「久しぶり!」
右手を挙げてニッと笑った郁美さんは、少し大人っぽくなっていた。それを言おうか迷ったが、「大人っぽくなりましたね」と大人の女性に言うのも変だし、「貫禄が出てきましたね」というのも失礼だ。だから僕は、「お久しぶりです。お元気でしたか?」とだけ言った。
「見てこれ、本買ったの」
手にぶら下げた袋を見せられても、リアクションが取りづらい。
「本なんて読む時間あるんですか?」
「あるよ。本も読めないとおもったわけ?」
「いや、そういうわけじゃないですけど――」
通勤時間にでも読んでいるのだろう。そういえばこの人は読書が好きだった。
「ねえ、健人って二俣川来たりするの?」
「うーん、意外とないです。免許取りにきたくらいですかね。中学や高校の時は部活の遠征とかで降りたはずなんですけど、ほとんど記憶にないです」
「私もそうなんだよねえ。何度も通過するのに、意外とその駅のこと知らないっての、けっこうあるよね」
そんな話をしながら、大衆居酒屋に二人で入る。月曜日の早い時間だからか、一組年配の男女がいるだけで、店内は空いていた。
「生二つ」
おしぼりを受け取るなり、店員にそう伝える。
ビールが運ばれてくると、焼鳥の串盛り、枝豆、茄子の漬物を注文した。グラスを合わせて、グイと一口飲む。やっぱり夏のビールはおいしかった。そこでふと、ビールのグラスに貼ってあるラベルが郁美さんの会社であることに気が付く。
「おいしい。健人はどうなの、調子は」
オブラートに包んだ言い方だが、何を訊かれているかは明白だった。
「うまくいかないですね。難しいですよ、就活は」
「わかるよ」
先を促すように、郁美さんはビールを口に運ぶ。
「……自分では、こんなに苦戦すると思ってませんでした。コミュニケーションには自信があると思っていたんですけど、それだけじゃダメですね。サークルでどれだけ頑張ってきたかとか、そういうのって全然意味がない――」
話をする僕のことを郁美さんは真っ直ぐ見据えている。
「意味がないってことはないでしょ。意味はあるよ、絶対」
「そうですね、僕の認識が甘かっただけだと思います」
そう言うと、郁美さんがフッと笑った。「それだってわかんないじゃん。受けてきた企業の人事が無能なだけかもしれない」
相変わらず言葉が悪かったが、郁美さんの声を聞くと元気が出てきた。
「俺、小説家になりたいって言ってたじゃないですか」
「うん」
「それを出版社の人に面接で言ったら怒られちゃって」
「はは、それはそうかもね。『売れたら辞めます』って言ってるようなものだもん」
「どんな仕事をするにせよ、最終的には小説家になりたいんです。でも、仕事をしないと食っていけないし、けど、そんな覚悟じゃ採用なんてしてもらえないし」
「まあ、そう言わなくても、人事の人は『本当にうちに来たいのかどうか』ってのがわかるらしいもんね」
「正直なだけの人間って、社会では価値がないんでしょうね」
鶏皮を食べながら、『そういえばこの人と初めて飲みに行ったお店は焼鳥屋だったな』などと思い出す。
「私は健人のこと、応援してるよ。自分がやりたいようにやってきたのが健人じゃん。後悔しないように動いて、結果として悔やむことになっても仕方ないんじゃないかな」
郁美さんが一杯目のビールを飲み干したので、僕も杯を乾かす。
「ビールでいい?」
大丈夫です、そう答えて、僕が店員を呼んだ。いつの間にか、少し客が増えている。
「生ビールを二つと――」
「いいよ、好きなの頼んで」
「じゃあ、刺身の盛り合わせをください」
特にどこかが汚れているわけでもないのに、手持無沙汰でおしぼりをこすり合わせる。
「こんなことを後輩に言うのも恥ずかしい話だけど、私この前、仕事のことで初めて泣いたんだよね……」
郁美さんは涙もろい人だから、サークルの打ち上げなんかでもよく泣いている人だった。
「これまでの期間はずっと研修だったんだけど、そこでいつもお世話になってるスーパーの人にところに営業に行ったの。毎年お世話になってて、一年目の社員にも優しくしてくれる店長さんなんだけど――」
話し始めながら、郁美さんは涙ぐんでいた。
「――店長さんが忙しそうだったから声をかけずに売り場をどうしようか考えてたら、『お前挨拶もしないで何やってるんだ』って怒鳴られたの。『お前がやってることは、土足で人の家に上がり込んで荒らしてるようなもんだぞ』って。上司の人を呼んで泣きながら謝った」
郁美さんは涙を流しながら笑った。悔しかったことを、思い出して泣ける人というのも、すごいと僕は思う。僕は、一社落ちても、「またダメだったか」と、その痛みに慣れ始めているのに。
運ばれてきた料理を食べながら、郁美さんの目は涙で濡れていたので、意味のない話でもしようと考えた。
「そういえば、ここって二俣川じゃないですか」
「そうだね」
郁美さんが、いきなり何を言いだすんだ、という顔をする。
「二俣川から、『湘南台行』と『海老名行』に分かれてるじゃないですか。あれが『二俣川』っていう地名の由来だと思ってたんです」
「何の話?」
「だから、二つに路線が分かれるから、それで『二俣川』なんだと思ってた時期があるってことですよ!」
語気を強めて言ったのに、郁美さんは相変わらずきょとんとしていた。
「そんなわけないじゃない。どうして路線に倣って地名をつけるのよ」
「え、だから昔の話ですって……」
退屈そうにさんまの刺身を食べる郁美さんは、気のせいかもしれないけれど、ちょっぴり嬉しそうに見えた。
「健人はさ、いつから小説家になりたいの?」
「うーん、高校生くらいのときには漠然と思ってましたけど、浪人してるときですかね」
そう話すと、年齢で言うと、一浪している僕と郁美さんの年は同じなのだと改めて気付かされる。だからなんだというわけでもないが――。
「それじゃあ、いつまでになりたいの?」
「いつまで――」
考えたこともなかった。小説家なんて、高校生くらいでデビューする人もいれば、社会人だった大人が賞をとって専業へ、というパターンだってある。意識さえはっきりしていれば、死ぬまで追いかけられる夢だろう。
「私は健人を応援してるよ。だからこそ、健人には言っておきたいことがある」
郁美さんはじっと僕を見つめて、真面目な顔でこう言った。
「夢を言い訳にしちゃだめだよ。夢に甘えちゃだめ」
今がそうだってわけじゃないけど、それだけは忘れちゃだめだよ、そう言って、郁美さんは身を乗り出し、僕の右肩にそっと手を置いてから席を立った。
郁美さんがトイレから戻ってきてから、僕はビールを頼み、郁美さんはハイボールを頼んだ。
その日は二人でグラスを六つは空けた。「学生時代は馬鹿みたいに飲んではしゃいでいたのに、今は一杯がすごくおいしい」と笑う郁美さんが、僕にはすごく眩しく見えた。
駅のホームから、反対側で電車を待つ郁美さんの姿が見える。声をかけようかと迷ったけれど、大きな声で呼ぶのは恥ずかしかったので、僕はやめておいた。
「健人!」
それなのに、郁美さんが大きな声で僕を呼び、大きく手を振ってた。周りの人も郁美さんに気が付き、次いで郁美さんの視線の先にいる僕を見る。僕が振り返した手は、腕の縮こまったささやかなものだったが、それが見えているのかいないのか、郁美さんは楽しそうだった。
先に来た電車に郁美さんが乗り込む。僕はホームにある五人掛けの白い椅子に腰を下ろす。どこかで蝉が鳴いているらしかったが、電車が到着するアナウンスにかき消された。
東京で飲むよりもずっと気が楽だ。たった数駅で家に着く。
ホームに滑り込んできたのは、見慣れた赤い電車ではなく、ネイビーブルーのものだった。たしか最近できた車両で、僕も何度か乗ったことがある。
グレーの高級感のある椅子に座り、ピカピカの車内を見回す。いつも乗っている赤い車両は、いつ頃から乗られているものなんだろう、なんとなく調べてみようという気になって、携帯電話の画面を見る。そこには、郁美さんから画像が送られてきていた。携帯電話で撮影されたであろう写真には、「『鉄道小説大賞』コンテストを初開催」と書かれている。どうやら掲示板のようなものを撮ったらしい。
「一〇〇周年なのか」
声に出してハッとする。ここは電車の中だ。幸い、近くに人がいなかったので僕の声は聞こえていないようだった。
それにしても、一〇〇周年というのはすごい。僕の父さんと母さんの実家も相鉄沿線にあるから、それなりに歴史はあるのだろうが、そんなにも長いとは――。
僕は、郁美さんに「応募してみます!」と送った。続けて、「今日はありがとうございました! またよろしくお願いします」と送信する。
「おう、頑張れ」とすぐに返事がくる。
就活も頑張らないと、と僕は思う。気が付くといずみ野駅だ。特急が停まるずるい駅。特急ができた頃は、「いずみ中央の方が乗降者数が多いじゃん!」と、僕は肌感覚で家族に愚痴を言ったものだ。もう、とっくのとうに慣れてしまったけれど。
例えば東横線の渋谷駅なんかの乗換もそうだが、変わった当初は激しく困惑するのに、いつの間にか慣れてしまうのである。就職活動で様々な駅を利用するが、初めて訪れる場所は妙な興奮を覚える。街並みを見て歩くのが楽しいのだ。
逆に言えば、一番利用する相鉄線でも、一度も降りたことがない駅がいくつかある。せっかく賞に応募するなら、この際色々と探索してみてもいいかもしれない。
いずみ中央駅で降りて、自宅に向かって歩き出すと、郁美さんが送ってきた画像と全く同じものが駅構内に張り出されているのを見つけた。
人目もはばからず、それを写真に撮る。とにかく量を書かねば。プロになるには質が大事だけれど、経験を積むことだってきっと大事だ。
自宅に帰ったのは午後八時を過ぎた頃だった。自分以外の家族が勢ぞろいして食卓を囲んでいる。
「どうだった」
母さんに訊かれ、「え? ああ、普通」と答える。就職活動の面接における「普通」とは何なのか、我ながらふざけた返答だと思う。
母さんがそれに何かを言う前に、「夜ご飯なに?」と質問する。
「あんた飲んできたんでしょ」
「そうだけど」
「シューマイだよ」
母さんではなく、弟の浩輝が教えてくれる。シューマイか。食べたかったな――。
風呂に入り、歯を磨いて、すぐに自分の部屋に向かった。パソコンを開き、メールを確認する。携帯電話でも企業からのメールは見られるが、パソコンの方が見やすい。目新しい情報はないようだ。
続いてタブを開き、「相鉄 小説」と入力する。検索をかけると、即座にお目当てのページが見つかった。
――どんな物語にしよう。
僕はしばらく考えたが、いっこうにいい案が浮かばなかったので、その日は放っておくことにした。焦っても仕方がない。時間はたっぷりあるのだから――。
郁美さんと飲んだ二日後、つまり中堅出版社の最終面接を受けた二日後の朝に、不採用のメールが届いた。企業としては、欲しい学生には真っ先に連絡するものだ。昨日連絡が来なかった時点で僕は薄々察していたが、いざ『お祈りメール』を目にすると、目の奥が熱くなり、もう何もする気にはなれなかった。
何も一日の始まりにそんな連絡をよこさなくたっていいじゃないか――。僕はベッドの上で、眠くもないのに目を閉じた。弟も妹も学校で、父も母も仕事で、一人だらしない長男が、屋根の下でくすぶっている。
しかし、お腹は空いているので、とりあえず朝ご飯は口にしようと思い直す。階段を下りてリビングに向かうと、昨晩の残りのシューマイが出ている。この暑さだから、僕がもう少し長く寝ていたらシューマイがダメになっていたかもしれない。僕はシューマイを温め、味噌汁に火を掛ける。冷蔵庫から納豆とサラダを取り出し、テーブルの上に並べる。
無心でひたすら口に食べ物を運んでいると、いつの間にか気分も落ち着き、頭が働き始めた。
「電車でも乗ってみますか」
ずっと家にこもっているのも良くないだろう。気分転換にもなるだろうし、小説のアイデアが浮かぶかもしれない。
歯を磨き、外行きの服を着て家を出た。
十時ごろの電車は空いていて、久しぶりに昔のことを思い出す。
高校時代は部活の朝練に出るため、浪人生時代は授業前に自習をするため、そして大学生になってから一限に出席するため――。朝が苦手な僕は、通勤ラッシュの電車の中で、一年に数回ほど、立ちくらみを起こした。混んだ電車の中でその場に屈みこむのは、当然白い目で周りから見られるわけだが、とにかく必死なのである。それでも、必ず親切にしてくれる人がいた。年配の人に席を譲ってもらったことさえある。
僕は――。僕は知らない誰かに親切にしたことが、どれだけあったのだろう。
例えば、好きな女の子だったり、仲のいい友達だったり、サークルの後輩だったり、僕はそういう相手にしか優しくできない人なんだろうか。好かれたい人にしか親切にしないんだろうか。それとも、知らない人には親切にする勇気が出ないんだろうか。
ふと、昨日の白杖をついている人に声をかけなかった自分を思い出した。トイレを探していた人――。
電車で大股を広げて座る人が許せないくせに、僕だって他人のことをそこまで考えられていないんじゃないか。
「お兄さん、大丈夫かい」
突然声を掛けられて、ぎくりとして隣を見るとおばあさんが座っている。「具合でも悪いのかい?」
「あ、いえ、考えことをしていて」
「そう」
眼鏡をかけた、白い髪の、どこにでもいそうなおばあさんだった。突然声を掛けられた上に、心配までされてしまって顔が赤くなる。おばあさんは二俣川で乗ってきたらしい。
「あの……」
僕が話しかけると、おばあさんはゆっくりとこちらに顔を向ける。
「心配していただいてありがとうございます」
僕がお礼を言っても、おばあさんは微笑を返すのみだった。
少し気まずくなって、音楽を聴きたいわけではなかったけれど、イヤホンを耳につける。周りの音が遮断されたからだろうか、眠気を覚えたので目をつむる。
終点の横浜に着くか着かないかというときに目を覚ました。どこで降りるか決めていたわけではないが、どうせ定期圏内だ。横浜駅で降りるしかない。先ほどまで隣に座っていたおばあさんは席を立ち、ドア付近に立っている。
僕はイヤホンを外してリュックにしまうと――おや? 僕はそこで、切符が落ちているのを見つけた。
『二俣川―横浜』と書かれている。すぐにあのおばあさんのものだと察した。
ドアが開き、先に降りたおばあさんを素早く追いかける。後ろから声をかけると驚かせてしまうと思い、わざと大きく前に出てから後ろを振り向いて声を掛けた。
「これ、違いますか。落ちてたんですけど」
さっき少し話した相手なのに、どうしてか声が震えた。おばあさんは一瞬何事かわかりかねたようだったけれど、僕の顔を見て「ああ」と呟くと、しわくちゃな手でそっと僕から切符を受け取る。
「あらやだ。私のだわ。どうもありがとうございます」
おばあさんにお礼を言われ、僕の顔はまた熱くなった。胸の辺りがすっとして、晴れ晴れとした気分だ。ホームを歩く乗客の人たちが、立ち止まっている僕らに視線を送るが、僕は気にならなかった。
「本当にありがとう」
おばあさんは何度もお礼を言って、改札の方に向かっていく。
僕も足を動かしてみるが、そもそもどうして横浜に来たのかを考えていた――。そうだ、ずっと家にいるのは良くないからと家を出たんだ。
「『優』しさという字の中には、『憂』いという字がある。人は誰かに優しくするときに、少なからず思い悩むものなんだ。でも、実際に行動に移さなければ、それは『優』しさにはならないんだよ」
優しくしようとしても、一歩を踏み出さなければそれは親切にはならない。これは郁美さんがサークルにいたときに教えてくれたことだ。
思っているだけじゃだめだ。なんでも行動に移さなきゃ。
そんなことを考えながら、僕は相鉄線横浜駅の改札を抜ける。何かが少しだけ変わった気がした。