そこだけ時間が、そっと取り残されている。
あまりにも甘くてやさしいのでうっかりしていて、
もうすこし、ゆっくり、進もうかと言われた。
私は、ずっと、その光景をみつめていた。
そして、ただ、その空気を、吸っては、吐いた。
古いコンクリートと、畳と、煙草と、もうすぐそこまで来ている予感がする、冬のにおいが静かに静かに混ざりあう。
横で眠る彼の胸に耳をあてて、
私は力を抜く。
やさしく波打つ心臓の音が、底の方から響いて聞こえている。
少しの時間その音を聴き、私は彼に背を向け、再び、呼吸し続けるカーテンを見つめる。
そして、上から祈るように私たちを見下ろしている、とても小さくて白い花の束を、見上げる。
彼の作ったかすみ草のライト。
天井から吊り下げられた乾いたかすみ草の下に細い鉄の囲いがしてあり、さらにその中に隠れる電球を点けると、焦げた濃い茶色の、厚みのない木の壁にかすみ草の影がうつる。
わたしは、それが本当に本当に好きだった。
ゆっくりと、水面に近づいているのを、私は、全身で感じる。
それは真っ暗で永いトンネルの向こう側。
それは夜と朝の間。
それは明日の色。
群青だったカーテンは徐々に白さを取り戻しはじめ、やがて、ゆっくり橙色に染まり、その色は濃くなっていく。
時間が経つと、また、白くなって消えていくけど、それを見るまでは、いられない。
私は、そっと、目を閉じる。
目を閉じていても感じる気配。橙色の温もり。
そっと彼の側を離れ、玄関まで向かう様子を、
息を止めてそこに存在する全てから、一心に、見守られているような気になる。
音をたてないように注意して、扉を開ける。
扉を開けると、このアパートのコンクリートの隙間から向かいのくすんだ白いアパートのベランダが見える。
エアコンの室外機と、銀色の柵にぐるぐる巻かれた青いホースと、こどもが遊んだあとの積み木のように乱雑に配置された上木鉢たちが、絵画のように美しかった。
目の前には彼が買ったであろう、小さな子供用のプールが、息を吐ききってぺしゃんこのまま、彫刻のように、ずっとずっと昔からそうだったみたいに、しっくりとそこに佇み、
その左側には、錆びた華奢な鉄製の灰皿スタンドに、煙草の吸い殻が数本、それぞれ思い思いの寝姿で横たわる。
一瞬でその全てが、
ひんやりとした空気と色の全てが、
私に染み込んでくる。
アパートを出ると、低いビルとビルの間から、私のところまで影と光が、のびてくる。
私を包もうとするそれらと、私の頭のなかが混じり会う。
そうか、これが
そうゆうことなのか。
切なくて息苦しくて逃げたしたいのにやさしい光に包まれて動けない。
私はきっと、この先、一生このとき感じた全てを忘れない。
【2章】
天王町駅のすぐそばに、本屋のような名前の花屋がある。
その花屋の近くに住みたいと思った。
そこから徒歩20分ぐらいの場所に住むことに決めた。
そして、この土地に住む間は、できる限りそこでしか、花は買わないと決めた。
その花屋の店主であろう女性は、
私の好みの花を、透視するかのように、
それは見事に、言い当てるのだ。
アマランサスは、雑穀米にも入ってるから、今度スーパーなんかで見てごらん。
シェリーベイビーは、ほら、嗅いでみて。蒸せ返るぐらい、すごいバニラの香り。嫌いじゃなければ、お勧めだよ。
ダイヤモンドリリーは、もっと顔を近づけてよく見てみて、お花の奥の方がキラキラしてるでしょう。
ここで買う花は、不思議ととても長い時間を生きてくれる。
今は彼女たちの絵を描くのが楽しくてたまらないのだ。
かすみ草は、あっただろうか、
そう、ふと、思い出す。
なかったような気がする、
あっても見ないように脳が記憶を操作してるのか。
あっても少し高くて、まだ買えないというのは言い訳だと、思わずひとり、笑う。
愛する、ということを、
少し悲しいくらいに全身で感じたのは
きっと、あのときだけだと思う。
記憶がいとおしさで色の濃度を増していくということも、
ぴりぴりと、すべての感情が染み込んで、ひたひたになってしまってもとめどなく溢れて止まらなかったことも。
人の心は操れない。
自分の心も、操れない。
ひとところに留めておくことなんて
そんな傲慢なことができるわけがないのだ
彼も、
私も。
それを、ちゃんと知っている、ということが
どんなに大切なことなのか。
お給料はとても少ないけど、また、買えるときにあの、花屋へいく。
いつか、かすみ草を買おうと思う。
なければ、聞いてみよう。
そしてきっと、わたしはまた、あの、部屋の光景を、ときおり、長く、いとおしく、思い出す。