僕の初恋は、突然やって来て、突然終わった。小学五年生の夏だった。幼稚園から知っていた彼女とは、それほど仲がいいわけでもなく、隣の席にいても会話はほとんどしなかった。親同士の仲がよかったから、休みの日にも顔を合わせることはあった。それでも会話なんてしない。なんとも不思議な関係だったんだ。
あの日は僕の家でザリガニパーティーをしていた。お母さんの妹がスウェーデン人と結婚をしていて、ザリガニを食べる習慣を教えてくれた。夏になると今でも毎年送ってくる。おばさんは日本で暮らしているんだけど、ザリガニは国産じゃない。流石に今では、田んぼのザリガニを食べたいとは思わないよ。
彼女はザリガニに夢中になった。こんなに美味しいのは初めて! 小さなザリガニを噛んではしゃぶり、殻を剥いて食べていた。
ザリガニなんて近くの田んぼにもたくさんいるよ。僕がそう言うと、行きたい! 彼女が叫んだ。
お腹が一杯だったこともあり、別の日にしようと僕は言ったけれど、どうしても今日がいいと彼女が言い、僕の両親も行って来なさいと送り出す。電車で行くからと、お小遣いを受け取った。
僕は当時から上星川に住んでいる。彼女もそうだった。上星川にだって田んぼはあったよ。けれど僕のお気に入りは西谷だった。おじいちゃんが暮らしていて、従兄弟もいる。毎週のように遊びに行っていたよ。その田んぼも、従兄弟から教わったんだ。すぐ側の沢では蛍を見ることもできる。頑張れば歩いてでも行けるけれど、その日は電車に乗りたい気分だった。西谷駅は、今も昔もそれほど変化をしていない。僅かな変化を繰り返しても、懐かしさの変わらない雰囲気を残している。けれどそれも、後数年で終わってしまうと言う。西谷駅の大掛かりな工事が始まり、終わりに向かってひた走っている。
その田んぼは、駅から二分も走れば辿り着ける。僕と彼女は泥まみれになり、ザリガニを捕まえた。用意していたバケツに一杯のザリガニを持って、歩いて家に向かったんだ。田んぼの向かいにある川沿いを歩いていけば、三十分もかからずに僕の家につく。流石に泥だらけで電車に乗ろうとは考えなかったんだ。
家までの間、僕と彼女はこれまでの関係が嘘のように喋りまくった。くだらないことばかりだったはずだけど、とても楽しかったよ。もっと早くから仲良くしていればよかったと感じていた。
家の目の前で、彼女は突然足を止めた。どうしたのって僕が聞く暇もなく、彼女は行動を起こした。
僕に顔を向け、ちょこんとジャンプをし、キスをした。そして走って僕の家の中に消えて行った。
その後彼女はすぐに帰ってしまった。もっと話しがしたかったけれど、彼女を見るのが恥ずかしく、さよならさえ言えなかった。
僕は彼女に恋をした。その日の夜は彼女のことばかりを考え、ほとんど眠れなかった。次の日の学校は、楽しみと不安が入り混じっていた。
けれど僕は、その日を最後に彼女とは会っていない。彼女は突然、引っ越してしまった。彼女の希望で、学校側は生徒の前で事前に発表をしなかった。僕の両親は知ってはいたが僕には言わなかった。今でも親同士の交流は続いている。僕も話の中では何度も彼女のことを聞いていた。
幼い恋心は単純で、会えなくなった瞬間、一瞬だけ燃え上がり、会えない時間が続くとあっという間に冷めていった。
話の中で聞く彼女は、すごく可愛くて、勉強もスポーツも上手だった。恋心が消えてからも、彼女は僕の自慢の幼馴染でいたよ。
そんな彼女が最近結婚をしてこの町に戻って来たと聞いたことを思い出した。
僕は目の前の幼い彼女の手を握ったまま、改札を抜けようとした。
バタンッと音がして行く手を塞がれた。駅員が鋏を持っている改札が、いつの間にか現代の自動改札になっている。僕は慌ててパスモを探し、取り出した。ピーッ!
残金が九十三円しかなかった。あれ? どうしよう? 困っていた僕の背後に、声がかかる。
久し振りだね。
振り返るとそこには、彼女が立っていた。あれ? どうしてここに? 大人になった彼女は、可愛いというよりも、綺麗だった。
同じ町に住んでいるんだからいつか会えると思ってたけど、なかなか会えないものだね。
今日って、何日だっけ?
それ、定期切れてるよ。
そうだよね。って、ここ上星川駅?
そうだけど、どうかしたの?
彼女の笑顔を見ていると、なぜか幸せな気持ちになった。僕はふと、視線を下ろす。彼女のお腹が膨らんでいた。持っていたカバンにはマタニティマークのバッヂが付いていた。僕はさらに幸せな気分になった。
今度また会おうね。
彼女の言葉に僕は笑顔を見せ、手を振った。そして自動券売機で定期券を継続購入しようとしたけれど、財布には小銭しか入っていない。切符を買うお金もなかったので、妻に電話をかけた。