相鉄線の入場ホームに行こうと歩きだすと、改札から出てきた子どもたちの群れとぶつかりそうになった。
駆け抜けていく子供達の後ろ姿を振り返り見ると、手には水着袋やビーチサンダルなどを持っている。
そうか、今はもう夏休みなのか。
北海道で働き始めてから、夏休みとは程遠い生活を送っていた。
?そういえば5年ぶりに訪れた横浜駅も普段より人が多い気がする。
電光掲示板を見ると、実家がある駅に連行してくれる電車の出発時間が迫っていた。
足取りも重く、扉の停車位置に並ぶ。
そもそもここに帰ってくること自体気が進まなかったのだ。
きっかけは母親からの電話だった。
―大変なの!ナオ君!
―どうしたんだよ、突然?
―お婆ちゃん十七回忌よ!ちょうど来週だわ!
―は?十七回忌?なんだそれ?
―十七回忌には親族揃ってお婆ちゃんのお墓参りしないといけないの!
―そんな決まりあったっけか?
―ウチの地元にはあるのよ。それを忘れてた田中さんとこがエラいことにあったの知らないの?
―いや、知らないけど…
―とにかく!飛行機のチケットも送ったから帰って来てよね!
ガチャ、ツーツーツー
というわけで、なかば母親の強引な方法によりはるばる北海道から実家のある神奈川県に帰ってきたのだ。
しかし、実際ここに帰ってくるのも5年ぶりである。
電車がホームに滑り込んできて、ドッと人が降りる。
そして、入れ違いにホームのジメッとした暑さから逃げるように冷房が効いた車内に逃げ込んだ。
座席は空いてなかったが、屋外に比べれば全然マシである。
しかし、昼下がりのこの時間に座る席もないなんて、北海道では考えられない。
…と、考え方の基本がもう北海道民になってるな。
それもしょうがない。家を出てから5年間、一度も帰ってなかったのである。
電車がアナウンスと共に横浜駅を出発する。
目的地までには人も空いて座れるだろう。
コンクリートのビル群の中を走り抜けていく列車の窓からの景色にかぶりつく。
5年間でどれほど街が変わったのか確かめようとしたのだ。
高校時代は通学で毎日使った路線なので、変化があればすぐにわかるはずだ。
しかし、どれほど注意して見ても特段変わった変化は発見できなかった。
この沿線が全然変わってないのだろうか。
いや、もしかしたら5年というのは思ったよりも短いのかもしれない。
そんなことを考えていると、窓に一筋の線が走った。
そして、パタパタと筋が何本も重なっていく。
「あら、降って来たみたい」
乗客の誰かがつぶやく声が聞こえた。
空を見ると、雲が重く暗い色に変わっている。
まるで私の心のようだ。
こんなにも私の心を重くしているのは、父親のことだった。
5年前、私はミュージシャンになる事を決意した。
知り合いのライブハウスが札幌にあることから、そこで音楽活動をしながらプロを目指すことになったのだが、そのことを父親は最後まで反対していた。
結局は折り合いがつかないまま、ほとんど家出のような形で俺は札幌に引っ越したわけだ。
今でも電話で話すのはもっぱら母親だけで、父親とは必要最低限のことしか話さない。
いつか、プロデビューをしたら自分の写真がジャケットになっているアルバムを父親の目の前に叩きつけてやると思っていた。
そうして、5年間が過ぎた。
俺は知り合いのバンドショップの手伝いをしながら、かろうじて音楽活動をしていたが全くの鳴かず飛ばずだった。
このままバンドショップで働くほうが自分に向いているのではないかと本気で考え始めるほどだ。
そんなわけで、今更どんなツラで父親に会えばいいのだろうか。
そして答えが出ぬまま、電車は滑るようにレールの上を走り私を家へと連行していく。
電車は二俣川駅から出発するところだった。
このまま次の駅で降りて引き返してしまいたい気分にかられた。
ふと目を外にやると、線路脇の道を傘を差した男の子が歩いているのが目に入った。
私はその光景から目が離せなくなっていた。
その男の子は、自分の傘以外にもう一本傘をてに持っていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、炭酸のペットボトルの蓋を開けたときみたいに、子供の頃の記憶が蘇った。
親父がまた会社を退職せずに働いていた時、つまり俺がまだ小学生1年生ぐらいの話だ。
当時の親父は、仕事ざかりでまだ精悍さに溢れていた。
そんな親父と遊ぶことも少なかった当時は、たまの休みを待ち遠しくしていた。
だから、その日は久しぶりに早く帰ると親父から電話があり、子供心にとてもワクワクしていたのだ。
そのうち雨が降り出した。
いてもたってもいられなかった私は子供用の傘を差し、手には大人用の傘を掴んで駅まで駆け出していたのだ。
結局雨は通り雨だった。
私が駅に着いた時には雨があがっており、綺麗な晴れ間が雲の間から見えていた。
駅の改札の出口で二本の傘を手に持ったまま、呆然と立っている息子を見た時の父親の驚いた顔をよく覚えている。
「次は○○駅です」
気づけば次が降りる駅だった。
雨はいつの間にか止んでいる。
そういえば、さっきまで私のこころにあったモヤモヤもすっきりしたようだ。
ドアが開きホームに降り立つ。
見慣れたベンチやゴミ箱が、いやが上にも実家に帰ってきたことを感じさせる。
駅の階段を降りながら、親父に会ったときの第一声を考えていた。
しかし、改札を出たところで色々考えていた言葉が全部吹っ飛んだ。
そこに親父がいたのだ。
手には傘を二本持って、バツの悪そうにこちらを見て立っていた。
「よお」
「…よお」
言葉が続かない。
「雨が降ってきてな…もう止んじまったけど。お前が傘を持ってなかったらいけないと思ってな」
禿げた頭を掻きながら、言い訳がましく説明する。
その気持はわかるぞ、親父。
役目を失った傘はしまいにくいのだ。
それにしても、出迎えられるがわはこんなにも恥ずかしく、嬉しいのか。
私はこの気持をごまかすためにこう言った。
「親父…あのケーキ屋ってまだ残ってたっけ?」
「…あぁ。お母さんにも買って帰ろうか」
振り返ると、鈍色の電車の車体に夕日が反射し綺麗に輝いていた。