翌日もまた、僕は帰ってくるなりベンチに向かい、おばあさんの隣に座った。そして本を開く。おばあさんはやっぱり微動だにしない。と思ったら
「随分難しい本を読んでいるんだねぇ」
「あ、えっと…はい…」
気づいたら、おばあさんがこちらに向かって微笑んでいた。
「あ、あの…」
「なんだい?」
「その…おばあさんは…毎日ここで読書をしているんですか」
「毎日じゃあないねぇ。雨の日は来ないし…。気が向いたときにだけ」
おばあさんはウフフと笑った。僕の質問を引き金に、さっきまでの静けさが嘘だったかのようにおばあさんは何やら色々と話し続けた。おばあさんはとても楽しそうに僕に話してくれた。こんなに誰かの話を聞くのは久しぶりで、なんだか僕も楽しくなってしまった。
「あらもうこんな時間。私ったらつい話し込んじゃって。ごめんなさいね、誰かとお話することって滅多にないものだから嬉しくって。ありがとう。これ、よかったら食べてちょうだい」
おばあさんはそう言って僕にみかんを一つ渡し、下りの電車に乗ってしまった。
おばあさんは、ゆめが丘の隣の湘南台に住んでいるらしい。おばあさんが若い頃に相鉄線は延伸されたけれど、それまでは湘南台が終点だったと話してくれた。おばあさんはいつも家からゆめが丘駅まで散歩がてらに歩いて来て、駅のホームでしばらく読書兼日向ぼっこをしてから電車で帰るのだそう。ゆめが丘は大好きな場所だと言っていた。
僕は、早く帰れる日はできるだけ早く帰り、おばあさんとベンチでお話をするのが日課になった。ある日、おばあさんが写真を持って来て僕に見せてくれた。
「綺麗でしょう。これ、初日の出。この駅のホームからよーく見えたのよ」
「へぇ、綺麗…。これ、おばあさんが撮ったんですか?」
「もちろん。これも私が撮ったのよ、富士山」
そう言って見せてくれたもう一枚の写真には、ピンク色の富士山が大きく写っていた。写真の右下には『2017.01.01』と刷られていた。いまからちょうど五十年前だ。現在は駅前に高い建物が立てこんでしまって見えないけれど、昔はゆめが丘駅のホームから富士山が見えたらしい。ピンク色なのは、初日の出の光を浴びているからなのだそう。僕もここから富士山、見てみたかったな。
あれから僕はおばあさんとすっかり仲良くなったけれど、段々、おばあさんを見かける頻度が少なくなってきた気がする。と思っていたある日、
「私はもう、ここに来られなくなるかもしれない」
と、おばあさんがいつもの微笑んだ顔で言った。
「え?どういうことですか。おばあさんが来られないなら、僕がそちらに向かいます。僕、おばあさんのお話、もっと聞きたいです」
「ごめんねぇ。ありがとう、ありがとう」
おばあさんは「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返すばかりで、他には何も言ってくれなかった。
それから二週間、おばあさんを見かけることはなかった。すごく心配になったけれど、僕はおばあさんの名前も住所も、何も知らなかった。もう会えないかもしれないと思いながらも、心のどこかで期待して、なるべく早く帰るように心がけていた。そして二週間ぶりに、ベンチにおばあさんの姿が見えた。
「おばあさん!」
嬉しさのあまり、僕は叫んでしまった。おばあさんはいつものように微笑んでいた。
「どちら様?」
久しぶりに会ったおばあさんは、僕のことを完全に忘れてしまったようだった。僕は崖から落とされたような気分になった。人違いでした、と言って去ろうとしたところに、僕と同い年くらいの女の子がこちらに駆けてきた。
「おばあちゃん!まーたゆめが丘に!」
女の子は、おばあさんの孫のようだった。
「あ…もしかして、いつもここでおばあちゃんの話を聞いてくださっていた方ですか?」
「あ…はい、そうです」
「すみません、おばあちゃん、もう色々とあんまり覚えていないんです。でも、あなたのことはおばあちゃんからよく聞いていました」
その女の子曰く、ゆめが丘駅はおばあさんにとって大事な大事な思い出の場所らしい。過去のことは忘れてしまっても、無意識にここに来ることがしょっちゅうなんだとか。
僕は授業やバイトが忙しくなり、なかなか明るいうちに帰って来られなくなった。あれからおばあさんにも会っていない。短い間の不思議な出来事だったけれど、みかんを食べる度におばあさんの笑顔を思い出す。
おばあさんの孫の、あの女の子と僕が、大学内で再会するのはもうちょっと後の話。