実際そうなんだから。  豆電球を見ながら、そんなことを考えていると、スマホが震える。 ――ありがとう ――いやいや、こちらこそいつもありがとう  うまく伝えることができないので、きちんと話をしたい気持ちが溢れてきた。 ――大変だけど、お互いがんばろう ――だね ――櫂もがんばっているよ  ほら。と言わんばかりにコトリは画像を送信してきた。注射針からチューブでつながれた櫂。両手に黒い物体を抱きかかえて大喜び。夢中でくまモンのぬいぐるみと戯れている姿だった。  病室の櫂は逞しかった。いろいろなものを乗り越えていたのだった。  八月最終週の週末、櫂は無事退院となった。真都と峻多は入院用の荷物を運んで帰ることになるのでなるべく身軽に家を出る。  丘のうえの街は夕暮れ時を迎えていた。峻多は歩きながら草を触り、草を引っこ抜いた。テニスラケットバッグをかついだ学生たちがはしゃぎながら通り過ぎる。その嬌声が途絶えたところ辺り、夕餉の香りがそこはかとなく流れてくる。  ダッと、峻多が駆けた。このまま八王子街道までの階段を一気に駆け降りるつもりか。追いかけてやろう。と真都が一歩踏み込んだ時、目の前を黒いものが通り過ぎた。  瞬間的に真都は錯覚した。  その黒いものがアゲハ蝶に見えたのだ。この夏羽化させた何匹かのうちどの蝶のことを思っていたのかは分からないが、確かに風に吹かれて丘の上を舞っていた。風はない。音もない。空気もない。真空管の中のような澄んだ空を、落ち着き払った態度で渡っているのだ。 「アキアカネだ!」  峻多がきっぱりと力強く叫んだ。刻を告げるかのように。季節の移ろいを宣言するかのように。鳥目がちな真都は目をしばたかせ、錯覚から覚めた。  遠く富士が霞んで見える夕景に乱舞するアキアカネ。どこにもアゲハ蝶の姿は見えなかった。 「まこと、早く!」 「だな。二人が待っている」  峻多を追いかけて真都もまた駆け降りた。                                  了