「あ、もう着いちゃった。二人でおしゃべりしてると早いね。じゃ、また明日ね。」
「うん、真樹、お疲れ。また明日!」
プシューッと音がして電車のドアが閉まり、友達の朋美を乗せた電車が去ってしまうと、私はひとり駅に取り残された。
ホームを風が吹き抜けて髪を揺らす。日中はあんなに暑かったのに、陽が落ちると涼しささえ感じる。いつの間にか秋が近づいているんだろうか。
駅舎は透明なドームのようなかたちで、ガラス越しに暮れはじめた空は、オレンジ色から藍色のプラネタリムへと変化しつつある。ゆめが丘。それがこの駅の名前だ。私はこのあたりで生まれ育った。弟と遊びまわった子どものころから変わらず、駅の周りにはまだ自然が多く残っていて、その緑のなかに、透明なガラスで囲まれた不思議な駅がぽっかり浮かぶ。ちょっと宇宙船みたいで私は気に入っている。
いまはブラスバンド部の練習の帰りだ。秋口のコンクールも近いので、ついつい練習には力が入ってしまう。
「すっかり遅くなっちゃった。」
ひとけのないホームを急いで改札に向かおうとして、私はふと足を止めた。駅を包む空気の色が、いつもとはどこか違うのだ。朝の賑わいや日中の陽気な蝉の声にかわって今は鈴虫の音が主役だ。透明な駅は、鈴の響きをいっぱいに満たす天空のカプセルと化していた。上空には駅舎のガラス越しに月が見える。白い月光と虫の音が交差し反響する、がらんどうの空間に立つ私の耳に、奇妙な余韻を伴なってアナウンスが響いた。
「1番線に電車がまいります。黄色い線の内側までお入りください」
線路に目を向けると、夕闇に沈みかけたレールの彼方から光の輪が近づいてくる。最初は小さな点だったのが、あっという間に大きな輝きになって、瞬きもできず魅入られてしまう。まばゆさが最大限に達した瞬間に光は巨大な塊となって私を包み、風が身体を圧して電車が到着した。車両のドアが開き数人がばらばらとホームに降り立ったかと思うと、再び電車の到着を告げるアナウンスがこだまする。間をおかず反対側のホームをふり向くと、逆方面行きの電車が滑り込んできた。その到着と入れ違いで、初めの電車は発車し、二台の電車はすれ違う。速度を増していく薄暗い操縦席の中で、制帽を目深にかぶった運転士どうしが黙礼を交わすのが見えた。手袋の白さがやけに眼に残った。
走り去る電車を、ホームの端に立って見送る。光を満たした車両が過ぎゆくごとに、夕闇が濃くなり月が鮮やかになる。
乗客たちが去ったあと、ホームには静けさが戻った。虫の音に交じって、ゴウン、ゴウンとエスカレーターが動き続ける音が微かに響いている。
このホームでは上りと下りの電車がすれ違う。だが、青い夜のなか、透明な駅ですれ違った二台の電車は、どこか不思議な気配をまとっていた。
いまは、夏の終わりと秋の始まりが重なり透ける季節のはざま。その特別な『現在(イマ)』、時空のトンネルが開いた。瞬間的に私はそれを直感した。銀河の下で待ち合わせする時、電車の行き先もまた過去と未来に変わる。
見送った電車のテールライトが目の奥に滲む。赤い残像にいざなわれ、私はいつしか懐かしい思い出をたどっていた。
*
「大樹、」
幼い弟を呼ぶ母の声がする。
「大樹、こっちこっち。」
名前を呼ばれた弟は、満面の笑みを浮かべながらよちよち歩きでこちらに向かってくる。
そうだ、これは何年か前のいずみ中央駅の光景だ。母と弟と一緒に電車に乗ってスーパーに買い物に来たときのことだ。思い出の中の私は小学生ぐらいで弟はまだまだ幼い。
当時、この駅には新しいスーパーができてちょっと話題になった。まだ大きなスーパーはない隣駅のゆめが丘在住の私たちにとってもそれは朗報で、ピカピカのお店はさっそくお気に入りの買い物スポットとなった。
電車に乗るのはたった一駅だったし、買うものは日用品や食料品ばかりだったけれど、母と弟と揃って出かける買い物は、ちょっと華やぐお出かけ気分だった。時には、クラスで流行している女の子向けのお菓子などを買ってもらうこともあった。
その日も、夕飯の買い物をする人たちでスーパーは賑わっていた。ひとなつこい弟は、人混みでもあまりむずがらない。初めて見る物や新しい景色に好奇心いっぱいで、母に抱っこされたままきょろきょろしている。会計を済ませ、店の外に出ると身体をよじって足を軽くばたつかせる。
「大樹、歩いてみたいの?」
顔をのぞきこんで母がたずねると、弟は顔を輝かせてますます大きく足を動かす。
「そっか、降りてみよっか。」
母は抱き抱えていた弟をそっと駅前の広場に下ろした。大樹はおぼつかない足取りで歩き出す。初めはおそるおそる、それから喜びを身体いっぱいに表して。
「じょうず、じょうず。」
「だいき、こっちまでおいで。」
私は大樹の正面にまわりこんで呼び掛けてみる。名前を呼ばれた弟は、私と母を認めると目を輝かせて向かってくる。その笑顔をみて、私のなかにちょっとしたいたずら心が生まれた。大樹は私とおかあさんと、どっちを選ぶだろう。私を選んでくれるかな?
「だいき、こっちこっちー。」
弟は私の声に反応して振り向いた。母から少し離れた所からしきりに弟に呼び掛け始めた私に、母もその意図を了解したようだ。こちらを向いて、「よし、」とでも言うようにいたずらっぽい表情を浮かべると、中腰になって弟を呼ぶ。
「大樹、こっちおいでー。」
「だいき、お姉ちゃんだよー。」
私も負けずと前のめりになって両手を広げ、声を張り上げた。母と私に熱心に呼びかけられた大樹はますますご機嫌で、頬をピンクに染めながら一歩ずつ足を踏みしめる。
気づくと、まわりにはいつしか数人の通行人が足を止め、私たちの競争を見守っていた。スーツ姿のおじさん、ビニール袋からネギをのぞかせたおばさんに、会社帰りのお姉さん。やはり買い物帰りなのか、お母さんのスカートの陰からはにかみながらこちらを伺っている小さい女の子もいる。
「男の子がんばれー。」
「ママとお姉ちゃん、どっちを選ぶかな。」
「おねえちゃん負けるな」
「あとちょっと。」
ささやかな周囲の声援も聞こえてくる。
「だいきはこっちに来てくれるかな。でもやっぱり大好きなおかあさんのほうかな。」
私はドキドキだったけれど、でも、大樹は、私の顔を見ながらよちよちとこちらに向かってきた。周囲の声援のなか、私の目の前までまっすぐにたどり着いたかと思うと、待ちきれず歩み出た私のほうに「抱っこ」というように手を伸ばし、そのまま満面の笑顔で私の胸に倒れ込んだ。小さくて暖かい弟の体温が、胸にほんわりと伝わった。
「ゴール!」
私はうれしくて、大樹を抱え上げてくるくるとまわった。大樹はキャッキャッと笑う。周りの風景も回る、母の笑顔も回る。競争に負けたのに、母は私たち二人を見てなんだかとっても嬉しそうだった。
「おかあさん、負けたのに笑ってる。なんでだろう。おとなになると、負けてもうれしいことがあるのかな。」
競争のゆくすえを見守っていた人たちにも笑顔が広がっていった。足早に家路を急ぐ人波のなか、そこだけぽっかりと光の輪が広がっているようだった。
*
もうひとつ、浮かんでくる光景がある。
寒い日だった。電車に揺られ街に向かう人たちは冬の薄陽に晒されて言葉少なだった。混んでいながらも静けさの漂う車内で、私の目にひとりの男の人の姿が止まった。正確にいえば彼の荷物が、だ。男の人自身はやや細身といった以外にはこれといった印象も残らない若いひとだ。
吊り革につかまったその人の荷物は黒いリュックサックだった。黒のレザー製でハードな印象のリュックは、表面にびっしりと金属の鋭いトゲを生やしている。パンクロックとでもいうのだろうか。研ぎ澄まされた無数のトゲが、鋭く冬の陽を反射している。
触れたらケガをしそうなリュックを前に私は緊張した。周囲の人もちらちらとそちらを見ていた。リュックへの違和感はそのまま持ち主に向けられる。声にならない警戒の囁きが車内にさわさわと伝わっていき、こわばった空気に私も身体を固くした。
と、私はそこで奇妙なものを目にした。そのトゲに、遠慮がちにそっと手が添えられたのだ。白く痩せた手。周りの人間にケガをさせないよう、トゲから守っている手は、意外にもリュックの持ち主その人のものだった。そういえば、彼はリュックを背負わずお腹側に抱きかかえている。そういった気遣いのできる人も少なくなったこの頃に。
終点の横浜に近づくに従って、車内はますます混んできた。男の人は必死にリュックを抱え込む。その姿は、まるで泣きわめく赤ん坊を必死になだめる若い母親のようだ。揺れる車内で周囲に押され、男の人の手にはトゲが喰い込んでいる。
そこまでしてこのリュックを持とうとするその人に私は興味をひかれた。周囲を威嚇するような攻撃的なリュックには似つかわしくない、線の細い男の人だ。そしてこんなふうに他人をかばう、必死さと繊細さを持つ。
攻撃性とやさしさ。目にみえて極端なその対比に思い至り、私はふと、彼は、自分の中できしむ矛盾に傷つく日もあったのでは、と思った。若い時にはがさつなぐらい『強い』人間の方が輝いてみえることがある。周囲を傷つけても意に介さず進むような貪欲さや傲慢さ。そういった場面で時にしてやさしさは弱さやふがいなさに映る。あるとき彼はそんな自分が足手まといになったのではないか。
そのもどかしさをどうにかしたくて、彼はこれほど鋭く凶器じみた装いを手に入れたような気がした。精一杯の抵抗、しかしトゲの向かう先は、世間ではなく自分のもどかしさそのものだ。そこまでしてトゲをまとったのに、やはりこうして他者をかばってしまう。捨てきれないからこそ重いもの。
西横浜を通過し、窓の外に浅緑色の丸いガスタンクが見えてきた。もうすぐ横浜に着く。終点への到着を告げる車内アナウンスに乗客たちは降りる身支度を始め、車内はざわつきだした。男の人のことはもう誰も見ていない。
横浜についた。ドアが開き、どっと人が吐き出された。背中を突き飛ばされるようにして雑踏に消えた、その人は最後までトゲから手を離さなかった。
*
夜風がスカートを揺らす。
ぽん、ぽんと音がして、はっと目をやると、遠くに小さく花火が上がった。鮮やかな色の光がしぶきとなって闇に弾ける。数発の花火が上がってしまうと、それっきり静かになり、あたりはもとの夕闇に沈んだ。時計を見ると、六時。
気づけば月の位置が高くなった。ホームから見渡す青い夜のなか、ぽつぽつとオレンジ色の灯が見える。ひときわ温かく光っているようにみえるのが私の家だ。灯がまたたき、私を手招きしているように見えた。どれくらいここに立っていたのだろう。ほんの数分のような気もするし、もっと長い間だったような気もする。
―もう帰らなくちゃ。お母さんが心配する。
我に返って、私は改札階へと下る階段に向かった。
ホームから去る間ぎわ、私はもう一度街を振り返った。今は静かな青に包まれているこの街も、だんだんと灯りが増えて、夜は星空のかわりに温かいオレンジ色の光を満たす駅になるのだろう。
*
一夜明け、今朝の駅は青空に包まれていた。すべてが、洗い流されたような新鮮な光に満ちている。ホームを吹き抜ける透き通った空気は秋のものだ。やっぱり、昨夜で夏は行ってしまったのか。きょうからは新しい季節。
私はホームの先頭で朋美を待っている。次の電車に乗ってくる彼女との待ち合わせの定位置だ。
入線のアナウンスが響き、ディープブルーの車両がホームに滑り込んできた。今朝はその色がひときわ鮮やかに目に映る。今日の青空をぐんぐんと、どこまでも突き進んでいったら、その先に広がる無限の宇宙の色はきっとこんな紺碧なのではないだろうか。
プシューッ、と音がしてドアが開くと同時に朋美の笑顔が私を迎えた。
「おっはよ、真樹。本日もジャスト、定刻到着!」
「おはよう、朋美。今朝はなんだか気持ちがいいね。」
進行方向には陽を浴びたレールが光の帯となって真っすぐに伸びていく。未来行きの電車に乗って、新しい一日が、始まる。
著者
桜倉麻子