「はは、今日は一段と匂いますね」
見知らぬ女性に対して思わず口に出た言葉。やってしまったと頭をかかえる。疲れからかウトウトとし、微睡の中に観た妻の姿を目の前の女性に重ねてしまった。
突然声をかけられた女性は一瞬その瞳を大きく開き驚きを見せるも、すぐ平静を装い小さく会釈をする。
椅子が二列向かい合った待合室の中、初老の男性と若い女性が静かに座る。急行列車が駅のホームを通り過ぎる音だけが響く。待合室の外では電車を待ちながらコートに手を入れるサラリーマンと、ピンクのマフラーを巻きながらスマートフォンをいじる主婦がいるだけ。静かな夜だった。
待合室の中、シゲルは白髪頭をポリポリと掻きながら先ほどの失言を後悔していた。妻に先立たれ早5年。忘れたことはなかったが、こうして思わず口に出ることは今までなかった。突然親し気に話しかけてしまい悪いことをしたな、と視線を女性へ向ける。
不思議なことに、女性は自分の服の匂いを確かめるように袖口を嗅いでいた。シゲルの視線に気付くと何事もなかったようにガラスの外を見て誤魔化した。
なぜ?
シゲルは疑問に感じた。今朝の雨が畑の土を舞い上げ、堆肥の匂いが風に乗って運ばれる。夜になり、風向きが変わるころ、このいずみ中央駅のホームにその匂いが届くことがある。シゲルが“一段と匂いますね”と話したのはそのことであり、外でその匂いを感じていたのならその言葉の意味もすぐに分かるはずだろう。それなのに、目の前の女性は自分の匂いを気にしていた。
見れば女性の目元は涙を何度も擦ったように赤く腫れており、血の気の引いた顔は外の寒さだけが理由ではないだろうと思えた。困ったような表情は今にも泣きだしそうに見える。
「なにか――」
シゲルは声をかけた。
「なにか、お困りごとですか?」
「いえ。なんでもありません」
その言葉でシゲルは女性が困っていると確信した。経験的な直観である。シゲルは穏やかな調子でゆっくりと話しかける。
「なにか不安気に見えたもので。――こうして見知らぬもの同士だからこそ話せることもあるものです。私が聞けることであれば、どうぞ気の向くままに」
静かに言葉ひとつひとつに優しさを込め、低く落ち着きのある調子でゆったりと伝える。経験上、これが一番心に響く。無理矢理言葉を引き出すわけではない。あなたの言葉を待ちます、それがどんなものでも私は受け入れます。その心が込められた言葉は不思議と安心感を与えてくれる。妻がいつもしてくれていたことだった。
ジッと待つ。穏やかな瞳で、彼女の言葉を待つ。
女性の視線が揺れ、口元に手が触れる。チラリと視線が合う。小さく口が開くが声は出てこない。視線が足元に落ちる。シゲルは何も言わない。ただ女性の言葉を待つ。
助けようとしているわけではない。相手の人生に土足で踏み入るつもりもない。本人が1人で立てるのであれば、それに越したことはない。ただ、言葉を聞く人が必要ならば、ここにいると、その想いだけだった。
「あの……」
小さく踏み出された言葉。
「私……赤ちゃんが、できたんです」
消え入りそうな声で、泣き出しそうな顔で、女性は言葉にした。大事なものに触れるようにそっと両手をお腹に当てる。ここに居ると。確かに居ると。
シゲルはまだ言葉を返さない。まだ、話したいことがきっとあるはずだ。これは言葉の一歩目。想いが込められているのはその先。だからまだ、まだシゲルは言葉を待つ。
「怖くて」
女性の肩が震えていた。それが寒さからではないのはよく分かっていた。
「彼に、受け入れてもらえるのか、不安で」
心に溜まっていた不安が溢れて来たかのように、涙が瞳に溜まっていた。
ああ、そうか。
結婚をしていない男女の間にできた子供。受け入れてもらえるか不安で、そのことを相手にまだ言えていない。この女性はきっと、言おう言おうとしたのだろう。でもその度に不安に押し負け、言葉を飲み込んでしまったのだ。だからこそ、瞳は赤く腫れ、身体が震え、匂いを感じられなくなったのだろう。
もし、受け入れてもらえなかったら? もし別れると言われたら? もし堕ろすように言われたら?
女性は口に手を当て嗚咽を漏らす。
「あなたは――」
ソッ、と言葉を滑りこませる。
「彼の子供が出来て、嫌なのですか?」
「違います」
「子供が出来たことは嬉しいんですね」
「……はい」
ニコリと、シゲルは微笑む。
「私もです」
女性が顔を上げる。
「私も、娘が出来たとき、本当に嬉しかった。嬉しかったんです」
シゲルは立ち上がり、女性の前に進む。女性の横に立ち、シゲルは窓の外を眺める。真っ暗な外はガラス越しには何も見えなかった。
「向こうに、川があるのは知ってますか」
「はい」
「地蔵原の水辺と言いまして、明るい時間はよく子供たちが遊んでいるんですよ。仕事の間にふと外に出るとその様子をよく見かけまして。楽しそうに走り回る子供たちを見ていると、懐かしく思うんです。子供ができてよかったと。何十年経つ今もこうして、目を閉じれば、昨日のことのように思い出します」
通り過ぎていく日々。この町で生まれ育ち、社会人になり東京に出て、妻と出会い子供が生まれ、また戻って来た。それから子供たちも大きくなり、外へ出て、孫が生まれ、時々遊びに来る。田舎だと娘は笑った。田舎だなと一緒に笑った。田舎とは故郷だと。故郷がここで良かったと。
「きっと大丈夫です」
根拠はなかった。それでも確信はあった。この女性が選んだ男性であれば、きっと大丈夫。たった数分、言葉を数回交わしただけだというのに不思議とシゲルは信じていた。
「あの……」
「はい」
「少しだけ、勇気をください」
「ええ。もちろん」
震える手で、女性は鞄からスマートフォンを取り出す。汗で湿った指が画面をつっかえながら操作する。
その隣にシゲルは腰掛け、女性の様子をじっと見守る。
耳に当て、女性は目を閉じ深呼吸をひとつ。電話先で彼が応答したらしく、女性の瞼がパッと開く。
「あ」
小さく開いた口。小さく呟かれた声。その先が続かない。視線がシゲルに向けられる。シゲルは何も言わずに頷く。
「子供出来たの。今日婦人科行ってきてちゃんと見てもらった。だから本当に――」
女性の言葉が止まる。電話の先の声は聞こえない。だけど彼女の表情から、彼の言葉は分かる。いや、それを見るまでもなくシゲルは分かっていた。
しばらく話した後、女性は電話を切る。そしてシゲルに向かい合うと深くお辞儀をする。シゲルは小さく手で返事をし女性を見る。
スッと伸ばされた背筋。不安はもう見えない。シゲルは何もしていない。話を聞いただけ。彼女は彼の言葉を得て、彼を信頼した。それが力となって、自信となっただけである。
女性がお礼の言葉をかけようとした時、シゲルが待っていた電車がやってくる。
「では、私はこれで」
待合室の扉が開く。外の空気と共に堆肥の匂いが入り込むと、女性が「あっ」と声を漏らす。
「今日は一段と匂いますね」
シゲルは微笑みながら名も知らぬ女性に語り掛ける。
「でも、嫌いじゃないです。この匂い」
「私もです」
シゲルはこの町の匂いの中に飛び込み、電車に乗る。一駅、二駅、タタンッタタンッ。
電車は夜の町を静かに走る。故郷の香りを引き連れて。