保険の女は、智晴の会社の昼休みにやってくる新人の女の子だった。最初は仕方なくアンケートに答えるだけだったが、だんだん親しくなり雑談をするようになった。毎日同じ時間にやって来て、飴やチョコを配る。雨の日も風の日も。来ない日があると、心配になる。
「あの子、辞めちゃったのかな」
ぽつりとつぶやき空を見上げると、今にも雨が降り出しそうだった。
翌日、大雨の中、保険の女がやって来た。智晴は安堵し、ときめきを気が付かれないように、口元を締めなおした。
「こんにちは」
「昨日は、どうしたの?」
保険の女は智晴の机に飴を置くと
「契約がやっと貰えて、手続きに時間が掛かってしまって」
「そりゃあよかったね」
智晴は、真面目で頑張り屋の彼女をなぜか応援したいと心の底から思った。
「三浦さん、お子様のこども保険、設計書作ったら、ぜひ見てください。出来たらお持ちします」
「ああ、いいよ」
悦子は保険の女にお茶を出し、こども保険の説明を一緒に聞くことにした。保険の女の長くて艶のある髪や、透き通るような美しい肌、澄んだ瞳。艶やかな唇は、バラと同じ色だった。若さというのは、理由なく美しいものだ。
これじゃあ、ときめいちゃうのも仕方ないか。悦子は、やきもちを胸にしまった。
「どうか、ご検討ください。おねがいします」
保険の女は深々と頭を下げた。胸の谷間が見えて、優子は、突然部屋を飛び出し、二階の部屋へ、駆け出した。ベッドに潜り込むと、涙が溢れて、しくしく泣いた。
なんだか、あの人はいやらしい。なんで、来たのだろう。そう思いながら、いつの間にか夢の中だった。
漆黒の世界に赤いバラが咲き乱れ、クリスタルの女が優子に語り掛ける。
「ねえ、誰が一番好き?お父さん、それともお母さん」
「両方好きよ」
「ふーん、私は、自分が一番好き」
「あなた、私のお父さんに会いに来たの?」
「いいえ、あなたにこども保険」
クリスタルの女は口から冷気を吐き出し、バラを凍らせた。
「断るというのなら、このバラのようにカチンコチンよ」
「ごめんなさい、入ってあげられない理由があるの」
優子はつま先から、太もも、胸にかけて凍らされた。
声を出すことができない。凍り付いた腹から声を出そうと何度も試みるが、だめだった。心の中で、やっぱり保険に入りますと強く念じると、
「保険に入るから、お願いよ」
自分でも驚くほどの大きな声が出ていた。
「優子、どうしたの?」
「うん、怖い夢」
悦子は、冷えた桃を優子に食べさせ、落ち着いてから保険の女の手土産を優子に渡した。リボンを解いて中を開けると、美しいブルーに小さな魚たちと、人魚姫が音色を奏でているデザインのパジャマだった。
「わあ、きれい」
「着てごらん」
さっそく袖を通してみたが、小さい。ズボンも太ももが入らなかった。サイズは140cm。パツンパツン。
悦子と優子は、笑った。残念と笑った。智晴は、またバラに水やりをしていた。
夕飯は、悦子の得意な煮込みハンバーグだった。人参のグラッセとブロッコリーが悦子の意気込みに拍車をかけ、味噌汁のネギは、いつもより多めに入っていた。
「お母さん、サイコー、おいしい」
優子はもりもり食べる。
「今日の味噌汁なんか旨いな」
少しの沈黙の後
「あなた、どうして、女房は保険の女と言わなかったのよ。判っていれば、あの人来ないで済んだでしょう。パジャマまでもらっちゃってさ、悪いじゃないの」
「パツン、パツン」
優子が合いの手を入れると、悦子はヒートアップした。
「あなたは一言、二言足りないのよ」
「ああ、ごめん」
「あの人の手伝いするくらいなら、私に全部回してよ。あのビルごと全部、日本中のサラリーマン全部、全部私のために、隅から隅まで、全部よ」
悦子は、電子レンジの中で爆発する茹で卵みたいだと、優子は思った。
その時、リビングに飾られたバラが、ひらりと花びらを落とした。
「おお、マドモアゼル、君が一番だよ」
優子は、智晴の真似をして、バラに鼻を近づけた。