「なに、富田ちゃん、彼氏いないの?」
六つ年上の川本さんがお菓子をテーブルに広げながら聞いてきた。
八畳の和室には大きめのサイドボードが置かれ、凝ったカットが施されたグラスや木彫りの熊、酒、こけしなどが飾られていた。畳は日に焼けて白っぽくなっており、すべすべと手に馴染んだ。
人の家に上がり込むのは何年ぶりだろう。友達とは違う、世代の離れた人の家に。よくある古風な一軒家だった。道路に面して小さな金属製の門があり、狭い玄関には飾り棚を兼ねた下駄箱が設置され、こまごました鍵やら造花やら小銭やらが雑多に置かれている。染みのある壁紙、物で溢れたキッチンテーブル、冷蔵庫に貼られたたくさんのマグネット。スーパーの袋、重ねられた食器類。人の生活が濃く強く感じられた。佐々木さんはここで成長してきたのだ。
「こっちは散らかってるんであんまり見ないでくださいね。二階はちゃんと片付けてますから大丈夫ですよ。これ持ってってもらえます?」
そう言いながらも佐々木さんは散らかったエリアをあまり隠そうとはしていない。見られて困るとも思っていないようだ。
「富田ちゃん、どういう人がいいの? 誰か紹介してあげる」
いつもの華やかな服装とは打って変わって、今日の川本さんはジーンズにゆったりとしたニットを纏い、リラックスした雰囲気だった。ゆるくウェーブのかかった髪を無造作にまとめ、爪はつやつやしたベビーピンクに塗られている。
「え、いや、そんな、私モテないんで、もう仕事に生きようかと……」
「何言ってんの、もったいないよ! 来月なんだけどさ、あたしの友達が飲み会企画してるから一緒においでよ。ほとんど知り合い同士だけど、新顔連れてくるって話だからさ」
「みんな駅に揃ったみたいだから迎えに行ってくるね!」
階下から佐々木さんが呼びかける。
「留守番お願い!」
良く知った人も、いったん職場を離れると一味違っていておもしろい。コンタクトの遠藤さんは眼鏡をかけているし、いつも背広姿の係長がオシャレなチノパンできめている。襟付きのブラウスを毎日着用している藤田さんはボートネックのニットを着ていて、きれいな鎖骨がのぞいていた。及川さんと児玉さんはいつもよりお父ちゃん的なダサさが加わってほほえましく、シンプルなアクセサリーしかつけない木村さんは大きくて奇妙な形のピアスをつけてきた。
「それ何の形ですか?」
「ひょうたんです。手作りなんですよ」
言いながら誇らしげにピアスを見せてくれた。
「今日は気楽に楽しむことが目的なので、みなさん、ここを自宅と思って好きに過ごしてくださいね」
佐々木さんが乾杯の挨拶をすると、一気に場が和やかになった。私はしばらくぎゅっと正座して緊張していたが、次第にそれもほぐれていき、みんなの話を聞いたり、聞いてもらったりしているうちに温かく朗らかな気持ちになっていくのを感じていた。仕事の愚痴や笑い話、今後のキャリアについての悩み、職場の人の裏話や子供の話など話題は尽きない。私はこれまで一体何を怖がってきたのだろう。
「富田ちゃんは恋愛よりも仕事が好きなの?」
ワイン片手に川本さんが聞いてきた。佐々木さんがそれを聞いて場所を移動してくる。
「なに、富田ちゃんの恋愛相談ですか? 僕で良ければお話聞きますよ。川本さんより人生経験ありますんでね」
「佐々木さんずるいなあ!」
私はアルコールの力も借りながら、これまで自分が経験してきた手痛い恋愛失敗談を二人にすっかり話してしまった。好きだったのに付き合ったとたんに嫌いになって別れたことや一緒にいると体調が悪くなると言われてフラれたこと、好きだった人がみんな友人と付き合ってしまうこと。二人はじっと耳を傾けてくれていた。
「恋愛自体が向いてないのかなって……」
そっかあ、と唸りながら佐々木さんが遠い目をした。大変だったね。
「ご存知の通り僕バツイチなんですけどね、離婚ってほんっと大変なんですよ、二度と人を好きになるもんかって、絶対に結婚なんかするもんかって腹の底から思うんです。うん。つらかったなあ」
そう言いながらも、佐々木さんの目元は楽し気に緩んでいる。
「でもね、恋っていいもんなんだよね。いいもんなんだよ。うん。実は今少し仲良くしている人がいて、もうそれだけで毎日楽しいったら――」
「え、ちょっと佐々木さん、何それ、聞いてませんよ! 詳しく教えてくださいよ。ねえ富田ちゃん、こんな適当でも何とかなるんだからあまり気にしなくても大丈夫なんじゃないのかな。仕事に生きるなんて早すぎるって。だからまずはね、お姉さんにまかせてみなさいよ」
彼は高林と名乗った。星川駅の近くに住んでいるという。駅から区役所の脇を抜けてずっと山を登っていくんだと。冗談がすぎると思った。佐々木さんといい高林さんといい、こんなに重なることってあるのだろうか。
川本さんの友人の企画は、予定通り佐々木家での宴会から一か月後に実現した。金曜日の午後六時半から桜木町。合コンではないが、私にとっては川本さん以外全員初対面なので朝から胃が痛かった。仕事にかこつけて一時間ほど遅刻してお店に入ったら、空席は一つだけ、目の前には少し年上と思しき男性が座っていた。川本さんの言う「新顔」の一人だろうか。話題が豊富で、高すぎず低すぎないきれいな声をしていた。こんなバランスの取れた人、どうせ彼女もちか既婚者だろう。「新顔」ではないはずだ。でも何だろう、話しているだけでとても気分が落ち着いた。
「星川の山の上じゃ大変ですね。毎日トレーニングじゃないですか」
「そうなんです。でも僕走るんで、全然大丈夫なんですよ」
「マラソンですか?」
「フルをやります。あの辺りは高低差があるから、鍛えるにはちょうどいいんです」
「私、今神奈川区に住んでいるんですけど、一人暮らしを始める前に、星川と天王町近辺を下見していたんです。そういえば駅伝のコースも近いですよね」
「国道一号線ですね。毎年見に行ってますよ。そうすると松原商店街もご存知ですか?」
「あの辺には商店街もあるのですか」
「ええ、有名ですよ。天王町駅から北に十分ほど行くとあるんですが、一度行かれるといいです。活気がありますよ。野菜とか肉とか安いんですが、何しろ量が多いんで一人暮らしにはちょっとしびれますけどね」
「全然知りませんでした。天王町は駅前を通りかかっただけでよく見ていなかったもので。でも、駅前の神社と川は、とても気に入っています。あの橋のところで毛足の長いこげ茶色の猫がひなたぼっこしてたんです。あんまりかわいかったんで立ち止ってしまいました」
「猫がお好きなんですね。僕も昔飼ってましたよ。外から入り込んできたのが居着いたんです。かわいいですよね」
一時間半があっという間に過ぎ解散の時間がきた。会話が続いている間は楽しかったが、合間に沈黙が挟まると鋭い緊張が走るため、席を立つときにはぐったりと疲れていた。挨拶しようと思って辺りを探したが川本さんはさっさと帰ってしまったようで姿がみえない。なんとなくみんなについて駅に向かうと、大半がバスや地下鉄へと散ってしまい、横浜駅方面に帰るのは高林さんと私の二人だけであった。横浜駅で彼は相鉄線に乗り換えて星川駅で降りる。私はそのまま東神奈川駅で降りる。
「今日は本当にありがとうございました」
楽しかったが、期待すると痛い目を見るパターンだろう、楽しい時間をありがとう。たった一駅分の貴重な時間だったが、連絡先も交換しないまま、私たちは別れた。
月曜日、私は川本さんと一緒にランチに出かけ、金曜日の報告をしあった。
「もったいない、せっかくいい雰囲気だったのに。友達通せばたどり着けるはずだからあたしが連絡先聞いてあげるよ、なんて名前の人だっけ」
「え、いや、でも……」
「もしかして、タイプじゃなかった?」
「そんなことは全然ないのですが……フリーじゃなさそうに見えたので」
「そうなの? まあ、たとえそうだったとしても、知り合いが増えるだけ違うんじゃない? 連絡先、聞いておくよ」
仕事の速い川本さんはここでも振るっていた。その人、彼女いないって。連絡してみるといいよ。川本さんから送られてきたメールにはハートマークがたくさんついていた。
その一週間後、私は高林さんに一通のメールを送るべく、すでに一時間以上もうんうん悩んでいた。もう一度会ってみたい、連絡を取りたいと思うのだが、彼氏獲得に必死な女だと思われるのはどうしても嫌だった。
『高林様
先日桜木町でご一緒した富田です。その節は楽しいお話をありがとうございました。
一点お伺いしたいことがありご連絡いたしました。
天王町のあの商店街ですが、お話を伺って気になってしまいましたので、今度行ってみようと思っております。おすすめの回り方などありましたらお教えいただけますでしょうか?
お忙しいところお手数おかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
富田』
さんざん悩んだ挙句、業務メール形式なら変に思われることはなかろうと思い、お礼と質問事項を最大限硬い文章にくるみ、思い切って送信ボタンを押した。ここまでやればどうなったとしても後悔はすまい。私は自分の世界がじんわりとその輪郭を広げていくのを感じていた。
返事が届いたのは翌日の午後八時だった。業務メールとは明らかに違うやわらかい文が連なっている。その中の一文に私の目は釘付けになった。
『もし良ければご案内しますよ』
恋っていいもんなんだよね。佐々木さんの言葉がすぐ近くで聞こえた気がした。
相鉄線天王町駅で降りると、高林さんは既に待っていた。
「すみません、お待たせしました。せっかくの休日なのに、今日はありがとうございます」
「僕も今来たところです。行きましょうか」
休日のせいもあってか松原商店街は大変な賑わいだった。高林さんは手際よく店の特徴を教えてくれたが、私ははぐれないようにするのに必死でうまく聞き取ることができずにいた。ひととおり見た後、少し休みましょうか、と彼が言い、私たちは近くの公園に向かった。自販機でコーヒーを買い、ベンチに並んで腰掛ける。いい天気で風もなく気持ちの良い気候だった。向うの方では子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。私はまだ緊張が解けず、途切れ途切れに商店街の感想を述べてはひっきりなしにコーヒーを飲んでいた。
「……正直なところ、この間の桜木町のやつ、行く気なかったんです」
彼が言いづらそうに口を開いた。
「知らない人ばかりだったんで。……でも思い切って行って良かったです。あの席、大当たりでした。何か、僕ばかりしゃべっちゃったように思うのですが、良ければ富田さんのお話、もっと聞かせてください」
そう言って、彼は照れ臭そうに笑った。