「次は大和~、大和~」というアナウンスを聞きながら、窓の外を眺めていた。特急電車に乗ったから、もう次は海老名だ。あっという間に着いてしまう。私は目をつむり、深呼吸をした。結界を破る準備だ。閉じたまぶたの裏に、私が最後に記憶してる父の寂しそうな顔が浮かんだ。私には父に言いたいことがあった。謝りたいことがあったのだ。この胸だか胃だかわからないが、どこかがキューっと締め付けられる痛み、この痛みが海老名に一度も足を踏み入れられない原因なのだ。
あの朝、父と母と3人でトーストを囓っていた。食パンは昨日のお店の売れ残りだった。テーブルには目玉焼きとトマトなどの野菜が並んでいた。トマトのきれいな赤い色や、鼻を通り過ぎる小麦のにおいまで鮮明に思い出すことができる。話題は月末の授業参観のことだった。中学生になってからの初めての授業参観。授業科目は社会で、班ごとに海老名の歴史を調べ発表するという内容だった。私の班は相模国分寺を調べ、紙で模型を作ったのだ。自営業で父も母も忙しかったので、小学校の時は母が来たり来なかったり。今回もあまり期待はしていなかった。本当は父に来てほしかったけれど。すると意外にも父が、
「お父さんが行くよ。中学に入って初めての授業参観だもんな。それに、相模国分寺跡を調べたときたら、お父さんの出番でしょ。よし!店を休みにしちゃおう!」
と、意気込みながら言った。私は嬉しかったのに、なぜか、
「やだー。お父さんが来たら、みんなから『パイナップル頭』って私がからかわれちゃうよ」
という台詞が口をついて出たのだ。当時、父は相模国分寺に建っていたとされる七重の塔を模したクリームパンを発売して、地元のタウン誌などでも取り上げられ、ちょっとした有名人だった。40を過ぎ、ほんのりと、額の両端が薄くなった父を同級生の男の子たちは『パイナップル頭』と呼んで私をからかった。私はそんんなこと何も気にしてなかったのに、自分の口から父に対してそんな言葉が出て驚いた。本当は父が来てくれると聞いて、嬉しかったのに。さらに私を驚かせたのが父の見せた一瞬のものすごく寂しそうな表情だった。私は初めて見る父の顔にびっくりして、「お父さん、冗談だよ。授業参観に来てね」という言葉が出なかった。
そのまま、学校に行った私は、帰ったらお父さんにちゃんと授業参観に来てと伝えようと、『パイナップル頭』なんて全然気にしてないよと冗談ぽく何てことないように話そうと、授業中ずっと考えていた。
しかし、そんな言葉を伝えることができないまま、父はその夜にこの世を去った。
「海老名~、海老名~」というアナウンスで我に返り、ホームに降りた。20年ぶりに来た海老名は予想以上に変わっていた。見たこともない街のようだった。それが私を逆に、ほっとさせた。街に面影がなかったことが私の気持ちを楽にしたのだ。私はジリジリとした日差しの中、相模国分寺跡に向かおうと思った。この変わってしまった街の中で、父と私の特別だったあの場所がどうなったのかを確かめたかったのだ。見慣れないビルの間を歩いて行くと、小さな入り口のお店があった。黒いガラス張りで紫のカーテンが見える怪しげな入口。通り過ぎようと思った私の目を引いたのは入り口の脇に掲げられていた看板だった。
『あの日の『続き』お見せします。後悔してるあの瞬間にもどりませんか?』
と書かれていた。ドキっと胸が波打った。その看板のうたい文句に釘付けになるように見入っていると、中から50を少し越えたくらいだろうか、髪の長い綺麗な女の人が出てきた。タイトな黒のロングスカートに涼しげな水色のカットソーが華奢な体によく似合っていた。
「良かったら少し寄ってかない?今日は特別に千円にしてあげるから」
私は何か魔法にかけられたように言葉もなく頷いて、店内に吸い込まれた。中に入るとエキゾチックな甘い香りが鼻に広がった。薄暗い部屋の中に小さな椅子とテーブル。テーブルの上には水晶が置かれていた。私は、「何だ、占いか」とつぶやいた。落胆した気持ちにほっとした安堵感が混ざった。過去の続きなんて見れるわけがない。吸い込まれるようにこのお店に入った自分がおかしくなって、小さく、ふっと吹き出した。腕時計を見たら、母との待ち合わせまでに時間はたくさんある。千円で占いができるなら良い時間つぶしになるかもしれないと私は椅子に座った。
彼女は私の向かいに座ると、手の平ほどの水晶を両手で包み込んだ。すると、彼女の手の中で水晶がぼんやりと淡い水色の光を放ちだした。光はだんだん強くなっていく。彼女は水晶から手を離し、私の目を見つめ、一呼吸おくと、こう言った。
「誰もがやり直したい過去を持ってると思う。残念ながら、ここではやり直すことはできないの。でも『続き』がなかったあの日の『続き』を見せてあげるから。きっと心が軽くなるわ」と。私は水晶の光を見つめながら思った。「そう、あの日は続くと思ってたの。まさか、続きがないとは思わなかったの」と。そして、私のまぶたはだんだん重くなり、閉じていった。
「どうした?寝ちゃったのか?」
と声が聞こえ、私は目を開けた。目を開けると目の前に父の顔があった。まぶしい太陽の光が目にしみる。あのときのままの父だった。私は相模国分寺跡の芝生に寝転んでいた。驚いた私は、大きく息を吸った。ツンとした緑のにおいが鼻の奥を刺激した。懐かしいにおいだった。蝉はジージーと鳴いている。今はいつなのか、さっきの占い師はどこに行ったのか。私の混乱を父は全く知らずに、
「やっぱりさ、お父さんが授業参観に行くよ。行ってもいいかな」
とぼそっとつぶやいた。あの日の続きだった。あの日は続きがあったんだ。父は死なずに次の日を迎えたんだ。私は嬉しくて、やっとのことで声を出し、
「当たり前だよ、お父さんに来てほしいんだから。絶対に来てね!」
と言った。父はポケットから、キーホルダーを取り出した。パイナップルがサングラスをかけて澄ました顔をしているキャラクターだった。「ほら、これ。パイナップル頭のキャラ。もし、クラスの男子に何か言われたら、これを見せてお父さんが黙らせてやるからな」とイタズラっぽく笑った。そのキャラクターは父に似ていた。「ちょうだい」私は手を出して、父からそのキーホルダーをもらってポケットに入れた。父がずっと握りしめていたのか、そのパイナップル頭には温もりが残っていた。私は父に「お父さん、私は歴史が好き。歴史の先生になりたい」と言った。なんだか、父に伝えたかったのだ。父は微笑みながら、嬉しそうに頷いた。そして、
「歴史はすごくロマンチックだから」とつぶやいた。
それからしばらく私たちは、七重の塔を想像して楽しんだ。今日の塔はいつもより鮮やかな色で空にそびえていた。
「さて、そろそろ帰ろう」
私はまだまだここにいたかったが父と一緒に立ち上がり、歩き出した。ふとポケットのキーホルダーに手をやると何も入っていない。慌てて私は、
「お父さん、キーホルダーがない!」
と言った。父は笑いながら、私の頭をぽんぽんと叩き、
「大丈夫だから、何も心配することないから。お父さんが探してくるから」
と、さっき寝転んでいた方に歩いて行った。二人で寝転んでいたのは、すぐそこだったはずなのに、父は歩みを止めず、ずんずんと歩いて行った。私は不安になって、「お父さん!」と、叫んだ。すると父は振り向いて笑顔で「会いに来てくれてありがとう」と言った。そして、ずんずん進む父の姿はどんどん小さくなっていった。私の足は礎石の上で固まったように動かなかった。礎石の脇に咲いていた小さく白い花が目に入ったのが合図かのように視界が真っ暗になっていった。
ガタンという音で目を覚ました。「海老名~、海老名~」というアナウンスが流れている。私は電車の中にいた。頭が混乱したまま、人の流れのままにホームに降りた。改札を出ると、やはり見たこともない街が広がっていた。私はさっきのお店を探した。さっきと同じように見慣れないビルの間を抜けていった。同じ入り口のお店があった。黒いガラス張りの入り口に紫のカーテン。「昼カラオケ」と書かれた看板が掲げられていた。入口で中を覗いていたら、ぽっちゃりした派手なおばさんが出てきて、「カラオケは11時からなのよ。ごめんね」と言った。私は「ここに水晶で過去の続きを見せてくれるお店ありませんか?」と聞いた。おばさんは怪訝な顔で、「うちはカラオケ屋だから」と言って中に入っていった。私は、寝ぼけたままそんなことを聞いてしまった自分がおかしくなった。そして、気を取り直して相模国分寺跡に向かった。
思い出の場所はは変わっていなかった。ものすごい変貌を遂げた海老名の街の中で、ここは時間が止まったかのようにあの頃と同じだった。風に乗って、ツンとした緑のにおいが鼻をついた。私はさっきの夢の中で、父と寝転んでいたあたりに行ってみた。草がさっきまで誰かが寝転んでいたようにつぶされたいた。私は慌てて、さっき乗った礎石を見に行った。すると、礎石の脇には小さな白い花が咲いていた。
この遺跡の横には温故館という資料館がある。私はそこに入った。建物は旧役場の庁舎を使ったもので、歴史を感じる重みがある建物だった。中には、在りし日の相模国分寺跡の模型や、近くの弥生遺跡などから発掘された土器などが展示されていた。壁には発掘調査などの当時の新聞記事などが貼られていた。その中の一枚に父が写っていた。七重の塔を模したクリームパンを手に、タウン誌に満面の笑みで写っていた。父は間違いなく、ここにいたんだと私は胸が熱くなった。温故館を出ようと出口に向かったとき、脇に置いてあった『落とし物入れ』を見て、胸が高鳴った。そこには『パイナップル頭』のキャラクターのキーホルダーが入っていた。「これはいつの落とし物ですか?誰が届けたんですか?」とものすごい勢いで聞く私に係の人は驚きながら、「うーん、わからないな-。昨日はなかったような気がするけど」と申し訳なさそうにいい、あなたの落とし物なら持ってっていいよと簡単に言った。私はキーホルダーを大事に握りしめた。そして、父がよく言っていた「歴史はすごくロマンチックなんだ」という言葉を思い出した。